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僕がディスコになった理由

今更ですが、最近僕のことを知ってくれた方もいるので、ここいらで一回説明させてほしい。

僕がディスコを名乗り始めたのは、2012年の4月頃。

東京NSC15期を中退し、どん底だった自分を、大阪NSC33期生の実のいとこが「卒業したら一緒にコンビを組もう」と救ってくれた。

相方のNSC卒業を待ってる間、僕は1年間小学校の学童保育の先生をし、2012年大阪に行った。そして大阪よしもとに所属した。当時はコンビの片割れが吉本所属であれば、相方が一般人でもすんなり吉本に入れた。ゆえに大阪一般34期、大阪34期扱という呼び方をする。

コンビ名は「スベスベマンジュウガニ」

コンビ名は決まったものの、個人名せっかくならつけたい。

大阪のお笑いは元気がないと誰も聞いてくれない。元気さえあれば面白くなくてもどうにかなる。と当時は思っていた。

東京都江戸川区で根暗100%で育った僕。

当時聞いていた好きな音楽、the telephones、Perfume、凛として時雨に、なぜか「〇〇ディスコ」という曲名が乱立していた。

せめて名前だけでも明るくと『ディスコ』をいただいた。

こうして僕の松本ディスコとしての人生が始まった。

実際活動を始めると、ディスコという名前は覚えてもらいやすく、漫才のテンションは暗かったが、芸名だけは明るくできた。

大阪で活動を続けていたが、ある日東京の芸人でパーパーのほしのディスコさんという方を見つけた。星野さんの方が先輩だったが、東のディスコ、西のディスコ、うまく分けれたらと思い、ディスコを続けた。その時に星野さんにはTwitter上で了承を得た。

そしてほしのディスコさんが圧倒的に売れていった。

(その後の僕はコンビ解散、新コンビ結成、芸人引退、店員として出世して東京進出など色々あり、今書くのがめんどくさい。)

しかし僕のことを知ってくれた人や、吉本の社員さんにも未だディスコと呼ばれるため、東京に来てもとりあえずディスコを名乗り続けた。

そしてディスコを外すタイミングを、見失い、今に至る。

なんなら4月1日より梅田阪急にて松本ディスコのグッズが販売される。

日頃お世話になってるスケロクさんのイベント https://skelokshop.thebase.in/

誰が買うねん。って誰もが思ってるからみんな買ってください。

またなんか書きます。


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