ONE PIECE FILM REDの話をしよう

 「ONE PIECE FILM RED」、初日に見てきました。正直そこまで期待してなかったし、なんなら本当は初日に行くつもりもなくて、「ラストサマーウォーズ」を見たかったけど上映館が全然なかったので諦めてその代わりだったというか。舐めてました。最高。傑作です。

ウタ、最高


 とりあえずウタの台詞ベスト3を書いておきますね。

3位 「いつの間にか、ルフィの方が背が高くなってたんだね」
2位 「出た〜〜!負け惜しみ〜♡」
1位 「当てる気もないくせに」

 3位の台詞は歳上幼馴染キャラの王道。2位は完全に不意打ち。まさかこんな高木さんみたいなこと言うキャラだとは思わなかった。そして1位。呆れたような見下したような瞳が最高。ありがとう尾田先生。ありがとう谷口監督。一生ついていきます。

 とにかくウタが可愛いのです。キャラデザも最高だし、名塚さんのちょっと低音気味の演技からAdoさんの歌声に繋がるのもいい。機嫌が悪くなると右足をトントンする鬱陶しいところも好きだし、なにより表情が豊か。アイドルっぽさ全開の笑顔から気まずそうな表情、いかにも不安定な感じの怒り顔、死んだ魚のような目、ルフィを見下す冷たい視線、別れ際に見せる強がった笑顔……。
 そういう意味で一番好きなのは、映画の最初に麦わらの一味のところにウタがやって来るシーンですね。最初はルフィの幼馴染ということで盛り上がっていたわけですが、ルフィが海賊と聞いた瞬間に見せる何とも言えない表情が最高。そこからだんだんと場の空気が悪くなっていき、「サークルの先輩が飲み会に連れてきた地元の友達がヤベー奴で、どんどん気まずくなっていくあの感じ」を存分に味わうことができます。か、帰りてぇ〜〜。

 今作はめちゃくちゃ評価が割れているわけですが、それは当然で、このウタというキャラクター(いきなり出てきたシャンクスの娘兼ルフィの幼馴染兼世界の歌姫)を好きになれるかどうかに全てが掛かっており、かつこのウタが明らかにクセの強い、万人受けは決してしないキャラクターに仕上がっているためです。しかもこのウタという少女は、「ワンピース」という作品のオリジンに関わる存在でありながら、同時にそれを否定する立ち位置にいるのですね。
 ただ、これは悪いことばかりではなく、「ワンピース」という長寿漫画の劇場作品としては、かなり正解ではないかと思います。前作の「スタンピード」が集大成だとするなら、今作はオリジンです。極端な話、ワンピースの原作をちゃんと追ってない人でも、最初の数話だけ読んでいれば(つまりルフィという少年がシャンクスという男に憧れて海賊王になるために海に出るということさえ知っていれば)理解できるようになっている。長寿作品というのはどうしても途中で離脱してしまう人が少なくないわけですが、そういう人たちでも「お、シャンクスなら知ってるぞ」となって、「じゃあ見てみるか」となる。これはオリジンものの強みでしょう。今作が賛否両論でありながら、興行収入がずば抜けているのも、そうしたことが理由の一つにあるんじゃないかと思います。
 とはいえ、FILM REDは単なるオリジンではなく、それを反転させながら、揺さぶるような作品でもある。だから、冒頭からいきなり「大海賊時代」の否定が始まるのですね。はっきり言って、かなり変な映画です。かつ、あんまりワンピースっぽくない。理由は色々ありますが、一番はルフィの描かれ方だと思います。

「少年」としてのルフィ

 ワンピースという作品の核は何か?と問いへの答えは色々あるでしょうが、個人的には「ルフィが敵をぶっ飛ばすこと」だと思っています。ひどい敵が出てきて、ひどいことをして、ひどいこと言う。そうやってフラストレーションを溜めて溜めて、溜まりきったところでルフィが一発ぶちかます瞬間のカタルシス。(その意味で、ドラム王国編でワポルにパンチが当たる直前に回想シーンが挿入されるのは非常に優れた演出だと思います)。海賊の戦いというのは信念のぶつかり合いなので、ルフィが敵をぶっ飛ばすというのは、要するに相手の信念を打ち破り、自分の信念を貫くことを意味しています。(なので、ルッチ戦然り、シキ戦然り、ルフィの戦いは全体の戦局とはあまり関係ないことも多いです)。
 そこで、今回のウタ名台詞No.1「当てる気もないくせに」です。今作は最後まで、ルフィの「殴れなさ」に焦点を当てています。なので、最後のトットムジカ戦(物語を収拾するためのデウス・エクス・マキナ)以外、ルフィの見せ場はあまりない。尺の大半は、バリアの中でゲロ吐きそうな顔してます。戦闘シーンで言えばサンジとかゾロの方が多いでしょう。
 基本的に、ルフィは相手が誰であっても「殴れる」男です。ウソップだろうがガープだろうが、改心?したベラミーだろうが、信念がぶつかるのであればルフィは殴れる。空島前のベラミーだったり、あるいはWCI編でのサンジだったり、信念のために「あえて殴らない」ことはあっても、「殴れない」ことはないのです。
 ところが、今作のルフィは明らかにウタを「殴れない」男として描かれています。全力で足を振り上げたルフィが、それでもウタと戦うことができずに地面を虚しく蹴りつけるシーンは最高です。最初の方こそ「争う理由がねえ」と言っていたルフィですが、ここにおいてはもはやウタを「殴らない」のではなく「殴れない」のだとはっきり描かれています。(シャンクスの帽子を破られてなお、怒りではなく哀しみの表情を浮かべるのもその証ですね)。もちろん、ルフィの見せ場がないと映画として成立しないので、そのためにトットムジカ戦が用意されているわけですが、物語としての力点は明らかに「ウタを殴れない」ことに置かれており(なので、トットムジカを倒しても結局事態は解決しない)、このことがFILM  REDという作品を特殊なものにしています。(あのオマツリ男爵でさえ、最後に決着をつけたのはルフィの一撃だったので……)。

 ルフィ自身は別れ際でウタに「どうして殴らなかったの、あたしのこと」と問われ、「俺のパンチはピストルより強い」からだと答えています。まあ、それはそうなんですが、あの時点で既にここが現実でないことはわかっているわけですから、いくら自分が強くてもウタが傷つかないことくらい理解しているはずで、あのルフィの答えはウタの言う通り「負け惜しみ」なのだと思います。
 ルフィが殴れなかった理由は色々考えられるのですが、個人的に大きいと思っているのは、今作の大半において、彼が麦わら帽子をかぶっていないということです。物語の序盤でウタに奪われて以降、シャンクスの帽子はラストシーンまでルフィの元に戻ってきません。今作のルフィはその意味で、「麦わらのルフィ」ではなく「フーシャ村の少年ルフィ」なのです。(原作でも、頂上戦争後に「麦わらのルフィは休業だ」と言って帽子を置く描写がありますね)。麦わら海賊団の船長としてのルフィではなく、その中にある一番柔らかな部分、かつて少年だった存在としてのルフィを描いたこと。それが、FILM  REDという作品の大きな達成だと思います。
 「麦わらのルフィ」は海賊団の船長という立場にある強い男です。でも、「フーシャ村の少年ルフィ」は違う。過去編を読むとわかるのですが、ルフィは元々寂しがり屋な末っ子キャラなのですね。エースもサボもウタもみんなルフィより年上です。自分より年上の大人たちに可愛がられたり、反抗したりしているシーンは多いですが、自分より年下の子供を引っ張っている描写はほとんどありません。(その点、年下のガキンチョ相手にイキっていたウソップとは対照的です)。
 海賊「麦わらのルフィ」であれば、相手が誰であっても殴れます。そこに信念のぶつかり合いがあるならば。でも、「フーシャ村のルフィ」は違う。それは彼の中にある弱さですが、頂上戦争の時に実感したような弱さ(どれだけ力を振り絞っても大切なものに手が届かない無力感)とは、また別のもの。たとえ信念がぶつかり合っても、戦わなければいけなくても、それでも殴ることができない。そういう「少年」としての弱さなのです。

 幼馴染とは、大人になったはずの青年を少年へと引き戻す存在です。映画の冒頭でルフィはウタのことをすっかり忘れていますが、徐々に思い出し、積み重なったその思い出が、彼の中に眠っていた「少年」を蘇らせていきます。FILM REDは「フーシャ村の少年ルフィ」がもう一度麦わら帽子を託されるまでの物語でもあり、その意味でルフィという青年のオリジン映画なのです。

ウタの響く場所

 再びウタの話。彼女の歌の話です。
 ウタは2つの世界の狭間に生きる存在として描かれています。一つはルフィたちが生きる現実の世界。もう一つは自身の内側に広がる空想の世界です。空想に興味がないルフィと対照的に、ウタは夢の世界を重んじて生きています。
 それを補強するのがウタウタの実の存在で、彼女はこの実を食べた能力者であると説明されています。これは要するに、歌によって生まれた自分の空想世界に他人を連れ込むことができる能力です。ウタワールドにおけるウタは神に等しい存在であり、どんなことでも実現できます。(私は最強!)
 問題はこの力が彼女にとって呪いでもある、ということです。
 ウタの歌を聴いた人間は全員眠りに落ち、ウタワールドへ連れていかれる。これはつまり、誰も現実にはウタの歌を聴くことが出来ないことを意味しています。現実で歌っているウタは常にたった1人の孤独な存在なのです。(ウタウタの実の能力には疑問も多く、彼女がこの能力をオフにした状態で歌えるのかどうかは明らかにされていません。ただ、ルフィの回想でもみんなが寝てしまっていること、普段の配信ライブでもウタが激しく体力を消耗していることから、おそらくほとんどのケースでウタウタの能力は発動しているのだと思われます)。歌姫ウタは歌を通じてしかみんなと繋がれないのですが、けれど歌っている限り、現実のウタは常に孤独のままなのです。
 彼女が現実と同じくらい夢の世界=ウタワールドを重んじる理由の一つはこれでしょう。ウタという少女が自分の歌をみんなに聴いてもらえるのは、現実の世界ではなくウタワールドの中だけ。ウタの歌は、夢の世界にしか響きません。そしてウタが眠りに落ちるとき(つまり夢の世界にいくとき)、能力は解除され、ウタワールドは消えてしまいます。ウタは決して、みんなと同じ場所にはいられないのです。ウタウタの実の設定には、こうした残酷なすれ違いが仕込まれています。
 非常に危うい力を持ったウタという少女が、それでも辛うじてバランスを保てていたのは、家族同然の赤髪海賊団、そしてルフィの存在があったからです。作中の回想シーンで、ルフィはウタを現実に引き戻す存在として描かれています。最初の回想では、一人空想に耽るウタに声をかけ、身体性を伴った「勝負」を持ちかけます。続くシーンでは眠ってしまったウタの鼻先に触れ、彼女を起こそうとするルフィの姿が描かれています。
 9歳の時点では、ウタの人生は歌だけではありませんでした。だからこそ、彼女は空想の世界と同じくらい、現実のことも大切にできていた。問題は、エレジアで暮らすようになって以来、ウタの人生から歌以外の全てが消えてしまったことです。(それが彼女にとってどれだけ絶望的なことなのか、死んだ目でゴードンと暮らすウタの姿を見ればわかります)。ウタの歌声は、決して現実の世界には響きません。彼女は歌姫である限り、夢の世界で生きるしかないのです。ここにおいて、現実と夢の世界の序列は、彼女の中で完全に逆転します。ウタにとって、何よりリアルなのは夢の世界であり、現実の世界は淡い夢のようなものに過ぎなくなったのです。

 ここでようやく、物語におけるトット・ムジカの役割がわかるようになります。先に言っておくと、トット・ムジカは基本的にご都合主義的な舞台装置です。ルフィとシャンクスを同時に活躍させ、事態を収拾するための機械仕掛けの神(プリキュア映画でもよく出てくるやつ)に過ぎません。しかし、もう一つ、この魔王には重要な意味があります。
 それは、ウタの歌を現実世界に響かせるという役割です。トット・ムジカを使うことで、夢の世界は現実とつながり、ウタは自分の歌声を現実の世界に響かせることができるようになります。これはまた、彼女がトット・ムジカを使うことを決意する理由にもよく表れています。ウタが楽譜を使うきっかけになったのは、現実世界で観客の一人が撃たれたことでした。パニックになった彼女は必死に血を止めようとしますが、どうしようもありません。(ご丁寧に、その少し前にはウタワールドで彼女が怪我人の傷を癒すシーンが対比的に挿入されています)。現実における自分の無力さを噛み締めたことで、ウタはトット・ムジカを使うことを決意するわけです。夢と現実をつなげ、自分の歌声を現実の世界に響かせるために。たとえそれが、破滅と厄災に満ちた力であったとしても。

 けれど、ウタの声がはっきりと現実の世界に響いているシーンが、トット・ムジカ以外に一つだけあります。彼女が命と引き換えに歌う、「世界のつづき」がそれです。この最後の曲だけは、ウタウタの呪いに抗い、そこから自由になるものとして歌われています。
 これまでずっと、人々を夢の世界に誘うために歌っていたウタは、その反対に皆を現実世界へと誘う歌を歌います。夢の世界の歌姫ではなく、現実を生きる赤髪海賊団の音楽家として。彼女の歌声はついに、現実の風に乗って、世界中の海へと広がっていきます。そして、その代償として、彼女はたった一人で夢の世界へと旅立っていくのです。

ユートピアとノスタルジー

 ウタが作ろうとした「新時代」は一つのユートピアです。これはある意味では皮肉なネーミングで、なぜならユートピアとは「歴史の否定」だからです。ヨーロッパには昔から「ユートピア文学」と呼ばれるものが多くありますが、どんな時代のどんな作品を見ても、描かれている世界はあまり変わりません。ユートピアというのは、歴史の外側にある世界なのです。つまり、ウタが目指した「新時代」というのは「時代の外側」であり「時代のない時代」なのですね。大昔の表現を使うなら、「歴史の終わり」と言ってもいいでしょう。
 ユートピアの中では時間が止まります。理想の社会ができあがってしまえば、もう変化は起こらないからです。ウタが目指した世界もそれです。そこには全てがあるけれど、歴史は二度と生まれない。永遠のお祭り騒ぎだけが続く世界。
 ウタの失敗は、だから観客たちの記憶を奪わなかったことです。ユートピアの中に歴史は持ち込めないのだから、そこに招いた人間の過去は、全て消しておくべきでした。エレジアの地下室にある本や石碑も全て燃やしておくべきだったし、ゴードンの記憶も消さなければいけなかったのです。彼女の夢見た自由で平等な世界は、過去の重みを消し去らなければ実現しないのだから。
 あるいは逆に 、過去を抹消することこそが彼女の本当の目的だったと考えることもできるでしょう。ユートピアが、つまり「新時代」が到来すれば、歴史は消滅します。それは彼女にとって救いです。過去の辛い別れも、身を焦がすような罪の意識も、全てを消し去ることができるのだから。彼女があそこまで「新時代」という言葉に固執するのは、それが過去の抹消を意味するからです。そして、過去を捨て去ることこそが目的なのだから、「新時代」が到来した後のことはそこまで具体的に考えていない。それが、ウタの隠れた本心だと思います。

 ウタはたとえ天竜人であろうと「みんな」と同じ仲間だと主張しますが(彼女のユートピアには歴史がないのでそうなるのです)、ただ一人、ルフィだけは自分の手で殺そうとします。個人的にこの展開にはめちゃくちゃ興奮したわけですが、それは置いておくとして、彼女がルフィを殺そうとするのは、彼が自分にとっての「過去」そのものだからです。ルフィはウタが変わってしまったことに動揺しますが、ウタは反対にルフィがあの頃と何も変わっていないことに失望します。12年前となにも変わらずシャンクスに憧れ、海賊をやっている。それは絶対に捨て去らなければならない、過去の自分そのものです。ありえたかもしれない、もう一人の自分の姿です。だからこそ、自分の手で殺さなければならないのです。
 ウタは海賊嫌いという設定ですが、ただの海賊であれば殺したりはしません。「新時代」においては海賊だろうが海軍だろうが天竜人だろうが、そんなものはどうでもいい些細な違いだからです。けれど、ルフィという「過去」だけは、決して「新時代」には連れていけない。過去を消し去るために、彼女は「新時代」を作ろうとしているのだから。(ちなみに、ウタのナイフはシャンクスによって阻まれますが、ほんの一瞬でも遅れていたら彼女はルフィを殺していたと思います。ウタを殴れないルフィと違って、ウタはルフィを殺せるのです。やったね)

 一方で、「ワンピース」は歴史をめぐる物語です。アラバスタ編で「プルトン」だの「ポーネグリフ」だのが出てきた時はただのハッタリ設定かと思いましたが、尾田先生はマジでした。「ワンピース」は徹頭徹尾、歴史のお話なのです。ルフィたちの冒険は、歴史の外側ではなく内側にあります。
 それゆえに、歴史そのものを否定し、消し去ろうとするウタの試みは、「ワンピース」という作品と絶対的に対立します。(重要なのは、夢か現実かという対立ではなく、歴史の内側か外側か、という対立なのです)。世界政府と天竜人もまた、歴史を隠蔽し、支配している存在ですが、それはあくまで特定の歴史をめぐる対立であって、歴史概念そのものを否定している訳ではありません。(むしろ、天竜人の地位は歴史依存的です)。そう考えると、ウタの立ち位置がいかに特殊なものか、よくわかるでしょう。
 だから、「ワンピース」という作品の中にウタの居場所はありません。ウタは敗北し、歴史を終わらせようとするその計画は失敗します。FILM REDが「ワンピース」の映画である限り、これは避けようがないことなのです。

 ある意味で、ウタの計画は初めから失敗を運命づけられていたと言えます。なぜなら、過去を消し去るための「新時代」という理想そのものが、どうしようもないほど、彼女のノスタルジーに染まったものだからです。
 回想の中で、エレジアでの講演を終えたウタにシャンクスは言います。「なあ、ウタ……この世界に平和や平等なんてものは存在しない」。そしてこう続けるのです。「でも、お前の歌声は、世界中の人々を幸せにすることができる」と。
 ウタが「新時代」をあれほどまでに「自由で平等で幸せな場所」として描くことにこだわるのは、このためです。それはまた、ウタのグローブに描かれたマークがルフィと誓った「新時代 」のマーク…すなわちシャンクスの麦わら帽子であることからもよくわかります。彼女は過去を消し去るために「新時代」を実現しようともがきますが、けれどその「新時代」そのものが、どうしようもなく思い出の色に染まってしまっている。これは彼女が抱える根本的な矛盾です。
 歴史を持たないユートピアはけれど、いつだってノスタルジーの匂いがするのです。

 

夢の終わり、世界のつづき

 「ワンピース」という作品の特徴として、ルフィにライバルがいないということが時々挙げられます。確かに、ルフィをライバル視している人物はたくさんいますが、当のルフィ自身は誰のこともライバルだと思っていません。それは、ルフィにとってのオリジン=シャンクスという海賊への憧れを共有できる相手がいないからだと考えられます。
 ウタはその唯一の例外として登場します。彼女はあの世界においてただ1人、シャンクスへの憧れをルフィと共有し、麦わら帽子というシンボルを分かち合うことができる人物なのです。だからでしょう、少なくとも幼少期のルフィにとって、ウタはライバル的な存在として描かれています。そう、ウタはヒロインではなく、ライバルなのです。
 なぜ海賊にならなかったのかと問われ、ウタは一度ウソをつきます。海賊より歌手の方が良かったからだ、と。ルフィはその答えに満足します。たとえ、目指すものが変わってしまったとしても、オリジンを共有している限り、ウタはあの日のライバルであり続けるからです。だからこそ、俺も負けてらんねーな!とばかりに船へ戻ろうとするわけです。
 事情が変わるのは、ウタがシャンクスへの憎悪を剥き出しにした後のことです。ルフィにとって、それは2人のオリジンの否定であり、ウタというライバルの喪失です。基本的に他人の過去にあまり興味を持たないルフィが、ウタとシャンクスの過去をあそこまで知りたがるのもそのためです。
 重要なのは、ルフィがウタの過去そのものにはあまり興味を持っていない、ということです。最初にゴードンと会った時もまったく真面目に話を聞いていませんし、その後エレジアの真実(暴走したウタとトット・ムジカが国を壊滅させ国民を皆殺しにしてシャンクスが罪を被ったという激重設定)を聞かされたらときの第一声も「ほら、シャンクスはそんなことするやつじゃなかったじゃん!」です。(もっと他に言うことあるだろ!!!)
 ルフィにとって決定的に重要なのは、ウタというかつてのライバルがシャンクスを信じてくれるかどうか……つまり、2人のオリジンに立ち戻ってくれるかどうかであって、ウタが他の海賊を嫌おうが、海賊王の夢を嗤おうが、過去にトットムジカで何万人殺していようが、そんなものは些事なのです。
 FILM REDとはつまり、ルフィがかつてのライバルを失い、そしてもう一度取り戻すまでの物語でもあります。

 結局、ルフィはウタというライバルを取り戻しますが、まさにその瞬間に、永遠に失うことにもなります。物語の最後でウタとルフィが言葉をかわすのは、現実ではなく、けれどウタウタの力で作られた世界でもない2人だけの場所、現実と夢の狭間です。その場所で初めて、ウタはルフィが自分より大きくなっていることに気づきます(ウタワールドにいる間は、むしろウタの方が背が高く見えるように描かれているのです)。
 「いつの間にか、ルフィの方が背が高くなってたんだね」とウタは言いますが、実際のところルフィはむしろ作中では「ちび」として描かれることの方が多いです。ワンピースの世界は後半になればなるほど平均身長がめちゃくちゃなことになっていくので、175センチくらいしかないルフィは、むしろチビの部類に入ります。でも、ルフィはゴム人間なので、別に身長なんて関係ないのですね。いくらでも自由に伸びることができるので。
 だから、ウタのこの言葉は、「ゴムゴムの能力を持った海賊、麦わらのルフィ」に向けられた言葉ではありません。「フーシャ村の男の子」だった青年へと向けられた言葉です。そしてウタは麦わら帽子を彼の頭にかぶせ、ルフィは再び「麦わらのルフィ」へと戻ります。(このシーンは終盤、激昂したウタが「悪い人には悪い徴を」と言ってルフィたちに海賊服を着せたシーンの反復です)。麦わら帽子をルフィに頭にかぶせること。それは、かつて同じ憧れを持った相手への励ましであり、祝福であり、そして自分の記憶の中にいた「フーシャ村の男の子」に別れを告げることでもあります。「この帽子がもっと似合う、立派な男になるんだぞ」と。
 ウタに帽子を被せられた瞬間、ほんの一瞬だけ、ルフィの顔に光の粒のようなものが映ります。それは「フーシャ村の男の子」……誰に対しても決してさよならを言わないはずのルフィが見せた別れの涙です。

 夢から覚めたルフィは、いつの間にか船に乗っています。彼がサニー号に乗り込むシーンは描かれません。「フーシャ村の男の子」は、気づいた時にはもう、「麦わらのルフィ」として海に出てしまっています。その「戻れなさ」こそが、この作品にとって決定的に重要なのだと、僕は思います。船出の瞬間をドラマチックに描いてきた「ワンピース」の世界で、あえてその瞬間を描かないこと。気づいた時にはすでに海に出て、波に運ばれてしまっている、その「どうにもならなさ」を描くこと。それこそが、ウタという少女が、フーシャ村の少年に最後に残したものなのです。
 
 
 
 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?