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みんな いのちの木の下で 暮らしている

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みんな いのちの木の下で暮らしている

私は、赤道に程近い暑い国の、海と山に囲まれた小さな町に暮らしています。限られた土地に、建てられるだけの家を建てた町には、たくさんの人が住み、忙しく坂道を行き来しています。

私の町の中心には大きな木が生えています。
大きな木は、大人20人が目一杯両手を伸ばして、やっと一周できるくらいの幹を持ち、塔のようにそびえ立っています。
雲よりも高いところで木は枝を広げ、無数の葉をつけ、緑の屋根が町の上空いっぱいに広がっています。
暑い国ならではの強い陽射しは、葉っぱを通り抜け、水分を含んだような青みがかった光が町に降り注いています。

その木には、名前がありません。私たちが木について話すとき、ただ「それ(it)」と呼ぶことになっています。
そこにはある理由があります。

私や私の家族にとっては、町の中央にあるものは「木」です。
ところがある人は、それを「滝」と言います。滝といっても、上から下に落ちる滝ではなく、下から上へ昇り続ける、逆さまの滝です。上空には滝壺があり、水面がゆらゆらと光っているのだそうです。

またある人は、それを「虹」と言います。七色の光が地上から天空まで真っ直ぐに伸び、雲の上で全ての色が溶け合って、オーロラのような薄い膜が張っているのだそうです。

つまり、「それ」が何の姿をしているかは、家族、もしくはひとりひとりによって違っている、ということなのです。私が見ている「木」と、父が見ている「木」が、同じである保証はどこにもありません。

私たち町の住民は、小さい頃から「それ」についての物語を、父や母や祖父母や、そうでなければ親しい年長者から聞いて育ちます。
そして物心がついたころには、「それ」は、「木」や「滝」や「虹」や「鳥の大群」や「イワシの群れ」や「豆のツル」として、心に育っているのです。
住民が「それ」を見上げるとき、それぞれの目には異なった姿が写っていることを、私たちは知っています。

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「それ」は命の通路です。私のひいお爺さんも、そのまたお爺さんもお婆さんも、若くして亡くなってしまった叔父さんも、友だちも、その通路を通っていきました。

地上で散っていった命は、
 大木の幹を伝って天に昇り、枝や葉脈を通り抜け、いのちの木に葉をつけ、花を咲かせます。
 滝の水流に乗って天に昇り、滝壺にぶつかって弾け、混ざり、たゆたう生命の泉に溶け合います。
 虹の梯子を登って天に昇り、天上できらめく光の粒子になって、全ての源の太陽と出会います。

やがて、
 大木の葉が散り、地上に降り積もって、土になり、新たな命を育みます。
 空から雨が降り、土に染み、川になり、海に流れ、新たな命を育みます。
 光は植物を育て、雪を溶かし、赤子の頬を温めて、新たな命を育みます。

「それ」は、私たちそれぞれの、いのちの物語です。

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額縁サイズ:訳220mm×275mm
使用画材:水彩・アクリルガッシュ
SOLD

ー個展詳細ー
個展「筆が編むレース」
2021/8/25(水)ー9/5(日)
at ranbu Space A → http://blog.ranbu-hp.com
12:30-19:30 火曜日定休

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