「サイダーのように言葉が湧き上がる」感想メモ

 久しく映画の感想を書いていない。原因は明らかで、僕は作品の感想を書こうとするといつも2万字とか3万字を書くことになり、それはそれは膨大な手間がかかるからである。ということで、今回からはなるべく簡潔に書いていこうと思う。

 というわけで、第一回目は「サイダーのように言葉が湧き上がる」。六月以降のアニメ映画ラッシュの中でも頭一つ抜けた傑作だが、とはいえ設定のリアリティという点ではかなりツッコミどころが満載で、そのあたりの絶妙にふわっとした感じがまた味を出してもいる。例えばこんな感じだ。

・(主にビーバーによって)乱発される不法行為の数々。それがリアルな郊外感かと言われると?だし、何よりそうした迷惑行為のアクターを移民設定にしているのはちょっとどうなのか。序盤のスケボーアクションも爽快というよりは無理してやんちゃしているみたいで寒かった。

・のっけからいきなりショッピングモールで配信を始めるスマイルちゃん。かわいい〜と言いながらよその子供を平気で映しているが大丈夫か?

・スマイル家の異様なリッチっぷり。なんで家の中にテント?携帯の場所を探すのに5画面を駆使する謎のハッカー演出。

・素人っぽい高校生ばかり雇ってるデイケアセンター、ちゃんと回ってるんだろうか。

・チェリーくん流石に友達いなさすぎでは?そもそもジャパンとビーバーとチェリーの関係が謎。学校の友達なのだろうか?

・ストーリーに対して明らかにキャラクターが多すぎて飽和している。(ジャパンとかメインキャラっぽいのにレコードかけるだけのキャラだったし)。序盤の展開も、かなり手探り感があり、レコードの話が始まってようやく芯が通った印象→これはどうやら、元々SF群像劇としてやろうとしていたものを、予算不足でストーリーを変えたことによるものらしい。

 とはいえ、脚本、演出、音楽がうまく調和した名作であることは変わらない。とりわけ良かったのが、スマホとインターネットの描き方だろう。チェリーもスマイルもスマホを片時も手放さないキャラクターなのだが、それは外の世界と「繋がる」ためではない。チェリーは自作の俳句をSNSに投稿しているがフォロワーは3人だけで(流石にハッシュタグ使ってあれだけ投稿していればもう少し読んでもらえる気がするが・・・)、これはラストまでほとんど変わらない。一方のスマイルは人気配信者だが、実は彼女のやっていることも本質的にはチェリーと同じである。スマイルが番組を配信するのは、自分の世界をお決まりのメンバーと共有し、その中に安らぐためである。不特定多数に開かれた世界とは、結局のところ閉ざされていることに等しいのだ。世界が開かれるためには、特定の「誰か」を必要とするのである。

 だから、チェリーもスマイルもスマホを手放せない。繋がるためでなく、自分の世界を守り、そこに閉じこもるために。チェリーが「スマホさえあればどこでも同じ」というのも、スマイルが「スマホがなければ死ぬ」というのも、それが理由である。思春期の少年少女は、自分だけの世界がなければ生きられない。映画はこのパーソナルスペースをきちんと尊重する形で進む。チェリーとスマイルは、スマホを取り違えた最初の一回を除いて、一度もメールをしない。電話もかけない。そうした直接的なコミュニケーションは、二人の間に一切ない。彼らは「繋がる」という行為を慎重に避けながら、それでもお互いのパーソナルな空間にしるしをつけることで存在を主張し、少しずつ距離を縮めようとする。(フォローをする、しない。あるいはいいねをつける、つけないで彼らが笑えるほど真剣に思い悩むシーンが、この作品を名作たらしめている)。

 チェリーは人前で話すことを苦手とするが、それは単に自分の声が嫌いだとかそういう理由ではない。(二人のコンプレックスに対してトラウマめいた説明を与えないのは、本作の優れた点の一つだ)。自分の声を言葉にして話すということは、言葉に志向性を与えることである。その瞬間、言葉は「誰かに向けた」言葉になる。チェリーが苦手なのは、おそらくそれなのだ。だからこそ、中盤にチェリーが詠む「ヤマザクラ」の句は重要で、これは常に不特定多数にのみ向けられていた彼の言葉が、はっきりと特定の相手に向けて発せられた瞬間である。志向性を持ったとき、言葉は開かれる。同様のことは終盤のスマイルの配信にも言える。それまで漠然とした不特定多数にのみ向けられていた彼女の配信は、ここで初めて特定の誰かに向けられる。二人は各々のパーソナルな世界を守りながら、それを少しだけ、特定の相手に向けて開くのだ。これこそが本作の美点であり、そして誰もが花火に目を向ける中でたった二人だけが見つめ合う、あの美しいラストに繋がるものである。作品を貫くテーマが成就したまさにその瞬間に、映画は終わる。

「サイダーのように言葉が湧き上がる」というタイトルは、青春の爽やかさと同時に儚さをも想起させる。彼らのかけがえのない「今」は、たとえどれほど素晴らしいものであっても(あるいはそれゆえにこそ)一瞬で消えてしまうものである。映画はまさにその切実な一瞬、泡が弾ける直前を切り取って永遠のものとしており(エンドロール後の回り続けるレコード)、だからこそ美しいのだが、この物語の後日談としては、おそらく2人は別れるだろう。半年か、あるいは1年か?チェリーは進学すると同時に俳句をやめ、歳時期を父親に返すに違いない。全てのものは過ぎ去っていき、誰にもそれを止めることはできない。

 けれど、それで全てが失われるわけではない。本作が「レコード探し」を中心に据えている理由がここにある。かつてレコードは人々をつなげるもの、音楽によって一つの空間をまとめ上げ、横のつながりを生み出すものだった。時は流れ、レコードは過去の記憶の象徴(フジヤマさんにとってそうであったように)となる。それは過去を記録し、現在とつなぐもの、世界に垂直なつながりを生み出すものだ。そして、見つかったレコードは再び、人々の間に水平的なつながりをもたらす。夏祭りの場で、同じ音楽に耳を傾けることで。水平性と垂直性。メディアというものが持つこの二面性に、本作はきわめて自覚的だ。サイダーの泡が弾けても、世界は残る。輝いていた日々が過ぎ去っても、消えてなくなるわけではない。いつの日か、それは冷蔵庫の裏からぽろりと出てくることだろう。あるいは別のものに形を変えて姿を表すかもしれない。(レコード工場がショッピングモールに変わったように。あるいはフジヤマさんのレコードが時計になって残っていたように)。そして、時を経て再会した思い出たちはきっと、新たなサイダーの泡を生み出すのだ。

 

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