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目的と手段

 健康のための食事、食品の摂取、運動等々を実践する人は多い。そこで、それらを実践する人に聞いてほしいことがある。「何のためにしているのか?」と。昨日今日始めた人ならば「テレビでやっていて健康にいいらしいから。」とか「知り合いのAさんがやっていて。」など明確な理由があるだろう。しかし、長年やっている人に聞くと「最初は健康のためにやっていたが今では日課のひとつとしてやっている。」返ってきたり、「正直何のためにやっているかわからない。」と返ってきたりする。これに対して苦言を呈す人たちが一定数いる。「何のためかわからないのならやる必要はあるのか?」や「目的と手段が同一になってしまっているのではないか?」などなど様々である。では、果たしてそれらはいけないことなのだろうか?

 私自身も経験がある。勉強が行き詰まってしまった時に「自分はなぜこの勉強を苦しみながらやっているのか?」と。最初は行きたい大学がありそこから逆算しての結果と受け入れられてきた。しかしながら、やればやるほど伸び悩みそんな思いがポッと浮いてくる。今まで自分と対話するまで勉強したことない当時の私にとってはとても大きな問題で手がつかなくなってしまった。友人や先生に相談すると「そんなことを考えているよりとりあえずやってみなさい。」と言われるだけだった。頑固な私は「周りと差をつけるには頭を使ったほうがいいに決まっている。」と聞く耳を持たなかった。今思い返せばここで素直に聞いておけばという後悔の1つである。

 当然勉強ができてないので結果は散々だった。これを機にいろんな人に話を聞いてみることにした。軒並み成績がいい人は勉強時間の確保と自分に合った勉強を理解していた。どちらか片方だけではいい成績は望めない。いい例がある。私の友人にY君がいる。彼は授業の合間にいつも勉強しているような青年だった。あとの話になるのだが歴史の学部に進学が決まった後にも数学を狂ったようにやっていた。そんな彼だが、成績上位者で名前を聞いたことはない。なぜだろうか?彼には勉強する目的もなければ、夢を実現するための手段でもないのである。「なんとなく」勉強をしているのである。それでは成績が伸びるはずがない。勉強ができる人には必ず目的がある。「○○になりたいから」とか「○○に勝ちたいから」などみんな答えられる。彼らは目的実現のための手段を知っているのだ。

 目的と手段が似たものになるのは長くやっていれば当然出てくるものだと思う。しかしながら、「なんとなく」やっている人たちが「なんとなく」始めたわけではない。目的のための手段として始めているはずである。そういう人は初心に帰ればまた目的と手段がしっかりと見えてくる。常に心がけたいことがある、自分の「なんとなく」が無心なのか無芯なのかを。





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