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到来する外部 ― 松元悠「血石と蜘蛛」評

 松元悠はニュースや身の回りで起こった出来事のうち、人々に消費される傾向のあるものを選択し、それを題材にリトグラフ作品を制作する。ただし、出来事の実態を忠実に再現するのではなく、他人からの伝聞や、インターネットで閲覧できる記事や画像などの限られた情報をもとに絵画内の空間を構築して、そこに自画像を描き入れる。こうした表現を通して、情報の向う側にある出来事の現場を、鑑賞者の立っている場所に接続しようと試みるのである。
 現代の社会に流通するニュースは事実を精確に反映しているわけでなく、ニュースの送り手と受け手にとって都合の良いように切り取られ、加工されている。このことに誰もが気づいているにもかかわらず、ニュースは客観報道を装い、ワイドショーでは惨酷な事件や著名人の失敗が消費される。
 一方、ニュースの概念がまだ確立していない明治時代初期の新聞では、現代の報道と異なり、事実性と速報性が前提とされていなかった。たとえば『東京日日新聞』の内容を多色刷り木版画にした新聞錦絵『東京日日新聞大錦』は、殺人の現場や男女の諍いなどをしばしば描くが、題材となる記事は最新の出来事ではなく、既出の記事から絵画の題材になりやすいものを選出することが多い。また他紙からの引用も見られるが、もとの記事の教訓的な要素を外し、無惨な場面に焦点を当てるなど、引用に当たって内容の改変を行うことがある*。つまり、当時の新聞は、事実性・速報性よりも醜聞を求める読者の声に応えることを優先していたのである。
 しかし、形式に違いはあるものの、醜聞を消費したいという欲望は明治初期から現代まで変わらない。むしろ客観報道を装う現代のニュースのほうが、情報のどこまでが送り手の作為によるものなのかを判別することが難しく、結果として出来事における当事者の顔が見えにくくなっているといえよう。
 こうした消費のありようから、松元は一歩前に進み出ようと試みる。もちろんニュースショーの視聴者と同様に彼女もまた非当事者であり、また作品が当事者理解を目的としているわけでもない。しかし、出来事を題材とした架空の芝居を用意し、そこで自画像を登場させて役を演じさせることで、出来事が持つ生々しい手触りを伝えようとするのである。

 具体的に見ていこう。《1人の自死と9匹のハムスター》では、アパートメントのエントランスにモルモットほどもある大きさのハムスターが群がる光景が描かれる。作者をモデルとする女性はその一匹を手に抱え、涙を流している。作品の右手にはスマートフォンが設置され、作者がTwitterでハムスター愛好家のアカウントを検索する動画が映る。
 本展では、作者がそれぞれの作品の背景について記した「説明文」を読むことができる。《1人の自死と9匹のハムスター》に関する項目を読むと、2017年に発覚した座間9遺体事件を題材にした旨が書かれている。つまり作品の隣にある動画は、Twitterで自殺願望のある女性を探すという容疑者の行動を、ハムスターで擬似体験したときの記録なのである。文中に唐突に挿入される「今回作者も犯人と同じ行動をとってみた」という一文が、この事件に対する作者の関わり方の一面を示している。
 自画像が涙を流していることから、この作品を被害者に対する作者の哀悼の表象と見ることも可能だろう。しかし自画像は、かつて作者が働いていたという某弁当販売チェーンの制服を着ており、そのせいで、ハムスターを両手で包みこむさまが、唐揚げの鶏肉を捏ねているようにも映る。弁当店の店員が家畜の肉を扱う手つきが、9人を次々に殺害したとされる容疑者の所作に重ね合わされているといえよう。自画像の介入という方法は、単に作者が出来事のほうへ接近=共感するだけでなく、誰もが目を背けたくなる出来事の「リアル」を作者のほうへ引き寄せもするのである。
 一方で、松元の作品には余剰な細部の問題がある。スーパーマーケットのパン売り場に立つ自画像を描いた《最期の日》は、「説明文」によると、作者の身近なところにいた男性の自死が背景にあるという。とすると、自画像にその男性の記憶が重ね合わされているのだろうか。しかし注意深く観察すると、画中に別の人物が描かれていることに気がつく。画面中央に立つ自画像は、右腕をだらりと垂れ、手にカフェオレを持っているように見えるが、実は彼女はそれを持っていない。何者かの左手が手首から先だけ浮かび上がり、下から持ち上げているのである。自死した男性とは、この手の主なのかもしれない。
 この手は鑑賞者の目から巧妙に隠されている。まず隣り合うパンの色と同じ色彩で描かれているため、ほとんど目立たない。またカフェオレが自画像の右手の位置にあることから、多くの人は彼女がそれを持っていると認識して、別の人物の手がそこにあるとは思わない。
 このように、松元は作品の解釈が変わり得る異質なモチーフを隠し入れることがある。その細部を発見したとき、鑑賞者は、自分の意識の裏側に入り込んでいたものを見せつけられた恐怖と嫌悪感を覚えるだろう。安定したイメージを乱すこの余剰な細部は、作者が題材となった出来事のほうから汲み取ってきたものである。
 ニュースを受容する際、そのひとつひとつに当事者性を見出し、時間をかけて向き合うことが、倫理的な態度としては理想だといえる。しかし私たちの時間と体力には限界があり、無数にあるニュースにそのような態度を取り続けることは難しい。それどころか、自らの安定した生活を乱すものは排除される傾向にあるだろう。しかし作者は私たちが見ない振りをしてきた出来事のリアルな側面を画中に混入させる。そのことにより、出来事の現場に通じる道が一瞬だけ開かれるのである。

* 木下直之、吉見俊哉編『ニュースの誕生』東京大学総合研究博物館、1999年、148-149頁

安井海洋(やすい・みひろ、美術批評)

血石と蜘蛛

松元 悠  MATSUMOTO HARUKA

2019. 1.19 sat - 2. 24 sun

YEBISU ART LABO

〒460-0003
愛知県名古屋市中区錦2-5-25 ヱビスビルパート1 4F


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