「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を観た

 話題のマリオ映画を観てきた。最高!
 単純に見ていて面白かったし、ピーチ姫が萌え萌えだった(こういう、”先輩転生者”ポジションのヒロインに弱い!)のもあるのだが、何より「ゲーム」の映画化について考えるうえで、色々と勉強になったように思う。
 大抵の場合、ゲームを映画化するときには、「ゲームの世界観を下敷きにした物語」をやることになりがちである。最近の作品だと、「モンスターハンター」とか「名探偵ピカチュウ」あたりだろうか。もちろん、これはこれで面白いのだが、しかしゲームの「ゲームっぽさ」は、この手の作品ではどうしても切り捨てられてしまいがちだ。
 一方、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」は、いかにして映画の中に「ゲームっぽさ」を持ち込むか、を追及した作品だと思う。ただ、その「ゲームっぽさ」というのは、別にキャラクターデザインがゲームのまんまだとか、ゲームの小ネタが散りばめられているだとか、そういうことだけではない。

 ゲームの本質とは、「クリアする」ことである。
 人がゲームをプレイするのは、クリアするため、それによって達成感を得るためだ。(特にマリオのようなゲームはその傾向が強い)。もちろん、プレイを進めることによって物語が進展し、ハッピーエンドを迎えたりはする。しかし、それはゲームをクリアしたという達成感を盛り上げるためのもの(マリオのステージをクリアした時のファンファーレと花火みたいなもの)であって、物語そのものが目的なわけではない。「物語が結末を迎えること」と「ゲームをクリアすること」の間には、微妙な差異がある。本作がマリオの活躍を通じて観客に見せようとしたのは、後者の方ではないだろうか。

 映画の冒頭では、マリオとルイージが作ったテレビCMがいきなり流れる。彼らは勤めていた会社を辞めて独立し、全財産を叩いてテレビCMを作成したらしい。個人的には、もうこの時点で感動してしまった。何の計画もなしに会社を立ち上げていきなり資金全部を注ぎ込んでCMを作る、この「でけえことやってやる」感!これこそが、今作のマリオの本質である。(余談だが、このシーンのせいでマリオとルイージが「売れなかった世界線のヒカキンとセイキン」に見えてしまい、勝手に泣いていた)。
 マリオは別に配管工の仕事を極めたいとは思っていない。会社がうまくいって大金持ちになりたいとかも思っていない。実家を出たいわけでもないし、恋人が欲しいわけでもない。ただ、何かを「成し遂げたい」のである。「成し遂げてぇ…!!」。これが、マリオの全てなのだ。そして、この「成し遂げてぇ」は友情とか恋愛とか家族愛といった、個別のドラマに還元できない。それゆえ、映画はピーチとの恋もドンキーとの友情も、ルイージとの兄弟愛も、父親との和解もさして掘り下げることなく、ただ表面的になぞるだけで済ませてしまう。映画のゴールは、あくまでマリオの「成し遂げ」だからである。そして、この「成し遂げてぇ」という感情が掘り下げられることもない。「マリオにとって、成し遂げたいというこの気持ちは、具体的に何を意味しているのか? どうすれば満たされるのか?」を考えたりはしない。その必要がないからだ。

 確かに、「弟を助ける」という作劇上の目的はある。しかし、それが「成し遂げてぇ」に代わって物語のゴールになることはない。たとえば、マリオが今までの自分を反省して「俺はなんかデカいことやってやるとかばかり考えていたけど、家族が一番大切だったよ…!」「そんなことないよ兄さん。ぼくはデカいことを目指してる兄さんが好きなんだ」「ル、ルイージ!!(感涙)」みたいな展開にはならない。つまり、「弟を助ける」というのはあくまで当面の目標に過ぎず、マリオというキャラクターの願望自体は一貫して「成し遂げてぇ」であり続けるのだ。

 このことが最もよく現れているのが、終盤のクッパとの戦いだろう。マリオが土管を暴発させたことで、クッパ城がまるごとブルックリンにやってきてしまう。で、クッパにぼこぼこにされたマリオは心が折れてしまうのだが、そこで立ち直るきっかけとなったものこそが、冒頭のテレビCMなのである。
 一応書いておくと、このときマリオの背後ではピーチとドンキ―が勇敢にもクッパに立ち向かっている。これは結構感動的なシーンでもある。というのも、この映画においては、各キャラクターの役割=目的意識がかなりはっきりしているからだ。(これもかなりゲーム的だ)。マリオはルイージを助けること、ピーチはキノコ王国を守ること、ドンキーは父親に認められること……。彼らが行動を共にするのは、各々の目的を果たすためである。だから、レインボーロードでマリオとドンキーが撃墜されたときも、ピーチはバイクを止めることなく、キノコ王国に向かって走り去る。彼女にとっての最優先事項は、キノコ王国を守ることだからである。
 しかし、ルイージを助けた後で、マリオはキノコ王国を守るためにキラーに向かって一人飛び出す。(キノコ王国を守ること、は当初の彼の目的ではないにもかかわらず)。そして、ピーチはブルックリンにやって来たクッパを相手に(キノコ王国の危機は去ったにもかかわらず)勇敢に戦う。キャラクターたちが各々の目的から微妙に外れた場所で最大の勇気を発揮すること、それに際して何の躊躇いも描かれないことに、このシーンの良さがある。
 が、このシーンでマリオを立ち直らせるのはピーチやドンキーの雄姿ではない。それどころか、ルイージでさえない。確かに、ルイージがマリオを助けるシーンはあるのだが、それはマリオが立ち直った後である。ルイージのおかげでマリオが立ち直るわけではない。(これは結構大事だと思う)。マリオを立ち直らせるのは、彼が全財産をはたいて作ったCM、そこに込められた「成し遂げてぇ」という夢なのだ。

 そして、スター(※1)を手に入れてクッパを倒したマリオたちは、ブルックリンに響く万雷の拍手のなかで、ついに「成し遂げ」を果たす。この「成し遂げ」が描くものこそ、要するに「ゲームをクリアすること」の達成感なのである。
 だから、このエンディングは浅い。恥ずかしくなるほどに薄っぺらい。ルマリーが「ご都合主義的なハッピーエンド」と表現するのは完全に正しい。敵を倒すことで自動的に父親と和解しライバルからも認められ、なんか犬にもなつかれたりするというのは、完璧なご都合主義である。現実では、敵を倒したからといって人生が好転するわけではない。しかし、ゲームの世界ではこのご都合主義こそが正しいのだ。「ゲームをクリアする」とはそういうことだからである。
 現実がゲームではないように、ゲームは現実ではない。ゲームの世界においては、物語がハッピーエンドを迎えたから、ゲームクリアになるのではない。ゲームをクリアしたから、ハッピーエンドがやってくるのだ。
 「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」の安っぽい、にもかかわらず何だか幸せな気持ちになるラストは、ただのハッピーエンドではなく、「ゲームクリア」の達成感を観客に伝えてくれる。「クリア」さえすれば、人生は全て上手くいく。それがゲームの良さなのだ。その意味で、本作は最後まで「ゲームであること」を手放さなかった映画だと言える。
 だからこそ、映画のラストシーンでは、ブルックリンで活躍するマリオブラザーズ……の姿ではなく、キノコ王国(=ゲームの世界)に飛び出していく二人の姿が映るのである。

(※1)スターはマリオ世界において無敵になれる最強のアイテムだが、所詮はただのアイテムであってゲームのゴールではない。それは実際のところ、「ゲームクリア」とは何の関係もないのだ。スターを手に入れてもハッピーエンドはやってこない。クッパがスターを手に入れたにもかかわらず、それを使うことも、願い(ピーチとの結婚)を叶えることもできないのは、そのためである。



 


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