あの時『全部を賭けない恋がはじまれば』を知っていれば。
あります。
あの時の自分は、咄嗟にうまく答えられなかった。
・・・
自分が上京してまだ心の休まる場所を見つけられていない頃の話。
通勤で使う大門駅からの景色も見慣れてしまうものだ。
見るものすべてが新鮮だったのに、ワクワクしていた感情は仕事に追われてしぼむ一方。風船を膨らます余裕はない。気づけば6kg痩せた。
東京タワーの景色が生活の一部になるが、たまに変わる電飾の色違いにまだ心が躍るのは救いだ。
「長いプロジェクト終わったし飲むか!銀座に行きつけの店があるんだ」
もう数年で退職される、今回のプロジェクトで一緒になった上司からの誘い。
1言われて10理解しないと椅子を蹴ってくる直属の上司にくらべたら天使のような人だ。
ただ、この椅子を蹴る上司のおかげで成長していたと気づくのはまだまだ先になってから。
仕事を定時で上がり、会社近くで一次会。
「銀座はまだ知らないよな?いいところだぞ」
一次会を早々に終わらせ、銀座へ向かう。
天使さん、よっぽど楽しみなんだろうな。
天使さんと意気揚々と向かった場所は、テレビで見ていたようないわゆる銀座のクラブ。
ママの佇まいに圧倒される。
この店に入るのに財布にいくらあったら安心できるんだろうか?
クレジットカードの明細はいつになったら恐る恐る見なくなるのだろうか?
「今日のお連れは、後輩の方?」
「かわいいでしょう?」
「天使さんには20年近くお世話になっているんです。楽しんでくださいね」
20年の親密度は伊達じゃない。
早速のデュエットソングに、ママとチークダンスを踊る天使さん。
お酒の力も手伝って、天使さんはこの上なくたのしそうな顔をしている。
職場とのギャップに驚愕しながら見ていると、横についてもらった方とのぎこちない会話が少しほぐれた。
「同い年ですね。私、神戸から来たんです。お名前は?」
自分の照れからなのか、不安からなのか、なぜか一瞬偽名を使おうか悩んだ。
自分が深夜ラジオ好きなので、関西弁での会話は心地よい。方言は抑えつつも、ところどころに関西弁のイントネーションが出ている。
とりあえず偏った関西知識を披露してみる。
その方は三国駅は知らないし、あそこのボウリング場も知らないらしい。撃沈。
「東京って大変ですよね。まだ慣れなくて」
「たのしい場所ですよ。せっかく来たんだから頭で考えずにとりあえずたのしまなきゃ」
そうか、たのしまないと。せっかく銀座に連れてきてもらったんだし。
この場での会話のたのしみ方がわからないので、なんとか会話を引き出そうとした結果、なぜか悩み相談をうける流れになった。
「オーケストラで演奏してて。でも儲かる仕事じゃないんです」
気品はそこからきてるのか、と納得。
生まれ育った環境で所作が変わるのだろう。お酒をつくるところをつい見てしまう。
話が弾みはじめ、同じ上京組として親近感がわいてきた。
自然な流れだったとは思う。
「見てみたいです、演奏会」
「見てどうなるの?」
「…え、」
「ごめんなさい。今の忘れてください」
咄嗟にその質問には答えられなかった。
分別のない未熟さだった。たずねる話題を含め、人としてもっと成長しないと。
もう一度天使さんに連れて行ってもらった時、その方は店を辞めていた。
この物語はフィクションです。 実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
・・・
『全部を賭けない恋がはじまれば』
思わず笑ってしまう性、勇気ある生。
この本の主人公は自分の思いを最大限オブラートにつつんで相手に伝える。
理不尽な状況でも気遣いを忘れない。先回りする優しさがある。
そして自分に正直。
また主人公はある出来事が起こると、どこかあきらめに似た怒りの感情で向き合っている。
そして歳を重ねる度に「またか」という雰囲気がグラデーションで濃くなり、達観している。
生きていると、
「この人、人生一度目じゃないな。何回目の生まれ変わりだろう?」
と、人間性から感じることがあるが、この主人公にもそれを感じる。
そんな主人公が出来事を呼んでいるのか、呼び寄せられるのか。
どちらもある気がする。
この本に描かれていない幸せなものに引っかかっている時の主人公。
そんな時の主人公ははまわりから愛されていて、寄りかかられるように必要とされているはず。そして未来に恩返しすることを思いながら。
角を立てずに丸くする。
闊達な人生の1ページを18の物語で存分に味わいつくせる本だった。
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