こうしてはじめてみる

 まつまと と名乗ってnoteを始めることにしてみました。
 (まだ)学生です。
 noteでも始めてみようか、と思い至ったのは、何とはなしに自分の思ったことを言語化する練習をしてみたくなったからです。だからまあ、特に誰かに読まれることを意識するでもなく、気ままに書いていこうと思います。
 noteのようなプラットフォームでの活動はこれまでやったことがないでもないのですが、どれも長続きしませんでしたから……明日にはもはや失踪していそうな気がします。

 さて、わたし自身のことを書こうにも何を書いたものか見当がつかないので、最近の映画の話題でも。
 『竜とそばかすの姫』を観てきました。『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』などで知られた細田守監督の最新作ですね。これまで細田監督の作品は映画化されても「サブスクでいずれ見れるからいいか」と映画館に足を運ぶことはなかったのですが、今回はPVに惹かれて観に行くことにしました。もしかしたら、コロナ禍でいささか鬱屈した雰囲気を打破したかったこともあるかもしれません。実際観終わったあとには晴れ晴れとした気分だったので、効果てきめんだったと言えるでしょう(あくまで個人の感想であり、効能を示すものではございません)。
 せっかくなので、このnoteで『竜とそばかすの姫』を観て感じたことを綴っていきます。大した考察もないので、一介の学生が映画を見た感想をだらだらと垂れ流すだけになります(なので興味のない方はここがブラウザバックのチャンスですよ)。あと一応、ネタバレ注意です。どこまでが許容範囲か判断するのって難しいですね……。

 舞台は高知県の田舎……からアクセスする、インターネット仮想世界<U>。詳しいあらすじはホームページにもあるので割愛しますが、50億人ものアカウント: 「As」を同時に制御しているというだけでも途方もない世界であることが分かります。インターネット仮想世界ということで、世界観として『サマーウォーズ』を連想していました。大きく異なっていたのは、『サマーウォーズ』では(確か)アカウントと自身の見た目は切り離されたものだったのに対して、今作では生体端末を通じて身体情報を読み取り、「As」という仮想の自分を生成する点でしょうか。このスキャニングデバイス――ログイン用の端末にもなっているようですが――耳につけるだけで生体情報を走査してしまえるというのは、何とも恐ろしいですね。悪用されてしまってはひとたまりもないように思います。

 「As」の大きな特徴は、自分をベースに生みだされた”もうひとりの自分”として<U>の世界で生きることができる点でした。ホームページでは、「まったく別の自分を生きる」と表現されていますね。
 きっとこの文言は誰しもが根底に抱えるものではないでしょうか。今ではない、ここではないどこかで輝いている自分。<U>があればそれを叶えてくれる、というのなら、多くの人が手を伸ばしてしまうのも頷けます。
 では果たして「As」が「まったく別の自分」であったかと言えば、そうでなかったですよね。

 「As」とは、「自分らしくあるための土台」ではないでしょうか。作中でも何度か言及されている通り、「As」という端末はあくまで使用者の本質やポテンシャルを読み取り、形にしたものです。その端末として活動することは確かに<U>世界における「別の人生」とも言えるかもしれませんが、「まったく別の自分」と言ってしまうと語弊がありそうです。
 とはいえ<U>の製作者にとってそんなことは分かり切っているはずで、それでもあえて「まったく別の自分を生きる」と表現したことが重要なのだと思います。

 物語に目を向けると、本作の主人公である内藤鈴(以下、鈴)は不幸な生い立ちをもった、歌うことが好き(だった)少女と言えます。自身のトラウマ(PTSDとは異なるでしょうけれど、心的外傷という意味ではたぶん合っている)から歌えない、歌おうとしても嘔吐してしまう。序盤の彼女の姿は、観ていて非常に辛いものでした。そんな彼女はベルという「As」の姿で<U>へアクセスし、まもなく<U>世界の歌姫として受け入れられます。
 鈴がベルとして歌えたのは、まさに「まったく別の自分」としてベルを認識していたからでしょう。鈴としては歌えなくても、ベルという自分でない自分なら歌える。こうした前に進むきっかけを与えることが、<U>の標榜する「まったく別の自分を生きる」という表現の根底にあるものだったのではないでしょうか。

 少し、気になったシーンを紹介したいと思います。物語の終盤、鈴が「竜」を助けるために<U>の世界で現実の自身の姿を晒して歌うシーン。その直前に、鈴へ現実の自分を見せるべきだと告げたのが幼馴染の忍でした。序盤から鈴のことを気にかける人物の一人として描かれていた忍ですが、このタイミングで鈴に対して自分の姿を衆目に晒すべきだと告げる姿に、劇場の座席にいたわたしは嫌悪感を覚えました。これまで鈴が歌えずに苦しんできた姿を見てきて、さらには鈴が歌えなくなった瞬間のことも知っているのに、なんて無責任なんだと。
 ただ、思い返してみると忍は物語中盤、河川敷で鈴が「竜」へ向けた歌を口ずさんでいるのを聴いていたんですね。加えて、鈴=ベルだと気付いていることを最初に明かしたのも、忍でした。だからこそ、「これまでずっと見てきたから」といった曖昧な信頼だけでなく、確信をもって「歌える」と言ったのでしょう。

 そして鈴の方も、ベルとしてではなく鈴自身が<U>の世界で歌うことを決意しました。鈴の中でベルという「As」が「まったく別の自分」のままであれば、きっと歌えなかったことでしょう。それより、忍の「姿を晒すべき」という言葉に最後まで抵抗したはずです。鈴自身も、ベルが自分そのものだと実感していたのだと思います。その変化がじわじわと起こったのか、はたまた「竜」との出会いを経て起こったものなのかは、わたしには分かりません。次に観るときはそういった部分を気にかけておきたいですね。
 まさにこの<U>の世界に「鈴」が顕れたシーンこそ、鈴が鈴であるためにベルを土台とした瞬間ではなかったでしょうか。そしてそこから先の展開を劇場で観られたことは、ここ最近で最も素晴らしい瞬間のひとつでした。『竜とそばかすの姫』という作品があのワンシーンに込められていましたね。

 ここまで、<U>という世界の在り様について自分なりの考えを書いてきましたが、『竜とそばかすの姫』という作品には他にも多く語ることのできる部分がありました。もう何度か劇場に足を運んでみたく思うので、その度に気付いたことがあればまたつらつらと書き連ねてみたいと思います。

 一番初めの投稿で自分のことがなにもないのも寂しくなってきたので、少しだけ。自己紹介を、「物語を食べるイキモノ」としました。これはまさに『竜とそばかすの姫』を見て思い出した感覚で、これまでの20余年自分の中に活力が溢れた瞬間はいつも、何か素晴らしい物語を体感したときでした。
 『竜とそばかすの姫』でも、映画館から出たあとしばらくは胸のあたりが温かく、その高揚感のまま近くの書店で本を大量に買い込んでしまいました(また積ん読が増える……)。自己紹介には、この湧き上がる活力を忘れないために「物語を食べるイキモノ」と書きました。 
 noteをはじめられたのも、その活力の残滓があったからですかね。だから、忙しくなったらしばらく投稿しないかもしれません。逆に、面白い物語に出会えれば、間もなく投稿するかもしれません。
 まあ、気ままにやろうと思います。

 それでは、またどこかで。
 





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