キラッとプリ☆チャン(Season2)ベスト5エピソード選んでみた!だもん!

 2019年は気が付くとあっという間に過ぎてしまった。思い返せば、ひたすらに「プリチャンは日本一面白いアニメ」「プリチャンは最高」「プリチャンを見ていないやつは雑魚」などと繰り返し続けた一年だった気がする。1期が最高に面白かったのは事実だが(2期に入ってから面白くなったなどと言うやつは雑魚)、恐ろしいことに2期になってからはさらに面白くなり、ありがたいことに視聴率も安定、「プリチャンは日本一面白いアニメ」という共通認識が列島に根差しつつあるようだ。
 そして、ついに3期が決定! みらいたちが3年生に進級することも決まった(プリチャンはリアルなので)ため、おそらく来年が最後だろう。死ぬか。
 ということで、昨年に引き続き、シーズン2のベスト5エピソードを選んでみることにした。それでは、はじまりはじまり~だもん!


5位 第80話 わくわく!アンジュさんの仮面舞踏会だもん!
 さて、突然だが、キラッとプリチャンのシーズン2は、基本的に「生まれ変わった」世界である。シーズン1のラストで、ミラクルスターがアイランジュを破ったことにより、あの世界は一度生まれ変わっているのだ。その最たるものが、かつてのトップアイドル、白鳥アンジュである。
 シーズン1において、白鳥アンジュはプリチャン世界の頂点に立つ、唯一無二の存在として登場する。1期の最終クールは、白鳥アンジュの後を継ぐ存在を選抜するための物語(そのことによってはじめて、彼女はトップアイドルの座を下りることができる)として始まるのだが、結論から言えば、キラッツたちは白鳥アンジュの後を継ぐことを拒否する。キラッツたちにとって、最終クールは白鳥アンジュを引き留めるための物語だからである。
 そもそも、アンジュの生きるプリチャンとキラッツの生きるプリチャンは、完全に真逆の方向を向くものとして設計されている。白鳥アンジュが生きているプリチャンの世界は、古典的なアイドルの世界、トップアイドルを頂点としたヒエラルキーによって支えられた世界である。デザイナーズ7は、これらの秩序を維持する権力者として(一枚岩ではないにせよ)登場する。その頂点に君臨するアンジュは「キラキラ」を生み出すことができる唯一無二の才能の持ち主であり、そのパフォーマンスは誰にも真似することができない。言い換えれば、白鳥アンジュはこのヒエラルキー的な世界において、絶対に負けることがない、そのようなキャラクターとして設計されている。
 一方、キラッツの生きるプリチャンの世界はまったく違う。それは、世界のなかにある「キラキラしたもの」を見つけ、他の人々と分かち合うためのもの、「シェア」するためのツールである。だから、キラッツの配信を見た子供たちは、それを真似することができる。誰でも参加することができ、真似することができる「みんなの」番組作りこそが、キラッツたちの最大の特徴なのだ。
 ゆえに、シーズン1の最後の大会が意味しているのは、白鳥アンジュの後継者をめぐる戦いではない。(事実、後継者候補であるキラッツとメルティックの決着は、大会とまったく関係のないところで着けられる)。それは、プリチャンをめぐる二つの世界の対決なのだ。ヒエラルキーの頂点に立っているはずの白鳥アンジュは、にも関わらずミラクルスターに勝つことができない。なぜなら、キラッツたちが戦いを挑んでいるのはアンジュではなく、デザイナーズ7によって維持されるヒエラルキー的な世界そのものだからである。これは、プリチャンの世界の在り方をかけた戦いなのだ。
 誰にも真似できない才能を持つ白鳥アンジュは、まさにそれゆえに敗北する。それは、彼女のパフォーマンスを誰も真似することができないから、その「キラキラ」を誰とも分かち合うことができないからである。一方で、キラッツたちの「キラキラ」は皆と分かち合うためにある。彼女たちが集めた「キラキラ」は、その狭苦しい容れ物を打ち砕き、世界中に広がっていく。この瞬間に、キラッとプリチャンの世界は新たな形に生まれ変わったのである。
 ……というところまでが前段で(長い!)、ここからようやくシーズン2の話が始まる。第80話「アンジュさんの仮面舞踏会」は、生まれ変わった白鳥アンジュの物語である。プリチャンは真面目なアニメなので、生まれ変わったアンジュさんは、ご丁寧に「フェニックス仮面」を名乗って登場する(なぜなら生まれ変わったので)。重要なのは、この「仮面」が大ブームとなり、街中の人が彼女の真似をして「フェニックス仮面」の格好をしている、という描写があることだ。誰にも真似されることができなかった白鳥アンジュは、仮面をつけることで皆から真似される存在になることができたのである。そうして彼女は、自らの「キラキラ」を分かち合うために、すべての人々を招いた舞踏会を開く。(これは第28話「セレブなパーティ行ってみた!」との対比でもある)。
 このエピソードを通して最も印象に残るのは、舞踏会の準備を存分に楽しんだアンジュが、みらいの家に泊まり、布団を敷いて床に眠るシーンである。(客人を平気で床に寝かせる桃山の図太さが光るシーンだが、同時にそれまで誰よりも高いところにいたアンジュが、みなと同じ地面で安らいでいるという重要な場面でもある)。舞踏会の準備を通して様々な「やってみた」に触れた彼女は、眠りに落ちる間際「プリチャンを止めなくて本当に良かった」と呟き、みらいに向かってお礼の言葉を口にする。シーズン1から描かれてきた白鳥アンジュの長い旅が、ここにきてようやく終わりを迎えるのだが、それは新しい出発という形を取っている。それまでずっと、ライブという形でしかプリチャンに関われなかった彼女が、生まれ変わることで、これまでと全く異なった、新しい在り方でプリチャンを生きることができるようになる。
 仮面をつけることは、だからここでは生まれ変わりの象徴という意味合いを帯びている。ほんの小さな仮面をつけるだけで、あたかも別の自分に生まれ変わったかのように、新しい在り方で世界を関われるようになる。そうしたメッセージを口にしつつも、アンジュが虹ノ咲さんの仮面を優しく外すのは、彼女のなかに後ろめたさに似た感情を見て取るからだ。虹ノ咲だいあが仮面をつけるのは、周りの人たちへの負い目、後ろめたさを感じているからである。仮面をつけることは決して悪いことではないけれど、もしもそれが人々への負い目からきているのだとしたら、それはやめた方がいい。あなたは誰かに負い目を感じて生きる必要などないのだから。そう優しく諭しながら、フェニックス仮面は去っていくのだ。
 アンジュの長い物語の、ひとつの到達点であり、同時に虹ノ咲だいあへの温かいメッセージでもあるこのエピソードは、シーズン2のなかでもひときわ印象深いものになっている。

4位 第87話「あんなちゃんえもちゃん、一つ屋根の下?だもん!」
 「レゴフレンズ」然り、古来より気の強い女の家に気の強い女が泊まる回は名作とされており、それはこの回も例外ではない。次回予告の時点ですでに多くの視聴者が勝利を確信したものと思うが、その期待に応えつつも、予想をはるかに上回る展開で度肝を抜いてみせた、中村能子氏の超絶脚本回である。
 この87話では、主として二つの物語が語られている。一つ目は、前回ジュエルチャンスをものにできなかった、赤城あんなの物語。二つ目は、シーズン2に入って以来ひたすらお気楽極楽を貫いてきた萌黄えもの物語である。
シリーズを通して、両者は対照的な存在として描かれている。それはストイックと能天気、という対比でもあるのだが、一番の違いはそこではない。自分の力のベクトルを内側に向けているか外側に向けているか、という違いが二人の最も異なる点である。
 赤城あんなは、極めて内向きな人間である。彼女は極めてストイックな努力家であり、完璧なパフォーマーでもあるが、同時にその情熱はほぼ全て自分自身に対して向けられている。彼女にとって、最大の関心ごとは、良くも悪くも自分自身を高め続けることにあるのだ。
 一方の萌黄えもは、チア部に所属している(2期に入ってから一度も練習に行ってないようだが…)ことからもわかる通り、その情熱を自分の外側に向けている少女である。彼女にとって歌とは常に応援歌であり、自分を高めることではなく誰かを応援することこそが生きがいとなっている。(単に家でゴロゴロしているだけの子ではないのだ)。
 このエピソードは、一見すると家出するまで追い詰められた赤城あんなが、萌黄の能天気さに救われていく話のように見えるが、実はそれだけではない。(そのように見てしまうと、最後の赤城あんなの怒りが理解できなくなる)。87話は、その情熱の全てを自分自身に向けて注いできた赤城あんなが、他人に対して情熱を傾ける(小さなドングリひとつを見つけるために家中を探しまわるような)萌黄家の人々と関わるなかで、誰かのために行動すること、誰かを応援する側に回ることの価値に少しずつ気づいていく話なのである。彼女の強張った心がほぐれていくのは、ここにおいてなのだ。
 だから、このエピソードの後半で、あんなはキラッツのカメラマンとして奔走することになる。「恩を返す」という形ではあるが、彼女は誰かを支えたり応援したりする側に回ることの楽しさに気づいていく。自分が見ていた世界だけが全てではないことを知るからこそ、彼女は自分の挫折を乗り越えられるようになる。そして、彼女は萌黄えもの名前を呼び、彼女の応援するのだが……その応援は裏切られてしまう。
 こうして物語は一気に反転し、このエピソードが実は萌黄えもへの問いかけでもあったことが明らかになる。誰かを応援することが、本当は迷惑なのではないか?という疑問については、すでにシーズン1の時点で語られていた。しかし、この87話はそこからもう一歩進んだ問いを彼女に投げかける。誰かを応援することを生きがいにする萌黄えもは、自分に向けられた応援に対して、真摯に向き合うことができるのか?という問いがそれである。
赤城あんなの応援を受けたえもは、けれどジュエルチャンスに失敗する。そして、いつもの調子で「失敗しちゃったね~」と笑い合うのだが、あんなはそれを許すことができない。それは、彼女が自分の応援を無碍にしたからであり、えもが気づかせてくれた新しい世界を、彼女自ら否定してしまったように思えるからだ。「自分は楽しかったからそれでいい」というえもの言葉は、ある意味では正しいが、同時に自分に向けられた応援への否定でもある。
 シーズン2を通して、萌黄えもはひたすらお気楽な人間として描かれてきた。それ自体は別に良い。将来の夢がなくても何とかなるし、宿題が終わらなくてもまあ良いし、大会に勝とうが負けようがどうでも良い。そういうスタンスを貫いてきたのがプリチャンの良さである。けれど同時に、自分に向けられた想いに対してだけは、真摯であるべきだとこのエピソードは主張する。お泊り会と聞いて誰もが期待する展開をきちんと盛り込みつつ、二人の物語をこのような形でまとめ上げ、決定的な決裂という予想を裏切る結末に持っていく脚本の上手さには、実際舌を巻くほかない。アニメ上手すぎ大賞脚本賞である。

3位 第89話「聖夜はみんなで!ジュエルかがやくクリスマス!だもん!」
 来ました!虹ノ咲だいあ回。
 プリチャンシーズン2は虹ノ咲だいあの物語であると言っても過言ではなく、実際「プリチャンは二期から面白くなった」と言われる主な原因はこれであろう。(プリチャンは一期から面白いのだが?)。
 この89話は、「半分だけ」デビューを果たした虹ノ咲だいあが、自分自身で舞台に立つまでのエピソードなのだが、ここで彼女の足かせになっていたのが、単なる勇気のなさではなく「罪悪感」であったことが明かされる。では、彼女はいったい何に対して罪悪感を覚えていたのか。彼女が恥じている「ひみつ」とは何なのか。自分がジュエルオーディションの主催者であること……ではない。というのも、シーズン2においては、基本的には全ての大会が主催者のエゴで適当に開かれているものであるからだ。(最たるものがフェニックス仮面のフェニックス杯である)。自分の目的のためにオーディションを開くこと自体は決して批判されたりしない。
 虹ノ咲だいあは、ジュエルオーディションの先にあるものは無価値だと自分で言い切るが、これはつまり、「自分と友達になること」はその人にとって無価値であり、迷惑でさえあると言っているに等しい。彼女が恥じている「ひみつ」とは、究極的には自分が友達を欲しがっていること、みらいたちと友達になりたがっているということなのだ。「自分はみらいちゃんのようにはなれない」という言葉は、単に勇気の問題ではなく戒めの言葉でもある。「自分ごときが、キラッツたちと対等な存在になってはいけない、友達になってはいけない」。これこそが、虹ノ咲だいあという少女が抱えている、最も根深い問題なのである。
 先に述べたように、キラッツたちは(アンジュと違い)決して特別ではない存在、「みんな」と同じ存在として描かれている。だから、誰でも真似したり、同じステージに立つことができる。ところが、虹ノ咲だいあは自己肯定感のあまりの低さにより、「みんな」から自分を差し引いてしまう。果てしなく自分の価値を低く見積もることで、「みんな」の価値、キラッツたちの価値を高めようとする。これは根本的な問題で、どれだけキラッツが「みんな」と同じ存在であろうと、彼女自身がそこから自分を差し引いてしまう以上、決してその輪の中に入ることができない。
 虹ノ咲だいあは、「友達をオーディションするなんて」卑怯で最低なことだと主張するが、これは正確な順序ではない。彼女にしてみれば、そもそもキラッツたちと友達になろうとすること自体が許されないことであり、だからこそ(彼女にとって)卑怯な手段を卑怯と知りながら使うことでしか、彼女たちに近づくことができないのである。だいあはどんな手段であれ、「間違った」やり方でしか友達を作れない。それは、友達がほしいという願い自体が、彼女にとって「間違った」ことであるからなのだ。「ジュエルの国のお姫様」の物語は、彼女がモノを通じてしか他人と繋がれないことを意味しているのではなく、彼女が自分の存在をマイナスであると見積もっていること、そのマイナスをドレスという「贈り物」で埋め合わせなければ友達を作れないと考えていることを意味している。
 だからこそ、えもが「何も間違っていない」と口にすること、ジュエルオーディションを楽しかったと言い切ることは、二重の意味で彼女を救うことになる。それは第一に、きっかけが何であれ歩んだ道のりは本物だということ、そして第二にだいあと友達であることは彼女たちにとって楽しいということである。虹ノ咲だいあは友達がほしいと願ってもいい。キラッツたちの傍にいたいと思ってもいい。なぜなら、彼女たちはすでに友達になっているのだから。そのことに気づき、自分の存在をはじめて認められるようになった瞬間に、彼女のパクトは輝きだす。
 「いいね」が集まるとライブができる、というトンチキな設定がこれほど完璧に活かされたシーンはおそらくない。それは、虹ノ咲だいあが人生で初めて受け取るたくさんの「いいね」という承認、肯定の感情なのだ。 「SNS!配信!いいね!」くらいのノリで決められたであろう適当なコンセプト(偏見)に対して、「いいね」とは何か?をここまで真剣に考え、凄まじい深掘りのもと丁寧に練り上げられた虹ノ咲だいあのエピソードは、まさにプリチャンの総決算と呼ぶに相応しいだろう。

2位 第77話「ナゾのアイドル、ついにデビュー!だもん!」
 はい、再びのだいあ回。だって面白いので仕方ない。
 正直、77話と89話は甲乙つけがたいので、この順位に関してはものすごく悩んだ。悩んだのだが、やはり初登場した「フレンドパスワード」の衝撃が忘れられなかったため、便宜的にこちらを上にしている。実際、76話のSCSGから始まる盛り上がりが77話で頂点に達する一連の流れは最高だったし、その翌週に佐々木李子さんのステージがあり、そしてフェニックス仮面が登場するまでの全てを含めて、一年半のプリチャン・ライフでも究極に盛り上がった一週間だったように思う。(このあたりでだいあぱん様を購入)
 先の89話が虹ノ咲だいあの物語だとしたら、こちらの77話はむしろバーチャルだいあの物語として印象深い。ご存じの通り、バーチャルだいあは虹ノ咲だいあのデザインパレットから生まれたナビキャラであり、理想化された自分自身の姿でもある。登場当初は、ミョーに胡散臭い笑顔と怪しい語尾から「黒幕では?」「デスゲームの主催者みたい」などと囁かれ、話が進むにつれて「だいあ=虹ノ咲」説が半ば自明視されていたわけだが、何と両者は普通に別人格であることが判明した。あと、デスゲームの主催者でもなかった。
 その生い立ちと関係性から、彼女は虹ノ咲だいあのイマジナリーフレンドだと言えるが、同時にアイドルたちを導くナビキャラでもあり、そしてまた、理想化された虹ノ咲だいあ自身の姿でもある、という複雑な存在だ。77話において、彼女はその全てを併せ持った存在として、虹ノ咲だいあの隣に立つ。アイドルを導くナビキャラとして。だいあの手を取る無二の親友として。そして、ステージに立つというだいあ自身の理想として。バーチャルだいあは自分がどのような存在なのかを完璧に理解したうえで、だいあの手を取るのである。イマジナリーフレンドという古典的な要素と、理想像としてのバーチャルアバターという現代的な要素をこのうえなく完璧にブレンドしたキャラクター、それがバーチャルだいあなのだ。
 虹ノ咲だいあは、自分自身の理想に支えられる形でステージに上がる。最も印象に残っているのは、そのときにだいあが放つ「一緒に幸せになる道を見つけよう」という言葉だ。正しい道でもなく、楽な道でもなく、「幸せになれる道」を探すためにバーチャルだいあは存在する。自分にとってプリチャンが信頼できる作品である理由がここにある。作中で何度も口にされる「キラキラしたもの」とは何かの価値ではない。正しさや単なる楽しさでもない。それは「幸せ」なのだ。この令和の時代にあって、正しさに阿ることなく、恥ずかしがったり茶化したりすることもなく、ただ「幸せになる」ことを真剣に描く誠実さは、極めて貴重なものだと思う。
 プリチャンは、みんながいっしょに、幸せになるためにそこにある。バーチャルだいあは、そのメッセージをこそ体現する存在である。


1位 第84話「ロケットハート!宇宙に届け!だもん!」
 傑作。
 あれほどベタ褒めした77話や89話ではなく、この84話を一位に選んだのは、もちろんミラクルキラッツが好きという理由もあるが、一番は「これこそがプリチャン!」という話であるからだ。もちろん77話も89話も傑作なのだが、逆に言えば非常に完成度が高いがゆえに、プリチャン以外の作品でもやろうと思えばできないことはない。しかし、この84話だけは、「キラッとプリチャン」以外では絶対に再現できないエピソードである。プリチャンとは84話であり、84話とはプリチャンなのだ。
 「桃山みらいが宇宙に!?」という明らかにふざけた予告でひとしきり笑い、TLに流れてくる意味不明なキャプ画の数々で笑い(放送当時は京都にいたので見れなかった)、そして帰宅してようやく見たあとで思う存分笑った。打ち上げまで30秒以上残っているにも関わらず覚悟を決め、友達への別れを口にする桃山みらいと、真面目な顔で両手を合わせる萌黄えもの絵面が面白すぎる。ストーリーこそ、ミラクルキラッツ+虹ノ咲さんが宇宙をテーマにしたテーマパークでひとしきり遊んで学ぶ、というだけのシンプル極まりないものなのだが、この最小限のあらすじでここまで話を盛ることができるのが、ひとえに「日本一の面白アニメ」と呼ばれるゆえんである。
 奇遇なことに、宇宙をテーマにした某アニメが同じ日に放送されているわけだが、あちらがどちらかと言えば「教科書には載っていない」宇宙を描いているのに対して、プリチャンの方は徹底して「教科書に載っている」宇宙を描く。そこにあるのは、「教科書って面白いぞ」「博物館ってわくわくするぞ」という物凄くストレートな信頼である。なぜなら、今の教科書に載っている宇宙は、昔の人にとっては「教科書に載っていない」宇宙、未知のロマンだったのであり、そうしたロマンの積み重ねとして、今の教科書の知識が作られてきたからである。わたしたちにとって当たり前の知識でも、そこに至るまでにはロマンに魅せられた人々の、長い長い道のりがあるのだ。そんな人々のロマン、その歴史を乗せて、ロケットは宇宙へと飛び立ち、新しいロマンへの道を開くのである。
 この話に限らず、プリチャンは世代間のバトンをはっきりと自覚したうえで物語を組み立てている。それはめが姉となる店長の物語もそうだし、1期で描かれたマーサの物語もそうだ。かつての子供たちが、今の子供たちに歴史のバトンを繋いでいく。しかし、バトンを渡したからといって、大人たちはいなくなってしまうわけではない。(第75話「めが姉ぇさんと私!」はそれをもっとも色濃く描いたエピソードだろう)。大人たちはバトンを渡しながらも、なおも同じ世界で隣に立っていることができる。彼女たちを見守り、支え、ときには一緒に走ることだってできる。このエピソードで、キラッツたちはほし姉ぇの歌を譲り受けるが、物語のラストで彼女たちは並んで夕陽を見つめている。誰かにバトンを渡すことは、決して自分の物語を終えることを意味しない。それはむしろ自分の物語を広げること、新しく始め直すことなのだ。
 そして、バトンを受け取ったキラッツたちは、未来に向けたはるかな夢を語り合う。自分たちの歌が、はるか宇宙まで届くことを夢見る。面白いのは、彼女たちが宇宙に行くことよりも、自分たちの声を「宇宙まで届かせる」ことを夢見ているらしいことだ。プリチャンは地に足のついたアニメなので……という冗談はさて置くとしても、キラッツたちはしっかりと自分たちの「今」「ここ」に根差した場所から夢を見ている。ここではないどこかを夢見るのではなく、自分がいる「ここ」を、その世界を広げて、豊かにしていきたいという願いこそが、キラッツたちの夢なのだ。「ここ」こそはかつて夢見たたくさんの人々のロマンが辿り着いた場所であり、そして未来へと続くたくさんの夢とロマンが詰まった場所なのである。

 長くなってしまったが、以上がプリチャンシーズン2の(暫定)ベスト5エピソード、ということになる。正直に言うと、2期はあまりにも面白い話が多すぎて、とても5話には収まりきらなかった。ここには書けなかったが、他の推しエピとしては第53話「まりあちゃんがやって来た!かわいい向上委員会だもん!」、第60話「ステキに楽しく!デザインパレットだもん!」、第69話「発車オーライ!ミラクル☆キラッツ1日駅長だもん!」、第71話「歌え えもちゃん!なんとかなるなる、だもん!」、第83話「ふしぎな本屋さんでふしぎ体験だもん!」などがあるので、これを含めてベスト10ということで。
 あと1クールとなったシーズン2がどのような終わり方をするのか予想がつかないが(だいあちゃん、消えないで…)、何せよプリチャンは最高なのできっと大丈夫!2020年も「プリチャンは最高」「プリチャンを見ていないやつは雑魚」を合言葉に頑張っていこうと思う。とりあえずオリンピック雑コラボ回やってくれ~~~~だもん!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?