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「大勢の中のあなたへ」に思うこと【美咲】

なんとなくたまに朝日こども新聞を読んでいる。すると昨日「大勢の中のあなたへ」というコラムの「だらしないあなたへ」という記事で、博報堂教育財団コミュニケーションコンサルタントという人の記事があがった。かいつまむと、だらしなさは甘えで、人に嫌われる、自分の成長を遅くする、だからだらしない自分を嫌いになろう。「きちんと、ちゃんと、しっかりと」を言葉の頭につけて克服していこう。みたいな内容。

これを最初みたとき、ゲッと思った。なぜならいつもこれは夫に指摘されていることだから。「しっかり蓋閉めて」「きちんと身体ふいて」「ちゃんと歯磨きして」。結婚するまでの今までの人生で真剣に気にしたことがなかったのは、私の「しっかり」「きちんと」「ちゃんと」は自分なりにクリアしているから。でも、結婚したら一緒に家に住むわけだからある程度相手の要望にも応えたい。だからコーヒー豆の缶は密封してあげるし、お風呂から上がったらそのままリビングにいかないであげるし、歯磨きも朝昼晩、磨く歯の順番まで決めてしてあげることにした。それでも、やっぱり漏れはあるから、いっつも「だらしないなあ」と言われる。うるさいと思うときには「ほっといてくれ」と言うし、納得できたらなおす。そんな感じ。だからこの記事を読んだとき、「ゲッ、でました、チーム夫」と思って流した。

しかし、今日の昼頃、ネットで朝日こども新聞がこの記事を削除したと話題になっていた。この記事が不適切だったので全文削除しますと。不快な思いをされた方はすみませんと。気になってみていると、「他者への不寛容」とか、「軍隊式統制」とか、「だらしない自分を愛するのが大事」とか、「人格否定は違う」とかそんな風なコメントがたくさんあった。今日はそれについてずっと考えた。果たしてそうなのか、自分の子どもだったらどういうだろうか。外見がだらしなかったり、時間や約束を守らなかったとして、だらしない自分を愛そうぜと言えるかな。

実際に、だらしないから嫌いになられたりなったりすることもある。私もだらしなさが原因で致死傷を負ったことはたくさんある。時間を守れないから大学のレポート受け付けのおばさんに泣いてすがったこともある。だから自分の子どもだったら結構きつく教えてあげたいと思う。「発達障害や個人差まで、甘えととるのか」という批判もあったけど、もし自分の子どもが何か不得意なことがある特性があったとしたら、成長段階にもよるけど、できることとできないこととだらしない部分をちゃんとわけて話してあげたいし、これを読ませないっていうことはない。だって普段から信頼し合うと思うから。だらしないところとできないところは区別できると思うから。

九州の学校で働いていた時に、すごい頑固な昔の考え方や教育方法を勝手にシェアしてくるお年寄りがいた。それこそ子どもにも、「シャツ出して腰パンか、顔にだらしないって書いてるぞ」とか、「服装の乱れは心が汚いってこと」とか言ってた気がする。そんなので最近の子どもは納得するんか?と思っても意外とストレートでシンプルなメッセージが届く子どももいた。人はそれぞれ違うから、どんな言葉やどんな言い方がマッチするかは本当にその人次第だなと感じた出来事。むしろ内容よりその言葉を発する人情熱の大きさで受け取る子どもがいたのも事実。この記事を書いた人の仲間でもファンでもないけど、この人はほかの記事で、「がんばらないけどあきらめない」ことが大切みたいなことも書いてた。他の記事でも、ぼーっとしてる子に「動きたくなったら動けばいいよ」と肯定してあげようと書いてた。だから今回の記事みたいな書き方や内容にしたのはなんか意図があるんだと思う。少なくともだらしない私にとってパンチはある。

あのメッセージ自体にはもしかしたら、人格否定の可能性とか窮屈って人に思わせる可能性があるかもしれない。でも、それだけを読んで、自分はもうだめだと絶望する人がいないように、いろんな考え方があるよね、それぞれだよね、って教育を普段からしておけばいいんじゃないと思った今日。受け入れたい人が受け入れて、自分はこれでいいって思える人はしなやかに流せるように。自分の中に肯定できる部分と課題の部分を分けて必ず持っていられるように。この人の考え方を「不適切だから削除」こそ、なんだか不寛容な世の中だなと思った。でも、みんな違和感あるってこの記事にコメントしてたから、私は異物なのかもしれない。

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