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知る人ぞ知る野毛の酒場『はまの』

 雑誌「ブルータス」の酒場特集の号に、野毛にある『はまの』というお店が紹介されていた。俳人の北大路翼さんという方が書かれた文章がおもしろくて、野毛には安くておいしい店や個性的な店がたくさんあるけれど、こんな店があるなら行ってみたいなと興味がわいた。

 そこに書かれていた『はまの』の概要は以下のようなものだった。
・店主は自分のことを「ばばあ」という。
・カウンターに座ると、ばばあの昔話とともに酒と料理が出て来る。
・東北出身のばばあの訛丸出しのしゃべりも肴を美味くする。

 googleで「野毛 はまの」で検索しても情報は3件くらいしかヒットしなかった。しかも「食べログ」にも載っていない! これは、かなり知る人ぞ知る穴場店に違いない。

大岡川の桜と野毛の都橋商店街

 コロナ禍の2022年2月、日曜の夕方に横浜で用事を終えた私は、野毛をぶらぶら歩きながら『はまの』を探してみた。お店は発見できたけれど、その時はコロナの営業自粛要請期間のためか開いていなかった。

 翌月、大岡川の桜が満開になる頃に2回目のチャレンジ。まだ明るい17時過ぎ頃に『はまの』のガラスの引き戸越しに店内を覗くと、カウンターの中でママさんらしき女性が開店の支度をしている様子。きっと、あの人がブルータスに載っていた「ばばあ」に違いない。
 引き戸をそろりと開けて「すみません、一人なんですけど、いいですか?」と声をかける。ママさんはその場に直立して、見知らぬ客に戸惑っているように見えた。「初めてなんですけど、あの、雑誌のブルータスに載っているのを見てきたんですけど…」。女ひとりの一見客なんて、警戒されて断られるかもしれない。少しの沈黙の後、ママさんは「ああ、ブルータスね!どうぞ、入って」と招き入れてくれた。

 ママさんの名前はレイコさんと仰った。私はカウンター席に腰掛けながらビールを注文した。「コロナでしばらく閉めてたのよ」「ブルータスを見て来るお客さんは上品な人が多い」と、東北訛りでおしゃべりをするレイコさん。さっきからずっと喋っているけど、もしかしてビールの注文忘れられているかも…。
 ひとしきりの会話の後、レイコさんは食器棚からグラスを取り出し「グラスはもう一度洗ってからね」とコロナ感染対策をアピールしつつ洗う。食器用洗剤をスポンジに取るのではなく直接グラスにたら~りとかけて洗っている。よかった、忘れられてなかった。
 そんなこんなで、座って15分くらい経つ頃、ようやく瓶ビールが登場。「コロナで食べ物を出すのも気を遣うから、前は自分で料理していたけど、今は知り合いの料理人に頼んで作ってもらっている」と、プラスチックの容器からお通しを盛り付けて出してくれた。

レイコさんの知人が作ったというお通し。肉団子、オクラのお浸し、切り干し大根、春雨サラダ

 レイコさんに名前を聞かれて「あゆみです」と答えると、「私は昭和生まれだから純子とか昌子とか「子」が付く名前はすぐに覚えられるけど、いまどきの名前は覚えられない」と言う。「料理は女より男のほうが意外と上手だ。女は髪が長かったり化粧するから、衛生面でも男が作るほうが安心かもしれない」。「エグザイルのメンバーが店に来た時、財布が札束で膨らんでいた」。そんな話に相槌をうちながらビールを飲み、お通しをつまむ。

 レイコさんは青森県出身で、地元でバスガイドとして働いたのち、横浜に出てきて関内の『孔雀』という高級クラブに勤め、その後独立して自分の店を持ったとのこと。常に恋人がいるようで、お店の家賃は一度も払ったことがない(彼が払ってくれるため)。光熱費がいくらかも知らなかった、といった話をしてくれた。海外旅行の話や高級時計をプレゼントされたことなど、バブル期を彷彿させるエピソードが多かった。

 その合間にも「ブルータスを見て来た人は品がある」「子が付く名前以外覚えられない」…の話を繰り返すレイコさん。1時間ほどの間に同じ話を5回は聞いたと思う。ブルータスと名前の話以外は、おおむねお金と男性の話だった。商店街の会長や事業家など、お金や地位のある男性の知り合いが多いようで、話題から何となくレイコさんの価値観が伺えた。
 ブルータスに載っていた記事と情報は一致しているが、想像していた「ばばあ」の素朴な人物像とレイコさんはだいぶ違っていた。居酒屋や小料理屋の女将さんというより、クラブやスナックのママさんという雰囲気の方だった。

レイコさんがくれた洋服とバッグ

 そして、レイコさんはいろいろ物をくれる人でもある。「洋服たくさん持ってるから、あなたはこれから買わなくていいわよ」と言い、おもむろに店の奥のほうから何やら出してくる。「きっとこれ似合うわよ。モノはいいから、まだ全然着られるわよ?」と紺のジャケットやカットソーをくれた。さらに、私が肩コリを辛そうにしているのを見て、肩を揉んでくれた。「私、嫌いな人にはこういうことしないの。人の身体に触るのって自分も相手の気を受けるから」と言いながらツボを押してくれるレイコさん。肩のコリがじんわり和らぐのと同時に、レイコさんのやさしさを感じた。

レイコさんがくれたスカーフ。横浜スタジアムのチャリティバザーに行ったときに商店街の会長にもらったものだそう

 ビール1本と日本酒1杯を飲み、そろそろ帰ろうとお会計をお願いすると、確か1,500円くらいだった。ほかのブログにも料金が安いと書かれていたが、実際にとても安くて驚いた。
 その時、レイコさんが突然「ばばあもちょっと飲むわ!」と冷蔵庫に入れていない常温の瓶ビールを空けてグラスに注いだ。「これはサービスだから」と、私のグラスにどぼどぼと注がれる日本酒…そんなに飲めない。先ほどまでと同じ話題が繰り返される中、何とかお酒を飲み干して店を後にした。外まで見送ってくれたレイコさんの鮮烈な印象を思い返しながら、酔った頭で東京まで帰った。

 その後数カ月して、再び『はまの』を訪れた。その時もレイコさんは前回と同様の話をしながら、スカーフやバッグ、大福、スシローの抹茶粉末のパックなどを持たせてくれた。その翌月くらいに店の前を通ったときは営業していなかった。ちょうどコロナの緊急事態宣言が出たり解除されたりしていた頃だった。

銭湯で偶然会ったときにレイコさんがくれた微妙なデザインのライト

 その後さらに数カ月が経ち、石川町にある銭湯へ行った時のこと。風呂から上がって身支度をしている女性にどこか見覚えがある気がした…レイコさんに似ている? でもいくら横浜とはいえ、こんなところで偶然会うってことはないだろう。その女性は扇風機の風を浴びながら「熱いわね」と何気なく話しかけてくれた「もしかして『はまの』のママさんですか?」と聞くと「えっ?!」と驚いていた。その人は、やはりレイコさんだった。

 「今はお店一旦閉めちゃったの。コロナのことでちょっと疲れちゃったし」と言うレイコさん。この間店の前を通ったときは、すでに営業をやめていたのかもしれない。
 そして「これ、今日近所の花屋にあげようと思って持ってきたんだけど、お店やってなかったから、あげるわ」と、とても微妙なデザインのランプを取り出した。翌日に行われるイベントの手伝いのため、私はその夜横浜に泊まる予定だった。東京から来ているので自分の荷物も多くて持って帰れないことを伝え、何とか辞退しようと頑張ったが「大丈夫よ。持てるわよ」「電球取り換えれば使えると思うよ」「せっかく持ってきたからあげるわよ」と言われて、結局断り切れなかった。お店に行った時だけでなく、銭湯で偶然会ってもモノをくれるレイコさん…やっぱり面白い人だ。
 「明日、寿町の広場で無料のコンサートがあるから、よかったら見に来てください」とチラシを渡すと「あー、明日はちょっと…」とレイコさんは言葉を濁し、親指を立てながら強い眼力で言った「東京からコレ(彼氏)が来るから!何もなかったら行けたけど、明日はダメだわ」。
 やっぱりレイコさんはすごい、と私は心から感嘆した。

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