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宝物は宝物のままで古びていく

にじさんじに所属していた黛灰が卒業して、9か月が経とうとしている。
まだまだ大好きで困ってしまうので、なにか書いておこうと思う。
内容は決めていないので書きながら考える。

Vtuberが活動終了することについて、「好きなアーティストやアイドルが引退して表舞台から消えること」「好きな漫画が完結すること」を引き合いに出す人がたくさんいる。
それについて、わたしは内心、構図は似てるけど全然ちがうと思っていた。
けれど、彼の配信をリアルタイムで見ていたときの感覚がだんだん鮮明さを失って、アーカイブやボイスや当時買ったグッズだけが残されて、少しずつ、周りの人たちが言った『好きなアーティストの引退』に感覚がどんどん近づいているのを感じている。
そこに優劣はないはずなのに、それがなぜか、ただただ悲しい。
あのとき間違いなくわたしたちは同じ時間を共有して、同じ画面を見て一緒に笑ったり一緒に考えたりしていたはずで、それは今残っているものたちでは代替できない、宝物みたいな時間だった。
ありふれた言葉だけど、この宝物がずっと古ぼけなければいいのにと願ってしまう。

黛が言った活動終了の理由のひとつである「このままだと今まで作ってきた"黛灰"を少しずつ裏切っていくことになる」という意味について、いまだに考える。
その「裏切り」がなんなのか、どの程度こちらに伝わるものなのか、今となっては分からないけれど、活動者がなにか抱えていると熱心な視聴者にはなんとなく察するものだと経験上思っている。実際、2022年の彼の配信には、発表前からこの結末を予期する空気感があった。
それに、もし隠し通せたとしても、本人は活動を心から楽しめなくなっていたのは間違いないと思う。
だから、違和感を覚えながら延命するよりもあのとき幕を引くのが、彼にとって唯一で最大の"黛灰"への敬意の形だったんだろう。

本人の意向でアーカイブもボイス販売も残されているのは、とても幸せなことだ。
これは彼がVtuberとして生きた証であると同時にわたしたちへの愛と感謝の形なんだと思う。
彼は自分が熱心に"推される"ことにあまり前向きではなかったように見えていて、正直なところ、応援が重荷になっているのではないかと苦しくなることも何度かあった。
けれど、7月の怒涛の配信とそれを締めくくるエンドロールは、想像もしてなかったほどにリスナーへの愛と感謝に溢れていた。
「なんだ、わたしたち、愛されてたんじゃん。」と、あのとき、報われたような気すらした。
大事なところなのに相変わらず誤字をしているあたりも、ああ、黛の言葉だなあと思えて、泣きながら笑った。

そういう去り方でまたやられてしまったのもあって、冒頭のとおり、まだまだ大好きだ。
いつか、宝物が元の姿を思い出せないくらいに古びて、「もう心の奥深くにしまっておこう」と思う時がくるかもしれない。
それまでは、もうしばらく撫でで愛していこう。
じゃあ、またね。

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