2022.8.25

久しぶりに日記をまた付け始めてみようかと思う。いつまで続くかわからないけど。

漠然とした不安に毎日押しつぶされてしまいそうになりながら生活している。全く進まない原稿仕事と、ほとんど手をつけられていない修士論文と、全くアプローチできていない就職活動と、目の前のしなきゃいけない沢山の事柄があって、身動きが取れなくなっている。いつものことと言えばそうなんだけど。

本を読むのも、展覧会に行くのも、映画を観るのも、音楽を聴くのも、研究のために論文を読むのも楽しい。だけど、なんだか自分の具体的なアウトプットにしようとするとどうも上手くできない。ストレスで煙草の量が増えた。28歳になったというのに、いまだに自分がどんな風に生きたいのかビジョンを見出せずにいる。そうしている間に、読みかけの本だけが机の横に溜まっていく。多分精神的に疲れているんだろうな、と思う。ここ最近ずっと胃腸の調子が悪いし、上手く眠れない。

この日記、予備校講師のバイトの隙間時間に書いているんだけど、高校生の彼ら彼女もまさに受験を控えて不安な時期にいるんだろうと思う。彼ら彼女を見ていると、10も歳の違う私もあなたたちと同じように不安になるんですよ、と言いたくなる。人生のどっかのタイミングで、どうしようもない不安がやってきて、目の前のことをどうにかしないと進めないことがまだまだこれからあるんだよ、と言いたくなる。それでも挫けないでやっていくことは大変だけど互い頑張ろうな、と。


私を漠然と不安にさせるもう一つの事柄が、自分自身のセクシャリティについての問題だ。ここ最近、めっきり性的なことがダメになった。パートナーとの関係以前に、自分の生物学的な女性としての身体に社会的な諸要素が絡んでくることが煩わしくて、全てが怠くなった。年齢的なこともあり、子供を産むことについて考え始めたのがきっかけだったと思う。もしこれから子供を作るとなったら、私は「母」として今後生きていくことを意味するわけで、「母」としてのジェンダー的な記号から逃れられなくなるわけだ。私にとっては、それが心底おぞましいと思ってしまった。もちろん、「母」を女性の記号に短絡的に結びつけてしまうのはラディカルに考えるならば誤りだ。しかし、今の日本社会でそんなスタンスが世間一般に通用するとは到底思えない。そして私の身体が私だけの問題じゃなくなる。私は私の問題を私の中だけで持て余していたいのに!

かと言って、私は男性になりたいわけではないし、今後女性を好きになるのかもわからない。「ノンバイナリー」や「クィア」という言葉があって良かった、多分それが一番しっくりきている。

私は母になる全ての人々を全肯定して、祝福したい。そう思えないことも多々あるけど、祝福できる社会にしていかないといけないと思う。だけど、自分のこととなるとまた別なような気がしている。もうちょっと先の未来に生きていれば自分の願いは叶えられたのだろうか、それとももう少し待てば叶われるのだろうか、それはまだ判らない。