マルバツサンカク 野口珈琲店の謎編(1)
外ヶ浜と呼ばれる土地がある。
平安時代から鎌倉時代にかけて、日本の統治の仕組みが出来上がってきた頃、国の支配が及ぶ最果ての地だった。この先は流刑地だったことから、国の最も端、『率土之濱(そっとのひん)』、外の浜、外ヶ浜と呼ばれるようになったという説がある。
そのような土地柄もあってか、外ヶ浜には数々の不思議な伝説が残る。中でも、全国に知られる伝説は、鎌倉幕府成立の際、平家を滅亡に追いやった立役者、源義経の北行伝説だ。
源義経は、鎌倉幕府をひらいた兄、頼朝との確執から、奥州平泉に逃れ、自刃したと言われている。しかし、その死には不思議な点が多い。奥州から鎌倉に送られたという義経の首は、数か月もかけて運ばれ、判別がつかなかったのではないかと言われる。また、都一の白拍子として名をはせ、義経と行動を共にした静御前も、鎌倉にとらわれて解放された後の足取りははっきりしておらず、没年も分かっていない。
数々の戦果とともに歴史から消えた義経は、江戸時代の娯楽のなかで、悲劇の英雄として描かれ、各地に伝説が残る事となった。
青森県には、平泉から北海道への道筋を辿るかのように伝説が残されている。
伝説は、史実とは必ずしも一致しない。
外ヶ浜町に残る三厩(みんまや)地区。義経一行が三頭の龍馬を得て、北海道に渡ったとされ、その伝説が地名となっている。龍馬がいたか、いないか、については、議論は不要だろう。
時代とともに消えてしまう伝説や伝承がある中で、なぜ生き続ける伝説があるのか。それは、この地において、この伝説が現在進行形だからである。
完了したものは終わり。未完のものは続く。想像を超えるところに、伝説はある。
これは、はるか昔から続く、外ヶ浜の伝説、だそうだ
普通の珈琲は偉大
深そうな歴史物語を聞いてもらった後で申し訳ない。残念ながら、俺が話すことはさしてたいした話ではない。
なぜかと言えば、俺は「きわめて普通」の人間だからだ。
普通であるということはとても難しいから、普通にしようと努力している、と言えばよいだろうか。テストで言えば平均点、体格で言えば標準体型、年収も年齢相応、いわば日本の平均、そうはいってもここは田舎だが、このあたりの「わげもの(若者)」と言えるはずだ。
学生の時だってそうだった。まわりは、将来の夢とか、世の中に役立つとか、そんなことをいう仲間もいた。情熱というのだろうか。彼らは、ドラマのような、波乱万丈の人生を楽しめるのかもしれないが、俺は特にそういう人生を望んでいない。
まして、転生とか生まれ変わりとかが、現実にあると考える向きもあるが、それはおおよそ夢物語だと思う。どうして都合よく、どこかの騎士や、後世に名を遺した武将、貴族が自分の前世だなどと思えるのか不思議でならない。地球上の人口は人類誕生からどんどん増えているのだから、過去に生きたすべての人が、それぞれが生まれ変わったとして、どう考えても余りが出るではないか。
現代に生きる俺も含め、大半の人間は、生きていた証など何一つ残らない一般人だ。それが悪いのではない。極めて普通だ。仮に、ちょっと熱い人生を送ったとしても、そんなに変わらないのだ。それは、俺自身が、一般的に偉大だと言われる人の人生ですら、ほとんど知らないことからも推測できる。平凡な人生を送る、というのは、有難い平和なのだと俺は思う。
激動の時代を駆け抜ける、悲劇の英雄とか言えば、なんだか胸が熱くなるような話で、聞こえはいいかもしれないが、当の本人は、庶民の人生にあこがれていたかもしれない。
そんなわけだから、今、不意に死んだらどうなるか、なんて考えたこともなかった。
普通であることを、できる限り選択して生きているのだから、特筆することのない人生が待っていると思っていた。
日常でない瞬間は、思いがけずやってきた。
俺は、現時点でこの世を去っていたとしたら、間違いなく早死だ。生まれ変わって生き延びるかどうかの話はともかく、このままでは早死にすぎる状況だった。
朝夕の空気が冷たく感じられるようになった十月。朝四時、沖での作業の日。巻き上げの機械の調子が悪く、俺は、船のへりに足を踏ん張って籠を上げようとした。その時、足を滑らせ海に落ちた。
運が悪いことに、片方の足が引っ掛かり、船の横腹に頭をぶつけ、気を失ったのだと思う。
船の明りが遠くなっていくのが見えたような、気もするが、現実かどうかちょっと怪しい。
海の暗闇で、緊張感のない津軽弁の主はこう言った。
『わいは。こったさびいとぎに落ぢでくるとは。おめえは、ばがだのが?』
この期に及んで、ばかにされなければならないのか。
「ああ、そうだ。せっかく落ちてきたはんで、今度は、おめさやらせでみるか。まだ死んでまるのはちょびっとはえぇなあっておもってらんだべ?わがった。わがったってば。ただし、自分の生まれ変わりについては、一切、他言せばまねど。もし、誰かにそれ知れたときには、はぁ、もうまいねぴょん』
もしかして、俺はもう死んだことになっているのか。
俺が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
浜の仲間や親戚がベッドを取り囲んでいた。医師と思われる白衣の人物が、俺の手首をもって時計をみていたが、目が覚めた俺と視線が合うと
「はぁ?」
と妙な声をあげた。目にペンライトを当てられたり、また手首を取られたりしたあと
「ご回復です」
と両親に向かって頭を下げた。
「ご臨終です」と言おうとしてなかったか?
親戚たちも、泣く準備万端とばかりにハンカチを構えていた。
状況はつかみきれないが、妙に都合が悪い。
海に落ちたときどうなったのか、なかなか話す気になどなれない。頭を打って溺れかけて、おかしくなったのではないかと、小さな町にうわさが流れるだけだ。
その声の主は、俺が投げかけた問いによどみない津軽弁で答えた。
生まれ変わるっていうのは、現在の血筋はなにか関係があるのか?
「なんも関係ね。まあ、わの匙加減だはんでな」
なんでも、生まれ変わり元の人物の人生に沿って、現代においてやらなければならないことがあるらしい。
それが、誇らしいとか、楽しいとかなら、面白いと言えるかもしれないが、
『ちょぺっと昔だばって、のっつどやるこど残ってらびょん』
と言う。
義経というのは時代の英雄のはずだ。俺にできるのだろうか。
それでも、今、死ぬよりはましなのではないかとも思った。俺はまた平均寿命よりずっと若いからな。
生まれ変わる、という代わりにやらなければならないことは、どうやったら達成されるのか。普通に考えても問題がありすぎた。その任は鎌倉時代にさかのぼる。まあ、おぼれたときに見た夢だったのだろう。
「わが何者かっていうこともきになってらんだべ。わがる!そのきもぢ、わがるじゃぁ。そんなにわの正体が知りたければ、しかへでけら。びっくりどってんおったまげだど思うばって、しかへらね。おめは、大平山元遺跡って知ってらが?あ?んだんだ。あの世界最古の土器片が見つかったっていう、あの大平山元遺跡な。あのころだっきゃ、ようやく今の日本の形ができてきたころでったわ。あ~ナツカしなぁ…。あ?わだっきゃあずましく寝ってあったんだね。それを、おめんだの地域の人間が発掘とか始めたもんだから、クワッとなまぐひらいでまったべや!したっきゃ、はぁ!今度は眠らえねぐなってまってや。どしてけらんずや!ままま、おめのせいではねえばってや。あ、しゃべっておくけど、おめには、生まれ変わる人物の想いに沿って、現代で為すべきことがあるはんでな。まあ、切ねえ人間であったなあ。わや切ねえじゃあぁぁぁぁ。今だと義経伝説ってしゃべられでらんだっけ?あの伝説は、おめのせいでできたといってもいいかも知らね。静御前の生まれ変わりがすでに外ヶ浜さいるのはしかへだよな?もし、今回こそ伝説が成し遂げられれば、生まれ変わりの役割は完了だな。あどは繰り返さねびょん。したばって、八百年近く経ってまったはんでな。まあ、おめにも大して期待してね。だってあれだべや。船から落ちてきたから落ち武者だど。はあ!わらってまるべやぁぁぁ!わのチョイスに地域の神様んども大うけだぴょん。あ?成し遂げられねえ時?そりゃおめ、まだおめだいんたわげものさ、次の役目がまわるだけだべさ。失敗つうの?生まれ変わった意味がなかった、つうことだはんでなあ。そしたらどうなるかなんて、かわいそうだはんで、しかふぇらいねえなあ!」
もちろん、こんなのすべてを覚えきれるわけもないし、人に話したらおかしい人になるだろう。
朦朧とする意識の中でのことだ。どうせならもっと人に話せる平均的な臨死体験をしたかったものだ。
夢だと片付けられたなら、と言うべきだろうか。
「俺は、これから普通に生きられるのか?」という問いに、その声は答えなかった。
まだ雪が積もることはなかったが、朝の冷え込みが、蟹田港のけあらしとなって現れた、十二月の土曜日の朝のことだった。転落騒動の話もようやく落ち着いて、そこかしこの人たちに「大変だったね。よく生きてたね」と言われることも少なくなってきた。
ただでさえ若い人間が少ない地域なのに、都会の大学に出ていったかと思ったら、就職もせず戻ってきて、浜の仕事を手伝いだしただけでも十分周囲は驚いたのだ。俺にとっては普通なのだが、周りにはそう見えなかったらしい。家の仕事を子どもが継ぐのが、なにか異常だったのだろうか。自分のやりたいことを追いかける、生きたいように生きる、ということの結果、結局思い通りでない人生に落ち着くリスクを考えれば、家業を継ぐことはものすごく平和じゃないか。
想定はしていたものの、しばらくの間、海に落ちて死にかけただけでなく、うわさ話には、あることないことくっついてきたのは仕方ないだろう。
突き落とされとか、海に神様に持っていかれとか、それなりにホットな話題を提供することになった。心外だが、まあ、これが田舎の普通だ。
見慣れない年寄りに声をかけられれば「死んだはずの男が実は生きていた」という地域の伝説のような話にも付き合った。八艘飛びどころか、こっちはすべって落ちたんだが。
浜での作業がひと段落して、体を温めていると
「マツカワ君、新しい豆を焙煎してみたので時間がある時によってください』
メッセージは、野口珈琲店のマスターからだった。珈琲をいただけるなら、体を温めるにもちょうどいい。簡単に着替えて向かうことにした。
野口珈琲店は、浜から言えば南のほう、蟹田川の橋を渡りマツオスーパーを過ぎて、郵便局の手前の細い路地を入る。民家が両脇に並び、正面に寺が見える。見通しの悪い交差点で、よく出会いがしらの事故があるところだ。一時停止をして、複数設置されているミラーを見ると、珈琲店の小屋が映っている。右にハンドルを切れば、小さいがちょっとしゃれた焙煎小屋がある。
パソコンでラジオを聴きながらドリップバックを作っていた野口さんは、俺を一瞥し、おう、と立ち上がると、さっそく電気ポットでお湯を沸かし始めた。六畳くらいの小さい焙煎小屋に、茶色のエプロンをつけた仁王像のどっちかがいるような感じ、というのだろうか。阿吽はどっちでもいいが、どっちかというと「吽」のほうだ。
「で、来てもらったのはほかでもねぇが」
俺がにわかコーヒー好きであることを知っているこのマイスターは、なにか話したいことがあるときには新しい珈琲を用意している。
手際よくドリッパーにペーパー合わせ、サーバーにセットする。小屋の真ん中にある小さなテーブルに置かれた容器の中から、珈琲豆を測り、電動ミルに入れる。ミルを良いものに変えるだけで、自宅で楽しむ珈琲の味が変わる、とマイスターは言う。それを聞いて、俺はそこそこのミルを購入した。珈琲を楽しむ過程で、もっともいい香りなのは、豆を挽いたときと、蒸らしのときだと思うからだ。他の人がどうかはわからないが、多分普通の感覚ならそう思うはずだ。
「妙なお客が一人いてさ」
長居して結局なにも買わないとかですか、と聞いたものの、それはないと思いなおした。
「客」というからには、購入はしているだろう。更に言えば野口さんが「お客」と「お」をつけるからには、礼儀やマナーの問題でもなさそうだな。
「珈琲の生豆は知ってるよな。あれを欲しいっていうんだ」
「ああ、自分で焙煎するような方なんですかね」
そうじゃない、と言うといったん話がとまり、ドリップが始まる。
マイスターは、ドリップの途中で話しかけられるのを嫌がる。几帳面に注いだお湯の量を測り、「蒸らし」の秒数をはかっている。
どうぞ、と紙コップが差し出され、俺は早速、口に含む。この焙煎小屋では珍しい、酸味の珈琲だった。ドライフラワーのような香りとベリーのような酸味が口に広がる。
「よく言う、ゲイシャってやつな」
ゲイシャ種というのは、珈琲豆の種類で、数年前から珈琲の技術を競うような大会ではよくつかわれている種類だ。確か価格の高い珈琲だった。しかも、酸味を楽しむ珈琲は、このロースターではあまり出さなのではないのか。
「それで、生豆が欲しいお客さんのどこが妙なんですか」
いいお客さんなのだけれど、と野口さんは話をつづけた。
そのお客は、三か月ほど前からこの店に来るようになった。三十代半ばくらいの男性で、この町の人ではない。カジュアルではあるが、身なりも清潔で、嫌な感じもしないという。2週間に1度、定期的にブレンドを200グラム買っていくらしい。せっかく来たからということで、コーヒーを入れてやることも少なくない。買いに来るのはもっぱら男性だが、毎朝、夫婦で珈琲を楽しんでいるらしく、珈琲の知識も豊富で、話が弾むことも少なくないそうだ。
「普通のお客だと思うけど」
「いや、妙なのはここからなんだよな」
そのお客は、話が一区切りしようかという時になると
「すみませんが、コーヒーの生豆を一粒いただけませんか」
と言うのだそうだ。
「一粒?」
「自分で焙煎するなら、もう少しあげようか、といっても、焙煎なんかできないというし、何に使うのか、と聞いても、どうもはっきりしない」
まあ、俺はやらないけれど、植えてみるとか、そういう人も居るのかもしれない。でも、そうだとしても頻繁にもらう必要はないな。
豆の指定はなく、麻袋の中にあるものが欲しいというそうだ。
野口珈琲店は、六畳くらいの小さな焙煎小屋で、小屋の奥の棚に生豆がはいった麻袋が並んでいる。手前に焙煎機や事務用のパソコンがあり、更に手前に、今おれが座って珈琲をいただいている椅子やテーブルがある。テーブルにはエスプレッソマシンが置いてあるのでテーブルとしての作業スペースは広くないが、エスプレッソも時々ふるまっているらしく、小さいカップと砂糖やミルクも常備している。
そして最も入口近くに、レジカウンターやコーヒー豆のディスプレイがある。
生豆を一粒あげると、どうなるのか聞くと、カップなどのゴミをすてて、感謝を述べて帰るのだそうだ。
「生豆って食べられたっけ」
生豆なんてとても生では食べられない、とマイスターは言い切る。
もらう回数が重なってくれば、少しずつ豆がたまって何かに使えるということだろうか。
野口珈琲店の豆の質を疑っているのかもしれないが、そうだとしたら、定期的に買うことも無いだろう。
「普通に考えても、ちょっと、わかんないっすね」
そうだろう、と、むしろわからないのがうれしいのかのようにマイスターは笑う。
「ところで、ゲイシャはどう」
珈琲通でもない俺に珈琲のことを聞くのかはわからないか、素人の感覚が知りたいということなのか。
「酸味の珈琲だけど」
悪くないと思います、と言いかけた時、焙煎小屋の扉がパタンと音をたてた。小さな焙煎小屋に漂っていた珈琲の香りが、冷たい風と入れ替わった。
奇妙な客というのは、まさにこういう人のことではないのか。
頭の先から順に眺めずにはいられなかった。詳しくないが、ハロウィンはとっくに終わっているはずだ。
頭には竜の被り物をのせている。その被り物は生きているかのように俺をにらみつけた。稲穂の髭がカマキリの触角のように動いている。なんで角じゃなく灯台積んでるんだ。しかも、この季節にノースリーブのワンピースというのもあり得ない。それなのに、寒そうな雰囲気どころか、何か期待しているかのように大きな瞳を輝かせている。腰ほどまである黒髪のせいもあるが、格好に似合わない清楚感を感じる、だが、間違いない。全体的に見たらヤバイ人だ。焙煎小屋の扉に、竜の帽子に着いた灯台が引っ掛かっているが、背が高いのではない。174センチの俺より、10センチは低いだろう。あ、いや待て、髪に焼き干しついてるよ。これはいったい、どこから突っ込めばいいんだろうか。
服には蟹の模様がついているし、肩にウニがいる。そして動いている。靴というか、ブーツが魚っぽい。とても個性とかセンスでは片付けられないチョイスじゃないか。
「野口さん」
俺は、普通じゃない客を見ないようにしながら、マイスターに助けを求めたが、おう、と何事もなかったように、その女性を迎え入れている。
「ええと、野口さん」
「ちょうどよく、ゲイシャさんが見えられましたか」
芸者さん?ああ、そういうことなのか。それなら、ある程度は納得できる。そんな人もここに出入りするようになったのだろうか。知らない芸人さんだけれど、俺があまりテレビを見ないせいかもしれない。だが、芸人だとしても、この格好でこの季節はどう考えても寒い。ネタだとしても寒すぎる。
奇妙な客は、失礼します、と言うと、俺の隣のイスに陣取った。竜の帽子の髭が耳のあたりでカサカサいうものだから、少し椅子をずらす。
「ゲイシャの焙煎、どうでしたか」
と何もなかったように、女性は野口マイスターに言った。
酸味珈琲はうちに置きにくいな、とか普通にやり取りしている。
「ところで、なんの芸人さんかなんですか」
俺が口をはさむと、マイスターは妙な顔をした。
「芸人て。ごめんね、まちちゃん。この人、船から落ちて溺れて頭も打ってるから」
まちという女性は、まあ、と気の毒そうに俺を眺める。
「ストップストッフ。野口さん、なんで俺が海に落ちた話になるんですか。芸者さんの話ですよ」
野口仁王像は、阿吽の吽のほうでなく、阿の顔になっていた。
「マツカワ君、ほんとに調子わるいのか」
「だって、芸人さんなんでしょ?この格好、竜とか、動いててすごいじゃないですか」
女性は、竜という言葉に明らかに反応した。
疑うように俺を見る。
「何か、気になるものでも見えてますか」
何か見えているか?
不自然な質問ではないか。その恰好が普通だとでもいうのか。
もしかして、これは質問ではないのか?
何か確認をしているのか。こちらを凝視している竜の帽子の漆黒の眼球が、海に落ちたときの感覚と重なり、あの声がよみがえる。
「これまで遂げられなかったことを全うさねばまね」
この女性は、野口さんの目には、見慣れた髪の長い女性としてしか認識されていないのではないか。
蟹柄のノースリーブの女性が入ってきたとき、マイスターなら、寒かっただろう、くらいの言葉はかけるのではないか。知り合いとはいえ、その姿に何も触れず、寒さの心配もしなかったのはなぜだ。
あまりに奇妙な恰好だからスルーした、という態度ではない。
あたかも見慣れた人に対する態度だった。
この焼き干しで髪をとめた女性は、芸者や芸人じゃないのか?
この人の妙な姿が、俺だけに見えているとしたら。
「これまで遂げられなかったことを全うさねばまね」
「いえ、最近、船から落ちて、頭をうったので、時々幻覚みたいなのが見えたりするんです」
確信はない。こう答えるしかなかった。
頭の上の竜が見つめてくる。まちという女性は一瞬、間を置いたものの、
「そうなんですか。それだとつらいですね。珈琲は飲んでも大丈夫なんですか」
違和感のない微笑みを見せて言った。
自分の好みかどうかは別として、一定程度、支持されそうな美しさがある。笑うと幼さを感じるが、格好とはうらはらな、大人びた落ち着きも感じる。このコスプレでもしたかのような客は。あの生まれ変わりではないのか、俺はそう思ったのだ。
魚のブーツをはいた足をしっかりそろえ、姿勢正しく座っている女性は、野口さんとゲイシャの珈琲について話し込んでいる。確かに芸者と言われても違和感がない所作というのだろうか、話しているときの細い指の表現や頷きが、この地域の感じとは違う。
企画に使えるかとか、単価が高いとか、すでに俺のことは眼中にないようだ。
その時、国道を一本奥に入った焙煎小屋にも聞こえるサイレンとともに、大型車のエンジンがふける音が聞こえた。
『消防署から、お知らせします。ただいま、救急活動のため、消防車が出動しております。火災とお間違いのないように、お願いいたします。繰り返します。・・・』
この放送も懲りずになるよね、と話を遮られた野口さんが竜の帽子の女性に言う。本当の火事の時に教えていただけたら十分かもしれませんね、とまちは答える
この地域では、救急活動の放送が頻繁だ。高齢者が多い地域だからなのか、一日に数回は聞くことがある。
三人いる町民、いや、この女性は町民かわからないが、さしあたり、俺も含め三人中三人が、いらないのではないかと思う放送か。
「まあ多分、地元の消防団が間違えないため、もしくは、最近ではないだろうけど、そう放送してくれと依頼があったんじゃないか?」
マイスターは、仁王像の阿の顔になって言った。
「こんな放送を頼むやつがいるのか?確かに昔からあるようには思うけどさ」
「私も、地域の人が急に消防車がきたらびっくりするからだと思っていました」
まちも言う。
いや、俺は別にどっちでもいいのだが。
こちらに体を向けた、竜帽子の女性は、俺が何か言うのを待っているのか。そもそもなんだ、そのホタテ貝の使い方は。ファッションとしておかしいだろ。
町の防災無線の内容、特にそれが誰のために行われているか、なんていうことは、この女性の素性の問題と比べたらどうでもいいように思う。
「この町には、いくつも不思議なことがあると思っているのです。私、今、この地域の大きな謎を解きたいと思っているのですが、言われてみれば、この放送もとっても不思議です」
「この町の不思議なこと?そんな大げさなもの、あっただろうか」
「それは・・・普通の方にはちょっと理解できないかもしれないことなので」
俺は超一般人を標榜しているんだが。
「放送が何で流れているか、なんてただの想像でしかないんだが」
「そうかもしれませんが・・・なんだかこう放送の話のマルバツはっきりつけたいです」
「マルバツはっきり・・・」
心理学的には白黒思考というのだろうか。
人間は少なからず、白黒はっきりさせたいという欲求はあるだろう。
ただ、普通の世の中には、白黒はっきりしないほうが良いことや、グレーゾーンがあって初めて平穏があると思う。なんでも鮮明に判断していたら大変だし、はっきりしないときにストレスになるだろう。
「はっきりしないと、なんだかこう・・・クリアじゃない珈琲みたいなんです」
「クリアじゃない珈琲は好ぎでねな」
マイスターも口をはさむ。
「マツカワ君は、普通がいいっていうけど、珈琲で言うところのスタンダードっていうのは、ブラジルとか、コロンビアとかみたいな、そのまま飲んでもすっきり美味しいし、ブレンドのベースになってもクリアで邪魔しないっていう、ある意味オールマイティーなもんだ。クリアにするのは大事だな」
なんなんだ、その関係あるようなないような説は。
「マツカワさん、あの放送は、いったいどういう事なのでしょう」
少し離れていた椅子の距離が更に縮まる。
「一般論だから、まちがってるかもしれないからな」
この人の素性は、あとでマイスターに聞くのが良いとして、話を済ませる方が賢いかもしれない。
「救急活動なら救急車がいくものだということは、わかるか?」
普通すぎる話だが、相手の理解度が全く未知数だからな。
「それはわかります」
「例えば、救急車がすでに出動していて、更に救急の依頼が来た時、とりあえず救急活動のために、消防車が救急活動に出たりする。もちろんサイレンも鳴らして。支援に人手が必要な場合は、最初から救急車と同時に消防車も出ることもあるんだが」
店主も、それは、いつ頃からだったか覚えていないが、最近はよくあることだと頷く。
「おそらく、問題になるとしたら、救急車が無くて、消防車一台でサイレンを鳴らして救急活動に出動しなければいけないときだな」
サイレンを鳴らした消防車が、目の前を通り過ぎたら、どう思うか
「どこかで火事が起きたのかなって思います」
「火事なのかなと思ったら、何かしようとしたり、実際、何かしたことは」
「・・・ちょっと不安にはなりますが、通り過ぎて行ってしまったら、何もしないです」
意外と正常な回答だな。
「消防車がサイレンを鳴らして通り過ぎたとしても、火事かなと思う程度で、何もしない。」
「はい」
「じゃあ、よほどのことが無ければ、一般の人に、間違わないように気をつけろ、なんていう放送は不要じゃないか。じゃあ、何かしなきゃならないと思う人たちがいるとしたらどうだ。地域の消防団の人たちは、火事が起きたら行かないといけない。それが火事なのか救急活動なのか、分からなかったらどうすると思う」
「電話で聞くとかすると思います」
そうなるよな。それが近所の人だろうと、消防署に直接だろうと、確認が入る。
今だったら、携帯ですぐ確認できるが、
「消防車が救急活動に出動するのが珍しかった時代の人、携帯とかもなかったかもしれないが。消防車がサイレンを鳴らして出動していくのを、火事だと思ったことがあったんじゃないか。実際に間違って消防団が出動したかはわからない。でも、おそらくそういう事例が、実際に町の中で起きたか、起きそうだった。だから、消防車がサイレン鳴らして出動するのに、火事じゃないときは、あらかじめ言ってくれっていうお願いをした奴がいたんだろう。そうでなければ、放送は、する必要が無いか、もしくはこういうはずだ。『ただいま、救急活動のため、サイレンを鳴らした消防車が出動しています。繰り返します』間違わないように、という注意は、間違いそうな誰かに向けた言葉なんじゃないか」
少し考え込んで、まちは言う。
「救急活動でも、近所に消防車がきたら火事だと間違う人もいるんじゃないかと思うんです」
「それはいるだろうな。でも、多少びっくりはするだろうけど、火も煙もでていない、ホースも伸ばさない、水もかけていない、その消防車をみて、勘違いしてパニックになるか」
肩にのっているウニがこちらをみて、ニヤリと笑う。うへぇ・・・。
「なるほど。それだと結構クリアだな」
マイスターは次の焙煎のための豆の中から欠点豆をはじきながら言う。
まちという女性は思案しているようだった。
しばらして顔を上げると、俺を見て言った。
「ええと、マツカワさん。」
「あ、はい。」
「その謎の正体、それでマルだと思います。」
手で丸を作って見せた。マルのむこうに、笑顔があった。
謎の正体とは、またずいぶん大げさなことだ。とはいえ、思案した結果が、マルとは、すっきりしなければバツとかサンカクもありうるということか。その時、この女性はどんな表情を見せるのか。
「珈琲はクリアになったのか?」
「そうですね。それって、誰かに聞いた話なんですか」
こんなことを人に聞くわけがない。
一般的に考えて、だ。だから、50パーセントは間違っていると思ってもらいたい。
野口さんが答える。
「まちちゃん。マツカワ君は、海に落ちた後から、変に頭が回ったり、回らなかったりするんだよ。おもしろいから、まちちゃんが追いかけてるような謎も、ダメもとで聞いてみたら。あてにはならねえけど」
この頃、マイスターが謎かけのような話ばかりしてくるのは、そういうことだったのか。野口さんだけではない。はただ酒店さんもマツオスーパーさんも、「ちょっと、こんなことがあったんだけど」と話してきては「へぇ~」と、懐かしいテレビ番組のような反応をする。
海に落ちてから、俺は何か変わったのか。まったく自覚はない。俺は一般的、かつ普通がモットーなのだ。
「私、風乃まち、といいます!」
彼女は、立ち上がり,俺の両手は、いつの間にか、まちという女性の手の中に握られていた。何かを確認するかのように力がこもっていた。手が冷たい。やっぱり寒いんじゃないのか。瞳には爛々と期待が満ち溢れているが、その格好で前に立たれると、どうも目のやり場に困る。落ち着いていられない。
野口さんには、このいでたちはどう見えているのだろう。相手が名乗ってしまったからには、一応、挨拶はしないといけないのか。
「マツカワといいます。ホタテの養殖やってます」
と、風乃まちなる人物を見る。俺より年下だろうか。
さすがにいつまでも手を握られているのも都合が悪いので、すこし手を引くと
「あ、すみません」
彼女も手をひっこめた。
仁王マイスターがにやにやしながら見ている。勢い話を変えざるを得ない。
「俺はそろそろ帰りたいけど、ゲイシャはどういう風の吹き回しだったの。風乃まちさんのお願い?風のまち珈琲ロースターだけに。」
野口さんは、今回のゲイシャの種明かしをする。
珈琲には、そもそもの好き嫌いはもちろんだが、香りの特徴、味の特徴と様々な好みがある。
苦みと酸味できっちり二分するわけではないが、一珈琲好き、といっても、好みがわかれる大きなポイント
ひとつだ。焙煎の度合いを深くすれば、一般的には苦みが増し、酸味が減る。浅い焙煎では、反対に酸味が増し、苦みは減る。もちろん、豆の質によって、特徴があり、例えば、ベトナムなどで栽培されているロブスタ種は、独特の香りと強い苦みがあって、一般には珈琲好きに好まれない。豆が安いので、缶コーヒーの原料や、アイスコーヒーなどに一部使われる種類だ。一方、品質の高い珈琲は、ワインなどのように、農場ごとに管理されていたりして、生産管理も行き届いているものが多い。そうすると、珈琲好きたちは必然的に、豆独自の味を楽しもうということになっていく。そうしたニーズにたいして、深く焙煎しすぎると苦みだけが強くなって、せっかくの豆の特徴がわかりにくくなってしまうから、浅煎りで楽しもうということになる。もともと、生豆はすっぱいものであるので、酸味がメインの珈琲が多くなるということになる。ゲイシャ種も、酸味に特徴がある豆なので、敢えて深煎りにする種類ではない。
一方、古くから珈琲を楽しんできた人たちは、焙煎深めの珈琲を長く飲んでいることになる。最近の流行が浅煎りで豆本来の味を楽しむといっても、日常では、やはり飲みなれた珈琲が欲しくなるものだろう。
珈琲豆の種類がブラジルやコロンビアみたいなスタンダードなものだったとしても、焙煎一つで別のものに変わってしまう。普通の珈琲というのは、思っているよりずっと幅があるのかもしれない。
この町は、年齢層が高めだし、町にかかわらず、地域全体がそうなのだから、店に並べる豆は、そうしたニーズに合わせていくことになる。風乃まちなる人が、何を考えているのかはわからないが、急に都会的なものを持ち込んでくるのは、すこし難しいだろう。
「職場のみなさんにも、苦い珈琲が苦手、という方が少なくないもので」
なるほど、珈琲をいろんな人に楽しんでもらおうということか。
「まちちゃんは、地域を元気にしたいんだとさ」
地域を元気に、ねえ。
「あれですか。地域おこしってやつ。なんでまた、労多くして益なし、みたいなことを」
「労多くして益なし、ですか。」
彼女は野口さんが淹れてくれた珈琲に映る自分の姿を見ている。
今、気づいた。珈琲に映る風乃まちの姿は、グレーのコートに身を包んでいる。俺は窓ガラスや、焙煎機、珈琲を入れたガラス容器に映る彼女の姿を確かめた。竜の帽子も、蟹のワンピースも映っていない。黒髪の高校生くらいに見える女性が映っているだけだ。それなのに、俺が見る彼女は、なぜかあの姿だ。
「感染症の給付金があったじゃないですか。あれがきっかけだったんですよ」
これまで何度も同じことを聞かれてきたのか、それほど強い感情は感じなかった。逆に聞かないほうが良かったのか。とりあえず、ここはそろそろ帰ろうか。
「じゃあ、野口さん、俺はこれで。珍しい珈琲、ありがとう」
「次は、ただ飲みじゃなくなんか買っていけな」
「あ、そういえば、野口さん」
竜帽子の女性が思い出したようにいう。
「あの謎は、マツカワさんにお話されたんですか」
野口珈琲店はいつからなぞなぞ屋になったんだ。ミステリーのジャンルにも珈琲ミステリーっているのがあったか。
「なにかまちちちゃんに話したっけ」
焙煎機の前の仁王像に、はてなマークが浮いている。
「写真を撮っていく人の話です。」
ああ、そうだった、という声が、店の扉に手をかけている俺に足止めを食らわせる。
「この頃、夕方になると、写真を撮りに来る人がいてさ」
これまた、どうでもよさそうな。それの何が謎なんだ。
「野口さんの写真ですか。まあ、このお店も知名度上がってるからね。ありがたいことじゃないですか」
「そう思ってたんだが、どうもおかしい」
状況はこんな感じだった。
写真を撮られていることに気が付いたのは、ここ二カ月ほどのことだ。
夕方、六時前ころ、そろそろ店を閉めようかと思うと、外でフラッシュがたかれる。最初は、焙煎小屋を撮っているのだろうと思って、放っておいたそうだ。何日かそれが続き、そんなに毎日写真を撮って、どうするのかと疑問に思って、とりあえずSNSなどに店の写真が投稿されていないか、一応見てみたそうだ。写真は見つからなかった。もちろん、そんなに熱心に探したわけではないが、#野口珈琲店 では、夜の焙煎小屋の写真はほぼ出てこない。
いっそのこと、何喰わない顔で、撮っているのがだれか見てみようと思って、ある時、窓の外に光を感じたのと同時にドアを開けて外に出てみたが、そこには誰もいなかった。もちろん、店の前を車が通りすぎたりしたわけではない。
薄暗い焙煎小屋の前に、逆光に照らし出された仁王像があらわれた様は、さぞ滑稽だったのではないかと想像できる。野口さんは話していながら、だんだん気味が悪くなってきたようだ。
「もしかして、ストーカーだったら、とかさ」
「野口さん」
話を聞いていた風乃まちが言う。
「その謎の正体は、バツだと思います」
顔の前で人差し指を交差してバツを作っているようだが、入り口のほうから表情は見えなかった。
やっぱりバツもあるのか。
「風乃さんの言う通り、ストーカーは、まあないと思うけど、不思議ではあるね」
「だろう。これは外ヶ浜七不思議のひとつと言ってもいいぞ。野口珈琲の謎。はただ酒店の謎。マツオスーパーの謎。トップマストの謎が、蟹田四不思議な」
「七つのうちの一つすら聞いたことないな」
更に、そのほかの三つの謎は何なのかとも思ったが、聞けば話が長くなりそうだ。
風乃まちは、クスクスと笑っている。
「全然わからないですけど、考えてみるよ。覚えてたら。じゃあ、とりあえずまた」
「お会いできてよかったです。マルとかバツとかすみません。そのほうが伝わるかと思って」
伝わる?何が?
「マツカワ君、奇妙なお客のほうも頼むわ」
そういうのもあったな。
「え、なんですか?その奇妙なお客さんのお話って」
風乃まちは興味津々のようだ。敢えてクリアじゃない状況にはまっていってないか?
マイスターは、まちに珈琲豆をもらっていく客の話を始めながら、俺に適当に手を振った。
俺は会釈をして、野口珈琲店を辞した。
変な汗をかいていた。真冬の冷風にあたり、冷静になる。
あの女性は、俺が海に落ちたときに聞いた話と関係するのだろうか。
「マルか、バツか」か。
すっかり冷えたせいか、軽トラのエンジン音が固く、うるさい。
俺は、この田舎町で普通に暮らしたいだけだ。海だってそういうものだ。日常が最も貴重で、波風が立つときはじっと耐えていることしかできない。その中に果敢に船を出しても仕方がないのだ。マニアが喜ぶような伝説や、高い意識が必要な地域の活性化は、あまりに挑戦的でニッチ、少数派の楽しみだ。
風乃まちの不思議な様子は、本当に頭をうったための幻覚でも見ていたのだろうか。酒でも飲んで一晩寝たら、また気分も違うかもしれない。
はただ酒店への道は、蟹田川の橋を渡り、河川敷のほうを山手へ曲がる。
この地域では、土地の場所を説明するとき、「山手側」「海手側」と説明する。津軽半島の中央には津軽山地があるため、むつ湾側が海手、津軽山地側を山手という。はただ酒店は、野口珈琲店からすれば、山手側、小国地区にある。
冬は新酒の季節だ。珈琲と同様、酒の知識はないが、はただ酒店は地域の小さな酒店でありながら、地酒の揃えが豊富だ。カメラをやったり、音響にこだわったりと、面白い店でもある。
年寄りたちが恐れる奇妙な伝説が残る桂淵神社を過ぎ、津軽線の踏切をひとつ越えれば、黄色い看板がある。
店のドアを開けて、どうも、と声をかける。やや薄暗い店内にカラフルなラベルが並ぶ冷蔵庫が目に入る。
「ああ、いつもどうも。いらっしゃい。」
眼鏡をかけた四十代くらいの男性が、カウンター奥のパソコンラックのところから出てきた。
さて、妙な気分をクリアにするためにも、季節の日本酒でも物色することにしよう。