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♬シニアの音楽留学記 in Boston


#創作大賞2022  

[目次]

 1. 58歳、私の留学適齢期
 2. TOEFL(トーフル)テスト
 3. 学校見学
 4. トライアル・レッスンと授業の聴講
 5. 入学願書
 6. オーディションの準備
 7. オーディション
 8. ニューヨークの日々
 9. オーディションの結果
 10. 入学準備
 11. F1学生ヴィザと予防接種
 12. 半日人間ドック
 13. ボストンの家探し
 14. ボストンへお引越し
 15. 新しい生活の始まり
 16. 入学式とオリエンテーション
 17. ボストンの医療事情 1
 18. ボストンの医療事情 2
 19. ESLクラス
 20. サンクスギビング (感謝祭)
 21. Struss先生の家
 22. ダンス・パーティー
 23. ある冬の日
 24. 音楽の評価
 25. 初リサイタル
 26. フォーカル・ジストニアの治療
 27. クララのホーム・コンサート
 28. サマー・セミナー
 29. アパートへお引っ越し
 30. 台風の備え
 31. グループ Subito結成
 32. オーケストラの一員
 33. アウトリーチ
 34. ボストン日本祭り
 35. Martin Katzのマスター・クラス
 36. 卒業リサイタル
 37. 卒業式
 38. 2度目のサマー・セミナー
 39. 元ルームメイトの婚約・結婚
 40. OPT
 41. 3回目のお引っ越し
 42. クリスタ 
 43. ボストン•マラソン爆弾テロ事件
 44. さよならコンサート
 45. 帰国
 46. おわりに
 

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1. 58歳、私の留学適齢期

 「留学するのなら、若い方がよい」というのはもっともな話だろう。例えば語学に関しては、日本語にはない発音を聞き取る耳のトレーニング、その発音を言う口の筋肉のトレーニングなどは大人になるほど難しい。音楽・ダンス・スポーツなどの基礎も若い方が良く身につくのは事実である。
私も音楽大学を出る頃は留学をしたいと単純に憧れていた。しかし留学資金(当時は1ドル300円位だったと思う)も音楽の才能も生活のスキルも、そして強い信念もなく、留学は現実には遥か遠い存在になっていた。

 私は33歳の時に父を、57歳の時に母を亡くした。介護と看取りの話は別の機会に譲るとして、その経験から「よく死ぬことは、よく生きること」ではないかと気が付いた。母96歳を自宅で看取った後、今度は老いがすぐ自分の目の前に来ているのを感じる。残された私の時間をよく生きる為にはどうしたら良いのだろう。
留学!そうだ、やり残した留学をしたい。コツコツと自分の老後の為にと蓄えたお金で賄えるかもしれない.....。足りなければ短期でもいい、いや、入学試験(オーディション)を受けるだけでも構わない。もう妄想だけでも血が騒ぐ。スイッチ・オン!私の信条である「音楽には国籍・性別・年齢の差別はない」を今こそ実証する時ぞ!若い時に比べると能力はガクンと落ちるが、情熱と私の音楽体験と人生経験でカバーしてみたい。

 長年の夢であった私の留学、といってもピアノを始めて50年以上経った今、テクニックを改善するのは正直に言って荷が重い、と言うか不可能に近い。その分、音楽仲間を沢山作ってさまざまな曲を共演したいのが自分の勝手な構想であり本音である。日本にはCollaborative Piano(共演ピアノ)科はまだなかった。私はこの共演ピアノ科にとても興味がある。共演する事は、1+1=2ではなく、3にも4にもなる。そして残念ながら1+1=1にも−1になる事もある。仮に1や−1になったとしてもその過程は実に楽しい。ソロ・ピアノとはまた違った喜びや楽しさに溢れている。アメリカの音楽大学はこの新しい共演ピアノ科が盛んである。伝統のあるヨーロッパよりも、今の私はアメリカの音楽教育に魅力を感じている。

 長かった介護生活を終えたばかりの今、私自身の心身の回復にも、安全で静かで文化的な場所、歴史の古い街ボストンはどうだろう?ボストンには4つの音楽学校があり、その3校はボストンのダウンタウンにあり、1校はケンブリッジにある。ケンブリッジはハーバード大学やMIT( マサチューセッツ工科大学)があり、アメリカの中でも最も環境の良い学園都市だ。そのケンブリッジにある音楽学校はLongy School of Music(ロンジー音楽学校)という。ここには共演ピアノ科があり、GPD(Graduate Performance Diploma 学士後の演奏専攻科)もある。おお!私の希望にピッタリではないか!しかし日本の音楽大学に比べると規模がとても小さくどの様な学校なのか心配になる。いや、もしかして生徒数が少ないという事は、私にも演奏する機会が沢山あるのかもしれない。更にいうと、私の居場所があるのかもしれない......。心はロンジー音楽学校に向かっていた。
57歳の夏、私の音楽留学適齢期であった。

 漠然としていた留学が徐々に具体的になってきて、この時期は単純に一番楽しいかった。アメリカの音楽大学は2月に入学試験(オーディション)があり、願書提出期限は11月末あたり、入学は8月末となる。留学を考えている今は夏、最短の入学でも1年後となる。受験の準備が出来ていようがなかろうが、私の年齢を考えると今年を逃すと留学のチャンスが遠のいて行きそうに感じる。


2. TOEFL(トーフル)テスト

 願書提出と共に必要なのがTOEFLテスト(アメリカの大学に入学する時の英語能力実力測定試験)である。日常英会話レベルの私は、TOEFLテストがどういうものかも分からず、とりあえず私がどの位のスコアかを知る意味で受けてみる事にした。既に日本のTOEFLテストはパソコンに切り替わっており、シニアには二重に不利である。更に悪い事に、このテスト結果は志望校にも直接送られる。覚悟はしていたとはいえ、笑い話の様なスコアで散々であった。週2回受けていた英語の先生に「受験までに何度もTOEFLテストを受けたい」と伝えたところ、先生はこうおっしゃった。
「何度受けても点数が劇的に上がるとは思えません。それより、あなたが全財産を賭けて留学する学校が、あなたにふさわしい学校かどうか、ご自分の目で確かめて来たらどうですか? またアメリカの学校は教授が引き受けると言えば、入学出来る可能性もあると思います。あなたを知ってもらう為にも、一度学校見学をお勧めします。」
なんと素晴らしいアドバイスでしょう!本当にその通り。
母の納骨後、予想外の出費ではあったが願書提出前にロンジー音楽学校の訪問を決めた。

 ロンジーを学校訪問するにあたって、学校に問い合わせをする必要がある。前回にも触れたとおり、私の英語力で直に学校とコンタクトを取るのは例えメールであっても緊張する。学校の返信は嬉しいことに「歓迎します」との事で、訪問時に私の専攻の共演ピアニスト科の主任教授のトライアル・レッスンを勧められ、その教授のメール・アドレスも貼ってあった。という事は、私が直に教授にコンタクトを取って日時を決めるという事なのか.....。ここで怯んではいられない。まさに受験の前段階が始まっているのだ。英語の先生のアドバイスのとおり私自身を、つまり私の年齢・ひととなり・留学への熱意・英語のレベル・音楽のレベルなど全てをありのままに見てもらう事が、この学校訪問の目的である。私の希望をいくつか書いて送ってみた。何回かのメールのやり取りで「学校見学ツアー」「1時間の個人トライアル・レッスン」「2つのクラス聴講」のそれぞれの日時を決める事ができた。上出来、上出来!ボストン滞在の1週間は、初めてB and B(宿泊と簡単な朝食のみをセットにした宿泊施設)を予約した。自分のやりたい事を自分のお金で、しかもこんなに自由に使える時間があるのは初めてかもしれない。ワクワクする。

  *外国ではmailは郵便物をいい、インターネットで送るものをe-mailと区別しますが、ここではe-mailをカタカナのメールと書きました。


3. 学校見学

 ボストンの10月、最高の季節にケンブリッジを訪問した。ここでケンブリッジ市を少し紹介してみたい。
ボストン市は小さく、ケンブリッジ市まで歩いて行ける。大きな捉え方ではボストン市と隣接する市もボストンと言っているようだ。市というよりも町か区の様な感覚かもしれない。Greater Boston(大ボストン都市圏)と言う場合は、マサチューセッツ州の隣りのロード アイランド州、ニュー ハンプシャー州、それにメイン州の一部も含まれる。皆ボストンと言う地名に親しみと愛着を持ってボストンと言っている。

 ボストンには多くの大学があるが、ケンブリッジにはハーバード大学(1636年に設置されたアメリカ最古の大学)やMITマサチューセッツ工科大学(世界大学ランキングでいつも上位に位置している)などがある。ボストンは緯度でいうと旭川と近く、ニュー イングランド地方独特の屋根が尖った建物やレンガ造りの古い建物が多く、落ち着いた色合いの街である。毎年10月の第3週末に行われるチャールズ川のレガッタ(Head Of The Charles Regatta)がちょうど開催中だった。チャールズ川の南側がボストンで北側がケンブリッジである。チャールズ川に沿った遊歩道から、また橋の上からレースを見る事ができるので、大勢の見物客で賑わっている。なんだか映画のワンシーンの様で、私がこの中にいるのが夢のようだ。

チャールズ川のレガッタ
ハーバード大学メモリアルホール


  ケンブリッジは本当に自然と文化が調和された美しい場所で、勉強するには静かで安全で最適な場所だと確信する。もし都会的な刺激が欲しくなれば、ニューヨークへは電車もバスもあり3・4時間で行ける。
LongySchool of Music(これからロンジーと言う)は、ハーバード駅から歩いて10分の位置にある。約束の5分前に校舎に着いた。

ロンジーの校舎

  校舎はとても雰囲気のある学校で、市の歴史的建造物に指定されている。学校見学ツアーといっても私一人だけのプライベート・ツアーだ。オフィスの外ではレイチェル(声楽家の生徒)が待っていて、どうやら彼女が案内してくれるそうだ。ロンジーの建物は昔は人が住んでいたので小さい部屋が沢山ある。その部屋が教室やオフィスになっているので、間取りもサイズもそれぞれ違うユニークな教室になっている。あちらこちらで音楽が聞こえて来る。現代的な完全防音されたレッスン室よりはるかに人間の息使いや懐かしさを感じる。

  当時のロンジーの生徒の約70%がマスター(大学院)、20%が大学、10%がGPDディプロマ(学士終了後の演奏専科)だそうだ。アメリカの大学は違った専攻を大学院で学ぶ人も多いと聞く。なのでマスターであっても必ずしも音楽経験が豊富な生徒とは限らない。例えばハーバード大学を卒業後にロンジーへ来る人もいる。私が希望するのはGPDディプロマ・コースである。生徒の約60%がアメリカ人、その他はアジア人、南米人、ヨーロッパ人という割合だそうだ。つまり人種も年齢も経歴もまちまちだ。もし私がここに入れたら、私の中でどういう化学反応が起きるのだろうか?想像もつかない。

ロビーの螺旋階段

 話を建物に戻そう。ロビーの重厚で大きな螺旋階段は大変立派で見事である。その一方で狭い階段を上ったり下がったりと、レイチェルの後を迷子にならない様に付いて回る。まるでミステリーハウスの探検隊のようだ。男女共用の個室トイレもいくつかある。ビストロと名付けられた狭いスペースは、食事ができる場所だが食事の提供はない。電子レンジ、冷蔵庫それに2・3台の自動販売機があるだけである。コンサート・ホールや大きめの部屋や図書館は、それぞれ謂れのある人名が付いている。また何台もの古いスタインウエイ・ピアノには、寄付した人の名前が刻まれたプレートが付けられている。ロンジーは多くの人々の寄付で成り立って、人々の思いが沢山詰まった学校なのだろう。

  ツアーの後、再び2階のオフィスに戻る。後日トライアル・レッスンをお願いしてあるのでピアノの練習をしたい旨を伝えたところ、私の身分証明証代わりになるものを書いてくれた。レッスン室を使う時はこれを部屋の前に貼るようだ。レッスン室は地下にあるが、お陰で私は空いているレッスン室を堂々と毎日いつでも使える事になった。学生達に混って自然にロンジーを体験できる。これが一番嬉しい!


4.トライアル・レッスンとクラス聴講

 私の専攻したい共演ピアノ科の主任教授であるMr.Mollに1時間の個人レッスンをお願いした。因みにこの場合のMr. は「さん」ではなく「先生」に対して使う。日本にはまだ音大に共演ピアノ科はないのでとても興味がある。そもそも自分にはないものを持っている演奏者へのリスペクトと、色々な楽器への興味から共演ピアノの役割が好きになった様に思う。インターネットで共演ピアノ科を見つけた時は「これこそ私のやりたい音楽!」とビビッときた。ピアニスト=ソリストが当たり前に思われている中でやっと巡り合えた共演ピアノ科である。共演ピアニストはソリストと同格の役割りを担い、オペラ、歌曲、室内楽と範囲はとても広い。レッスンは共演者と一緒に受けるのが望ましいが、今回のレッスンは私一人なので私の共演ピアニストとしての基礎がどの位なのかを先生は見るのだろう。
Mr. Mollは私より10歳近く若く、背がとても高く手も大きい。手が小さい私が必死に音をとっているのがなんとも的外れの努力の様に感じる。先生は私の左手の小指と人差し指の力を抜く様に何度も指摘した。実はそれが、私の手に大きな問題が起こっている事が分かった最初だったと今になって思う。そのエピソードは後日改めて項目を設けたい。

 このトライアル・レッスンは私自身を知ってもらい、ロンジーで学びたいという気持ちを伝える事を目的とした。当然 Mr.Mollは入学試験の審査員である。合否は別としてオーディションだけでも是非受けたいと一層強く思う。Mr.Mollは2度のウイーン留学経験があり、ご自身も母国語ではない言語で学位を取られたのでその苦労を知っておられる方であった。蛇足だが、このトライアル・レッスン代は$100。日本だと新札を封筒に入れてレッスン前にお渡しするが、アメリカではチェック(小切手)をそのまま渡すか置いて行く。現金はほとんど使われない。特に新札はお店でも偽札チェックをするので、Mr.Moll は私が差し出した封筒に入っている新札をどう思ったのだろうか…?

 翌日は2つの授業を聴講させてもらう。1つ目のクラスはグループ・レッスン。声楽科の生徒が8-10人位がピアノの周りを大きくゆったりと囲んで座っている。Mr.Mollが「今日は誰が歌うの?」と聞くと、サッと一人が手を上げて先生に楽譜を渡し、皆に曲名・作曲家名・詩人名を言って歌う。先生はどの曲もその場で楽譜を受け取り伴奏を弾く。凄い!Mr.Mollは声楽の先生ではないので発声のレッスンはないが、ディクション(発音)のチェック、ピアノと歌の関わり、曲についての解説、有名な歌手やピアニストのエピソードなどを織り交ぜて話してくれる興味深い授業だった。共演ピアニストの役割の広さと深さを改めて思い、素晴らしい楽曲を先生も生徒も一緒に味わっているそんな楽しいクラスだった。
 2つ目は個人レッスンを見学させてもらった。ところがこのレッスンは予想もしていないものとなった。生徒は若い男子学生。彼は飄々と入って来たが全く練習をして来ておらず、しかも悪びれた素振りもなく堂々としている。こういう生徒もいるのか.....。日本の師弟関係では見た事がない情景にアメリカ人の気質をちょっと見た感じがした。こういう所を見せてくれるのもアメリカ流なのかもしれない。「良いところばかり」を見せるのではなく「ありのままを」見せる、こういう所は評価できる。

 今回の学校訪問では私自身の事もしっかりアピールし、やりたい事はほぼ出来たと思う。学校側も生徒達も自然体で接してくれてなんだか居心地の良さを感じた。この小さな音楽学校は、音楽に限らず何となく大らかで懐の深さを感じる。一人一人が実にのびやかで音楽を楽しんでいるのが伝わる。私は日本の音楽練習室などに行くと緊張感を感じ「楽しむ」よりも「弾かねば」という気合が入ってしまうが、この場所にはそういうピリピリ感がない。ここの生徒達というよりアメリカ人(?)は個性が比べられないほど独自ゆえに、良くも悪くも皆がマイペースなのだろう。はたして私はこのダイナミックな文化の中で、自分を保つ事ができるのだろうか?音楽以前に私の人間力を問われるこの学校訪問であった。


5. 入学願書

 ロンジー音楽学校の入学願書締め切りは12月1日(消印有効)である。学校訪問から帰国してほぼ1ヶ月しかない。オーディションの説明には、共演ピアノ科は共演者を同伴するか、同伴できない人は学校で用意すると書かれている。なんと素晴らしい!! 曲は独奏曲1曲・違った言語の歌曲2曲・器楽とのソナタ1曲で曲目は自由に選べる。そして二通の英文推薦状が必要と書かれている。
いよいよインターネットの入学申請フォームを開く。ここで正直に言うと、インターネットも英語も弱い私は、英語のできる姪二人に申請フォーム記入時に立ち会ってもらった。各ページの欄の英語の意味を正確に理解していないと申請不備になってしまう為、二人のサポートを受けながら慎重に打ち込み開始。
最初に氏名と生年月日記入。始まって早々ここで問題が発生! 日、月、年の順番で自動的に出た数字をクリックするのだが、生まれの年の数字が私の生まれた翌年までしか表示されていない。この数字は大きい程若い事になる。私が一般的な入学年齢を遥かに超えているのは事実だが、何で私の生まれた翌年で終わっているのだろう?年齢制限は書かれていなかったはずだが.....。ここを飛ばすと次のページへ行かれないシステムでどうしたものか迷った挙句、一歳サバを読む事にした。
順調にページを進めていくと奨学金申請の画面が出てきた。アメリカの大学の奨学金は申請しないともらえないと姪達が言う。私など入学すら怪しいのにと思う反面、何事も経験と思い申請をクリック。すると次のページは「なぜ奨学金が必要なのか理由を述べよ。そしていくら希望か」と質問してきた。準備していなかった項目に慌てながらも、簡単な英文で(私のTOEFLスコアを学校は知っているので姪達の力を借りる事は出来ない)、私の経済状態を説明して食費プラス アルファと記入してみた。日本の奨学金は返済型が多いと聞くがこの奨学金は返済義務はない。
何度も何度も見直してから送信キーを押した。2通の英文推薦状は留学経験があり海外コンサートも多い私の師匠であるピアニストの土屋美寧子女史と室内楽の師匠であるヴァイオリニストの和波孝喜氏にお願いした。加えて英語訳の日本の音大卒業証明書と単位証明書などは、EMS(追跡サービス付きの国際郵便)で送る。

 ここまで本当に気の抜けない日々の連続であった。母の葬儀から約4ヶ月、納骨やさまざまなな手続きや片付けをしながら、私自身のこれからを決断する時でもあった。一歩踏み出したらトントン拍子に話は進んだが、もうこの入学願書提出で後戻りはできない。未知の世界にワクワクする。

6. オーディションの準備

 入学願書提出後はオーディションの曲に集中する。2つの違った言語の歌曲は、フランス歌曲とアメリカ歌曲に決めた。残念ながら日本ではアメリカ歌曲はメジャーではなく、音大でもアメリカ歌曲を教える先生はいらっしゃらなかった。それ故にアメリカでアメリカ歌曲を学べるチャンスと思いアメリカ歌曲に決めた。そこでインターネットで「アメリカの音大で声楽を学んだ人」を検索したら、ピッタリのソプラノ歌手を見つけた。突然であったが彼女にコンタクトを取って、私の入学試験の勉強相手になってもらえないかとお願いをした。彼女は快く引き受けて下さって、2回のリハーサルをさせてもらった。彼女は大変優秀な声楽家でイーストマン音楽学校(ニューヨーク州にあり、全米でもトップクラスの音楽学校)を全額支給の奨学金で大学院を最短期間で卒業された方だった。アメリカ留学経験者らしく感じたことを実に率直に話され、歌手の立場からのアドバイスを沢山頂いた。リハーサル後はお茶を飲みながら、留学中の話や帰国後に感じた日本の音楽教育とアメリカの音楽教育の違いなどをお聞きした。私が留学希望を持たなければこの出会いもなく貴重なお話も聞けなかっただろう。

 器楽のソナタはプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタを選んだ。元はフルート・ソナタとして書かれたが、のちにヴァイオリン・ソナタとしての方が多く演奏されている。楽章の指定が書かれていないので全楽章(25分)練習する。既にフルート奏者ともヴァイオン奏者ともリハーサルはしてある。フルートは管楽器なので息継ぎがいるし、音質も軽いのでピアノも重過ぎてはいけない。またテンポもヴァイオリンと弾く時よりもほんの少し遅く弾きたい。同じ曲でもヴァイオリンと違うアプローチが必要で、そういう違いも考えながら練習する機会は滅多になかった。

 留学したい理由の一つは、個性豊かな外国人と音楽でコミュニケーションを取ることだ。このオーディションは2・3人の共演者が必要なので願ってもない経験になるが、その時間は試験の為だけでなく共演者と一緒に音楽を楽しむ時間にしたい。提出した願書にはエッセイも含まれていて、テーマは「音楽があなたにとってどの様な役割をし、また目指すものは何か」だった。今この時がまさに音楽の恩恵を得て幸せであり新しい目的も明確に見えてきた。書きたいことは沢山ある。日本の試験やコンサートではいつも緊張と恐ろしさを感じていたが、今回の入学試験はただただ楽しみでしかない。

 オーディションは2月5日に決まった。アメリカにESTAで入国すると最長90日間滞在できる。オーディションに落ちたらアメリカに来るチャンスはそうないだろう。私の最後の贅沢な思い出に是非この90日間滞在を利用したい!入学願書提出時に立ち合ってくれた姪の一人は、彼女の父親の転勤先アメリカで生まれて殆ど全ての教育をアメリカで受けて、今はニューヨークで仕事をしている。彼女の許可を得て、と言うより半ば強引にアパートに約3ヶ月居候をさせてもらう事にした。一生に一度の大きな頼みだ.....とその時は思った。
姪はボストンに行った事がないと言うので、私の保護者として一緒にオーディションに行く事になった。譜めくりもしてくれるという。こんなに心強い事はない。オーディション日のスケジュールが送られてきたが、試験以外にも学校見学、在校生との懇談会、在校生のコンサートなど、朝からほぼ一日かかりそうだ。ニューヨークとボストン間はバスが安くて便利のようだ。約$23前後(季節や曜日、時間で料金が違う)で4時間〜4時間半で着く。オーディションの前日にボストンへ行って2泊してニューヨークに戻ろう。ボストンの2月はマイナス気温で雪も降る。私のオーディション時間は午前10時、その前に2人の歌手達と器楽奏者との合わせが9時15分開始。歌20分(1曲10分x2人)と器楽20分のリハーサルだ。その前に入学試験の受け付けを済ませねばならない。良いコンディションで早朝のオーディションに臨む為にも、宿泊はロンジー音楽学校の斜め向かいにあるシェラトン・コマンダー・ホテルがベストだと考える。万が一雪で交通機関が狂ったり、滑って手を故障しない様に今回はこのホテルを予約した。受験生にしては大変豪勢だ!

 もう一つ大事なのはドルへの両替。入学試験の結果は1ヶ月後に出る。その合格通知をニューヨークの姪のアパートで受け取れる様に学校へ申請した。約3ヶ月間のアメリカ滞在費と、もし入学試験に合格すれば直ぐに入学手続きの費用が必要となる。家賃や生活必需品の為の生活費と授業料も払わねばならない。私には日本から送金してくれる親はいないし、仮に送金が可能でも事前に銀行口座を開設せねばならない。姪と一緒にこの滞在中に銀行口座を開設する計画だが、リーマン・ショック後でドルが非常に安い時で、$1=¥80〜90だったと思う。私には大変有利な為替だったが、もし不合格だったら一からしっかり働く覚悟があっての決断である。これで準備は全部整った!


7. オーディション (入学試験)

  ボストン、2月5日、夢に見たオーディション当日だ。朝食をしっかり食べて、いざオーディションを受けに学校へ。斜め前に学校があるのは本当に便利だ。
学校のロビーには長いデスクが置かれ受験生の確認が行われていた。若者で溢れていて、おしゃべりと笑い声で入学試験のピリピリ感は全くない。このオーディションの手続き係や案内係そして共演者は在校生がお手伝い(アルバイト?)しているようで、私には誰が受験生で誰がお手伝いなのか全くわからない。そんな混沌とした中、姪と何人かで大爆笑が起きた。姪が受験生で私が保護者だと勘違いをしていたようだ。それはそうだろう!これで一気に私は皆に覚えられたらしい。受け付けを済ませて地下のレッスン室へリハーサルに行く。譜めくりが必要なので姪もずっとリハーサルに立ち合ってくれる。3人の在校生が共演者として既に待っていた。ヴァイオリン・ソナタと記載したがフルート奏者が来ている。そう来たか...!

 歌手達との歌曲の合わせはテンポと息継ぎを確認してサッサと済ませ、全楽章で25分かかるフルート(ヴァイオリン)・ソナタに時間を割いて、最後の5分で独奏曲の一部でもさらっておきたい。要領よくしないと時間が足りない。ところがフルートとの合わせで問題が発覚!1楽章は問題なく、続けて2楽章に移る。全4楽章の内、この2楽章のスケルツアンドはピアノの変拍子風の前奏から始まる。ところがどうしてもフルートが入って来られない。では3、4楽章はどうかと提案すると、練習していないと返答してきた。フルート奏者は1楽章だけだと思ってアルバイトとして共演を引き受けたようだ。私の方は全楽章の中からその場で審査員から楽章指定があるのだと思っていた。フルート奏者には可愛そうだが私としては全楽章を弾けるアピールを審査員にしておきたい。フルート奏者に2楽章の出だしは間違ってもよいので弾いて欲しいと伝えた。これは共演ピアノ科テストで「どんな状況でもピアノは共演者の演奏に合わせる事が出来るか」を見る試験なのだろうか?

 あっという間の40分のリハーサルで、そのまま1階のコンサート・ホールへ皆(歌手2人&フルート奏者&譜めくり係の姪、そして私の計5人)で移動する。アメリカ歌曲、フランス歌曲が終わり、フルート・ソナタの番が来た。やはり2楽章の出だしはフルートが入れなかったので、ピアノは自然に聴こえる様に止まらずに初めに戻っていつフルートが入っても添えるように集中した。この状況で逆に私の緊張が解けて音楽だけを聴く事が出来たのは大収穫だった。全ての演奏後、ステージから下りた時に審査員のMr.Mollが「譜めくりグッド ジョブ!」と姪に向かって言った。ここはアメリカなのだ!夢に見た私のオーディションは、かく終わった。

 私の実技試験の後は、一旦ホテルに戻る。買い込んできたサンドイッチとコーヒーとおやつをホッとしながら食べ、ベットでちょっとでも横になりたい。
午後は学部長のスピーチ、その後は現役学生との懇談会。全ては付き添い家族も参加出来るので本当に和気あいあいとした雰囲気だ。和やかな懇談会の後は学校見学ツアー。私は昨秋の訪問時に学校見学をしたが再度学校見学ツアーに参加するのかと思っていたところ、スタッフの一人が私に声をかけてきた。私のTOEFLスコアが低いので別の教室で英語のテストを受けねばならないらしい。痛いところを突かれた!オーディションが終わりホッとしていたところに予想外の英語テストだ。スタッフの後について部屋に入ると、すでに若い女性が一人座っていた。この人と私の二人だけの英語試験のようだ。
リスニングのテスト内容は学校内の授業の話で、TOEFLよりも全然易しくしかも身近な話題なのでわかりやすい。その他に自分の意見を書く問題がいくつかあった。どの視点で書くかどう文章をまとめるかに時間がかかった上、英語の単語が出てこなかったり、スペルが怪しかったりで途中で時間切れになってしまった。もう一人の若い女性はサッサと書き終わり、途中で部屋を出て行っていた。これで落ちてしまうのだろうか....。
英語の試験が終わった頃、学校見学ツアーを終えたグループが、ガヤガヤと賑やかに戻って来た。その中には楽しそうな姪の顔もあった。

 全ての予定が終わりホテルに戻る。英語のテストには落ち込んだがこれが私の実力なのだからしょうがない。気を取り直して夕食に出かけよう。ハーバード・スクエアで青年が「やあ!」と声をかけてきた。姪も「あら〜!」とか言って青年に挨拶している。彼は今日の入学試験の受付け係の一人で、私と姪はもう顔を覚えられているようだ。

 翌日、遅い朝食を済ませてホテルをチェック・アウトする。外は粉雪が舞い始めていた。なんと美しい‼︎ ニュー・イングランド地方特有の尖った教会の屋根に、煉瓦造りの建物に、ハーバード大学のキャンパスに雪が舞う。
ここに私がいる事自体に感動して涙が出てくる。旅行者ではなく、学生としてこの街に是非戻ってきたい!雪が強まるなか快適なバスでニューヨークに戻る。この2泊3日のボストン滞在は、本当に夢が叶った時であった。


8. ニューヨークの日々

 オーディションの結果は1ヶ月後にニューヨークの姪のアパートに届く。ESTAで最長90日間アメリカに滞在できるので、これから2ヶ月半、夢みたいなニューヨークでの生活が始まる。さっそく英語学校を探してみる。マンハッタンには語学学校が数えきれないほどあるが、授業料は大変高額である上に日本人も多そうだ。ならばマンハッタンとは逆方向のブルックリンの語学学校を調べてみる。ずっと学校数は減るが、コニー•アイランド(アメリカ最古のジェット•コースターで有名な遊園地)方面に短期でも受け入れてくれる語学学校があり、早速訪問してみた。マンハッタンにはイタリア人街、中国人街、韓国人街が有名だが、ブルックリンにはユダヤ人街やロシア人街がある。この語学学校はロシア系の学校で先生はロシア人、生徒はロシア語圏の生徒が大多数という。面白そうだ! しかも6週間コース($650)がある。どうも私は語学よりも異文化や人に興味があるみたいた

 授業は朝 8:30から12:30まで。6:30に起き、7:45に家を出る。夜型生活から一気に朝型にシフト。10人前後のほとんどがロシア語圏のウズベキスタン、カザフスタン、ウクライナ、ロシア等の生徒で、夫婦で移住した人、こちらで結婚した女性、学生など年齢はいろいろだが、休憩時間になるとロシア語が飛び交う。You should speak English!(英語でしゃべって!)と英語が下手な私から強気な言葉が口をついて出る(笑)。お互いに拙い英語で話さなければならないが、かえって心が通う事もある。アメリカではセンチメートル(cm)はインチまたはフィート、グラムはオンスまたはポンド、気温は摂氏(C)ではなく華氏(F)を使っている。「アメリカが表記を変えれば万国共通なのに何故アメリカは変えないのか?」と生徒間で大いに話が盛り上がった。本当にその通り!

ブルックリンの英語学校

 英語を学びに入った語学学校だが先生も生徒達もロシア語が母国語なので、発音がネイティブ・アメリカンとは少々違うしクラスの雰囲気もアメリカ人の軽快なノリではない。アメリカは移民国家なので多くの国の訛りのある英語が日常に溢れている。英語が流暢に喋れなくても卑下する事なく、よいコミュニケーションをとる事の方が大事だというのをこの学校で教わったように思う。
家に戻って昼食をとった後は、ちょっとお昼寝をして夜はコンサートへ行く。

 ニューヨークは世界一流の音楽とショーが毎日行われているが、アウトリーチも大変盛んである。クラシック音楽は堅苦しいとか敷居が高いとか言われている。貧しくてチケットが買えない人、子供、若者にもクラシック音楽の楽しさを知ってもらう企画のイベントをアウトリーチと言う。無料の公開レッスンやオーディションにもいくつか行ってみた。
 メトロポリタン美術館には、708席の立派なホールがある。今回は姪のお陰でリハーサルと本番を聴く機会に恵まれた。文芸員さんが中世(4,5Cから15,16Cのルネサンス期)の絵画を例に挙げて作品の説明をし、その時代様式の音楽が古楽器やコーラスで演奏された。絵画と音楽の相乗効果のイベントだ。もしバロック時代(16-17C)なら絵画と音楽とダンスも入るかもしれないし、ロマン派時代(1820-1920)や印象派時代(19C後半にフランスで発した)なら文学も関わってくる。この様なアプローチから芸術への興味が広まったり深まったりするのは素晴らしいと思う。
 リンカーン・センターにあるアリス・タリー・ホールで小学生を対象にしたアウトリーチ・コンサートはとっても楽しく企画が素晴らしかった。テーマは「ベートーベン」。幕が上がるとテーブルの上にベートーベンの胸像が置いてある。実はそれは作曲家でこのアウトリーチのプロデューサーでもあるブルースさんがベートーベンに扮して首だけ出していたのだ。胸像だと思っていた物が途中から動き出した時の子供達の反応は凄まじく、ブルースさんは見事に子供達の興味をベートーベンという人物や作品に向かわせた。最後のベートーベンさんが答える質問コーナーではあちこちで勢いよく手が上がり、子供達の旺盛な好奇心と素直な反応に私も興奮した。クラシック音楽をこれ程ワクワクしたり笑ったり楽しく感じたのは初めてかもしれない。
 公立学校でのリチャード・グート(非常に知名度が高い大御所)のピアノ コンサート。観客はカーネギー・ホールやリンカーン・センターの客層とは明らかに違う。響きの良くない講堂で響きの良くないピアノにも関わらず、熱のこもった素晴らしい演奏で拍手喝采でコンサートは終わった。観客は一斉に出口に向かうのだが、途中から急に流れが止まった。どうしたのかと見回すと、前方に高齢で一人では歩けない女性が娘さんと思われる人に介助されながら、ゆっくりゆっくり歩いているのが見える。階段に差し掛かった時は、傍にいた青年がサッと反対側からこの女性を支え、「楽しかったですか?」と言って一緒に階段を下りている。「サッサと行け!」「邪魔だ!」などという雰囲気はまるでなく、周りは当然の事と受け止めている。きっとこの高齢の女性は今日のコンサートをとても楽しみにしていて、娘さんもお母さんをお気に入りの洋服に着替えさせ、髪を整え化粧を施してここに来たのだと思うと、私の母を思い出して胸が熱くなる。素晴らしい音楽の恩恵と人の温かさが身に染みた心温まるコンサートは、演奏者だけでなく観客が一緒に至福の時を作るものだと改めて感じる。
 マンハッタンにはジュリアード音楽院、マンハッタン音楽院、マネス音楽院などがある。今日はマンハッタン音楽院のマスタークラス(無料)を見学した。ロバート・マクドナルド(ヴァイオリニスト五嶋みどりさんのピアニストを以前なさっていた)がゲスト教授。このマスタークラスの開始時の観客は受講者を含めて何とたったの11人。受講者は5組でヴァイオリンとピアノの為のソナタを弾くが、受講者は自分の番ギリギリまでレッスン室でリハーサルをしているようだ。興味のある内容なのだが先生はマイクを使わないのでとても聞きにくい。マスタークラスは受講者(生徒)を通して参加者(聴講者)皆に通じるアドバイスをする場だと私は思う。そうでなければ個人レッスンにすればよい。マスタークラスは内容はもちろんだが、個性的で魅力的な教え方や伝え方に私は大変興味を覚える。

 ニューヨークは芸術・エンターテイメント・ショッピング・レストラン....あまりにも刺激が多過ぎて、私にはそれらを消化する時間も体力もそしてお金もない。静かに落ち着いて勉強するにはやっぱりボストンがいい。

9. オーディションの結果

 ボストンのあのオーディションから一ヶ月、ロンジーから封書が届いた。封書は思ったより大きくも重たくもなく、ちょっと不安がよぎる。小さい英字で沢山書かれた文章を焦ってざっと目を通しても、合格かどうかハッキリ分からない。1枚目の下に付箋のメモが付いている。

Congratulations, Atsuko! (おめでとう、アツコ!)
We are very happy to welcome you! (私達はあなたを歓迎する事をとても嬉しく思います!)
Alex (アレックス)

と書いてある。そこでやっと合格したのがわかった。アレックスは初めて学校訪問した時に対応してくれた事務の人で、いつも蝶ネクタイをしている彼だ。事務的な合格通知に手書きのお祝いメッセージが一緒に入っている事自体にアメリカらしさを感じ、小さい学校だからこそこの様な心使いができるのだろう。この学校を選んで本当によかった。

 次のページには奨学金についての説明と、私の奨学金の$4000がタイプされていた。これは1年間の総額で奨学金は私の在籍中来年も同じ額を支給されるらしい。希望より少ない額だったが、奨学金をもらった事がない身としては大変有り難い。にも関わらずもっと多めの希望額を書けばよかったと欲張る気持ちが湧いてくる。入学後に知ったのだが、それぞれ決められた数時間を、図書館・事務所・受け付け・オーケストラの為に楽譜とリハーサルの準備・または伴奏で働くという条件付きの奨学金が多い。私にはそういう条件は書かれていなかった。私の英語力では役に立たないのを流石に学校はよくわかっている。本当かどうかは定かでないが、留学生の奨学金の額はそれぞれの国の経済格差で違うらしい。例えば南米、アジアならフィリピンなどの留学生は額が多いらしい。アメリカの生活費は高いので一律同額はむしろ不公平かもしれない。もちろん最優秀な生徒は学費全額免除で返済はない。
ロンジーは何て素敵な夢を叶えてくれたのだろう!今が私の「人生のピーク」だと思う。舞い上がっている私の隣にいた姪が「いいえ、もっと先を目指しましょう!」と上手いことを言う。大笑いする。

 後日、姪の知人で写真専門学校で勉強中のスティーブさんに「私の人生のピークの写真」を記念に撮ってもらうことになった。彼の本業はエンジニアで私と同年代に見える。$200でいろいろなポーズを沢山撮って、その中から好きな5、6枚を選んでプリントしてくれるそうだ。ピアノと一緒に写りたいので、早速音楽練習スタジオを探したら、なんとカーネギー・ホールのすぐ近くに1時間$20の貸しスタジオが見つかった。グランドピアノ、アップライトピアノ、ピアノ無しなど幾つか部屋があり、各部屋は「カルメン」「ボエーム」等とオペラの名前が付いている。オーディションで着たドレスに着替えて撮影開始。1枚でも気に入った写真が撮れたら御の字と思っていたが、なんと大満足の一枚が撮れた。
この90日間ではやりたい事は全てやらせてもらった。浮かれていたのは合格通知を受け取った日だけで、これからの留学を思うと身が引き締まる。当然厳しい現実が待っているだろう。覚悟はできている.....つもりだ。

10. 入学準備

 5月の連休後に90日ぶりに帰国する。ロンジーの入学式は8月の第4週目にあり、アメリカ入国は8月2日からできる。もう3ヶ月をきっている。この3ヶ月の間にする事をざっと思いつくまま書き出してみる。

1. アメリカ大使館での学生ヴィザ(F1)を取る。
2. 国立国際医療センターで入学に必要な予防接種を受け、その証明書を得る。
3. ネットバンキングで留学中のお金の管理ができるように手続きをする。
4. ボストンの住居を決める。
5. ボストン行きの片道航空券を買う。
6. 引っ越し準備をする。

その他に、母の一周忌法要の手配。お世話になった先生方にご挨拶をして健康診断も受けたい。親しい人達とお喋りもしたいし、美味しい日本食も沢山食べておきたい。
それと.....ご近所のNさんのこと。彼女には母の介護の時に大変お世話になり、貴重なアドバイスや優しいお心遣いのお陰で、穏やかに母を家で看取る事ができたと本当に感謝している。その彼女に小腸癌で余命宣告が出てしまった。年齢は私より17歳(?)近く上だが、モデルさんの様にお綺麗で外国のおばあさまの様な雰囲気の方だ。以前からお互いの話をよくしていたが、私の留学の夢見たいな話にも、一緒になってワクワクして喜んでくれていた。この3ヶ月弱の帰国は、彼女との残された時間を共有する最後の時になる。帰国早々Nさんとのお喋りの最後に、彼女はブランドもののスカーフや手袋などを形見として私の前に差し出した。「これをアメリカに持っていって、コンサートへ行く時に身に付けさせて頂きます。素晴らしいコンサートを一緒に聴きましょう!」と私。「ああ、それは素敵!」と彼女。私は差し出された品々を受け取って、彼女の思いと一緒に渡米する。

 シニアには、それなりに長く生きてきて社会や人との関わりも深い。留学する事は今までの環境を離れ煩わしい人間関係から自由になるという反面、大切にしたい人を失う事や果たすべき責任を放棄する事になる。留学を終えて戻ってきた時に仕事はあるのだろうか?経済的に大丈夫なのだろうか?健康は維持していけるのだろうか?外国で不慣れの生活の不安と同じ様にいろいろ背負うものも多い。それがシニアの留学の現実なのだ。何かを得るには何かを失う事もある。この留学を決めた時から、今まで当たり前の事として気が付かなかった日常のさまざまな事に多くの気付きを得たと思う。すでに留学効果は始まっているようだ。

11. F1学生ヴィザと予防接種

 アメリカ大使館のホームページに沿ってフォームに記入後、必要な書類を揃えて申請する。F1学生ヴィザ取得には大使館員による面接がある。
面接の予約日の朝8時15分に港区のアメリカ大使館に着く。早めに行ったつもりが荷物検査は非常に厳しく、入口には長い行列ができている。やっと中へ入ってみると既に多くの人が座っている。これは時間が掛かるぞと覚悟をしていたところ、私の名前が早く呼ばれた。面接には不安もあったが、ロンジーの入学許可証をまるで水戸黄門の印籠の様に頼もしく感じながら今日ここに来た。アメリカ大使館の面接官はとにかく明るく爽やかな感じの人で緊張が解ける。

面接官:  どの位音楽をやっていますか?
私:        ほぼ半世紀です。
面接官:  そんなに長い事やっているのなら、もう学ぶものはないのでは?
私:        音楽、いえ、学びに終わりはありません!
面接官:  Enjoy!(楽しんで下さい!)

そう言って書類に勢いよくポン!とスタンプを押してくれた。1週間後に大使館から学生ヴィザを押された私のパスポートが自宅に届くとのこと。これにて一件落着。

 次は入学に必要な予防接種を受けに、新宿にある国立国際医療センターへ行く。私の時代にも母子手帳配布があったらしいが、とにかく私は予防接種証明書がなく必要な予防接種を全て受けねばならない。
1. B型肝炎(3回)
2. 破傷風
3. 麻疹(2回)
4. 風疹(2回)
5. 流行性耳下腺炎(2回)
  *私の予防接種記録表(国際疾病センター渡航者健康管理室発行)を見て書いています。

 まるでモルモットの様だ。2回または3回必要なものは、一定の期間を開けなくてはならない。実は例え不合格であっても構わないので、この医療センターと相談して願書を出した時から予防接種を受け始めていた。特にB型肝炎は2回目と3回目の間を6カ月開けなくてはいけない。なので合格通知を受け取ってから予防接種をする人は、3回目はアメリカの病院で受ける事になる。私は日本で全て受けたかったので、早めに前年から受けていたが、もし不合格だったら全て無駄になってしまうところだった。保険は効かず、英文証明書代も必要なので、随分お金と時間と労力を必要とした。多分若い学生は母子手帳があれば、足りないものだけ接種すればよく、母子手帳のないシニアの私には身体を張っての大予防接種だった。

 この予防接種について調べてみた。
1. アメリカの大学、大学院、コミュニティ・カレッジの入学には予防接種は絶対に必要である。
2. 州によって、学校によって、それぞれに必要な予防接種が違う。
3. 多くの大学では寮生活をするので、集団感染を防ぐ為に予防接種が必要である。
4. この予防接種証明がない場合は、履修出来ない事もある。
5. 語学学校はフルタイム・コースの場合、学校によって必要な所もある。

何回かの通院で、ついに全予防接種証明を手に入れる事ができた。こういう段階を踏む事で、留学するのが現実なのだと改めて感じる。


12. 半日人間ドック

 実はオーディションの前から、左の前腕がとても疲れて調子が悪かった。オーディションが終わればゆっくり回復できると思っていたが、一向に良くならず逆に左手中指の動きや感覚が鈍くなった様に感じる。この機会に「音楽家の手の外来」がある大学病院で診てもらうことにした。「音楽家の手の外来」の待合室には私と同業らしい雰囲気の女性が数人いた。手の病で多いのは腱鞘炎で私も以前なった事があるが、今回の症状は腱鞘炎とは全く違う。さあ私の番がきた。先生に症状を説明して必要な検査をいくつも受けた。先生は私の病を「フォーカル・ジストニア」ともう一つ「頚椎症」と診断した。この「フォーカル・ジストニア」という病名にはストンと腑に落ちるものがあった。腱鞘炎や手根管症候群の様な痛みはなく日常生活には全く支障がないのだが、ピアノを弾こうとする時だけ指に違和感がある。

 母の介護をしている時にNHKのテレビ番組で、国際的なピアニストのレオン・フライシャーの来日公演と、このピアニストの生活を追った特別番組を偶然見ていた。このレオン・フライシャーがフォーカル・ジストニアを患い、35年ぶり(?)にステージ・ピアニストとして復活をした人だったのである。彼は有名な国際ピアノ・コンクールを立て続けに優勝した最も輝かしい30代に、突如手が意思に反する動きをする様になりコンサート活動が出来なくなった。色々な治療を試みるが改善は見られず、以後コンサートから遠ざかっていたが、2000年になってボトックス菌注射の治療法によってコンサート・ピアニストとしてカムバックした。復活後の彼の演奏は以前より更に良くなったと言われている話は、私に大きな勇気と希望を与えてくれたものだった。まさか同じ病気に私が罹るとは思いもしなかった。しかも留学目前にである。思い返せば昨秋のロンジーのトライアル・レッスンを受けた時に、Mr. Moll は私の左手の小指と人差し指の力を抜くように何度も指摘していた。あの頃には既にフォーカル・ジストニアの症状が出ていたことになる。
「そのお年で無理をして留学なさるのはいかがなものでしょう。」と先生はおっしゃる。この病気はまだ解明されておらず治療法も確立していないが、音楽家に多く見られるのは、繊細な繰り返しで同じ動作を長期間行い続ける人に多く発症するようだ。このまま日本にいても改善されないのなら折角合格できたので、学校が私に退学を言い渡すまで留学したいと先生に伝えた。
ニューヨークで「私の人生のピーク」の撮影をした時に、多くの写真の中に2枚、鍵盤上の手の写真があった。影絵でキツネの顔を作る時の手の形のように、人差しと小指が上へ張り上がり、中指と薬指が内側に曲がっている。この写真を見た時は「何これ!」と思った記憶がある。これはフォーカル・ジストニアの典型的な手の形である。後日カメラマンにその写真を送ってもらって「音楽家の手の外来」の先生が学会で発表する時に使ってもらうことになった。

 ロンジーから履修に関する小冊子が送られてきて、単位と授業の紹介が全部載っているが、その中にbody/mindという音楽家に必要な「身体と心」を学ぶ学科がある。人前でも過剰に緊張しない呼吸法や身体の使い方と、平静を保ちながら自然に演奏できるようにする心の持ち方などを学ぶクラスらしい。日本の音大にはこの様な学科はまだない。フォーカル・ジストニアに罹った今こそ、アメリカでbody/mindを学ぶ絶好の機会で、私の治療にも最適ではないだろうか? 共演ピアノに加えbody/mindを学ぶ事が新たに大きな目的となり、留学への思いが一層強くなっていく。

 毎年一回、市の健康診断を受けている。ちょっと引っ掛かりそうな数値の時もあるが大きな問題はない。アメリカの医療費は日本とは比較にならないほど高額ときく。今回は留学前に健康のお墨付きをもらいたい気持ちで、初めて半日人間ドックを経験した。いつもの健康診断とは格段に検査の種類が多い。朝から昼まで検査があり、その後はヘルシーなランチまで用意されていて美味しく完食した。
検査結果を聞く為に医師の前に座る。医師の開口一番は「今まで本当に肝臓の治療をしていないのですか?肝臓専門医に電話をしますから、今すぐそちらへ行って下さい!」…肝臓?言われるままに紹介された肝臓専門のクリニックに直行、更に詳しい検査を受けた。そして難病指定になっているPBC(原発性胆汁性肝硬変)と診断された。この恐ろしげな長い病名には流石の私も絶句した。私はお酒は滅多に飲まないし家族にも肝臓が悪い人はいない。薬を頂いて来週もう一度診察を受ける事になった。
 幸いな事に薬を飲むと直ぐに肝臓の高数値が下がっている。先生曰く「薬を服用すると直ぐに下がります。ですが、そのお年でご無理をなさるのはいかがなものものでしょうか。」と何処かで聞いた言葉を再び頂いた。例え短期になっても留学したいと私の気持ちを医師に伝えたところ、先生は「この薬はフランスが特許をとっていますが、日本も研究していたのでアメリカよりもずっと安価です。アメリカで3ヶ月毎に血液検査を受けて、その経過を私に送ってくれて経過に異常がなければ薬を出す事ができます。ご家族かどなたかに薬をクリニックまで取りに来て頂いて、アメリカのあなたの元に送る事は可能ですか?」とおっしゃる。ありがたい事に私の姉夫婦がその役目を引き受けてくれた。自分一人で留学するとイキがっていたが、現実にはこの様なサポートがなければ出来ない事だった。更に先生からは「どうぞご無理をせずに楽しんで来て下さい」とおっしゃって頂いた。

 健康のお墨付きをもらいに人間ドックに行ったのだが、病が留学前に見つかった幸いと、日本の肝臓専門医のバックアップを得た事は大きかった。前途多難な渡米になりそうだが、もうこうなったら全てひっくるめて体験してくるぞ!


13. ボストンの家探し

 誰も知り合いがいないボストンで、どうやって住む所を見つけたら良いのか全くわからない。私としては寮に一度住んでみたい気があるが、姪達が強硬に反対する。話を聞くと、アメリカの大学は一般的に新一年生は寮生活をする。親元を初めて離れての寮生活を通して、自立や生涯の友を作る貴重な時間と場所になる。そんな期待に胸を躍らせている若者に、親よりも年上のルームメイトが同室なんて可哀想過ぎると言うのだ。ならばインターネットでアパート情報を調べてみると家賃が非常に高くて手が出ない。しかも英語の契約書を理解する事からして無理である。他の留学生達はいったいどうやって探しているのだろう....。
 そんな中、ロンジーからハウジング情報というサイトが送られてきた。ルームメイトが卒業して出て行ったので新しいルームメイト募集とか、学校近辺で下宿できる家のオーナーの情報が沢山載っていた。家賃、場所、設備などの情報とペットの有無、自己紹介なども添えられている。これはいい!学校が管理しているサイトなので安心感がある。楽しく想像しながら順々に見ていくと、日本人名らしき名の投稿を見つけた。早々メールを送ってみる。自己紹介をし、もし日本人なら日本語で詳しく話しを聞きたい旨を伝えた。返事は日本語で直ぐに帰ってきて、なんと彼女は私の日本の音大の後輩だった。ロンジーを卒業して帰国するので、彼女のルームメイトが後釜を探しているという。写真も2、3枚送ってくれて、家賃は月$550に加えて公共料金を頭割りするそうだ。大家さんは1階に住んでいる60代後半のイギリス女性で医療翻訳家。2階は日本人学生と台湾女性の大学院生(ロンジーのダルクローズ科)、3階はアメリカ男性(プロのサキソフォン演奏家)とそのフィアンセのハンガリー女性(ハーバード卒の詩人、モンテソリ教育者)がテナントとして住んでいる。面白い! だが写真を見ると私の部屋となる部屋はとても狭く、共同キッチン・玄関・リビングは寄せ集めの家具で散らかっていて、早くも私の夢が萎んでいく。ここに私が住むイメージが全く湧かない。しかし他の物件を見ても「ここだ!」と思う物件も見当たらない。とにかく家を決めねば不安でしょうがない。日本人学生が住んでいたのなら安全だろうし、それを最優先として先ずは一年間住んでみようと決めた。

 他方、その家のルームメイト達は次のルームメイトについて話し合いをしたそうだ。私の他に台湾女学生もこの家をリクエストしていたのだ。どちらがルームメイトに相応しいかの話し合いで、結果はシニアが仲間に入るのも新しい刺激になり、台湾人二人になるより違う国籍同士の方がバランスが取れるという事で、私に決まったと後から聞いた。
嬉しいことにイギリス女性の大家さんから、私に日本語と英語の交換レッスンをしないかとお誘いを受けた。彼女は何ヶ国語かを喋れるので、次は日本語に挑戦したいそうだ。願ってもない申し出に私の中のこの家の価値がドンドン上がってきた。イギリス女性の大家さんイザベルは私より8歳上と近いし、何かあった時に相談にも乗ってもらえそうだ。しかも彼女は電子ピアノを持っていて私に使っても良いと言う。だんだん私のアメリカでの生活のイメージが出来てきた。


14. ボストンへお引越し

 8月2日午後にニューヨークのケネディ国際空港に到着。ボストンではなくなぜニューヨークかと言うと、2月のオーディションの時に私の荷物をそのままニューヨークに住んでいる姪のアパートに置かせてもらっていた。それをボストンに送る為にニューヨークへ来たのだが、残念ながら姪は夏の2ヶ月はニューヨークを留守にしているので、今回の4日間のニューヨーク滞在は全て一人で行動しなければならない。

 日本からパンパンに詰めた大きなスーツケース2つと、このニューヨークに置かせてもらっている大きな段ボール3つ。オーディション後に2月の冬物バーゲンでボストン用にロングコートやブーツなども買っておいたのだった。計5つの荷物をUPSで頼むと翌日にはボストンの家に届くそうだ。私はボストンへはパソコンだけ持って身軽に高速バスで行きたい。
時差ボケを治しながら折角のニューヨークなので、ブロードウェイで当日半額チケットでミュージカルを観たり、カナル・ストリート(大中華街)でマッサージを受けたり、これから学生になったら出来そうにない楽しみを味わった。

 ニューヨークを経った時は晴れていたが、到着したボストンは雨が降っていた。傘は送った荷物に入っているし、ハーバード駅からの市内バスの乗り方も分からず、またバス停からどの様に行くのかも定かではないのでハーバード駅からタクシーでウオータータウン市の我が家となる家へ向かった。
大家さんのイザベルからはメールをもらっていて、彼女は私の到着日にはバケーションに行っていて留守なので、3階のルームメイトのデニスにアツコの事は頼んであると書いてあった。雨で薄暗い中をタクシーの運転手さんがココと教えてくれた家のチャイムを鳴らす。......もう一度チャイムを鳴らす。......ええっ?無反応! 日にちを間違えたのだろうか? 住所は合っているのだろうか? もう一度チャイムを鳴らす......。どうしよう.....お店は大通りに出るまでない。もうタクシーも返してしまったし雨も降っている。まだアメリカの携帯電話も買っていないし、パソコンのメールからしかデニスに連絡する方法はないが、wifiがないとパソコンも使えない。ドンドン心細くなってずっとチャイムを鳴らし続けて数分後、ドアが開いた! 満面の笑みでルームメイトのデニスが「練習していてチャイムの音が聞こえなかった。ごめんごめん!」と出迎えてくれた。こんなに心細く泣きそうなのに、彼の破格の笑顔を見たら文句も言えない。これが初対面であった。

 ニューヨークから送った私の荷物は全て届いていて玄関の横に積んである。これらの荷物を2階の私の部屋に一人で運ばねばならない。大丈夫、日本でも重い荷物を持つ事は日常だったし、ニューヨークのUPSへこの大荷物を出しに行った時の方がもっと大変だった。でもここアメリカはレディー・ファーストの国じゃなかったっけ、デニス?とにかく今日は今晩必要な荷物だけでも解かねば、シャワーも浴びられずパジャマにも着替えられない。それがどのスーツケースか段ボールに入っているのか開けてみなければわからない。無計画に詰めるだけ詰めてきた結果がこの始末だ。その晩は何を食べたのか?食べなかったのか?も全く覚えていない。ボストンの初日は、かくも厳しい一日であった。

*[デニスの名誉回復のために]
彼は「手伝おうか?」と言ってくれたのだが、男前(?)な私は「大丈夫」とつい言ってしまった。アメリカ流にThank you!と素直に言える習慣を身に付けねばならない。アメリカ人には“遠慮”の気持ちを汲み取る発想はないのだから。


15. 新しい生活の始まり

 キッチンにはアメリカらしい大きな冷蔵庫やオーブン、食器洗い機もある。前に住んでいた日本人のSさんが、嬉しいことに日本製の炊飯器を残していってくれて大助かりだ。とりあえず歩いて10分の大型スーパーに買い出しに行く。私は料理が好きなのでどんな食材があるのか隅から隅まで歩いてみた。このスーパーだけでほぼ日常生活品は揃いそうだ。しかもアジアン・コーナーもあり、カレーのルーや天麩羅粉、麺つゆまである。たっぷり1時間位かけた楽しい買い物だったが、予想以上の重量となったスーパーのプラスティック袋が指に食い込み、途中で何回も持ち替えて帰って来た。思うにアメリカのサイズは全て大きい。ミルクも日本では見ないサイズだし、肉も1パックに凄い量が入っている。だからこんな量になってしまったのだ。気をつけねば!

 数日後、大家さんのイザベルもバケーションから戻って来たので、イザベルとデニスとノーマ(3階のルームメイトでデニスのフィアンセ)をディナーに招待した。もう一人のルームメイトのユーシンは夏休み中は台湾の家族の元に帰っていて、新学期が始まる前日にボストンに戻って来るそうだ。
「どうぞ宜しく」の意味を込めてのディナー招待である。学校が始まったら充分な料理も出来ないだろうし、日本食に興味があると言うので天麩羅にした。イザベルとデニスは準備段階から見学させてほしいと言う。かき揚げ用に野菜を切っているだけで「凄い!」「サイズが揃っている!」「速い!」と歓声が上がる。スーパーで買った天麩羅粉を溶いて、たっぷりの油で要領よく揚げる。まるでアイアン・シェフの様な気分だ。デニスはイカの天麩羅が一番美味しかったと嬉しい事を言ってくれる。我ながら大成功のディナーで、この家の人々と親しくなる大きな一歩だった。

デニス&ノーマ&イザベル

  台湾に帰国中のユーシンは、自分の部屋を又貸ししている。夏休みにボストンに語学留学する人に貸しているが、ユーシンの部屋はもちろん、ルームメイト達と共有している物も全て使える。私がボストンに着いてからユーシンがボストンに戻るまで3人の台湾人が入れ替わっている。正直言って落ち着かない。彼らは大変優秀で友好的で、又貸し期間が終わるとネットで調べたらしい日本語で書かれたカードとカーネーションを感謝の印にプレゼントをしてくれた。まるで私は下宿屋のお母さんか? 案外向いているかもしれない。

ロンジーの入学前に、すでに一仕事も二仕事もした気分だが、さあ、学生モードに戻る時がきた!


16. 入学式とオリエンテーション


  同級生一同が初めてオーディションをしたホールに揃った。総勢120?名位だろうか。髪の色も体格も服装も、私が言うのも変だが皆年齢不詳に見える(笑)。男子学生は明らかに日本人の同年代よりかなり大人に見える。この入学式で初めて2人の日本人に会った。これは心強い!学校から当然の事だが英文のメッセージがどんどん届くが、これらのメッセージが大事な内容なのかそうでないのかを理解するのに多くの時間と労力がかかる。そう言う内容を日本人学生に確認できるのは凄く助かる。私の場合はメッセージの疑問を英語でオフィスに問い合わせると、ますます英語の混乱が広がると想像する。

 オリエンテーションではロンジーの学生証、医療保険証、交通機関の定期券を受け取った。そして又々学校見学ツアー。今回は同級生と一緒にワイワイと、そして実際にこれから使う場所なので身近に興味を持って見学できた。翌日はボストン湾クルーズ。学校が船を借り切って、ボストン湾をぐるっと回って船からボストンの外観を見られる2・3時間のツアーだ。参加者は現地集合、又は学校前に集合して貸し切りバスでクルーズの発着場所まで行ってくれる。まだ学校と家の往復しか知らない身としては大変有り難い。船内には小さいテーブルが幾つか置かれ、飲み物・オードブル・スナックなどが用意されていて、カジュアルな歓迎会か親睦会のようだ。歴史的な大きな教会や現代的な高いビルディングを船の上から見ながら、ボストンの街でショッピングや観光が出来るのはいつだろう.....とぼんやり思った。

 授業が9月7日から始まるが、その前にマスターの生徒は音楽史などの基礎テストがある。このテストの科目を合格すると必修科目から免除される。GPD(ディプロマ)の生徒はこのテストを受ける必要はない。もしマスターの学位が欲しければ、GPD卒業後マスターに進学しして足りない単位を取ればよい。
「室内楽グループ」クラスのグループ分けの為に、演奏家の新入生は全員短い3つの課題曲と自由曲をホールで弾かねばならない。一人ずつオーディションの様にホールへ入って行く。私はステージに上がってまず先生方に私の手の病気フォーカル・ジストニアの事を話した。流石に先生方はこの病気を知っておられて身を乗り出して私の左手を見た。学部長でこの「室内楽グループ」クラスの主任教授でもある先生は、この学期は手の治療に専念して演奏以外の科目を取る事を勧めるとおっしゃる。とんでもない‼︎ 私は室内楽を色々な人とやりたくて留学したのだ。しかもこの学期にピアノを弾く授業を取らないと2年間で卒業出来なくなる可能性がある。冗談ではない‼︎ 私は2年間の留学費用しか持っていない。恐らく先生のおっしゃる事は正しいだろう。だがフォーカル・ジストニアは半年で治るとは到底思えなかった。ピアノ演奏を含まない留学なら、ここまでして留学しなかった。先生は今日は弾かなくてよいとおっしゃったが、「私の夢はこの様な室内楽曲を沢山弾く事です。是非弾きます!」と一方的に言うだけ言って、ピアノの前に座って勝手に課題曲を全部弾いてきた。

 後日「室内楽グループ」の発表が壁に張り出され、嬉しい事に私の名前も入っていた。しかもベートーベンとケクランの2つのトリオを割り当てられた。何より授業が始まる前に、先生方に私のフォーカル・ジストニアを公表できたのは大変よかった。少額でも奨学金をもらっているのに、入学早々手の病を隠して授業を受けるストレスは必要なくなった。あとは自分のペースでベストを尽くせば悔いはない。


17. ボストンの医療事情(1)

 私の医療保険証が手に入ったので、授業が本格的に始まる前に私は肝臓の薬をもらう為に、定期的な血液検査をしてくれる病院またはドクターを見つけねばならない。家の近くのクリニックや病院をネットで調べる。驚いた事にその時点で新患の診察は半年後と書かれている。半年後って何!これは大変だ。とにかく早急に主治医になってくれるドクターを見つけなくてはならない。

 私は夏に受けた自分の検査記録と、日本の主治医に書いて頂いた英語の診断書を持ってきているので、ドクターに会えれば何とか私の病状と希望を伝えられると思うが、予約まで漕ぎつけるのは大変だ。結局、大家さんのイザベルに予約を取ってもらいたいと頼んだ。彼女は私がリストアップした病院やクリニックに次々と電話をしてくれた。その結果、どこも新患は3ヶ月以上の待ちだという。そして最後に掛けた電話は、病院内をあちこち回された挙句、結局最初の受け付けに戻ってしまった。怒ったイザベルは「Good morning!!!」と言ってガチャっと乱暴に受話器を置いた。これには驚いた‼︎ 「Good morning!!!」は「一昨日来やがれ!」の様な意味なのか? 続けてイザベル(イギリス人)は「アメリカに来て仕事はとてもやり易いと思うけど、医療システムは最悪だわ! アツコごめんなさい、これ以上自分の時間を使いたくない」と言った。私は充分に感謝の意をイザベルに伝えて自分の部屋へ戻った。さあ、どうする?

 今度はネットで「ボストン。医者」というキーワードを日本語で検索した。そこで2人のボストン在住の日本人医師がヒットした。その一人はボストンの日本人会の元会長の様だ。直ぐに電話をする。英語の留守電のメッセージの後、日本語が聞こえてきた。今ボストンを留守にしているが、戻り次第折り返し連絡しますと言っている。そして二日後、その医師から電話を頂いた。明日の午後4時なら空いているという。急であったが半年待ちより断然よい!翌日St. Elizabeth病院の教えてもらった部屋を訪ねた。I 先生は80歳位でこの大きな病院の一部屋を自分の独自の診療室に借りているようだ。患者は直接先生に予約をするので半年先にはならない。穏やかで話好きの先生との面会は、私の病気から始まって何故ボストンに留学したかにまで及んだ。先生とずっと話していると不覚にも涙が込み上げてきた。日本語でしかも年長のドクターにこんなにゆっくりと私の事を話せて、ずっと気が張っていたものが一気に緩んでしまったのだろう。血液検査の結果は家に送ってくれるので3ヶ月後の予約も取らせてもらった。そして緊急な場合にはいつでも連絡しなさいと携帯電話やポケベル番号まで教えて下さった。誰も知り合いがいないボストンで、偶然だったがこの I 先生が私には最適なドクターだった。

 アメリカでは診察代はその場では支払わない。後日請求書が送られてきて小切手やクレジットカードで支払う。私の I 先生の診察代は保険を使って$15だった。そして血液検査の結果は「あなたの心臓・血圧・血糖・コレステロールなどはアメリカ人の平均以下の数値で全く素晴らしいです。充分お若いのでボストンの美しい秋を心から楽しみなさい。心配はいりません。」と手書きのニコニコマークのイラスト付きで送られてきた。安堵と思いがけないメッセージで気分も軽くなって、その結果を私の日本の肝臓専門医にメールで伝えた。こういうサポートを得られて心底ホッとしていたところ、St.Elizabeth 病院の会計から請求書が届いた。封筒を開けると$300を超える請求金額が印刷されている。ええっ?!?血液検査代だけなのに確かに高額だ。I 先生の診察代に含まれていないのか? 学校の事務所に行ってこれは払うべき金額かどうか相談した。するとこれは学生保険が使われていない様だから、払うのはちょっと待ってみる様に言われた。その後、病院の会計から督促状まできた。どうしよう、3ヶ月に1回なら払えなくもない.....払おうかと迷っていたら、今度は保険会社から保険適用で治療費$0の通知の封書が届いた。既に検査を受けて2ヶ月位経過していた。それ以後3ヶ月毎の血液検査に毎回違う金額の請求書が病院から送られて来るのも疑問だし、保険会社からは保険が認められたり認められなかったり、全く訳が分からない。私はその都度保険会社に質問のメールをしても、留学を終えて帰国するまでの3年間解決する事は出来なかった。
アメリカの医療システムと医療保険制度は全く分からない。今思うと、よく無事に健康で帰国できたものだ。


18. ボストンの医療事情(2)

 続けてもう一つ医療経験を書かせていただきたい。実際に病院に行ったのは入学1年後の夏であり、その時の話である。

 アメリカのフォーカル・ジストニア(音楽家の手の病気)の治療は日本より進んでいる。アメリカ滞在中に是非診察を受けたいのでネットでフォーカル・ジストニア、ボストンで検索したらBrigham and Women’s Hospital の医師 MD. Michael Charness のサイトがヒットした。問い合わせのメールアドレスも書かれているので、私の自己紹介と病状を書いてメールをした。するとほんの数分後にドクターご自身からの返信がきた。

“私に連絡をしてくれてありがとうございます。英語が苦手な外国人の患者さんの為にこの病院は医療通訳制度があります。予約をする前にその制度に申し込んで下さい。病院が費用を負担してあなたの母国語の通訳者を用意します。詳しくは追って秘書からメールを差し上げます。ご不明な点はその秘書にお聞き下さい”

私はこのメールに感激した!何の紹介状もない貧乏留学生が大病院のスペシャリストのドクターと直接コンタクトを取れるとは!「私に連絡をくれて有難う」と言う言葉はいかにもアメリカ流でフランクだ。そして紹介してくれた医療通訳制度はなんて素晴らしいのだろう。日本でも裁判では通訳が立ち会う制度が始まったのは知っているが、医療通訳はまだ聞いた事がない。骨や筋肉の名称や医療用語は例え日本語であっても難しい。アメリカは移民国家なので医療通訳はまさに必要な事だったのだろうと察する。私のたった1回のメールでこれ程速く予想以上の反応が得られたのは、ドクターの決断と指示があったからだろう。こういう開かれたシステムは合理的なアメリカの大きな魅力の一つだろう。

 予約は2週間後の土曜日の午前中に決まった。偶然、私のピアノの先生Mr.Mollと話す機会があったので、フォーカル・ジストニアの診察を受ける事になったと伝えた。すると先生は病院に同行して下さるとおっしゃる。フォーカル・ジストニアの診断や治療法はピアノ教授としても興味があるもので、またすべての生徒達にも役立つと考えられたようだ。私にとっては病院の場所も分からないので大助かりだ。
幾つもの病棟があり迷ったものの、指定された部屋に辿り着くと既に日本人通訳の年配女性がいらした。診察は一般問診とジストニアがフォーカル(局所)なのかの検査。続いて奥の方へ案内されたのは、何と普通の家のリビングルームの様な部屋だ。そこには立派なアップライトピアノがありドクターのご家族の写真も飾られている。それを見るとドクターの奥様はフルート奏者でお子様方も弦楽器を、そしてドクターもピアニストらしくコンサートのチラシもいくつかある。全く大病院の中とは思えない部屋に興味津々の中で、私はそこのピアノで音階を何度も弾かされ色々な角度からビデオを撮られた。きっとドクターの研究資料になるのだろう。診察を終えてドクターは3つの選択肢をおっしゃった。

1. ボトックス注射.....これは保険が効かず1回$600で3ヶ月毎に受けねばならない。これは根本治療ではないので、注射を止めたら直ぐに元に戻る。フォーカル・ジストニアのピアニストとして国際的に有名なレオン・フライシャーはこの治療を受けている。
2. ピアノを辞める。普段の生活には全く問題なく過ごせる。
3. このまま弾く。全身に広がる病気ではないが、正常なフォームで演奏出来ない為、それを庇って他のところが悪くなる可能性もある。

私は3番の「このまま弾く」を選ぶしかない。ドクターはもしボトックス注射を希望するのなら又病院に来て下さいとおっしゃった。後日送られてきた診察代は$15。診察時間は2時間は超えていた。

 この医療通訳の女性とは後日談がある。この診察から8ヶ月後、私の卒業リサイタルに来て下さったのだ。共通の知人がいたらしく、その人に私のリサイタルを誘われて来てみたらシニアでフォーカル・ジストニアの留学生の私だったそうだ。私は病院では失礼ながら説明に気を取られ、お名前もお尋ねしなかったので、レセプションで彼女からお声をかけて頂いた時は本当に驚いた。通訳さん(本職は教会の牧師さん)は、私が続けてピアノを弾いているのを喜んで下さっていた。大変遅まきながら、私も医療通訳さんにお礼を言う事ができて本当によかった。


19. ESL(第2母国語としての英語)クラス

 いよいよ授業開始。私はこのESLクラスを是非取るように学校から言われている。朝9時から10時まで週3回のクラスで、10名ほどの留学生が参加している。先生はルース、50歳代の小柄で痩せた女性だ。学部長の特別アシスタントという仕事とESLクラスを担当している。実はルースだけでなくロンジーで働いているほとんどの人(もしかしたら全員?)は音楽家だ。事務方を始め、body/mindクラスの全先生はプロの演奏家になった上に、それぞれのbody/mindの資格をとって教えている。又、さまざまな国の先生がいらっしゃるので必要に応じてそれぞれの語学も演奏家が教えている。これはとても理に適っている。音楽学校では音楽に必要なものに焦点をあてて勉強したいし、body/mindクラスは演奏家にしか分からない身体の使い方や精神的重圧も、音楽家である先生が一番理解し教えてくれる。こんな面白い学校は聞いた事がない。

 話をESLクラスに戻そう。今年の生徒の内訳はロシア人、コロンビア人、韓国人、中国人、シンガポール人、そして日本。専攻する科も声楽科、共演ピアノ科、弦楽器科、管楽器科、ダルクローズ科と違うが、なんと言っても皆英語が苦手という共通項が私をリラックスさせてくれる。それにしてもそれぞれの母国語の訛りが強く私には彼等の英語が聞き取れない。向こうも私の日本語訛りの英語が分からない。私達には音楽をアメリカで学び、アメリカの文化に馴染もうという共通意識があるので「同じ釜の飯を食った仲間」の様に、親しくなるのに時間はかからなかった。
ルースは英語で毎日日記を書く様に私達に勧めた。どの位続けただろうか、いつしか皆他の授業のレポートに追われ英語で日記を書くゆとりがなくなり自然消滅してしまった。ルースの授業では教科書はなく、有名な作曲家や演奏家のエッセイや音楽家の話題の記事を使ってくれた。例えば有名なアメリカの作曲家コープランドが作曲家リストの功績を書いた記事はとても興味深かった。何せ音楽だけは他の生徒より3倍長くやっているので内容は察しがつく。又ある時、ルースは自国の有名人を一人挙げるとすれば誰ですかと生徒に尋ねた。それぞれ自国の有名な政治家や芸能人を挙げたが、その答えは皆には親しみのない名前だった。私は色々考えてSeiji Ozawa小澤征爾を挙げた。ルースはすぐに反応し、皆も音楽家なので知っていると大いに盛り上がった。小澤征爾さんはボストン交響楽団の指揮者を30年も務められて、特にボストンでは自分達のマエストロとして今でも大変尊敬されている。この時は私まで褒められている様に嬉しく、小澤征爾さんの恩恵を受けさせてもらった。

 アメリカの大学は各授業でリポートが毎回出される。音大ではそれに加えて音楽の練習に時間が沢山取られ、夜は8時から生徒のリサイタルが毎晩のように開かれている。朝9時のクラスはだんだんきつくなり、ESLのクラスは単位には含まれない事をいいことに欠席する生徒が増えてきた。それでもルースは私達をよく見守って下さり、普段の生活相談にも乗ってくれていた。夏休みに帰国しないESLクラスの生徒達を、プライベートで丸一日遠方の名所に連れて行ってくれた。
残念ながらこのESLクラスでも私の英語は上達しなかったが、このクラスのお陰で友人ができて学校にも慣れていった。なにせ週3回会えるのはこのクラスだけだ。もしかしたら学校は英語の苦手な留学生の現状を知り、サポートするのが目的だったのかもしれない。ルースは学部長の特別アシスタントでもある。きっと学部長は私達の素の部分を案外知っているのかも知れない。


20.  サンクスギビング (感謝祭)

 九月に新学期が始まってから目まぐるしい毎日が続く。日本の音大時代よりもはるかに授業が大変で、演奏以外の授業のリポートも深夜遅くまでかかってしまう。リポートは何かの本を引用する時は必ず出典元を備考に書く事がアメリカのルールで本や辞書を写すだけのリポートはない。自分独自の解釈や意見のみを書いて展開するのは大変難しくなかなか文字数が埋められない。また書きたいことがあっても英語の文章力がなく時間ばかりが過ぎて毎晩あっという間に午前2時になってしまう。唯一の楽しみは食べる事で、ピザやハンバーガーやフライドポテトを毎日食べる事など考えられず、簡単な物だが毎食気分転換も兼ねて作り、おにぎりのお弁当も持って行っていた。日本のコンビニが素晴らしいのを懐かしく思う。そうして季節は美しい紅葉の時になった。私の大好きなボストンの秋だ。

 11月の第1日曜日でサマータイムが終わると一気に日が短く感じられる。11月の第4木曜日はアメリカのサンクスギビング(感謝祭)で、その前後は学校もお休みとなる。ロンジーはこのサンクスギビングの為に教室の一つをレストラン風に飾り付けて、ローストターキー(七面鳥)を用意してくれた。その時は私はまだ七面鳥の肉の色がどうも不気味で食べられなかったが…。アメリカ人生徒は家族と一緒に食べるだろうし、アジア人やヨーロッパ人には七面鳥は馴染みがないので食べている人は少なかった。そんな中、思いがけず同級生の一人が私をサンクスギビングに家へ招待してくれた。私は一般アメリカ家庭に大変興味があるので喜んで伺いたいが、彼女は同性婚をしている。しかも彼女の家は隣のニューハンプシャー州で、遠いにも関わらず車で送り迎えしてくれるという。私一人ではもったいないという口実で、もう一人日本人の同級生も誘って行くことになった。本当の事を言うと同性婚の家へ一人で行く勇気がなかったのだ。

 招待してくれた彼女は七面鳥の代わりにローストチキンにクランベリー・ソースやマッシュド・ポテトそれにロースト野菜などの伝統料理を作ってもてなしてくれた。
そして私達をボストンの家に送ってくれる途中に、何と彼女のパートナーの実家に寄ると言う。パートナーには今日初めて会ったのに、いきなりその彼女の実家に伺うのはどうかと思うが、車で送ってもらわないとボストンに戻れないので同行するしかない。
パートナーの実家には両親と妹とお婆ちゃまがいらした。しかし母親は娘の結婚を認めたくないのか、冷たい表情で私達を迎えた。察するに、同級生カップルは二人で顔を出しづらかったのだろう。お料理はビュッフェ・スタイルで何種類もの料理が並べられていて、全てがとっても美味しい家庭料理だった。母親はそっけない態度をとっているが、この料理を見れば愛情に溢れた家族なのがわかる。母親と対象的に父親はとても暖かく私達を迎え入れ、お料理をどんどん勧めてくれる。妹もお婆ちゃまも人懐っこい目で私達を見ている。長居は無用だったが、厚かましい事に美味しいお料理をお土産に頂いてきてしまった。

 この思いがけないサンクスギビングの後は、彼女の家庭状況も分かり私達の友情関係も深まった。室内楽文献クラスの最初の日に、他の生徒も先生もなかなか来なくて不安に待っていた私に「ミンナ ドウシマシタカネ?」と彼女が日本語で話しかけて来た時には本当にびっくりした。彼女はマサチューセッツ州立大学を卒業後ロンジーのマスターに入学した才女で、日本の漫画で日本語を学んだと言う。室内楽文献クラスでも唯一全て先生の質問に答えていて、私の最も信頼できる同級生の一人である。嬉しいことに翌年もサンクスギビングに招待してくれた。


21. Struss先生の家

 ロンジーから歩いて12分位の所にStruss先生の家がある。ロンジーの建物は小さいので教室もレッスン室も少ない。後期の私の室内楽グループの担当教授はStruss先生で、週一回のレッスンを先生のご自宅でする事になった。教えて頂いた住所をスマホのマップを頼りに歩いて行った。
ええっ、ここ⁉︎ ほぼ金色に近い黄色の凄い豪邸だ!授業よりもこの家にワクワクしてしまう。鍵は開いていてドアを開けると、もう劇場の様な雰囲気だ。ここは本当に個人の住居なのだろうか?左側は先生のオフィスで右側の部屋がレッスン場となるが、オペラのワンシーンの様に大きな赤いカーテンや幾つかのソファーにスタインウェイのグランドピアノが置いてある。ここで授業をするなんて夢の様だ。先生の専門はドイツ歌曲と現代アメリカ歌曲で、初めてStruss先生のお顔を見て気が付いたのだが私のオーディションに立ち会った審査員のお一人だった。

 どう言うきっかけだったのか思い出せないのだが、先生は私にいつでもピアノの練習に来て良いと家の鍵を渡してくれた。学校の練習室を取るのは大変で、この申し出は本当に有難い。でもまさか鍵を私に預けるとは全く想像もしていなかった。しかも豪邸だ。私はその鍵を絶対に無くさない様に常に気を張っていた。
先生は2階か3階の何処かの部屋にいらっしゃると思うが、下りていらっしゃらないので黙って入って黙って帰る。先生には私が伺いたい曜日と時間帯だけお知らせしておいた。他の部屋も興味津々だったが、練習にお邪魔しているのでウロチョロするのは控えた。先生は上の階で私の演奏を聴いて覚えたのか、プーランクのオーボエ・ソナタをとても気に入って下さり、メロディーを口ずさんだりもしておられた。後日、先生は私のリサイタルを聴きに来て下さった時に、先生がいつも聴いているオーボエソナタの奏者の顔を初めて見たのだった。
Struss先生は声楽家でご年配の女性だが、若い頃のお写真を見ると映画スターの様な雰囲気だ。先生のご主人はハーバード大学の名誉教授で、顎の周りに髭をはやしていてシニアモデルの様にカッコいい。ある日、先生の家で歌曲研究会のコンサートがあり、ピアノの隣の部屋でレセプションも行われた。コンサートの余韻に浸りながら色々な人と音楽の話が出来るので、普通のパーティーは苦手だがこの様なレセプションは大好きだ。オードブル、サラダ、デザート、フルーツなどが素敵なキャンドルと共に並んでいる。豊かな時間を過ごさせて頂いた。

Struss先生のレッスン

 留学生の現実は残念ながらピアノを持てず、ピアノが置ける部屋にも住んでいない。私は家にピアノがない生活も初めてだったので、是非中古の電子ピアノでもいつか手に入れたいと思っている。そう言う中でStruss先生のスタインウェイ・ピアノを使わせて頂けることは本当にラッキーだったが、それ以上に先生が私を信用して家の鍵を貸して下さったことにとても感動し、自分が認められた様で少し自信を持ててきた感じがした。


22. ダンス・パーティー

 冬休み前に学校からダンス・パーティーのお知らせが来た。さすがアメリカだ! ただ映画で見るダンス・パーティーとは全然違って、カジュアルなので普段着で暖かくして学校へ行く。
誰が準備してくれたのか、ホールの客席の椅子は取っ払って手作りの飾り付けやミラーボールも点いている。テーブルには飲み物、ツマミ、スナックそしてフルーツが用意されていた。すでにモダン•アメリカン•ミュージック科の有志がバンドを組んで演奏していた。実家に戻っている生徒も多く、寒いボストンの冬の夜の為か参加者は思いの外少なく日本人は私一人だ。この留学はやりたい事をやりに来ているので、日本にいたらダンスパーティーに行く機会はないので興味があった。もし場違いで居場所がなければサッサと帰れば良いが、顔馴染みのラテンアメリカの生徒達、台湾の生徒達もグループで来ている。音楽が生演奏からスピーカーによるラテン音楽に代わった途端に、あちこちから歓声が上がりダンスが始まった。待ってました!サルサだ!

普段着のダンス

 ラテンアメリカ人はダンスが大好きで、音が鳴ると自然に身体が動くらしい。サルサがとてもカッコイイ!私も教えてもらったが、大きな動きがなくてやさしそうに見えるが実は大変難しい。アジア人が踊るとハワイアン・ダンスみたいになって大笑いだ。ラテンアメリカの生徒達は国は違ってもブラジル以外はスペイン語が共通言語だが、アジア人生徒は中国語、韓国語、日本語とそれぞれ違う言語なので英語で話さねばならない。

 テーブルの飲み物とおつまみとフルーツで一休みのおしゃべりタイム。そして最後にもう一度センターへ行って自己流のダンスを踊っていたら、不意に誰かが私の腰を掴んできた。びっくりして振り向くと、私の背後に皆が一列に並んで私のヘンテコな踊りを真似ている。私が先頭なのでそのまま前進しながら踊るとまるで幼稚園のお遊戯か電車ごっこみたいだが、ただただバカバカしいものの皆を近くに感じられてとても嬉しかった。そこには国籍・年齢・性別の区別は全く感じられない。私の腰を最初に掴んで後に続いて踊った名前も知らないアメリカ人の生徒とは次の学期で共演する事になったが、やはり積極的にイベントに参加した事で輪が広がったように思う。


23. ある冬の日

 ボストンの冬はマイナス気温になる事も多く雪も降る。晴れの日は真っ青な空がそれはそれは美しい。そんな真冬のある日曜日は忘れられない一日となった。

 この日は前日に雪が沢山降ったので、日曜日の学校の練習室は空いているだろうと朝からお弁当を作って学校へ行く事にした。バックパック(リュックサック)には沢山の楽譜とお弁当、熱いお茶を入れたポットを入れ、小ぶりのショルダーバックには手帳、財布、ハンドタオルなどの小物と鍵を入れ、バスのパスカードだけは取り出しやすい様にダウンコートのポケットに入れ、万全の態勢で家を出た。家からバス停までの道がシャーベット状や氷が張った道で、ここで転んでなるものかと一歩一歩踏みしめて進んでいた。「あっ!!」と思った時には体が宙に浮いて大転倒。あれ程気を付けていたのにどうした事か?と思いながら起き上がったら、もう一度スッテンと大転び!まるで喜劇のコントの様だ。
バスに乗り込んで座ったものの、大きな重たいバックパックのせいで前の座席との間に挟まって座った心地がしない。バックパックを背から下ろし、さっき転んで打った所は大丈夫なのか確かめた。学校に近い停留所(終点のハーバード駅の一つ手前)に着いたので、バックパックをもう一度背負ってバスを降りた。「ハッ‼︎ 」ショルダーバッグがない!バックパックに気を取られショルダーバッグを掛けるのを忘れた。バスはまだ5m先で、運転手さんに分かる様に大きな手を振ってアピールしたがバスは少しずつ遠のいて行く。雪道で追いつけないが、ここで又転ぶ訳には行かない。結局次の終点のハーバード駅まで歩いて行ってみたが、駅に着いたらもうバスはなかった。どうしよう...家の鍵もお財布もスマホも手帳も全てショルダーバッグに入っている。ハーバード駅は電車とバスのターミナルにもなっていてバスの乗り場はいくつもある。事務所で落とし物はないかと尋ねてもダメで、ショルダーバックの特徴と中身を伝えた。いつもはバスのパスカードもショルダーバックのポケットに入れているのだが、その日だけ偶然ダウンコートのポケットに入れていたので家には帰れる。

 気落ちしたままバスに乗って家に着いた。鍵もないので何度もドアを叩いたが誰も出てこない。大家さんはバケーションでカリフォルニアに行っているし、隣の部屋のルームメイトは日曜日は教会に行っていていつも夕方に帰ってくる。3階のノーマとデニスも留守なのか? 外はマイナス気温で夕方まで外で待つのは不可能だ。泣きっ面に蜂とはこの事だ。本当に長い事ドアを叩いていた様に感じる。ご近所付き合いはないので、いきなり変な外国人が訪ねても信用して家には入れてもらえないだろう。一体本当にどうしようかと考えあぐねていたら、何と3階から誰か降りて来た。最後の力を振り絞ってドアをドンドン叩いて気付いてもらった。ノーマもデニスも家にいたのじゃないか‼︎ 彼らに怒りすら感じる!そもそもこの家の2階のドアにはチャイムがないのも腹が立つ。

 二人に事の顛末を話したら、ノーマが直ぐに警察に電話して落とし物の問い合わせをしてくれた。ただ日曜日なので月曜日にならないと分からないという事だった。デニスは「この国では落とした物は出てこない。鍵も身分証も無くしたのなら、この家の鍵も替えないと危険だ。」と言い出した。大ごとになってしまった。デニスは、ここを通るバスの運転手さんは数人で回っているので、ハーバード駅に戻って運転手さんに聞いて回るのが一番良いと言う。とにかく出来る事は何でもしなくてはならない。今朝滑って転んだ道を恨めしく避けながらバス停へ行き、ハーバード駅のバス・ターミナルへ戻りバスの運転手さんに聞いて回った。その中で親切な運転手さんがいて、無線で運転手皆に聞いてあげると言ってくれた。それでも2時間くらいハーバード駅で次々来るバスの運転手さんに聞いて回った。そしてあの親切な運転手さんがまた回って来て私がまだここにいるのに驚いたようだ。運転手仲間は誰も知らないという事で、もう家に帰りなさいと私を促した。

 その帰り道は人生始まって以来の最悪な気持ちで家に着いた。ノーマとデニスに報告してから、クレジット会社に盗難の報告と警察署に紛失届けを出さなくてはならない。自分の部屋に戻りパソコンを開いたら、メールが1通来ていた。開けてみるとESLクラスで一緒のコロンビア人のクラウディアからだ。読んでみるとビックリ! 結論から言うと私のショルダーバッグが見つかったと言うのだ。
クラウディアが家でコントラバスの練習をしていたら知らない人から電話があり、アツコとか言っているが意味が全く分からず不審な電話を切ってしまった。その後また電話が掛かってきたので電話に出ると、今度はスペイン語の女性からだった。そこで話を聞くと、彼女のご主人が今朝バスに乗っていて前席の人がバックを忘れたのに気が付き持って帰ったそうだ。その中にスマホがあり住所録のABC順のクラウディアに電話した様だ。拾って下さった人の奥さんもコロンビア人だったのは実にラッキーだった。

 クラウディアが明日のお昼前後は空いているので、その人の所に一緒にショルダーバッグを引き取りに付き合ってくれるという。これで家の鍵も変えなくて済む。早々にノーマとデニスに伝えたら、それは奇跡だとビックリしていた。
私は朝から2度も大転びをしたり、ショルダーバックを置き忘れたり、真冬の外に長い事立っていたり、今日は最悪の日だと思っていた。ところが最後にこんな美談が待っていたとは!
やっと食べ損ねていたお弁当を夕食として食べながら、拾ってくれた男性はなぜ運転手さんに届けなかったのだろう?それともアメリカではバスの運転手さんさえも信用できないのだろうか?といろいろあった長い一日を思っていた。


24. 音楽の評価

 ロンジーでは一年中コンサートが開かれている。卒業リサイタル、学校主催のコンサート、ゲストのコンサート、その他にもセミナーやマスタークラスも自由に聞くことができるので、私は出来る限り多くのコンサートに立ち合った。プログラムは日本ではコンサートで取り上げない曲も多く、アメリカの作品はほとんど知らない曲ばかりだ。プログラムの構成も興味深いが、洋服から歩き方まで演奏者の個性が良くも悪くも出ていて面白い。アンコールも勿体つけずにサッサと出てきて実に流れがよい。特にアメリカ人のコンサートは何か面白い、というか悲壮感がないように感じる。元々彼等は完璧に演奏するなどとは思っていない節がある。学びの最初はゆっくりで徐々に彫りの深い独自の音楽を作り、コンサートではそれを表現することだけに集中している。なので人と比べたりせず自分のベストを尽くす事に集中していて、例え失敗しても次頑張ると切り替えが速くステージ上でもステージ下でも堂々としている。ある日本人歌手が言っていた言葉を思い出す。「彼等の表現力と集中力と体力にはとても敵わない。せめて最初の授業では充分準備と練習をして臨み、せめて存在感を出さねば自分の出番がない。」と。

 日本の音大の試験や全てのコンクールでは点数による順番がつく。ロンジーでは恐らく試験で点数は付けないのではないかと私は感じる。私の演奏試験の数日後に教授からもらったものは、アドバイスやコメントが細かく書かれたそれぞれの審査員達のpassと書かれた採点用紙のコピーだった。審査員が点数で悩む表情は微塵も見えない。小さい学校だから出来ることかもしれないが、音楽での0.1点の差で1番とか2番とかの評価の仕方はしない。今の私にはとても居心地がよい。
なにより生徒に敬意を持って接してくれるのは基本だ。決してパワハラ的なレッスンをしない。私も長いことピアノの先生をしていたので見習うところが多い。ミスについても寛容で音楽性を断然重視する。だからミスを怖がるより音楽を作って楽しむ土台があるのかもしれない。今再び生徒になって感じること、元ピアノ教師だったから感じること、その両面からの新しい気付きは多い。

 そんな中、ロンジー学内コンクールの情報が送られてきた。このHonors Competitionは生徒のレッスン教授の推薦状が必要で、予選は第一楽章または8分前後の演奏で、本選では全部演奏すると書かれている。一年生でもどんどんトライしたいので日本人オーボエ奏者のMさんと受ける事にした。曲は室内楽のプーランクのオーボエ・ソナタ。私にとっては初めての曲だったが、第一楽章の出だしからゾクゾクッと来てイメージがどんどん湧いてくる。こういう感覚は滅多になく曲との運命的な出会いを感じる。
予選は一日中ホールで行われており、それぞれ指定された時間にホールへ行く。審査員は6〜8人はバラバラに好きな所に座っていたが、全く顔を知らない人達だったので学外からの審査員なのだろう。演奏を終えてお辞儀をしたら、審査員の中から「hmm…Excellent!」と言う言葉が溜め息と共に聞こえてきた。私はこんな事を日本で言われた事は一度もない。演奏者としてこんな幸せな事はなく、これだけでもアメリカに来た甲斐があると言うものだ。元より経験する事が目的だったので大満足だ。とはいえ、出場したからには密かに優勝を狙っていた。

 翌日、壁に本選へ進む人の名が張り出され私達の名前が入っていた。そして一週間後に本選で全楽章を弾くが、予選とも違った外部の審査員のようであった。私達の前の演奏者はハーバード大学卒業の経歴を持つ男性で、私の知らない現代曲を弾いていた。弾き終わった後に審査員から質問を受けているのが外から見える。質疑応答があるのだろうか?
私達の番でステージに上がると予選とは雰囲気が微妙に違う。全楽章を弾き終わってお辞儀をしても質問はされなかった。翌日、発表の事は忘れて普通に過ごしていたら、私のピアノの先生からCongratulations! と携帯にメールが来た。もしやと思って急いで掲示板へ行くと既に何人も集まっているので、遠巻きから見てみると何人もの名前がある。掲示板には優勝者として5グループ(独奏、室内楽含む)が張り出されていた。私は優勝者は一人または1グループだと思っていたのでちょっと拍子抜けになった。
このコンクールでは審査員が良いと思った演奏は何人でも挙げているのではないだろうか?だから審査員も音楽を楽しんで聴いている空間だったと思う。そして良いと挙げられた名前を学部長と教授で、日頃の授業演奏も加味して5グループに絞ったのではないかと私は勝手に推測する。とにかくロンジーは間口が広く、生徒達に演奏する機会を与えて自信を付けさせる教育方針のようだ。お陰で私はここにいる。
優勝者は5月の卒業式前夜祭のコンサートで授与式があり、卒業記念コンサートで演奏する。幸いなことに私は演奏パートナーに恵まれて、例え小さいコンクールにせよ優勝できたのは大変嬉しい。因みにこのオーボエ奏者Mさんは、学内のコンチェルト・コンクールとボストン管楽器コンクールにも同時優勝し、3冠を成し遂げた人である。このコンクール後、オーボエ奏者と私はチャールズ・ホテルのレガッタ・バーで学校の評議員等を招待するクリスマス・パーティーや大口寄付者(?)などを招待するパーティーにもお声が掛かり演奏させてもらった。ボストンのど真ん中にある会員制の様な素晴らしい場所で演奏するのと、学校で演奏するのとは随分雰囲気が違うが、コンクールのお陰でちょっとづつ視野も広がってきた。ロンジーの教育方針の一つ、生徒達に多くの演奏する機会を与えるという恩恵を頂いて大変感謝している。小さい学校ロンジーで私の居場所が出来つつある。


25. 初リサイタル

  学校卒業時には論文の代わりにリサイタルが義務付けられているが、初年度のリサイタルは希望者のみ行われる。私は素晴らしい共演者と演奏する機会があるのはこの上ない喜びなのでリサイタルを希望した。このリサイタルでは学校は部屋を貸してくれるだけで後は全て自分で準備しなくてはならない。
初年度のリサイクルのプログラムは学校の指定がある。古典派、ロマン派、1960年以降の室内楽から1曲づつと、コンチェルトの伴奏が義務付けられている。共演ピアノ科なのでオーケストラ伴奏をピアノで弾く課題なのだ。今回はアンニャの希望でシベリウスのヴァイオリン・コンチェルトの第一楽章を選んだ。共演者はオーボエのMさんとヴァイオリンのアンニャ。コンチェルトはリサイタルの為に急遽追加したが、他の曲は学年末試験でも弾くので特に問題はなかった。そしてアンコールにヴァイオリンとオーボエとピアノのトリオの小品をオーボエのMさんが見つけてきてくれた。

アンコール

 小さい部屋でのリサイタルなので、親しい友人達、大家さんのイザベラ、そして私のピアノの先生と後期の室内楽グループの担当教授 Struss先生、ほぼ身内の観客のみだ。とはいえ観客が一人でも、やはり人前で演奏するのは緊張する。それにしても入学して9ヶ月後にこんな素敵なリサイタルが出来るとは思わなかった。
演奏後はささやかなレセプションも計画した。初めて自分が開くレセプションなので幾つものケーキを焼き、ルームメイトのユーシンにも手作りケーキを差し入れてもらった。

 日本では普通のコンサート後にレセプションをする事はなく、打ち上げと称して出演者と一緒に食事に行ったりする。コンサート前は練習あるのみだ。いったい音楽とケーキを焼くのとどっちが主なのかと問われそうだが、私はアメリカ流のレセプションを是非やってみたかった。と言っても今回のリサイタルは昼間なので簡単なティータイムのレセプションだ。頼まれたリサイタルの伴奏では責任をいつも感じるが自分のリサイタルは気が楽で一層楽しい。アメリカでの自分自身の初めてのリサイタルは、一日中幸せな気持ちで過ごした。
そしてレセプションでは、気になっていたStruss先生の大事な家の鍵をお返しさせて頂いた。弾きたい時にいつでも弾けるのが一番で、やはり自分の部屋に中古の電子ピアノでもいいので是非欲しい。Struss先生宅での練習の素晴らしい思い出は、感謝と共に幸せな記憶としてしまっておこう。

 この後、学年度末の演奏試験を済ませると、初年度の授業は全て終わる。留学生として一年生をなんとか過ごす事が出来たのは感慨深い。毎日が盛り沢山過ぎて過呼吸になりそうになった事もある。この症状は私だけでなくヴァイオリンのアンニャも精神的に追い詰められ、私の主治医の I 先生の診察に連れて行った事もある。特に後期は先生も生徒も皆疲れ切っている。それほどアメリカの大学の授業は大変だ。学期末には各クラスの先生評価を生徒全員が提出するので、先生も常に授業の工夫や改善を求められる。
一学年を終えられた安堵感と、そして留学期間が残りあと一年しかない事に愕然とする。たった一年では少な過ぎる。英語も殆ど上達していないし、音楽を楽しむ事がやっと分かりかけたきたが、まだ全然身に付いていない。もっと音楽仲間も増やしたいし、学校以外のアメリカの一般生活もいろいろと知りたい。もう半分ないと捉えるか、まだ半分あると捉えるかは私次第だろう。


26. フォーカル・ジストニアの治療

 フォーカル・ジストニアの治療は脳・神経・筋肉・呼吸法・栄養素・精神面など全てに関わっている。授業では引き続きbody/mindのクラスを取るつもりだが、それ以外の治療法も受けてみたかった。それでインターネットで調べて色々な治療法を試す事にした。
大きく分けて、正しい演奏法に改善するものと、神経や筋肉の故障を治療するものに分けられる。いずれも簡単に理解が出来たり改善されるものでもなく、短期滞在の留学生にはほんの入門で終わってしまった。演奏時の身体の使い方や弾き方の改善法としてトーブマン・アプローチを勧められたが、それを受けるには基本的に演奏の中断を前提にしていたので継続して受けられなかった。ここでは身体的な治療のエピソードをいくつかご紹介したい。

 カイロプラクティックは治療の前に先生がレントゲンを撮ってその結果を見て治療方針を決め説明してくれる。私の場合は学校の医療保険の「職業上の疾患」という事で$0だった。しかし一定の期間に指定された回数の治療を受けねばならず、達しないと保険適用外で治療費を払わねばならない。授業や試験などで通う時間が取れないと、先生から直接電話がかかって来て医療費が自費になってしまうと警告を受ける。職業上の疾患という事で、バークリー音楽院はじめ他の音大の生徒や音楽家が患者に多かった様に思う。アメリカのカイロプラクティックの先生は皆ドクター(博士号)の学位を持っているが医師ではない。医者のドクターはアメリカではMD(medical doctor) と言う。このカイロプラクティックは首と腰に特化した治療で残念ながらあまり効果がなかった。

 ロルフィングは身体の統合組織(骨、軟骨、腱、靭帯、筋膜など)のネットワークのバランスを回復する事が目的で、1セット10回の施術で費用も高額となった。 なので最初から10回通えないと分かっている人は受けられない。フォーカル・ジストニアのピアニストで有名なレオン・フライシャーがこのロルフィングで真のリラックスを知ったと紹介していた施術なので是非受けたかった。フォーカル・ジストニアの原因はまだはっきり解明されていないが、私の呼吸が浅いこと、姿勢が軍隊式の様に真っ直ぐなこと、歩き方も自由に力が抜けていないこと等指摘されたが充分に英語を理解する事が出来ずに悔やまれた。しかし背術後、宙に浮く様な軽い身体と清々しい気持ちで、家に戻る時には鼻歌が出たものだった。

 左手のいくつかの指を庇って弾いていると他のところも悪くなり、身体全体が固まって疲れが抜けない。ボストンのチャイナタウンにあるマッサージ師の治療には驚いた。この筋膜リリースの治療はスプーン状の物で筋に沿ってこそぐのだが、これは涙が出るほど痛い。私は若い時からマッサージを受けているので強いマッサージにも慣れているが、そんな私でも涙が出る。あまりの痛さに「やめて下さい!」と言っても「いいえ、これをしないと良くなりません!」と全然手を緩めない。まるで手術の様だ。しかしこれをしてもらうと首、肩、背中、腰がピアノを弾いた後も以前より良い調子が続く。
ある日、新しいルームメイトのクリスタが「アツコ、どうしたのその背中!暴力を振われたのか?!」と驚いて私に聞いた。私は気が付かなかったが、首から背中を通って腰まで一面濃い紫色になっていたらしい。クリスタはそんなマッサージは良くない、辞めなさいと言う。合わせ鏡で見ると背中が一面刺青の様になっている。確かにこれは皮膚的にも問題があるかもしれないが、これをすると身体がとても楽になる。この濃い紫の次は青色へ、そして黄色へと色が変化していき、元の肌色に戻るのに1ヶ月もかかった。そしてクリスタの助言にも関わらず何度も通った。この施術師さんはマレーシア人で、特に優れた技能者の資格でアメリカで働けるヴィザを取得し、アメリカ市民権を持っている人と再婚して自身もグリーンカードと市民権を得てマレーシアから子供を呼び寄せ、そして離婚した女性だ。アメリカにはこういう例が多いが、兎に角指1本でアメリカで成功しているアジアン中年女性の逞しさとパワーを施術を受ける度に感じていた。

 その他にもいくつか治療を受けてみたが、全ての治療は一長一短で私の手は一進一退である。それでもこれらの治療やクラスの中で音楽と身体の仕組みや役割を学ぶ事で、少しは科学的に身体の事を考えられる様になったと思う。カイロプラクティック以外は保険は効かないので治療代は大きかったが、留学中の経験と学びの授業料だと思っている。 


27. クララのホームコンサート (Clara’s musicale)

 musicalのスペルの最後にeが付くと「個人宅の音楽パーティー」という意味になる。この音楽パーティーの主催者クララは台湾系アメリカ人で、大学で数学を教えているがピアニストでもありニュートン市のLifetime Larning Concert Series 生涯学習コンサートシリーズのプロデューサーでもある。彼女の家はスタインウェイのグランドピアノはもちろん、キッチンもダイニングも広く、家の周りに何台も駐車できるスペースがある。

 家も素晴らしいが、実はその音楽パーティーのメンバーがなんと言っても凄い。クララはハーバード大学とマサチューセッツ工科大MITを卒業している博士だが、その関係でメンバーはハーバード大学やMITの教授が多い。コンサートは午後5時から10時位までで、好きな時に来て好きな時に帰る。このパーティーはポトラック(持ち寄り)なので、必ず何か一品持って行くのが慣わしだ。子供連れで来る人もいるので子供用の部屋には玩具も沢山用意されている。1回の出席者は30人くらいだろうか?クララの交遊関係は大変広くコンサートのテーマによって招待客は違う様だ。室内楽を楽しむ人がが多く、メンバーが揃った曲から演奏を始める。夕食時なのでダイニングルームで食べながら聴いている人もいるので、コンサートというより室内楽を一緒に楽しむ会であり、情報交換の場なのだろう。にも関わらず曲目は大変レベルの高いもので、ロンジーのクラスよりレパートリーは広く新作もある。

 この音楽パーティーのメイン・ピアニストEさんはハーバード大学の数学教授であり作曲家でもありオペラも書いている。彼は若い時はチェスでギネスに認定され、最年少でハーバード大学の教授になった人でいわゆる天才である。私がこの音楽パーティーに参加したきっかけは、このメイン・ピアニストEさんが来られない時にピンチヒッターとしてお声がかかった。クララのトリオのメンバーに日本人のヴァイオリン奏者Tさんがいて彼が私を誘ってくれた。メイン・ピアニストのEさんを考えると私がピアニストというのはおこがましいが、Eさんに限らず皆さん室内楽をよくご存知なので是非引き受けたかった。初めてのクララの音楽パーティーでは、顔繋ぎの挨拶を兼ねて私は五目チラシ寿司を沢山作って持って行った。これは大成功で以降も気合を入れて様々な料理を持って行く。

 クララは私のことを面白いと思ってくれて、嬉しい事にこのホームコンサートに準レギュラーの様に誘ってもらっている。メンバーに慣れてくると私のやりたい室内楽をリクエストさせてもらったり、私の友人も連れて行って演奏させてもらった事もある。そしてニュートン市の生涯学習コンサートでは私の企画で「ボストン出身の作曲家と詩人」と「オペラへの誘い」の二つのコンサートもさせてもらった。全てはクララとの出会いから始まりだった。
この音楽パーティーの特色は、ルネサンス音楽からヨーロッパの民族音楽を言語で歌ってダンスしたり、作曲家でもあるメインピアニストのEさんの新作なども含まれ、誰でも知ってる有名な曲は少ない気がする。きっと長いこと続けているので、どんどんレパートリーを広げているのかもしれない。大体2ヶ月に1回のペースのようだが、こう言う音楽パーティーは住宅事情もある日本では難しいかもしれない。

 卒業後もクララにはボストンでのコンサートの機会をもらっていて、今日に至っている。このコロナ禍でもクララのホームコンサートはzoomによるzoomusicaleとしてオンラインで続けられている。対面での室内楽が出来ないので家族間演奏が多い中、私は歌手のMさんとiMovie(ビデオ編集)による演奏で参加させてもらっている。このiMovieのお陰で私がどこにいようとも誰とでも共演できるので私の演奏行動は飛躍的に広がった。とは言えライブ演奏での感動の共有にはとても敵わないことを改めて思う。ロンジーでは若い学生達と、そしてクララのホームコンサートではアマチュアの大人達との共演で、まさに年齢国籍性別を越えた音楽を楽しんでいる。そして音楽以外の多分野の教授達と知り合う機会にもなった。


28. サマー・セミナー

 アメリカの大学の夏休みは長い。五月中旬から新学期の始まる八月の下旬まで約3ヶ月半の夏休みだ。私は怒涛の一年から解放されてゆっくり普通の生活を楽しみたかったが、周りの留学生は母国に里帰りした人が多く、またアメリカ人の生徒はすでに様々なサマー・セミナーに申し込んでオーディションを受けていた。アメリカでは長い夏休みは学校外での学びとして大変重要なのを私は留学前には全く知らなかった。私も3〜4ヶ月も遊んでいるのはもったいない。

  そんな中、ロンジーが室内楽のサマー・セミナーを初めて主催することになった。ロンジーは私が入学した後にニューヨーク州のBard Collegeと提携して正式名称はLongy School of Music of Bard Collegeという長い名前になったが、そのバード・カレッジのキャンパスの一つがマサチューセッツ州のグレート・バーリントンのSimon’s Rockにあり、ロンジーがそこで初めて室内楽サマー・セミナーを開くのだ。奨学金を申請して食費のみで参加出来る事になった。バード・カレッジのキャンパスは自然に囲まれた広い敷地に幾つかのユニークな建物がバラバラに建っていて、有名な建築家フランク・ゲーリー(Frank Gehry 1929-)設計のホールまである。車で数分の所には小洒落たレストランやお店、高級風なマーケットもあり、避暑地としても最高な場所だそうだ。

 2週間のセミナーはロンジーの先生の他に素晴らしい2人のヴィオラ奏者を講師に加えた。その効果は覿面で他州からも多くのヴィオラの参加者が集まり充実した室内楽のプログラムが組めた。セミナー初日に曲目、グループメンバー、コーチ名、時間割、レッスン室名などが壁に張り出され、セミナーの最後にホールで演奏すると書かれている。
私は2つの室内楽グループに参加する。
1. ブラームス作曲 「2つの歌曲」Op.91 (ヴィオラ&アルト&ピアノ)
2. デュリュフレ作曲 「前奏曲、レシタティーボと変奏」Op.3 (フルート&ヴィオラ&ピアノ)

ブラームスの共演者

 ブラームスはロンジーのクラスで勉強した曲だったので私には準備しやすい曲だったが、同じ曲を違うメンバーでもう一度勉強すると当然違った音楽が出来てとてもよいアンサンブルだった。
問題はデュリュフレの曲で、これは譜読みも合わせも大変難しかった。私はこの作曲家も作品も知らなかったし楽譜もその時に与えられた。ソロのセミナーでは自分の希望曲を持参すれば良いが、アンサンブルのセミナーはその場でグループと曲が決まるので練習が大変だ。もしロンジーのクラスだったらこの1曲で一つの学期を使うだろう程の大曲である。私の左手には弾きにくい曲があり、この曲はワースト3に入るほど本当に大変な曲だった。手間取った分だけ愛着も湧き、私はセミナーの思い出として忘れないだろう。

 ここは3食ビュッフェ・スタイルの食事で、どれもとても美味しくデザートも充実していて、レストランやホテルの食事より豪華のように感じる。2週間も食事の心配をしなくてよいのは初めてだった。
広いダイニングで若い学生達はすぐに仲良しグループを作り賑やかに食事をしている。留学生は私一人で、他校の参加者も混じっての若者の会話について行けない。それを見ていた学部長が、私に先生グループのテーブルに来て食べる様に席を作ってくれた。先生グループのテーブルはロンジーのコーチ陣とそのファミリーで、学部長の心使いには感謝した。こういう中で一人ポツンと食べるのは主催者側としても望ましくなかったのだろう。
その先生グループのテーブルで一人の日本人女性に紹介された。ロンジーのオーケストラ指揮者ジュリアン先生の奥様で、ヴァイオリニストのMさんだった。噂にはお聞きしていたが今迄お目にかかった事はなかった。一歳の可愛いお嬢ちゃまも一緒で、私が「抱っこする?」とジェスチャーすると直ぐに私の首に手を巻き付けてきた。なんと可愛い!この様な触れ合いはアメリカに来て初めてだが、どうやら彼女は私を日本のお婆ちゃまと間違えたらしい。私は子供が大好きなので、この様な家庭的でホッとする時間を持てるとは想像もしなかった。このグレード・バーリントンの環境も手伝って、心身共にとてもリフレッシュできた。ここは練習室も沢山あり、室内プールやジムもあり食事の心配もいらない。
途中からチェロの女性コーチも参加されたが、一歳の息子さんのベビーシッターとして先生のお母様が付き添って来た。最初の食事のテーブルでそのお母様は、私をヴァイオリニストの母親でやはりベビーシッターで来ているのだと思い込んでおられた。それはそうだろう、日本人同士でお婆さんとしての年齢に全く不足はない。周りにいる先生方は慌てて私は参加者だと訂正していたのには笑ってしまった。

 セミナー終了コンサートのあとレセプションが開かれたが、遠くの州から子供の演奏を聴きに来ているご夫婦も多い。ロンジーでも自分の子供のコンサートや卒業式には遠くからでも駆けつけて、一緒に喜びを分かち合っているのを見る。親がお金を出しているのなら、どの様なセミナーか、どの様な学校かを確認したり子供の成長を見届けるのは当然で、また家族として最高の幸せと考えているようだ。親が自分の子供には才能があり素晴らしいと公言するのを何度か聞いたが、日本では聞いたことがない。私は勝手にアメリカの家族はドライで関わりもサッパリしていると思っていたがどうやらそうではないようだ。むしろ日本よりずっとファミリー意識が強いと感じる。
ここでは短期間に集中して音楽をする事と、他校の共演者達との新鮮な合わせを経験出来た私の初サマーセミナーだった。


29. アパートへお引越し

 私はこのWatertownの家を、留学が決まった時にロンジーのハウジング情報から見つけた。この家での一年間、3人のルームメイトと大家さんのイザベルに一からアメリカの生活を教えてもらった。ここは正に私のアメリカでの出発点だった。しかし残りの一年、もう少し違う世界も見てみたい。2年生は更に忙しくなり、体力的にも厳しいと予想される。もっと学校に近い所で住めないだろうか?
そんな中、ダルクローズ科の韓国人留学記Hが私にルームシェアしないかと誘ってきた。彼女は40代前半で既婚者の作曲家であるが、ダルクローズ教育者の資格を得るためにロンジーに単身留学している。ESLクラスでも一緒なのでお互いの事は良く分かっている。心は動いた。

 夏休みは卒業した学生が引越すので、部屋探しには良いタイミングだ。早速二人で不動産屋に行くと希望に近いアパートが見つかった。そこは1ベットルーム、リビングルーム、玄関の前は4畳半(ここで日本の畳の数え方が出てくる!)位の空間、単身者用の狭いキッチンとバスルームだが、何しろロンジーまで歩いて近く、周りには小洒落たお店が沢山あり住人はハーバード大学の学生がほとんどだ。やはり場所が良いので家賃は高い。二人で折半してもWatertownの家より1ヶ月250ドルも高い。1年だけならと決めた!

 私は日本でも不動産屋さんに入った事がなく、新ルームメイトになるHのお陰で契約まで漕ぎつけて、インターネットや公共料金の契約もどれが良いのか彼女が調べてくれた。アパートだとこういう事から始めなくてはならないのを私はすっかり失念していた。Watertownに間借りをする時は全て揃っていてルームメイト達で頭割りしていた。大家さんとルームメイト達は私が困った時はいつでも助けてくれた。その有り難みは今になってよく分かる。Hは既に一年間一人でアパートを借りて住んでいたので、どう言う手続きが必要か知っていて実に頼もしい。ただ彼女は一人で決断するのは苦手らしく、私の後押しが必要の様だ。

 いざアパートに住むとなると家具付き物件ではないので、全て揃えなければならない。ベットはクラスメイトが卒業生の物を安く譲ってもらえるように交渉してくれた。こういうのが本当に有り難い。これが思いがけなく素敵なベットでフレームはブドウの葉や蔦のデザインの白いフルサイズベットだった。私の部屋となった暖炉付きのリビングルームにピッタリだ。今迄使っていた長机と椅子、照明、小さい整理ダンス、衣類、そして分解されたベットの引き取りとアパートへの運び入れは、元ルームメイトのデニスが小型トラックを借りて手伝ってくれた。私一人では何も出来ないのを痛切に思い知る。あのWatertownの生活があったから、このケンブリッジのアパート生活が可能になったのだと思う。そしてロンジーでの一年間で私が良い人間関係を築けていたのは本当に嬉しかった。
念願の中古の電子ピアノもネットの掲示板で買った。トントンと思い通りに素敵な「私の城」が出来てきた。新ルームメイトのHとは、大人なのでお互いを尊重しつつ穏やかに、そして共通の授業の情報も共有しつつよい距離を持てそうだ。これで忙しくなる新学期の準備は整ったと言うより上出来だ。
実際に新学期が始まっても、ロンジーまでは10分もかからないので時間の節約も出来るし、ランチも家に戻って食べられる。クラスが休講になっても家に戻ってピアノの練習も出来るし、昼寝も出来る。アメリカでは夜8時からのコンサートが一般的で、晩ごはんの後にもう一度ロンジーに行くのも苦にならない。レセプションが夜遅くに終わっても安全に歩いて帰れる。

 このアパートは大通りに面した大きな建物で、1階はジュエリー店、スポーツショップなどいくつかの店が入っている。地下には大きな駐輪場とゴミ置き場がある。市によってルールが違うので、壁には写真付きのゴミ分別の手引きが至る所に貼られている。粗大ゴミの場所も広く、引越しで出たまだ使える物も沢山置かれている。欲しい人は自由に持って行く事が出来、私はここで小さな電気釜を見つけて使っている。
4階はランドリー・コーナーになっている。洗濯機と乾燥機が何十台も置かれていて、それぞれの機械には自動販売機の様にコイン入れが付いている。1回の洗濯機代は日本円で当時は200円〜300円で、乾燥機代も別に必要なので1回の洗濯代も安くはない。特に土曜日が混んでいて、洗濯機を回してから一度自室に戻り終了時間に戻ってくる。中には忘れて長い事置きっぱなしで次の人が使えない時は、置きっぱなしの洗濯物を机に移して洗濯機を使う。アメリカ人は週に一度のペースでまとめて洗濯をするのが普通のようだ。食器もこまめに洗うのではなく、大きな食洗機で数日分まとめて洗う。アメリカ人はその時間と労力を他の事に有効に使えると考えている。このアパート暮らしはとても新鮮に感じる。


30. 台風の備え

 ボストンに台風が上陸する事は滅多にない。アメリカではハリケーンと言い、日本では台風と言い、インド洋やオーストラリアではサイクロンと言うのもアメリカに来て知った。アメリカの新学期は8月末だが、ボストンの夏秋に慣れてしまうと台風の事をすっかり忘れてしまう。

 私達のアパートにはTVもラジオもない。ニュースはネットで見ている。ある日学校から「明日は大型ハリケーンが来るという予報が出されたので休校とする」というメールが来た。今は荒れた天候状況ではないので私とルームメイトは驚いた。休校になる程の大型ハリケーンなら、それに備えなくてはならない。アパート自体は古くてもがっしりしたアパートなので心配は少ないが、懐中電灯、水、食品、ペーパー類などを慌ててチェックした。この部屋の冷蔵庫は飲み物専用の様に小さく、アメリカの大型冷蔵庫に大量食材の生活とは正反対だ。とにかく近くの食料品店に買い出しに行った。時遅し!棚は既に空っぽだ。こういう時に留学生や英語の出来ない移民の人達は出遅れる。ロンジーからのメッセージがなかったら、停電になっても訳が分からずアタフタしていただろう。ペットボトルの水も全て売り切れだ。しょうがないので売れ残ったスナック菓子や缶詰だけでも買うしかない。

 家に戻ってポットでお湯を沸かし、鍋やコップに水を溜め、普段使わない古い浴槽にも水を沢山張った。そうして不安な一夜が過ぎた。幸いにもこのエリアは全く被害はなく、ハリケーンが来たのも分からなかったくらいだ。ホッとしながら部屋をチェックしてみると浴槽の水は1/4しか残っておらず、浴槽の底には砂らしき黒いザラザラした物が沢山ある。この浴槽の排水栓が緩いのにも驚くが、水がこんなに汚いとは知らなかった。鍋やポットの水は大丈夫そうだが、一度浴槽の水を見た後は何だか気持ち悪い。ボストンの水はそのままでも飲めるが、浄水ポットに入れた水を冷蔵庫に入れて飲んでいる人が多い。日本の様にどこの蛇口からでも安全で美味しい水を飲める水道システムは世界でも珍しい。国によっては口にする水と洗濯などの生活水の水質が違う国もあると聞く。そして水道代も安くない。日本を出てから日本の水道システムの素晴らしさや日本の良い点を再認識するのも留学ならではのことだ。

 隣町に住むクラスメイトは街路樹が倒れて電線が切れ、そのエリアは停電が4、5日も続き道路も閉鎖されて学校へ行かれなかったと後日聞いた。
フロリダ、ジョージア、サウス・カロライナ、ルイジアナ、テキサス州などは夏から秋にハリケーンがよく上陸する地域だ。避難勧告が出されると一斉に自動車に荷物をいっぱい乗せて、他の州に避難する車の大行列映像をニュースで見る。日本での公民館や学校に避難する感覚からみると信じられないほどスケールが大きい避難で、住民も積極的に行動する。アメリカ人の危機意識はすごい。そして自己責任という言葉も私達に重く響く。今回は幸いにも何もなくて済んだが、アメリカで生きるには普段から個人の自覚と責任が強く求められる。私も浮かれて留学生だからと楽しんでばかりではいられない。


31. グループSubito結成

 Subitoスービトは音楽用語で「すぐに、ただちに」という意味だ。このSubitoは私達のグループ名で、メンバーはヴァイオリンのアンニャ(ロシア人)&ダブルベース(コントラバス)のクラウディア(コロンビア人)&ピアノのアツコ(日本人)のトリオで、皆ESLクラスの生徒である。そもそもは、私がESLクラスの始まる前に部屋が空いていたのでピアノを練習していたところ、クラウディアがそれを聞いて「アツコは天才だ!なんて素晴らしい!是非自分の伴奏者になってほしい!」とラテン人の熱烈ラブコールをしてきた。そこまで言われたら「豚もおだてりゃ木に登る」であっさり引き受けた。クラウディアはコロンビアの国費留学生で、私がショルダーバッグをバスに忘れた時にお世話になった人だ。直ぐに弦楽器科のセミナーがありクラウディアと私はガーシュインの小品を弾いた。その時にクラウディアは音楽の勉強がまだ浅く、人前で弾くのに慣れていないのを知った。南米では財政面や教育面でクラシック音楽を小さい時から勉強する基盤がないのだと察した。一方のヴァイオリンのアンニャはロンジーの学年ただ一人のアーティスト・ディプロマで授業料全額免除の優等生だ。そしてアツコは彼女らの母親より年上のフォーカル・ジストニアを患っている日本人だ。見た目も音楽のレベルも全く異なり、しかもトリオとしても特殊な編成の異色のグループだ。

 ロンジーの室内楽グループの授業では学校側から割り当てられたメンバーだったが、2年生になると曲や共演者のリクエストがあれば申請できる。そこでクラウディアがアンニャと私を誘った。私はクラウディアの伴奏者で、アンニャは私の共演者の一人だが、クラウディアがチェロなら願ってもない話だ。コントラバスのトリオ曲はあるのだろうか?それならばいっそクラウディアは南米人なのでピアソラをやりたいとリクエストした。学部長はこの編成のトリオは珍しくメンバーも予想外の3人だが、大丈夫か?と聞いてきた。クラウディアはピアソラのREVOLUCIONARIO(革命家)をこの3人の編成用に編曲するので是非やらせて欲しいと言い了解を得た。学部長は私達のトリオにベネズエラのフルート奏者のグラナドス先生をコーチに決めてくれた。日本でラテン音楽をラテン系の先生に習ったり共演する事は到底出来ないので私はとても興奮した。クラウディアはこのトリオの名前をSubitoと命名し、イラストやロゴも作るほどこのトリオに心血を注いだ。クラウディアが編曲し、その楽譜をコンピュータの音楽アプリに打ち込むのは相当な労力と時間がかかるだろうが、こればかりはアンニャも私も助ける事は出来ない。少しづつの編曲はコーチのレッスン前ギリギリに毎週出来上がるが、クラウディアに文句は言えない。プリントされた楽譜は、特にヴァイオリンとピアノの掛け合いが技術的に大変難しいものだった。

 そしてこのトリオで一番の問題児はアツコだった。私は半世紀以上クラシックピアノを弾いているが、クライマックスに向かう時はテンポが先に進む様に弾いてしまう。例えばショパンの曲はルバートというテンポの伸び縮みが必須な様に、自然と呼吸に沿ってテンポが変わる。ところがラテン音楽で一番重要なのは同じテンポで、どんな事があっても冷静にリズムを細かく刻むのだという。これが大変難しくトリオの練習ではいつも「アツコ、テンポ!テンポ!」と毎回言われる、これには本当に泣かされた。それでも3人の熱意とチームワークでクラス終了コンサートではバッチリ熱い演奏が出来た。演奏後「Wow!! Cool!」とあちこちから口笛や声が掛かる。これだからアメリカのコンサートはやめられない。アメリカの観客は実に反応豊かで、これを経験するだけでもアメリカに来た甲斐があるというものだ。ある先生にこの楽譜が欲しいと頼まれたがクラウディアは即座に断った。日本人は先生に頼まれたら断りづらいが、クラウディアはそういうしがらみを切って意見をはっきり言う。いつか彼女は編曲のビジネスでも考えているのだろうか.....。

クラウディアのイラスト

 その後Subitoはロンジー主催のミーティングに他校の先生方が参加された時など、校長から演奏をする様に頼まれた。そういう場では訪問者達から色々な質問を受ける。きっとヨーロッパ・ラテンアメリカ・アジアの生徒が年齢を超えて音楽を学んでいるサンプルだったのかもしれない。何せ私達は自分達で結成したグループで連帯感は強い。後日校長のアシスタントからthank you メッセージと30ドルのスターバックスのプリペイドカードをもらった。お役に立てて嬉しゅうございます♬

 後期にもこのトリオはラテン音楽を続けた。そこで私はアンニャが本当に凄い才能があるのを目の当たりにした。OBLIVION(忘却)のアンニャの解釈とそれに相応しい弾き方は鳥肌が立つほど感動ものだった。私の演奏がいかに陳腐で表面的であるのかを思い知らされた。シンプルでゆっくりなメロディーは人生そのものを表している。テクニックが素晴らしい人は多いが、アンニャはまだ20代前半なのに感性の深さが違う。私はといえば、やればやるほど音楽がどんどん私から遠のいて行く気がする。
私は自分の手の病で思うように弾けない事にいつも後ろめたさと不甲斐なさを感じていた。だからついつい病の手を言い訳にしてしまっていた。「アツコは上手、私も上手。だから二度と”私は下手だ”とか言わないで!もし言ったらコンビを解消する」とアンニャは私に恐い事を言う。こう言う事をストレートに熱くシニアの共演者に本気で言うアンニャはやはり凄い人だと思う。実にありがたいアドバイスだった。


32. オーケストラの一員

 オーケストラの指揮者ジュリアン先生から思いがけないお誘いを受けた。ロンジーの次回の定期公演にサン=サーンスのシンフォニー第3番「オルガン付き」を予定しており、その中にピアノの連弾があり私に声をかけて下さった。ジュリアン先生とはサマーセミナーで知り合ったのだがそれ以後も親しくさせて頂いている。私は小さい時からオーケストラとピアノ・コンチェルトを弾くのが夢だったが、現実にはピアノ・コンチェルトを2台のピアノで弾くのが精一杯だ。今回はオーケストラの一員として、ほんの短いパートをピアノ連弾で弾くという今の私には願ってもないお誘いだった。やり残した事をしたくて留学したが、まさかここで例え少しでもオーケストラと一緒に演奏出来るとは夢にも思わなかった。しかも連弾の相手は私が決めて良いという。

 さっそく連弾の相手探しを開始。ピアノの先生が同門のクリスに声を掛けた。同じ先生なら一緒に連弾のレッスンを受ける事も可能だ。皆オーケストラと弾きたいに違いないと思い込んでいた私に、なんと彼は断ってきた!理由は忙しくてオーケストラとのリハーサル時間を作れないと言うのだ。ガーン‼︎ ならばダメ元で台湾人の素晴らしいピアニスト、アイインを誘った。彼女は台湾の国立音楽大学を卒業後ボストン音楽院を卒業、そしてロンジーに来た人で、その場で快諾してくれた。ロンジーの生徒の中にはプロ並みの素晴らしい生徒が数人いるが、アイインもボストン音楽院で伴奏要員ピアニストとして働いているし、国際ピアノコンクールも受けている。そのアイインがお金も出ないロンジーのオーケストラの中の連弾を、しかも何回かリハーサルに出なくてはならないこの依頼を引き受けてくれた。正直に言って私はこれでピアノパートは万全だと確信した。

 ピアノのパート譜を見ると、なるほど後半からの演奏で物足りなさを感じるくらい出番は凄く少ない。室内楽では通常ピアニストは総譜で練習するが、これはパート譜のみだ。見ると何十小節休みの数字が至る所に付いていて、どこでピアノが入るのか分からない。さっそく図書館にこの曲の総譜を借りに行ったが、既に誰かが借りている。通常貸し出しは2週間だが、ずっと貸し出されたままという事はクラス扱いで長期貸し出されたのだろう。オルガニストだろうか?パイプオルガンはこのシンフォニーのメインだし、パイプオルガンの出番も後半で休みも多い。一度総譜で全体を見て曲の構成を確認出来ればメロディーを覚える事は可能だと思うが、パート譜のみで何十小節休んだのかなど計算した事がない。曲途中の48小節とか60小節休みに加え、拍子も変わるなんて絶対に無理だろう。オーケストラのメンバーはいつも頭や指で休みの小節を数えているのだろうか?

 指揮者の先生に入り方がわからないと伝えると「大丈夫、私がピアノの入る前に合図をするから指揮を見て」とおっしゃる。ピアノの位置は一番奥で、指揮者の表情をハッキリ見るにはメガネが必要だ。ところがメガネを掛けると今度はピアノの鍵盤が歪んで見える。そしてグランドピアノの譜面台は少し離れているので、それも目の調節が難しい。この時ほどシニアが恨めしく思った事はない。音楽する以前の問題である。指揮者が合図して下さっても、それを見ての準備ではもう遅れる。しかもピアノの前には弦楽器群のヴァイオリン集団で、私の直ぐ横には管楽器群のホルンのラッパが私に向かっている。ピアノは打楽器群に入り打鍵すると直ぐに音が出る。客席でオーケストラを聴いているのとは大違いで、楽器によって音の出方がそれぞれに違い、指揮棒を振っても直ぐに音が出るわけではない。一体全体どうなっているのかパニックだ!

 その救世主は連弾相手のアイインだった。彼女は何十小節休みでも、バッチリ入りがわかっている。私は彼女がピアノの鍵盤に手を出したら、私も出して「そろそろ出番だな」と音楽を聴いて弾く。まるで笑い話だが、もしアイインが失敗したら私がカバーするべきところ、私ももれなく失敗する。まさにアイイン頼り、他力本願。もしかしたら連弾相手を断ったクリスは、オーケストラの中のピアノが独奏と違うのを知っていたのかもしれない。今、私は全く場違いな所に来てしまったのだ。あとで分かったのだがアイインは台湾の音楽大学では打楽器のマリンバも演奏していたそうだ。打楽器奏者は指揮者以上にテンポやリズムの専門家だ。指揮者のジュリアン先生も指揮科の前に打楽器科を専攻されていたという。だからアイインは何十小節休みでも勘定が出来たのだ。普通のピアニストで総譜なく出来る人はいないだろう。打楽器奏者でしかも優秀なピアニストでもあるアイインは凄いぞ!そして彼女に目を付けた私も凄い。私は本当にラッキーだ。

 この定期公演は学校のホールではなく、学校の斜め向かいのFirst Church in Cambridgeで行われるのでリハーサルもそこでする。ロンジーのリトミックなどのクラスはこの教会の他の部屋で行われている。ここのサンクチュアリの窓はステンドグラスが並び、間にはランプの灯が点いているのがピアノの場所からもよく見える。こんな雰囲気の中に私が今ここにオーケストラと共にリハーサルをしている。夢か現かぼんやりステンドグラスを見ていると、感動で涙が出てくる。なんて幸せなのだろう....。

  本番のコンサートはワクワク高揚しながらも冷静に迎える事が出来た。普段私は気合が入り過ぎて空回りをして自滅するが、今回はなんといってアイインについて行けば良い。それほどアイインは人間性においても演奏においても私にとって信頼できる数少ない人だ。
この「サン=サーンスの交響曲第3番オルガン付き」は忘れる事が出来ない曲となったが、それと同時に夢だったオーケストラと一緒に弾く事は私には向いていないのがよく分かった。私がやりたいのは共演者と一緒に曲を作り上げていく音楽だ。例えば歌曲では詩の解釈から始まり、特にピアノは歌以上に重要だとも言われる。室内楽は作曲された時代にもよるがピアノは他の楽器と対等に位置し連携がとても大切だ。ピアノ独奏から始めて共演ピアノの楽しさを知り、今歌曲や室内楽に夢中になっている。50年以上経って、私のやりたい正体が具体的にハッキリしてきた。残りの時間は多くないが、自分の居心地の良い場所が分かった。何せ周りにはやりたい事だらけなので迷子になってしまう。


33. アウトリーチ(音楽普及活動)

 ロンジーのExperiential Education (体験教育) クラスは一年間全員必修で、室内楽グループと同様に学校が最も力を入れている授業である。前期では音楽における様々なアウトリーチの例を学び、次に生徒達が作った独自のプログラムをグループで発表する。後期では実際にどこかへ出向いて2回のアウトリーチを実践して、それらのレポートを提出しなければならない。

 このクラスで紹介されたアウトリーチは本当に素晴らしく、もし私がその場にいたら間違いなくハッピーな一日になっただろう。例えば、家族連れがランチを楽しんでいる賑やかなフードコートで、突然ピザ職人が「乾杯の歌」を歌い出す。お客さんが驚いてピザ職人を目で追っていると、なんとテーブルでランチを食べている客が次のフレーズを引き継いで歌い出す。訳がわからない内にパン屋さんも歌い、ケーキ屋さんも歌い、掃除係りの若者も歌う。嬉しくなってつられて歌うお爺さん、喜びをジャンプで表す子供達、それらの反応も相まってとても素晴らしいものだった。これはアメリカの地方都市のオペラ団体によるアウトリーチの映像だが、当初からオペラ歌手達が店員や掃除係りや客として仕込まれている仕掛けだ。これと同じ手法で、電車内バージョンや公園バージョンもある。また有名なヴァイオリニストやチェリストが駅のコンコースの片隅で普段着で演奏を始める。初めは皆通り過ぎて行くが、一人また一人と足を止めて美しい響きに聴き入る。中には有名な音楽家だと気がつく人もいるが、うっとりと数分の音楽に癒されている。こうやって生活の中に自然に音楽が入って人々を和ませる。
以前ニューヨークのリンカーン・センターで見たアウトリーチ・コンサートのテーマはベートーベンだったが、無条件に楽しく感動したものだった。アメリカの多くの歌劇場やコンサートホール、そしてオーケストラにはそれぞれの教育プログラム専門の部がある。コンサートに来られない環境の人、高齢者、子供、病人、貧しい人等に、こちらから出向いて普及活動をするという素晴らしいプログラムだ。


 この前期のクラス内アウトリーチ発表では、私は日本人オーボエ奏者の M さんと二人で八木節を取り上げ、準備して持って行った食器類(材質が違うフライパン、皿、コップ、菜箸、スプーンなど)を広げて参加者に一つずつ選んでもらい、それで一緒にリズムを叩いてもらった。20分のプレゼンテーションで日本の祭りや民謡を紹介し、八木節の独特のリズムを練習し、最後にオーボエがメロディーを吹いて皆がリズムを叩く。これは結構盛り上がった。しかし授業の後にある先生から「食器は食事の為の物で、叩くのは教育上良くない場合もある」というアドバイスも頂いた。楽器がなくても身の回りの物で音楽が出来る事を伝えたかったが、なるほど、もう一捻り必要だ。

 後期は出張して2つのプログラムを実践する。
一つは自閉症の学校 Boston Higashi School での授業をお願いした。このボストン東スクールは日本の武蔵野東学園の姉妹校で、生活療法による自閉症の為の教育でアメリカ全州はもとよりヨーロッパからも生徒が集まっている。幸いにも私の知人がこのボストン東スクールの先生をご存知だったので紹介して頂いた。挨拶の為に初めて学校を訪問した時に、体育や工作、ジャズバンド活動、個人作業なども見学させてもらったが、初めて知る事ばかりだった。そしてここで私達がアウトリーチをする為に、先生方は大変な準備が必要だったのを知った。1クラス約20人の生徒に先生8人位いらっしゃっただろうか。先生達は生徒が急に大声を上げたりじっとしていられない生徒や具合が悪くなった生徒にすぐ対応しておられ、お陰で私達は2回の授業をスムーズにさせてもらった。プロ中のプロの先生達の協力無くして、ふらっと来た学生(私は日本の音楽教諭免許があり、Mさんは国立大学の教養学部卒業であったとしても)が、ここで到底アウトリーチなど出来る訳はない。私達の力不足を痛切に感じた。

 もう一つはボストンの中心地コープリーにあるシニアハウスに伺った。ネットで探して直接アウトリーチ・コンサートをさせて欲しいと依頼をした。シニアの皆さんに単純に音楽を楽しんでもらう1時間のコンサートのテーマは「音楽による世界一周」。出発は日本でアジア大陸からヨーロッパへ行って、アメリカに着くプログラム。オーボエのMさんが大きなポスター用紙に世界地図を書き、マグネット付きの絵は気球の形を模して曲と共に世界一周の旅をする。その国の特徴や有名な作曲家の紹介も取り混ぜ、とても良い雰囲気でさせて頂いた。驚いたのは、参加して下さったシニアの方々は皆さん博識で海外へ行かれた経験も多く、そういう人の体験談も取り入れて和やかな時間を過ごした。
普通、コンサートでは演奏者は綺麗なドレスを着て、一方通行で音楽を届ける。もちろん素晴らしい音楽と演奏はそれだけで充分観客に感動を与える。その一方で敷居の高いコンサートではなく、色々な企画や表現手段を取り入れて音楽を楽しく自然に感じてもらえるコンサートが必要になる。アメリカはアウトリーチの研究が盛んで、とにかく楽しむ事が上手で楽しむ為のアイディアを豊富に持っている。音楽がいかに日常を豊かにし、生活に潤いを与えてくれるのかを再認識する。それをどの様に伝えて行くかはエンドレスの学びだ。


34. ボストン日本祭り

 ボストンが春らしくなるのは、四月のイースター(復活祭)辺りからだと私は感じる。日差しは明るくても風はまだ寒い。そんな時期に「ボストン日本祭り」に参加する事になった。この祭りは在ボストン日本国領事館のサポートを得て、いくつかの日系団体の有志が実行委員となり、ボストンのど真ん中のコープリー駅の正面、トリニティ教会やボストン図書館に挟まれた最高の場所で行われる。今回「ボストン日本祭り」は初めて行われるそうだ。私は日本人のソプラノMihoさん(彼女はボストンで大きな不動産会社の経営者でもある)にお声を掛けてもらい、二人の歌手のピアノ伴奏者として参加させてもらう。待ち合わせは現地集合との事で電車でコープリー駅に行く。既に駅前には多くのテントが張られていて、トリニティ教会側には大変立派な特設ステージも組まれ、大勢の関係者が準備をしていた。

 それぞれのテントには日本文化を紹介するワークショップ、日本とニューイングランドの歴史を紹介するブース、関係団体や企業による出店、日本食販売などバラエティーに富んだものだった。なんとその中に教育実習に伺わせてもらったボストン東スクールの生徒達が作った陶器作品も売られている。さっそく小さな花瓶を一つ買う。そしてステージに一番近いテントには、私のボストンの主治医の I 先生が医療ボランティアとして座っておられた。ステージの進行係や裏方仕事はバークリー音楽院の学生さん達がテキパキと頼もしく働いてくれている。ボストンの日本人会の強い団結を見させて頂いた。

 ステージはダンス、コーラス、太鼓パフォーマンスなど約20番組が予定されており、私達のプログラムは「オペラ夕鶴」「オペラ蝶々夫人」よりの日本のオペラのアリアと「千の風になって」の3曲を演奏した。Mihoさんが家のキーボードをステージに提供してくれたので、簡易ペダルが動かない様にガムテープで幾重にも巻いて固定した。私は野外コンサートは初めての上、高い位置でのパイプ・ステージは風がビュンビュン吹き、飛ばされそうなコピーの楽譜を譜めくりをお願いした裏方さんが必死に押さえてくれている。二人の歌手は中央でスタンドマイクを使っての歌唱だが、ステージ奥のキーボードの伴奏は聞こえるのだろうか? 全てが一発勝負の本番、しかも歌手二人はきものを着ていて風で裾がめくれそうになりながら歌う。実は私にも着物を貸すので着ませんかと誘って下さったが、一人できものも着られず、また着物を着て電車でここまで来る勇気もないので遠慮させてもらった。もし私も着物で演奏していたら裾はめくれ、草履で踏むペダルはガムテープがズレてどんどん遠のき、楽譜はたなびきマイクの音は遠くに聞こえ、いったいどうなっていたことか?

 この「ボストン日本祭り」は日本からアメリカに友好の証として、ボストンの姉妹都市の京都からワシントンD.C.へ桜を植樹した100周年を記念して2012年に始まった。現在では場所を広いボストン・コモンに移し約8万人が集まるアメリカ最大規模の日本祭りにまで成長している。日本とボストン双方の文化を尊重する貴重な機会となっている「ボストン日本祭り」の第一回目に偶然にも参加する機会を得たのは本当に光栄だった。

特設ステージにて


35. Martin Katzのマスター・クラス

 マーティン・カッツは共演ピアニストとしてアメリカで3本指に入る有名な先生で、マリリン・ホーン、フレデリカ・フォン・シュターデなどの世界的歌手の専属ピアニストとしてそれぞれ30年以上、またレナータ・テバルディやホセ・カレーラス(白血病から復活したザルツブルク音楽祭)、そしてヤッシャ・ハイフェッツなどのマスタークラスの専属ピアニスト、またバーンスタインのウエストサイド物語の録音時に立ち会っていた方だ。まさに音楽界の最高峰のお一人で、そして私のピアノの先生 Mr.Mollの先生でもあった。そのマーティン・カッツが特別講師としてロンジーに一週間滞在する事になった。その週はマーティン・カッツ一色で緊張の一週間だった。この小さい学校ロンジーで世界のマーティン・カッツのレッスンを受けるだけでなく、多くのクラスを近くで聴講できるのは大興奮だ。
 共演ピアニストという言い方は最近使われているもので伴奏者の事でもある。昔の様にソロについて行くだけの存在からその重要性が認められてきた。昔はソロの演奏家のみに焦点が当たり、柱の影にピアノを置かされたり、ピアニストの前に大きな花籠や置物を置かれたりと客席から見えない様にされていた。今それらの文献や写真を見るとコメディーかと笑ってしまう位にピアニストの存在は消されている。プログラムにピアニストの名前が載っていないコンサートのチラシを今でもたまに見る。そういう中で、かの世界的なバリトン歌手ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウがステージでピアニストを同等に扱ってから、観客もピアニストの芸術性を認め出したと、世界一の伴奏者と言われたサー・ジェラルド・ムーアの著書にも書かれている。マーティン・カッツはその共演ピアニストの仕事が認められだした渦中の人である。

 少し共演ピアニストの仕事をあげてみたい。
(1). 歌の曲では共演者と合わせをする前に、詩の意味を理解しピアノの役割を考える。
(2). メロディーの息継ぎや発音をチェックする。
(3). アリア(オペラの中の一曲)ではオーケストラの総譜を見て、その楽器のイメージに合う音や弾き方を試みる。
(4). 合わせの段階では共演者とリズムを合わせて縦の線が揃いつつ、音量バランスを考える。
(5.) たまに移調(曲を違う調に移す)を頼まれる。数日前なら楽譜に書いて移調する。
(6). 本番で歌手が歌詞を忘れたり、飛ばした時は素早くフォローする。

これは私が思いつくまま書いたので、優秀な共演ピアニストにしたらこれは極一部に過ぎないと言うだろう。一曲ごとにこれらをするのは私には到底出来ない。以前、メトロポリタン歌劇場の練習風景のビデオを見た時に大きな発見をした事がある。有名なアリアの曲で楽譜上には弱く弾く記号[P]がついている箇所で、ピアニストは何とアクセントを付けて弾いていたのだ。私はビックリして楽譜を見直してみると、その音は歌が入り易くなるきっかけの大事な音で、管楽器が吹く音だった。[P]の記号があっても弱く弾くのではなく、意味がある音にする必要があり、同じ[P]でも管楽器と弦楽器では音量が違う。そのピアニストの仕事に感嘆すると共に、共演ピアニストという底無しの役割りに私はすっかり気力が失せたものだった。

 マーティン・カッツのレッスンはこれらの事ができた上でのアドバイスなので非常に難しい。私のレッスンは先生の英語を理解して反応するのに必死で記憶が飛んでいる。かえって聴講生でいる時は、先生の意味するところ、そしてアドバイス後の生徒の演奏の違いなどを客観的に見て学べる。先生の練習過程のアドバイスは非常に具体的だが、実は楽譜通りの演奏(それはまだ音楽室いる様なもの)から、いよいよそれを越えて芸術の域に向かうアドバイスが先生の本領発揮の場となる。
一例を挙げてみる。ロッシーニ作曲「ヴェネツィアのレガッタ」の歌曲で歌手はとても上手に歌っていた。すると途中から先生が歌手の前に来てジャンプしたり、手を大きく振ったりして邪魔をする。すると歌手は邪魔を避けながら顔を動かしながら前を見ようと歌う。この歌はボーイフレンドが競艇をしていて、ガールフレンドは陸から彼を応援している曲である。先生の邪魔は、興奮して応援している観客の中にいる臨場感を出しているのだ。歌手は周りの観客も興奮している中で自分も応援しているのを体験しているのだ。短い歌曲だがその場面が客席にも伝わり生き生きとした素晴らしい歌唱となった。私はレッスンを終えた歌手が私の前の椅子に戻ってきたので、思わず「おめでとう!素晴らしかったわ!」と声を掛けた。彼女はきっと自分の変化を客観的に理解していなかったかもしれないが、マスタークラスはこうあるべきだと強く印象付けたワンシーンだった。同じ音楽がマジックの様に一瞬にして変わるのをマーティン・カッツは私達に最も簡単に伝えてくれた。

 私は英語の未熟さから折角のマーティン・カッツのアドバイスをしっかり受け取れるレベルではなく、また自分の能力の無さをまざまざと知ったのだが、マーティン・カッツの著書の中に以下の一節を見つけ一筋の明るい光りを見出した。

♪もし君が音楽で何かを表現する時に、仲間と一緒にやりたいと思う人であれば、公正に見て君が共演ピアノの作業に向いていると確信する。共演は確かに骨の折れる大仕事だが、その報いは計り知れない。他人に対する愛情や、他の人が最善を尽くす事を心から手助けしたいという気持ちがなければ、共演はあり得ない♪ 
by Martin Katz


36. 卒業リサイタル

 音楽学校では、演奏科の生徒は卒業論文の代わりに卒業リサイタルをしないと卒業できない。個人レッスンの先生は生徒が入学した時からこの卒業リサイタルを想定し、それぞれの生徒に相応しい曲を与えている様に思う。私達共演ピアノ科は授業の中で伴奏に関わっているので、彼等のリサイタルの伴奏を頼まれる事も多い。その上で自分自身のリサイタルをするので老体にはかなり厳しい日々だった。

 リサイタルはホールの他に2つのリサイタル・ルームの中から各自が選べるが、予約開始日はホールの事務所前に希望者の長い行列ができる。私は4月15日夜のホールを希望し決定した。卒業リサイタルのプログラムは学校が作ってくれるので曲目だけ提出すればよいのだが、このプログラム書式は皆一緒なので少々味気ない気もする。私のプログラムは3曲に決めた。
1.ベートーベンのヴァイオリン・ソナタ Op. 24 「春」
2. サン=サーンスのオーボエ・ソナタ Op. 166
3. ドヴォルザークのピアノ・トリオ Op. 26
このドヴォルザークのトリオは初めて勉強するトリッキーな大曲で大変難しく、左手の具合も予想以上に悪くなった事も重なって大苦戦する事になった。それでも最後のリサイタルはこれまでのロンジーの楽しかった日々を思い、私のやりたい曲を私の大好きな人達と弾ける幸せを思い、恐れよりも弾きたい気持ちでいっぱいだった。そしてリサイタルは始まった。

 前半の演奏はまずまずといったところで、休憩後にトリオ。このピアノ・トリオ一曲だけでも30分を超える大曲だが、もう余計な事を考えるのはやめよう。
私は母亡き後すぐに留学したが、亡き父母と一緒に留学している気持ちでいた。これまでいろいろな失敗があったが、結果として良い方向に解決していき何か父母に守られていた様に思っている。そして卒業リサイタルのこのドヴォルザークのトリオにも私の実力以上のパワーが私に降りてきた。特に最終楽章の最後は、私のフォーカル・ジストニアの左手はまるで羽が生えたように勝手にどんどん動き、素晴らしいエンディングへと導かれていった。弾き終わって観客席を見ると、同級生達が椅子から飛び跳ねんばかりの拍手している姿にミラクルが起こったのを実感した。こんな演奏を経験した事がなく不思議な感覚だったが、きっと父母も私と一緒に演奏していたに違いない。
この私の卒業リサイタルにはロンジーの入学願書提出をサポートしてくれた二人の姪達、一人は子供を連れて日本から、もう一人はニューヨークから駆け付けてくれた。

 リサイタル後は続けて別室でレセプションを開いた。既にいろいろ買っておいた品々をあらかじめ盛り付けたいが、レセプション室を使える時間はリサイタルと同時なので、友人達や姪達がテーブルを出すところから、テーブルクロスも敷いてお花もお祝いに飾って豪華にセッティングをしてくれていた。こんな豪華で立派なレセプションは学生主催のレセプションでは見たことがない。本当に皆に助けられてこの様なレセプションを持つ事ができ、リサイタルも無事に終えられて感無量である。
私のロンジーでやるべき授業と課題は、このリサイタルで全て終了した。こんなに濃い二年間を過ごした事はない。達成感と同時に何か寂しさも感じてしまう。


37. 卒業式

 美しい緑と一気に花が咲くボストンの五月にCommencement卒業式が行われる。事前に卒業式用のガウンと帽子とタッセル(帽子に垂らす飾り)のレンタルを予約してあったので地下の大きな部屋で受け取る。私はディプロマなのでつけられないが、マスターはガウンの上に飾るサッシュ(細長いスカーフ)も必要だ。特に留学生達は映画の様なガウンをどの様に着るのか、帽子のタッセルはどっちにつけるのかと大はしゃぎだ。アメリカ人の生徒は自前だったり、違う色のサッシュ(他の専攻の学位を保持)を既に持っている人もいる。ロンジーは音楽学校なのでタッセルとサッシュはピンク色だが、総合大学ではそれぞれのスクールカラーもあるし、専攻に寄って色分けを見るのも楽しい。ロンジーの教授陣の中にも色の違うサッシュを2つ掛けたり、ドクターの人は違う形の帽子を被っていたりと、アメリカのアカデミー文化を知るよい機会でもある。

 式典は、Faculty Marshal(最古参教授?)のダルクローズ科の伝説の教授と言われるリサ・パーカーLisa Parkerが管楽器アンサンブル演奏の中を、威風堂々と私達を先導して入場が始まる。これも伝統の様だ。校長の挨拶から始まって評議員代表、学部長、教授代表と続き、各賞の発表の後、卒業生代表の学生スピーチがある。事前にこの学生スピーチの自他推薦の立候補者を募集し、誰が生徒代表になるかの生徒投票がある。今年は上位二人(アメリカ人のスコットとシンガポール人のジェレミー)が同数となり、結局スコットがジェレミーに投票仕直した。そういう経緯も学部長から説明があり、私達の代表はシンガポール人のジェレミーがスピーチする事に決まった。こういうシステムもアメリカらしくオープンでフェアーな精神を感じる。その後に学位授与式で一人づつ壇上に上がって受け取る。ニューヨークの姪も卒業式に出席してくれた。

壇上の私

 式後はカジュアルなレセプションがあり、先生方や友人達と写真を取り合って別れの挨拶などをしてそれぞれの家族と散っていく。ロンジーは大学生、大学院生、私のような社会人、結婚している人など年齢も州も国も環境もバラバラなので、卒業後はあっけない解散となる。
一旦アパートに荷物を置きに帰る途中で同級生に会った。「これからどうするの?」と聞いたら「音楽史の単位を落としたので卒業していないの」と全く予想しなかった返事に私の方が驚いた。彼女は母国で大学院を卒業しているし英語も上手い。そういえば卒業式で、あの人も、あの人も、顔を見なかった。アメリカの大学は単位には厳しいと聞く。入学式の人数よりも卒業式の人数が結構少ない。学年の途中でもよい仕事があるとサッサと退学していった人、夏休み明けに学校に戻って来なかった留学生、もっとアメリカに居たい為にワザと卒業に必要な単位を取らない留学生もいる。私は2年分の授業料しか持っていなかったので、入学後フォーカル・ジストニアが発覚した時に、学部長から半年演奏を休むようにアドバイスされたが、卒業が遅れるので絶対に受け入れなかった。本当に色々な学生がいる。今思うと、よく2年で卒業できたものだと安堵する。

 夕方から姪と二人で普段行かれないちょっと高級なレストランでお祝いディナーをした。この2年間、まずは何とか身体と手がもって本当によかった(乾杯!)。多くの友達が出来てよかった(乾杯!)。やりたい事を沢山できてよかった(乾杯!)。思い出を沢山作る事が出来てよかった(乾杯!)。いつも応援に駆け付けてくれて有難う(乾杯!)。本当に卒業おめでとう(乾杯!)。
厳しくはあったが、楽しく幸せな2年間だった。

ピアノの先生Mr.Mollと



38. 2度目のサマーセミナー “Lied Austria International”

 留学生は卒業後60日以内にアメリカを出国しないといけない。私はOPT(インターン制度)をアメリカ移民局に申請中で、7月頃に許可が下りると予想している。卒業式後その間を利用してLied Austria Internationalのサマーセミナーに参加する事に決めた。これはドイツ文学者のWolfgang Lockemannと夫人のアメリカ人歌手のTracy Brightの二人の主催で、オーストリアのライプニッツという街で、ドイツ歌曲に特化した3週間のサマーセミナーである。私のピアノの先生であるMr. Mollはここで講師もしていたので、授業料免除で共演ピアニストとして参加しないかとお誘いを受けた。ドイツ歌曲は最も好きな分野であり、オーストリアの地方の田園にも興味があり、そして大西洋を越えてボストンからオーストリアに行くのも興味があった。授業料は免除されても飛行機代、宿泊代はかかるので出費は大きい。卒業して授業料を払う必要がなくなったので気が大きくなってしまったのかもしれない。
ボストンからルフトハンザ機でドイツのフランクフルトへ行って、そこからオーストリアのグラーツ行きに乗り換える。グラーツの飛行場には主催者の二人がお迎えに来てくれていた。グラーツから車で40分くらいだろうか、南はスロベニアに隣接している田園風景のライプニッツの街に着いた。高層ビルなど全くなく、静かで小洒落た店はまるで絵本から出てきた様な街並みだ。有名な観光地ではないのでアジア人の観光客はいないようだ。

 このセミナーは昨年は各国から15名くらいの参加者がいて、共演ピアニストは非常に忙しいと聞いていた。ところがどういう訳か、今年はオーストラリア(シドニーとメルボルン)からの二人と私だけと言う。ちょっと拍子抜けではあるが大きなセミナーの教室で授業するのとは全く違い、このローカルでメルヘン的な雰囲気の中でのセミナーは夢のようだ。去年のSimons Rockのセミナーも素晴らしい環境だったがここは流石のヨーロッパだ。

ライプニッツの街並

宿泊先は2軒繋がった一戸建てで、1つはMr. Mollが使う家でもう一つの家を生徒三人でシェアする。二人のオーストラリア人は友人同士で、35?歳前後の既婚者声楽家カレンと音大を出たばかりのピアノのエラで、二人共オーストリアの音大に留学希望で、このセミナーの3週間の間にグラーツ音楽大学のインタビューを受けるという。
ランチはヴォルフガングの大きな家で皆一緒に食べる。ヴォルフガングとトレーシーが地元のソーセージや野菜で毎日美味しい料理を作ってくれて、私達は食器を並べたり料理を運び、アットホームな雰囲気でとても楽しい。ヴォルフガングの詩のクラスは、たまに庭にあるパラソル付きのテーブルを囲んで心地よい風を感じながら詩の解釈を学ぶ。ヴォルフガングはドイツ語の詩をまるで詩吟の様に抑揚をつけて朗々と読む。ヴォルフガングは70歳代(?)のドイツ文学者で時代がかった朗読の様に感じるが、伝統を重んじるヨーロッパでは詩を朗読する時はこの様に読むようだ。
なんて豊かな時間だろう....教会の鐘の音と木々の葉擦れだけが響き、時が静かにゆっくり過ぎる。どうも私はロンジーを卒業した安堵感でドイツ語を必死に学ぶというより、卒業記念旅行のようで後ろめたさを感じる。

今日はパラソルなし

 授業の一コマを紹介してみたい。
例えばリヒャルト・シュトラウスの歌曲「万霊節」の詩の中で出てきた文化の違いについて。
[ヴォルフガング以下V] この詩の中で死んだ人はいるでしょうか、いないでしょうか?
[私] います。
[V] 何人死んでいますか?
[私] 主人公の愛する人は死んでいると思います。なので1人です。
[V] どこに死んだと書かれていますか?
[私] 死という言葉はないが、万霊節は死者の記念日を意味し、家に花を飾ると書かれています。
[V] ドイツでは死んだ人に家で花を飾る風習はありません。

ドイツ文学者のヴォルフガングの解釈は「付き合っていた二人が何かの事情で別れたが、時を経てもう一度是非逢いたい。家に花も飾って貴方を待っている」となる。私の解釈は「万霊節の日に、亡くなった最愛の人を今でも思い続け、家に花を飾り貴方への思いは変わらぬ」であった。大筋は同じでも相手が生きているのと死んでいるのは大違いである。
西洋音楽はヨーロッパが起源だ。今では有名な曲の解説はほとんど日本語訳が出来ていて、私達はそれを読んで理解したつもりでいる。ヴォルフガングの指摘はそこにあり、言葉の背景(文化)を読む大切さをいう。そう言えば以前ドイツ歌曲の講座で三上かーりん先生(ドイツ人)が仰っていたのを思い出す。例えば子守唄について、ヨーロッパの子守唄は母親が愛しい我が子を思う歌だが、日本の子守唄は奉公に出された子供が子守をしながら早く年季が明けないかと歌う曲が多い。又、例えば恐ろしいものが前から来るのをヨーロッパ人は怖いと感じるが、日本人は背後から追って来る方が怖さを感じるらしい。文化の違いは大変面白く奥が深い。

 受講者が三人だけなのでクラスが終わる時間も早く自由時間は多い。自炊なので近くのマーケットに行くとアメリカのマーケットとは違う雰囲気で楽しい。南オーストリアでは道で人とすれ違う時はGruss gott(こんにちは。良い日を)と必ず挨拶する。歩いて20分の所には野外スポーツ公園があり、家から水着を着た上にラフな洋服を着て池へ行く。食堂も自動販売機もゲーム機もスピーカーから流れる音楽も何もない。池で泳いで疲れたら草の上でただ休む。

 最初の土日の休みには、Mr. Mollが生徒3人を連れて電車でグラーツに一日観光に連れて行ってくれた。グラーツは歴史のある大都市で、大きなビルも大学もオペラハウスもあり、ライプニッツから来ると私達はおのぼりさんの様な気持ちになる。オーストラリア人の二人はグラーツ音楽大学のインタビューに行く時の下調べにもなった一日観光だった。後日談だが、エラはこのインタビューで合格し留学が決まったが、カレンは残念ながら落ちてしまった。ヨーロッパは年齢制限が暗黙にあり、カレンには不利だったようだ。だから私はアメリカを選んだのを思い出した。

 セミナーの最後には小さな多目的ホールで2夜連続コンサートが模様された。オーストリア人の前でドイツ歌曲を日本人とオーストラリア人が演奏するのを、観客はどの様に感じるのだろう?と興味を持ちつつコンサートは始まった。終演後には出演者は皆ロビーで1列に並んでお客様にご挨拶をする。入学試験に落ちてしまったカレンのドイツ語がとても綺麗だったと大評判だった。私も同感!素晴らしい!
私はピアノという楽器を通して音楽をするので歌手の様な素晴らしい言語の発音は求められないが、西洋音楽をする上で曲のフレーズ感やタッチなどは言語の特徴と大きく関わってくる。そして日本ではあまり知られていないドイツ歌曲も幾つも仕入れてきた。ほんの一部の文化ではあったが、ヨーロッパを身近に感じた私の2度目のサマーセミナーだった。



39. 元ルームメイトの婚約・結婚

 オーストリアのセミナー中に思いがけない人からメールが来た。最初の家のルームメイトの一人、台湾人のユーシンYuHsinのボーイフレンドからだ。彼はユーシンにプロポーズをする予定で、その時に私に立ち会ってほしいという。彼はペンシルベニア州のピッツバーグ大学でポストドクターをしていて、台湾の大学時代からユーシンと付き合っていた。彼がボストンに来た時に私は2度会った事がある。ユーシンが私を母の様に慕って信用してくれるのは大変に有難いが、プロポーズに立ち会うというのは聞いた事がない。しかもユーシンには内緒で。もちろん喜んで引き受けた。

 ユーシンは私がオーストリアにまだ居ると思っているので、あらかじめ鍵を開けてもらっていた入口からこっそり入っていきなりユーシンの部屋をノックした。驚いているユーシンにボーイフレンドは、片足をひざまずいてアメリカ式のプロポーズが始まった。彼は英語でプロポーズをしていたが、だんだん感情が込み上げていき英語から台湾語に変わって、遂にはボーイフレンドは感極まって泣き出した!
私はこの成り行きの文字通りの立ち会い人であった。ユーシンは恐らくプロポーズの予感があったのだろう、落ち着いてプロポーズを受け入れた。小柄で優しいユーシンの方が一枚上手の様で、これからの二人の力関係はユーシンが鍵を握りそうな予感がする。見事プロポーズが成功するとボーイフレンドの友人3人(彼らがピッツバーグから来ていたのを私は知らなかった。ずっと外で待機していたらしい!)が、おめでとうの大きな風船を窓の外からいくつも揚げてお祝いしている。皆で車で一緒に来たと言うが、ピッツバーグからボストンまで6-7時間はかかっただろう。若いとはこういう事なのだ!二人にとって異国の地での婚約は、ささやかでも心に残る素晴らしいものだった。立ち会わせてくれてどうもありがとう!

 数ヶ月後、ボストンの教会で二人は結婚式を行った。ユーシンが毎週日曜日に通っている教会だが、私はアメリカで初めて結婚式に出席した。出席者はロンジーのダルクローズ科の先生3人とクラスメイト数人、あとは台湾人の教会仲間達だった。オルガン奏者(台湾人)とピアノ演者(韓国人)はロンジーの同級生で、二人ともクリスチャンで教会の結婚式の流れを知っているようだ。ユーシンに結婚式には何を着て行ったら良いのか尋ねたら、黒以外の明るい色のドレスがよいと言う。黒は台湾ではお祝いには着ないらしい。バージンロードを先導する係の友人は白いロングドレスを、新婦ユーシンのお母様も華やかなロングドレスを着ていらっしゃる。私は白色は花嫁だけが着るのだと思っていた。

 パーティーは教会の別室で開かれるが、式が始まる前にユーシンのお父様と教会の友人4、5人はパーティーの準備で大忙しだった。私は五目寿司を寿司用の一番大きな丸いプラスチック製の桶に2つ作って持って行った。これはユーシンのリクエストで今は寿司は世界中どこでもご馳走だ。この量の寿司を作るのに電気炊飯器で3回ご飯を炊いた。ユーシンのお母様は料理が出来ず、ユーシンの子供時代からお父様が毎日お弁当を作っていたそうだ。そのお父様はTシャツを着てパーティーの料理を汗をかきながら大量に作っている。私はユーシンのお父様にはその時初めてお目にかかったのだが、最初大変失礼ながら出張中華料理人なのかと思った。本職の料理人の様に大きな中華鍋を手際よく扱って、何品も何品も作っている。教会仲間はオードブル、フルーツ、スナック、飲み物、食器などを幾つかのテーブルに分けている。一方お母様はゲスト達と式場で喋っている。お父様は式が始まるギリギリまで料理をしていて、周りから「時間です!」と言われて慌てて礼服に着替え、ビシッとした格好で娘のユーシンとバージンロードを歩いた。愛娘の為に台湾から駆けつけて、喜んで働いていらっしゃるお父様の姿を拝見して、いい家族だなあとほのぼのとした気持ちになった。

 ユーシンとボストンでルームメイトになって家でもロンジーでも親しく、あまり学校以外は出掛けない私をボストンの中心地のオシャレなモールへ連れ出したり、映画に誘ったり流行りのお茶をしたり、台湾の彼女のお婆さまとSkypeで日本語で喋ったり、お互いのリサイタルのレセプションを手伝ったり、本当に家族の様な関係を築いた。私が一年で他のアパートに引っ越してもその関係は続き、その延長線にプロポーズの立ち会いがあり結婚式にも出席させてもらった。彼らの結婚式から2年後、ミズーリー州セントルイスに住んでいる出産直前のユーシンを訪問する事も出来た。偶然にも私は彼女の節目の時にいつも居合わせている。そして何とユーシン一家はコロナ禍の夏、ご主人の転職に伴いボストンに引っ越してきた。遠い親戚の様なお付き合いは今でも続いている。やはりご縁があったのだろう。

40.OPT (Optional Practical Training)

 この2年間の留学で私の人生は大きく変わったが、このまま帰国してしまうとそれを消化出来ないまま又元に戻ってしまうような気がする。勉強にほとんどの時間を取られていたので、アメリカの生活を楽しんだり文化に親しむ機会が足りなかったと思う。そしてもっとアメリカを知りたいと強く思う。
OPTこれはアメリカの大学を卒業後に一年間限定で専攻科目に関連した職に就く事が出来るシステムだ。OPTの申請をしないと学生ヴィザは卒業後失効する。私はOPTでもう一年アメリカにとどまる決断をした。まず学校へOPTの申請をして、その手続きが終わってから移民局に申請する。移民局の許可は2、3ヶ月掛かる事もある。

 幸いにもロンジーのピアノの先生 Mr.Moll の歌曲のレパートリー(週1回2時間のクラス)の授業で共演ピアニストの仕事を頂いた。毎週違う3、4人の声楽科生徒のピアニストだが、クラスで発表する前にそれぞれと合わせの練習もするので、毎週自転車操業の様に忙しいが一年間でさまざまな言語の歌曲を学ぶ事ができる。在学中からこのクラスで学んだ歌曲は日本では習う事が出来ない曲も多く私の財産になっている。お金を頂いて学べるこの仕事は願ってもないことだ。
 もう一つはロンジーの元声楽科主任教授だったロムニー先生のプライベート声楽スタジオのピアニストの仕事だ。ロムニー先生は曜日ごとに違うピアニストを抱えていて、私は水曜日担当だが違う曜日のピアニストが都合が悪くなった場合にも臨時に頼まれる。レッスンは一人1時間で、最初の30分は発声の基礎レッスンなので私は休んでいる。後半の30分からピアノと一緒に曲のレッスンに入るが、週一回のレッスンでも15-20曲近い曲数を預かっている。その場でプリントを渡される時は初見で弾かねばならない。このスタジオでは英語とフランス語の歌が多かったがドンドン知らない曲を仕入れておきたい。
ロムニー先生の仕事のやり方は大変参考になった。先生はご自分のレッスン記録を毎回ノートに付けていて、その日の生徒の状態、何の曲をレッスンしアドバイスをしたか、次回の課題曲などきちんと記録していらっしゃる。そして譜面の管理が素晴らしく、コピー譜でも全て作曲家別のABC順にファイルされていて、取り出しやすいく大きな引き出し棚に管理している。どんどん溜まるコピーの整理だけでも大変なのを私はよく知っている。

 そしてもう一つ思いがけず教会の日曜礼拝のピアニストの仕事の話が突如きた。私はクリスチャンでもないので務まるのか不安があったが、とにかく面接を受けに行った。この教会はユニタリアン教会でカトリックやプロテスタントとも違うのを初めて知った。ユニタリアン教会では様々な宗教や思想も取り入れて、礼拝ではユニタリアン讃美歌を歌う。神を信じる信じないに関わらず、どこの国の人でも性的マイノリティの人でも参加できる。レインボーの大きな旗が教会の入口に飾ってあるが、これがユニタリアン教会のシンボルだ。
面接してくれた牧師さんは50歳前後の非常に大らかで明るいイタリア女性で「ちょっと弾いてみて」とおっしゃり直ぐに採用してくれた。それと言うのも音楽ディレクターとピアニストが一緒に辞めたので、直ぐにでもピアニストが必要だった。通常は音楽ディレクターが翌週の礼拝のプログラムを決めるのだが、今は牧師さんが讃美歌3曲の番号を決め、前奏曲と後奏曲は私が選ぶ。あとは牧師さんの指示を受けながら何もかも手探りでスタートした。音楽ディレクターも募集中だったので、いきなり最初の日曜日から候補者が来て、その初対面の人と新米ピアニストの私が協力して日曜礼拝の音楽をする。それが音楽ディレクターのオーディションを兼ねていて、何人か試した中から一人の新音楽ディレクターが選ばれた。実はこの教会にはもう一人ヨーロッパ系のピアニストがいる。その人は他の教会のピアニストもしていて、隔週でこの教会で私と交互に担当する。そういう仕事のやり方も可能なのかとちょっと驚く。ハロウィン・感謝祭・復活祭・クリスマスなどは特に相応しい曲を選ぶ必要があり、アメリカの文化を学ぶよい機会でもある。
 そして最も気を使うのが牧師さんの説教の後にタイミングよくピアノを弾く事だ。英語がよく理解できない上に、長い説教の日や短い説教の日もあり、いつ説教が終わるのか毎回緊張する。一回失敗した事がある。説教が終わった様に間ができたのでピアノを弾き出したら、なんと説教には続きがあった!冷や汗ものだ!牧師さんは驚いてはいたものの、参加者はとても穏やかで暖かくコンサートとは全く違う雰囲気に救われる。
教会によって額は違うが、この教会の謝礼は1時間$150(私は日本円で¥15000の感覚でいる)を毎回頂けるのはとても良い仕事だ。一年間働けるつもりでいたところ、元々この教会の専属ピアニスト兼オルガニストだった人が白血病から回復してこの仕事に戻ってくる事になったので、あっけなく半年で終了した。大変お世話になりました。

 アメリカで良い仕事を得るのは大変に厳しい。友達同士で仲が良くても仕事となると急にライバルになるのには驚く。在学中であっても良い仕事を得たら退学した人もいた。OPTは仕事が決まらないと許可が下りないので、私はラッキーだった。私のOPTの収入は家賃程度にしかならないが留学最後の年となる日々を大切に過ごしたい。


41.3回目の引越し

 このアパートは学校にとても近く、周りは小洒落た食料品店もあり快適な一年だった。ただ家賃が高いので卒業までの一年間契約を不動産屋と交わしていた。日本にいたら毎年引越すなど考えられないが、短期アメリカ滞在なので色々な住居に住んでみたいのと、OPTの一年が加わりもう一度引越す事になった。

 友人から以前住んでいた部屋が夏から空くと言う情報を得た。話を聞くと私が今住んでいるこのアパートから10分位の場所で、大家さん兼ルームメイトは80歳のドイツ人だそうだ。ご主人が亡くなった後、一人だけ信用できる人に部屋を貸しているという。最初の家のルームメイト達は20代と30代、アパートのルームメイトは40代。初めて年上のルームメイトと二人きりの生活だが多分話は合うと思う。早速面接に伺った。
名前はクリスタといい、背は高く175cm以上はありそうだ。80歳といっても頭脳明晰でちょっと怖そうな第一印象を受ける。家はコンドミニアムの4階でメゾネットタイプで2階もあり、2階の広いベランダは屋上になっていて、遠くにボストンの高いビルが見える。貸し出している部屋はご主人が生きていらっしゃった時には主寝室だったそうだ。その部屋専用のバスルームがあり、清潔で大きなバスタブとは別にシャワールーム、トイレ、洗面所となっていて広い。そしてウオーキング・クローゼットに何と洗濯機と乾燥機までその部屋に付いている。キッチンとリビングルームは共有だが、家具も食器もインテリアもユーロッパ調で落ち着いた感じがする。生活感のある暖かい感じの家はアメリカに来て初めてかもしれない。今までの部屋とは全く違う。
そして肝心の家賃は家賃は1ヶ月$650(約¥65000)で公共料金、冷暖房費、インターネット代金など全て込みだ。ボストンは物価が高いのでこんな好物件は聞いた事がない。是非ここに住みたい‼︎ そして嬉しい事にクリスタは私をルームメイトとして受け入れてくれた。早速クリスタと引越しの日を決めて準備を始める。

 最初にボストンへ来た時は2つのスーツケースと何個かの段ボールだけの荷物だったが、どんどん増えて今では電子ピアノもフルサイズのベッドも小さい整理ダンスも姿見もある。学年度が変わるたびに帰国する留学生の品物を安く譲り受けた品物は、プリンター、炊飯器、電子レンジ、オーブントースターにまで及ぶ。これでは業者に頼まねば引越しはできない。と思っていたらチェリストのデュークが、以前大手引越し会社でアルバイトをしていたので小型トラックを借りて運んでくれると言い、$100(¥10,000)で引受けてくれた。本当にありがたい!そして楽譜や授業で使った本や資料などを運びやすいようにまとめた。

 引越し日は荷物をいつでも運び出せるように部屋のドアを開けて、6階のエレベーター前と部屋を行ったり来たりとデュークを待っていた。すると突如エレベーターの音が消えた!どうした??そのまま止まったままだ。故障だ!中に人が乗っているのだろうか?どうやってエレベーターの故障時の対応をしたらよいのだろうか?このビルには管理人室はあっただろうか?そんな最中にデュークが小型トラックを借りて下に着いたと携帯電話に連絡してきた。彼は階段で6階に来て荷物の量を見てエレベーターが使えないのなら引越しは無理だと言う。しょうがない、クリスタに電話して引越し日を新しく設定してもらった。よりによってこの日にエレベーターが故障するとは全くの予想外だった。
とにかく引越しが2日伸びたので、フレームを外してバラバラにしたベッドの上で寝なくてはならず、着替えも食器ももう一度出さなければならない。何とも落ち着かない不自由な2日間を過ごした。早くクリスタの家に住みたい。
アパートのルームメイトは私より数日後に引越すので、その日はお弁当を作って差し入れた。ルームメイトとこのアパートで食べる最後のランチだ。彼女の引越し荷物を引越し業者に預けた後、モップで綺麗に掃除をして不動産屋へ部屋の鍵を返却しに行く。気持ちはもう次の一年に向かっている。


42.クリスタ (Christa Marcelli)

  新しい大家さん兼ルームメイトのクリスタについて書きたい事は山ほどある。年齢が私に近い事、と言っても20歳違いだが学生との差よりずっと近く、彼女も20代でドイツからアメリカに来て英語に苦労した事、第二次世界大戦でドイツと日本は敗戦国となり生活が一変した中で育った経験や「もったいない」という気持ちなど、一緒に生活をしていると多くの共通点が見つかった。考え方感じ方が同じ方向なので、人種が違うとか留学生だからという小さなくくりなど吹っ飛び、クリスタは私にとって一生の友人となった。
結果を先に言わせて頂きたい。
彼女は2019年6月にお亡くなりになった。偶然その前に私がボストンを訪問していたので、クリスタの家へ久しぶりにお寿司を作って持って行った。その後すぐに私は帰国し、たった2週間後にクリスタの突然死の悲報を受けた。クリスタへの沢山の想いをどの様に書いたらいいのか戸惑っている。まだまだ消化出来ていないので、ここでは日常の楽しいクリスタを書いてみたい。

 クリスタの第一印象は、背がとても高く痩せていて厳しそうな人に見えた。愛想笑いはせず、化粧も毛染めもせず、ほんわかというイメージとは真逆のイメージだ。なので私より年長の大家さん兼ルームメイトに、少々気を使うかもしれないと密かに思っていた。
ところが彼女に対する印象はその晩にすぐに覆された。クリスタはほぼ毎日の様にドイツのハンブルクに住む妹さんと1時間位電話で喋っている。ドイツ語なので何を喋っているのかはわからないが、とにかく長話で大声でダベッてガハハと笑っている。クリスタは携帯電話を持っていないので家の固定電話を使っているが、この固定電話は2つの子機があり誰かから電話がかかってくると家中大音量で凄じい着信音が鳴る。音楽を生業にしている身としてはこれは恐怖だ。
話を戻そう。クリスタの笑い方はガハハと実に豪快で彼女のイメージとは随分と違っていた。彼女が毎日する事はランチ後の昼寝。30分の目覚まし時計をセットしているが、毎回1時間これまた豪快にイビキをかいて寝ている。目覚まし音は何の効果も発揮しない。私の部屋の隣は小さな書斎で、立派な本棚とカウチソファーとTVがあり、クリスタはこのカウチで昼寝をし、本を読み編み物をし夜だけTVを見る。こういうクリスタの自然体の行動は私に懐かしさを思い出させ、愛着を感じるのには時間はかからなかった。

 クリスタはインスタント料理や化学調味料を食べず、電子レンジは持っていない。これはアメリカ人とは大きく違う。毎日同じ時間帯にバランスのよい料理を作って食事をしている。時間が合えば午後のお茶をしたり夕食のおかずを分けあって一緒に食べる。そういう時はいろいろな話をする。両親のこと、仕事のこと、食べ物のこと、映画、音楽、旅行、友達などなど......。彼女は何でも話しガガハとよく笑い、好き嫌いをハッキリ言う。リップサービスは言わず、自分の意志を通す。だからちょっと怖い。一番良いところはフェアで裏表がないところ。まさに竹を割ったような性格だ。きっとクリスタは一人で住む事よりこういうお喋りや生活のやり取りをしたくてルームメイトを入れているのかもしれない。そしてそれは私も望むシニアのスローな生活風景だった。
私は英語が喋れない劣等感を強く持っているが、クリスタと喋っていると不思議と話がよく理解できる。多分学生達は今風の言葉や省略形の言葉を早口で喋るが、クリスタの喋る英語はきっと年相応の言葉でネイティブ・スピーカーではないからだろう。彼女は20代前半にアメリカへ来た時は7年間も英語学校へ通ったという。今でもドイツ・アクセントが強くアツコの方がずっとマシと励ましてくれる。その気になって私も良く喋る。

 クリスタはドイツ人だからなのか年齢からなのかはわからないが、アメリカ人と大きく違う。例えばアメリカ人はプレゼントの包装紙をビリッと大胆に破ってプレゼントの喜びを表現するが、クリスタはリボンや包装紙を丁寧に剥がして綺麗なものはとっておく。私がこの家のルームメイトに決まって内金を小切手で送る時に、折り紙で折った鶴を同封したが、その折り鶴に糸を付けてリビングルームに飾ってくれている。
TVのコマーシャルには、コマーシャルが本編より多いとブツブツ言い、シャンプーのコマーシャルでは髪の美しさは人工的で不自然だと毎回言う。一度TVの有名なダンス番組を一緒に見たらとても楽しかった。それ以降、私が勉強していても「アツコ!ダンスが始まったよ〜」と大きな声で教えてくれる。まるで母と一緒にいた時とそっくりだ。クリスタとはそういう付き合いをしていた。

 彼女は友達が沢山いる。ヨーロッパ人が多いが、移住した者同士の連帯があるのだろうか。クリスタの家にも時々お喋りにいらっしゃるが、その友人の家に行く時は私も連れて行ってくれた事が3、4回ある。そういう時はバッテラ寿司と稲荷寿司を作って持っていく。ドイツには鯖の酢漬けの様な食べ物があるそうでバッテラは好きなようだった。お互いに何かあったら手伝う了解があるのか、クリスタは電車で1時間半離れたコンコードに住む友人バーバラが癌になった時には、家事や広いガーデンの世話をしに朝から訪ねて夜遅く帰って来る日が何日もあった。80歳を超えているクリスタのクタクタになって階段を上って自室に行く姿に、そこまでするのはどうなのかと本気で心配した。
クリスタ自身も過去に白血病などの大病を克服したと聞いた。アメリカでは手術をしても直ぐに退院して自宅で療養するのが一般的だが、クリスタが首の手術を受けた時は友人が車で送り迎えしてくれた。病院には一泊だけして点滴中のままコード付きで家に帰って来た時は、正直私はたじろいてしまった。母の介護で慣れているとはいえ、手術痕や点滴を見るのは怖い。せめて晩ごはんだけでもと、仕事へ行く前にクリスタの好物のサーモン・ステーキを作ったらペロッと全部平らげて、翌日には少しずつ普通の生活に戻れる様に動いている。クリスタのバイタリティには感服する。

 クリスタの友人の一人はボストン・リリック・オペラで長いこと経理を担当している。その友人のお誘いで私までゲネプロ(総リハーサル)に2、3回立ち合わせてもらった。このゲネプロの前にホール近くのタイ・レストランで夕食を取るのがいつものコースのようだ。クリスタはスーパーモデルの様に背が高くスタイルが良いので、バリっとイタリア柄風のパンツ・スーツを着ると自慢したくなるほどカッコいい。

 一度クリスタの仕事を見たことがある。私がニューヨークに数日行く事になったのだが、その後ボストンでコンサートがあるのでニューヨークでピアノの練習場を探していた。クリスタの古い友人がニューヨークに住んでいてグランドピアノを持っているといい、早速その友人に電話をして了解を得てくれた。実に行動が速い。クリスタの仕事はインテリア・デザイナーで、そのニューヨークの友人のコンドミニアムの仕事を以前請け負ったそうだ。2階からクリスタはファイルを持ってきて仕事の写真の説明をしてくれたが、まるで美術館の様に素晴らしい幾つかの部屋の写真だった。
ニューヨークに着くとクリスタに教わった住所にピアノを借りに行った。場所はマンハッタンのど真ん中、セントラルパーク近くの超高級コンドミニアム。紹介されたのはニューヨーク大学(NYU)の元学部長の家で、ご主人は数年前にお亡くなりになっているが、奥様で元医師でもあるエレインがクリスタの友人なのだ。アメリカの一等地の最高級のコンドミニアムは重厚で全てが立派だが、部屋はクリスタの写真のまま陶器の飾り棚もそのまま素晴らしい状態で使われている。品の良い落ち着いた照明もこの家にピッタリだ。クリスタの年齢を考えると少なくても25年以上前の仕事ではないだろうか?クリスタの素晴らしい仕事をこの時初めて知る事ができた。クリスタが持たせてくれたチョコレートをティータイムにエレインと一緒に食べながら、エレインの自慢の陶器の説明をしてもらう。彼女も話し相手が欲しいのかもしれない。翌日もピアノをお借りする事になっていたが、姪も是非マンハッタンの超高級コンドミニアムの中を見たいと言うので、厚かましいが一緒に連れて行った。エレインはちょうどお昼寝中でお目に掛かれなかったが、姪がお手伝いさんに春らしいチューリップの花束を預けていた。こんな経験はマンハッタンに何十年住んでいても滅多に経験出来るものでないという。それほど上流社会は別世界で、クリスタの仕事が一流だった照明される。ここのお手伝いさんはちょこちょこピアノの部屋の入口に来て、曲が終わるごとにニコニコと拍手をくれて、私までまるで上流社会にいる気分にしてくれた。因みにここのグランドピアノは黒色の漆塗りでなく、茶色のスタインウェイ・ピアノだった。

 クリスタのリビングには映画俳優の様に素敵なご主人ルイジの写真が飾ってある。190cmのイタリア人だ。彼との結婚式でクリスタは大喧嘩をしたと言う。理由はルイジの母親がクリスタに化繊のウエディング・ドレスをプレゼントした事だ。クリスタは化繊の素材が大嫌いで、そのウエディング・ドレスを着たくなく実際に着なかった。興奮して話すクリスタからその時の様子を想像して失礼ながら笑ってしまう。そのルイジはクリスタに毎週花束を送り続けたそうだ。今でもハーバード駅近くのその花屋に行くと、店主はクリスタを見つけてはルイジの話をするという。なんていい話だろう。

 クリスタは毎週月曜日に水中エクササイズへ通っていて、その日もいつもと変わりなくプールのクラスに参加した。家に帰る途中、ハーバード・スクエアのベンチにうずくまったクリスタの異変に、通りがかった人が気付いて救急車を呼んでくれた。しかし救急車が到着した時にはもう事切れていたと聞く。あっけない幕切れは、潔いクリスタそのものだ。
日本にいるとクリスタは、まだボストンで生きているように感じている。

MITのフランク・ゲーリーの建築物の前で



43.ボストン・マラソン爆弾テロ事件

 ボストン・マラソンは毎年4月の第3月曜日に開催される。瀬古利彦選手が優勝した有名なボストン・マラソンを留学中に是非見たいと思っていた。しかし月曜日は学校全体がセミナーの日で学生の時は行かれなかった。OPTの今年こそ行こう。2013年4月15日(月曜日)。

 このマラソンは出場資格タイムを定めた数少ないマラソン大会の一つで、朝10時にトップランナー・グループが始まり、タイム別のグループ毎にスタートして夕方まである。コースは片道公道コースで競技場にゴールはしない。郊外の町ホプキンソンからスタートし、ゴールはボストンのど真ん中のコープリー広場のボイルストン通りに設置されている。

 私は午前中だけセミナーをちょっと覗いて、チャイナタウンの筋膜リリースの治療後、コープリー広場まで歩いて行ってみた。トップランナーは既に2時間ほど前にゴールしているが、まだまだ女性を含む大勢のランナーが走ってくる。ゴール目前なので、待っている家族や友人達に手を振ったり、励ましながら楽しく仲間と一緒に走っている市民ランナー。この時間帯はTVで見るマラソンレースとは違って、和やかでそれぞれのペースで走るランナーで賑わっている。

ゴール手前


私は一人でここに来て見学しているが知人が走っている訳でもないので、ボストン・マラソンの雰囲気が分かったところで引き揚げることにした。この時期はマグノリアの花が満開で桜の様にも見えて美しい。離れたハーバード行きのバス停までこの美しい春を散歩気分で停留所まで行くと、バスはなかなか来ず何か交通渋滞でもあったのかなと思っていた。

 家に着くと同時に携帯電話が鳴った。「アッコ、大丈夫?!」と言うニューヨークに住む姪からだ。14時15分、ボストン・マラソンで爆弾テロ事件が起こったと言うではないか!私が引き揚げた直後のようだ。いったいどの様な被害が出たのか、何が何だか全く分からなかった。時間が経つにつれ被害の大きさが伝わり、あんな平和そのものだった所が爆弾テロに遭うとは!そして私もあと15分あの場に留まっていたら巻き込まれていたのだろうか!
死者5名。負傷者299名。

 犯人はチェチェン人の血を引くキルギス出身のアメリカ人兄弟で、兄の方は死亡したが弟は逃亡した。ボストンに隣接する市には屋内避難勧告が出て、学校、企業、商店は営業停止。交通機関、飛行場もストップした。依然として逃亡した犯人の情報は上がってこない中、アメリカ人の同級生からメッセージが来て「アツコ、絶対に外に出てはダメ!家にいて安全にしてね」と外国人の私を心配してくれた。こう言う一言はとても嬉しい。誰かが私の事を気に掛けてくれると思うだけで心が暖かくなる。もし以前のアパートに韓国人のルームメイトと住んでいたら、TVもラジオもなく室内待避勧告が出ても情報は直ぐには伝わらなかったと思う。

 逃亡中の犯人がウオータータウンの住宅地で見つかったと言う。個人宅の庭に置いてあるボートの中に潜み、その上にシートを被せていた犯人を、上空の軍の偵察機が赤外線熱線暗視装置の使用で犯人の存在と動きを確認して逮捕に至った。ウオータータウンは私が一年生の時に住んでいた所で、まるで映画の様な事が直ぐ近くに起こったのを知った。後日フェースブックには、犯人が捕まった家の1ブロック裏に住んでいる日本人が当時の逮捕の様子を伝えていて、ご近所の緊張は一層だった事が分かる。
犯人が捕まったのは19日、事件の4日後だった。この間、自宅の窓から外を見ると本当に人っ子一人歩いていず、非常事態で静まりかえり時が止まっている様だった。

 毎日負傷者のインタビューや情報が出てきている。テロの恐怖を考えたらこういうマラソンはターゲットになりやすいので、もうマラソンやイベントは出来ないのではないかと皆が感じ始めている中、負傷者の多くは「来年も絶対走る。ボストン・マラソンの灯を決して消させない!テロには屈しない!」と宣言するランナーが何人もいた。市中を走る全バスには「Strong Boston」のスローガンが表示されている。テロの恐怖に怯えて内向きになったボストン市民の気持ちは、完全に立ち向かう視線に瞬く間に切り替わった。足に大怪我を負って義足になってしまった女性が来年また走ると宣言しているTVのインタビューを見て、アメリカ人は本当に逞しく、前をしっかり見つめるその精神力の強さに私は圧倒された。移民国家のアメリカはご存知の様に多くの問題があり混乱も生まれる。しかしその都度、それらの問題に立ち向かう行動力はダイナミックだ。Strong Boston!


44.さよならコンサート

 OPTの一年が終わると帰国をしなければならない。クリスタの家で学生とは違った時間を過ごし、新しい出会いと発見の一年だった。このまま皆にお別れの挨拶もせずに帰国するのは、留学の締めくくりとして何とも物足りない。そもそも留学の第一目的は音楽仲間を沢山作って一緒に音楽をすることだ。「さよならコンサート」をしたい!

 学校のリサイタルは授業なので全て無料だが、私はもう学生ではないのでホール、裏方スタッフ、プログラム、レセプション室代など、全て自分で払わねばならない。なのでこれ以上の出費は控えたく、共演者への謝礼も出せないのが本音だ。そこで良いアイデアが浮かんだ。声楽クラスのピアニストをしていたので、声楽科生徒に一斉にメールをした。

“皆さん、こんにちは。アツコです。私はこの夏に日本へ完全帰国する事になりました。その前に、もしまだボストンに残っている人がいたら、最後に私と一緒に共演しませんか?6月末にPickman Hall で「さよならコンサート」を予定しています。曲はアリア、歌曲、ミュージカル、ジャズなんでもOK。興味がある人は是非ご連絡下さい♪”

 この文章で、はたして歌ってくれる人はいるのだろうか?と不安と期待で送信をクリックして深呼吸した。2、3分後、受信のお知らせが一つまた一つと続けてきた! “I can do it.” “I want to sing” “I will be there.” “That’s exciting!” アメリカ人のこの素早い反応は私を一気に有頂天にさせた。多分日本だったら2、3日考えたり、他に誰が出演するのか?と様子を見る人が普通だろう。結局、私のさよならコンサートには歌手(ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バリトン)の他にヴァイオリン、チェロ、コントラバス、オーボエ、フルートのバラエティに富んだ友人19人が参加してくれる事になった。何と嬉しい!しかも舞台裏方、ライブ放映の作業、プログラム制作なども手伝ってくれると言う。

 早速ホールを押さえたのだが、後日学校のコンサート・カレンダーを見たら、私のコンサートの日時に他の先生のリサイタルが入っている!ガーン‼︎
学校は先生達にもリサイタルを推奨しているが、コンサート・オフィスの女性は先生の希望を優先したのだ。しかもその事を私に伝えず、私が気が付かなかったらどうなっていたのかと怒り心頭に発した。コンサート・オフィスの人にとっては元生徒の個人的なコンサートなので、簡単に空いている日に変えられると思ったのだろう。しかし私のさよならコンサートは学校の内外を含む共演者19人が、コンサートの為にその日時を空けてくれている。私はすぐにコンサート・オフィスに直談判に行った。
結局、学部長も主任教授も私のさよならコンサートを既に知っていたので、ホールは私が使える事になった。後日同じ日にリサイタルを予定していた先生にバッタリお会いした。先生は「アツコのコンサートの方が大掛かりなのでしょうがない。頑張ってね」と言って下さった。彼女もトリオを予定していたので迷惑が掛かったのは明らかだ。全てはコンサート・オフィスのあの彼女がきちんと仕事をしなかったに尽きる。申し訳ない気持ちで先生にお礼を言った。

 本番2週間前にトップバッターで歌ってくれる予定の歌手が、既に実家のフィラデルフィアに戻ってしまって、ボストンに再度行きたくないと言ってきた。残念だがアメリカ人は簡単に引き受けるが、簡単にキャンセルもする。この曲をオープニングに設定して全体の曲順を考えていたので、この曲を歌える人を大慌てで探した。そしてダルクローズ科のアドリアーナ先生が引き受けて下さった。私は選択科目でダルクローズのクラスも取っていて、アドリアーナ先生の授業も受けた事があった。ロンジーでは先生も気さくに生徒と演奏をしてくれる。ますますバラエティに富んだメンバーになってワクワクする。

 当日もハプニングが起きた。ハンガリー人のバリトン歌手が本番に来ない。2時間前に3階の練習室で彼を見て、互いに窓越しで手を振ったその彼が来ない!本番が始まっている間、仲間が学校中を探してくれてやっと見つかった。彼は明日が本番だと思い込んでいて短パンにビーチサンダル姿だ。チェロの友人から小さめのシャツとズボンを借りてピチピチの洋服でステージに出てきた時には本当にびっくりした。彼はカルメンの「闘牛士の歌」を歌うことになっていて、ハンガリーの両親にもオンラインで見る様に伝え、衣装も考えていたのに散々なコンサートだったと思う。彼は今ハンガリーに戻ってオペラ歌手となって活躍している。

 ステージでは演奏者の自由に任せていて私自身も何が起こるかのか知らなかったが、ガーシュウインの歌曲「ウオッカ」では椅子一つ置いてキャバレーの様な雰囲気を作り、テノールの仲間に絡む寸劇を取り入れた。エディット・ピアフの「Bal dans ma rue 私の通りの舞踏会」の曲ではピアノの間奏曲中にフランス人歌手がステージ階段を下りて行き、客席の男性客を誘って一緒に即興ダンスをして大盛り上がりだった。ピアノ越しに私も彼らのパフォーマンスを大いに楽しませてもらった。彼等は音楽やステージを自由に楽しみ、そう行動する。日本人音楽家には即興や観客とのやり取りは苦手な分野である。私もそこは大いに学びたい。アンコールは歌手全員でオペラ「ヘンゼルとグレーテル」から「夕べの祈り」をコーラス・バージョンで演奏してプログラムは全て終了。
最後に私の拙い英語のスピーチが待っている。間極まってちゃんと感謝を伝えられるのか演奏よりも緊張した。

手作りプログラム

 コンサート後のレセプションは聴きに来て下さった人は勿論だが、ボランティアで演奏を引受けてくれた共演者達へのささやかな感謝を込めて食事がメインの大掛かりなレセプションにしたかった。お祝いに何が良いのか聞いて下さった人達には、花より団子で食べ物を遠慮なくお願いさせてもらった。お陰様でワインを始め、焼き立ての大ピザを何枚も、サンドイッチ、ハンバーガー、巻き寿司、ポテトサラダ、スティックサラダ、ナッツ、スナック、何種類ものパウンドケーキ、デザートなどなどに加えて、ルームメイトのクリスタはスイカを半分に割ってくり抜いた豪華なフルーツポンチを2つ作ってくれてた。テーブルはロビーにまではみ出して大掛かりなレセプションになった。クリスタはこんなにガツガツ食べるレセプションは見た事がないと驚いていたが、演奏家は演奏前は食べられないので、さもありなん。喜んで食べてくれる仲間を見て嬉しさが込み上げてくる。

 私の姪もニューヨークから駆け付けてレセプションの買い物や準備、そして録音をしてくれた。最初から最後まで私の保護者になってくれた姪には感謝しかない。MITのスタンリー教授、ケンブリッジ図書館のESLのドロシー先生、声楽スタジオのロムニー先生、ミュージカールの主催者クララもメンバーと一緒に、そしてロンジーの学部長をはじめ数人の先生方も聴きに来て下さって盛況だった。学部長には、この様なコンサートはロンジーでは初めてで非常に特別なコンサートだったと仰って頂いた。以前にも、学校としてもアツコの入学は音楽の勉強を続けているよい例であったと言って頂いていた。
皆様の暖かいお気持ちをしっかりと胸に、そして私も皆様にちゃんとお別れが出来た。思い残すことはあるが、それでもやり切った感はあった。


45.帰国

 私の帰国したあとにクリスタの家に住みたいと、ロンジーの学生二人が私に頼んできた。それはクリスタにとっては喜ばしい事だが、私はなんだか追い出される様で複雑な気持ちがする。クリスタは別々に二人を面接したが、二人とも気に入ってしまった。2、3日考えてチェロの生徒が新ルームメイトに決まった。そしていよいよ私も帰国の準備にかかる時がきた。

 ほとんどの家具や電気製品と小物は次のルームメイトが使いたいと言うので、粗大ゴミを出す手間が省ける。私も引っ越す人の品々を安く譲ってもらったので、そういう意味ではロンジーの生徒だと話が付きやすい。大通りにはリサイクルボックスがいくつかあるのを今回初めて知った。普段通っていても気が付かなかったが衣類用と靴用に分かれている。リサイクルが出来るとなると処分する罪悪感が少なくなる気がする。楽譜類と授業で使った本やバインダーは、私の留学の全てが詰まっているのでとても大切だ。本棚から出して全て並べてみると、これが凄い量になっている。とても郵便局へ運べる量ではない。
そこで海外発送を色々調べた結果、日本の輸送会社で単身パックというのが一番良いのが分かった。家まで引取りに来てくれるのと、段ボールも用意してくれる。やはり日本の業者の丁寧な仕事と税関の書類も日本語でやり取り出来るのは安心する。船便で2、3ヶ月かかり当初の予算よりも高くなるがしょうがない。楽譜や書籍は重たいので、いくつかの段ボールに分けて分量を分散して入れると、各段ボールにスペースが出来る、最初から日本の国際宅配便を想定していたのなら、手元に残しておきたい物もあったのにとブツブツ言いながらパッキングする。結局空いたスペースには最後まで使っていた物や食品まで入れている自分に笑ってしまう。私は思い切りが良い分、時々こういう失敗をする。日本に帰国することはボストンの生活を清算すること。ここはスパッと吹っ切れたと考える事にしよう。

 アメリカにいる留学生へのアンケートで、卒業後は帰国したいか、又はアメリカに留まりたいかという質問に、ほとんどの女性は留まりたいという結果が出たと聞いた事がある。年齢・性別・容姿は仕事に影響しないというアメリカの環境は、特に女性には大きく関わって来ると思う。また帰国後には逆カルチャーショックが待っている。留学で学んだ事や経験を認めてくれる環境や仕事に活かす機会がないという。留学前はそういう事を全く考えず純粋に学びや異文化での生活をしたかったが、卒業と同時に現実に戻される。アメリカと日本の事、過去と将来の事を荷物をまとめながら思う。多くの友人達との刺激的な時間、お金では変えられない幸福感、さまざまな経験やその時の想いは、しっかり心の引き出しに閉まって帰る。

 ボストンの空港は車で20-30分の所にある。出発の日はタクシーを使おうと思っていたが、その前日に音楽パーティーの主催者クララが「誰か空港まで車で送ってくれる人、もう決まっちゃった?」と聞いてきた。なんと嬉しい!その時間帯は仕事がないので車で送ってくれると言う。クララはロンジー外の友人だが、音楽パーティーで多くの素晴らしい人達と知り合う機会を与えてくれた。日本では滅多にお目にかかれない人達との交流はクララのお陰である。
そのクララが「空港へ行くのに時間が少しあるので途中でちょっとお茶をしない?スタンリー教授も一緒に」と提案してきた。クララの博士課程の先生であるスタンリー教授の名が突然出てきて驚くが、空港へ行く途中でカフェに立ち寄る事になった。数学者のスタンリー教授は「組み合わせ論」のパイオニアだが、一枚のペーパーを取り出して私に見せて下さった。見ると数式が書かれている。これには参った。私は数学は大の苦手で、どういう反応をしたら良いのか分からなかったが、すぐにペーパーを返すのも失礼なので一応目でなぞって行くと、アツコやピアノコンサートの単語が出て来るではないか⁉︎ どうもこれは私の行動を数式で表示したものらしい?元より数学も分からない上に英語の単語も難しく、説明を聞いてもやはりチンプンカンプンだ。私の為に急遽世界でたった一つの数式を書いてくれたこのペーパーを大事にとっておこう。そう大事にとっておいた.....ところが大事にし過ぎて何処かにしまってしまい、今でも出てこない、見つからない。
最後の最後までハプニングを楽しみ、ボストンの友人に囲まれた出発前の時間だった。ボストンから成田空港まで直行便で13時間50分(成田からボストンは12時間50分)、気持ちを日本にリセットするには充分な時間だ。本当に楽しいシニアの音楽留学だった。Goodby(さよなら)ではなく、See you!(また会いましょう)の気持ちで出発ゲートへ向かう。
どうも有難うございました、ボストン!


46.おわりに

 「シニアの音楽留学記 in Boston」をお読み下さいまして、心よりお礼を申し上げます。この留学の3年間をいつか書き残しておきたいと思いつつ、消化出来ずにそのまま10年の時が過ぎてしまいました。2020年COVID-19によって何も予定が立てられない自粛生活が始まり、この期間に留学記を書いてみたいと思い立ちました。そして自分自身の為に描き始めたnoteは、エピソードを追うごとにその当時の感覚が蘇りもう一度留学している様な不思議な気持ちで、あっという間に帰国のエピソードを迎えてしまいました。読みづらい文章にも関わらずスキ❤️のご褒美を頂いてどれほど励まされた事でしょう。フォロワーになって下さった皆様、最初から最後まで辛抱強く読み続けて下さいまして感謝の言葉もありません。心強いサポートは大きな力となりました。本当に有難うございました。

 2011年3月11日、東日本大震災は留学中のボストンにいました。毎日繰り返し繰り返し津波の映像が流れ、まるで日本沈没の様な恐怖と悲しみで心臓がバクバクしたのをはっきり覚えています。すぐにロンジーからお悔やみと励ましのメッセージが日本人留学生全員に届き、こういう素早い対応と悲しみを共感してくれる人が側にいるという安心感に大いに救われました。その数週間後には、ボストン日本人会主催だったと思いますが、ロンジーのホールでTsunami Aid 津波支援のチャリティーコンサートが行われました。ボストンの日本人演奏家とさまざまなな国の演奏家も参加した連帯感溢れるコンサートに、元気と勇気と希望を頂きました。こういう状況だからこそ改めて音楽の素晴らしさ、大切さ、そして役割を教えられた思いでした。

 アメリカでWhat is your goal?とよく聞かれます。英語のゴールを辞書で引くと目標点・意向・方針・抱負などと出て来ます。ロンジーの入学願書に添えるエッセイの課題の一つにもなっていました。国籍・性別・年齢など関係なく一緒に演奏したいとずっと思っていましたが、現実には外国の人達との共演は夢のまた夢でした。しかしこの夢という言葉をゴールという言葉に置き替えてみると、不思議にも漠然としていた夢の方向ややるべき事が具体的に分かってきました。大きなゴール、小さなゴール、遠いゴール、近いゴール、困難なゴール、簡単なゴールと色々なゴールが見えてきます。今の私の近いゴールはコロナ禍で太ってしまった体重を戻す事です。

 ピアニストと自分で名乗るのは留学前まで大変な抵抗がありました。職業として演奏で生活できる人をピアニストと言うのだと思っていたので、ピアノ教師として生計を立てながら演奏の勉強を続けている自分には、ピアニストと自分で名乗るのはおこがましかったのです。しかしアメリカに行って自己紹介をする時は上手下手とかではなく、自分がずっとピアノを弾いている”ピアニスト”という言葉しか自分を表せないと気が付きました。私が発展途上?下降途上?であっても、なんちゃってピアニストでも私はピアニストという言葉を使う事にしました。60年以上もピアノを弾き続けている事に、ピアニストの代わりに私を表現する言葉は他に見当たりません。厚かましさ満載で自称ピアニストを、手が動く間は楽しみたいと思います。

 このnoteの連載と同時にiMovie(ビデオ編集)による音楽共演を始めました。ボストンには同級生や音楽仲間がいますが、私の居住地は日本なので私がアメリカに行った時にしか共演する機会はありません。そこにコロナが突如出現し、コンサートどころか人の移動や集まる事さえ出来なくなりました。その中で何処にいても誰とでも一緒に音楽を楽しむ事が出来るビデオやオンラインコンサートが急激に広まりました。手持ちのスマホで出来るので費用はゼロ。労力と時間は相当かかりますが、これによってアメリカは元より、各国に戻って散らばった同級生達と再び連絡を取り合って音楽をする事が可能になりました。このiMovieによって私の行動範囲が自宅に居ながらにして一気に広がりました。

 コロナでアメリカの教会の日曜礼拝もオンラインになった事により、専属歌手であるボストンの同級生が日本にいる私のピアノでビデオ演奏で歌う事になりました。このFirst Church in Boston(1630年設立のユニタリアン・ユニバーサリスト)には専属ピアニストがいるので、オンライン日曜礼拝の限定期間だけであるにせよ、この思いがけない出来事に私自身が興奮しています。このiMovieがなかったら有り得ないことでした。
国籍・性別・年齢を越えた音楽の共演は私のゴールなので、その共演の思い出としてiMovieによる演奏をYouTubeに載せさせてもらっています。拙い連載と同様に拙い演奏ですが是非のぞいて下さると嬉しいです。

♬ YouTubeチャンネル名♬
Atsuko & Friends

長い間、ご拝読を有難うございました。

Atsuko

[追記]
 2021年にエピソードを毎週連載していたものを、2022年に読み易く一つの作品に編集しました。


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