最近ポリティカルな的野さん
きっかけ
最近、ポリティカルなツイートが増えていることについて、敬愛するWeb作家であるNさんに心配されてしまった。最近の的野はちょっと怖いぞと。
この記事を書いたのはそれを受けてだ。たくさんのことを書くけど、特に伝えたいことは次の3点だ。
1 怖いと思われているほど怖くないので、今まで通り仲良くしてね。
2 最近ポリティカルにしている理由はいろいろあるけど、最大の理由は、インターネット言論にまともな言論環境を回復するにはどうすれば良いか考えたいということだ。
3 それはそれとして、あのアカウントは小説アカウントとしてこれからも運用していく。現状それができていないけど、そこは回復したい。
最近の的野のツイートを見直してみた
言われてみればということで、最近の的野のツイートを見直してみた。なるほど怖い。
私も昔から思っていた。政治系のことばっかりつぶやいているツイッタラーって、なんだか人を寄せ付けない怖さがあるよねと。まさか自分がその立場になってしまおうとは。
Nさんが私を怖いと思ったのは、私を小説仲間としてフォローしたからだという。なるほどその感覚はわかるような気がする。
別に私は学者であったり特別な当事者性を持っていたりして何かを訴えているわけではないので、私の言論というのは、少なくとも特別に質が高いということはないと思う。
とはいえ、では衝動だけで目の前の問題に反応しているのかと言われると、それもまた異なる。いろいろな思いがある。
最大の思いは、インターネット言論の言論環境について、どうすれば少しでも回復する方向に動かせるのか考えたいということだ。これは、目先の1年、2年の話ではなく、今後の10年で私が何を発信することができるのだろうという思いという感じだ。
だから、私の今の発信は、全くの試行錯誤と言って良い。どちらかというと、最適解とはほど遠いと思う。そんな中でいま発信をするのは、発信の方法云々というより、意見やことばを整理する練習という意図のほうが強い。
とはいえ、そういう発信を主としてこのアカウントを運用していきたいのかというと、そういうわけでもない。それに、言論人というものを目指すつもりでもない。
そのあたりのことについて語るために、まずは私の考えを動かした最近の経緯についてお話ししたい。
これまでの経緯
小説家になろう
小説投稿サイト「小説家になろう」で、つまらない小説を投稿しているのが、的野ひとである。的野ひとというキャラクターも、作家という成分だけを抽出した者として表現していきたいという思いがあった。
Nさんとも小説家になろうにて知り合った。私はNさんを敬愛している。Nさんともいろいろな経緯があるのだが、ここで特筆すべき事件として、クラス会事件というのがある。
小説家になろうには、エッセイというジャンルも投稿できる。だが、エッセイというジャンルには、たいへん稚拙な議論を展開する、非常にくだらない個人攻撃のような内容のものが多かった。またそれが流行し、コメント欄などでも喧嘩のようなことがおこなわれていた。
私はNさんとともに、そういうものをクラス会と呼んで、(少なくとも私は)揶揄していた。大の大人が、小学生のクラス会のような非常にレベルの低い議論をやって、また喜んでそれに巻き込まれていくのは、なんとも嘆かわしいことだよね、と。
Nさんとは、そういう本音が言い合えるからたいへん良いという部分がある。
さておき、今でも私はそう思っている。ひどく稚拙な議論を生み出したり、すすんでその渦中に入ることは、その主張の正しさ云々以前に、当人の暴力性や論理的な拙さを表す効果しかないのではないだろうか。
的野ひとツイッター
的野ひとのツイッターアカウントは、ひとまずツイッターくらいの窓口は持っておくのが良いだろうということで、なんとなく作ったものだ。
私の書く小説について、投稿を告知する役割もあった。
ただ、Web小説の作家によく見られるRT宣伝の嵐は耐えがたいものがあり、そうはなりたくないという思いがあった。だから、読んだWeb作家等に限定して、細々とアカウントを運用していくということにした。
同時に、小説を初めとした文化的なツイートをしたいという意図もあった。
それはまあまあ楽しかった。
ただ、あるとき宣伝行為をやめた。これは、私のなかで宣伝するほどおもしろくないものをおもしろいと言って広めるのも熱意を持てないなあという思いが膨らんだからだ。その詳細については、以前小説家になろうの活動報告に整理した。
同時に、ツイッターが時間泥棒だという問題意識が膨らんだ。それによって、ツイッターを離れることにした。
平野啓一郎さんという作家
その時点で、平野啓一郎さんという作家をフォローしている。彼は私が好きな純文学作家であるが、わりとポリティカルなツイートもする。
平野作品に、そういうポリティカルな考えというのは反映されている。『マチネの終わりに』は恋愛を主題とした純文学だが、イラク戦争期のジャーナリストが主人公である。PTSDやジャーナリズムなどのテーマに触れていることは、作品のおもしろさに貢献している。
文学に対する姿勢として、そういうポリティカルなものを持っていたほうがよいのかなと思いなおす。同時に、そういう発信をすることはあっても良いなとも。
Iさんとの会話
上記のような、宣伝に対する消極性のようなこともあり、また単純に時間を使いすぎるのも良くないということもあり、ツイッターから離れるとか離れないとかいう時期があった。そのころ、IさんというWeb作家と話すことがあった。Iさんはおもしろい作品を書くとともに、人間的にも尊敬する方で、私も精神的に救われたことがある。
Iさんと、ふとしたきっかけで政治的な話をすることがあった。
カルチャーショックだった。それは、Iさんが「私はあまり政治的な考えは深くない」としているにもかかわらず、その党派的な立場を極めて強く信じ、過剰に防御しようとしたからだ。
具体的には、私がしようとした各論が、Iさんの党派的な立場にとって不利だったことから、全く別の議論を持ち出してその立場を防御したのである。
この強硬な態度を築いたのは、何だろうかと思った。
Iさんとは、その後私のメッセージがきっかけで気まずくなってしまった。ある種の認識に関する批判として強い印象を与えようと送ったメッセージが、私が意図したのとは全く逆の意味に受け取られてしまい、ある種の認識を硬化させてしまったのである。これは、悲しいことだった。
Iさんという、人格的に優れた人間が展開した感情的な議論は、本当にショックだった。これは、小説家になろうのクラス会を嘲笑していたときとは別の感覚だった。つまり、Iさんでさえそういう状態であるなら、ほとんどの人がそういう、感情が優越した状態にあるのではないかという感覚である。
そして、Iさんとの会話から、それを築いたものはインターネット言論なのではないかというふうに考えた。
この頃から、私の問題意識は、Iさんのような人に訴えられることばは何だろうというところに移っていく(もっとも、先述のコミュニケーションの失敗から、Iさんにとっての私は偏狭な権利主義者という形で固まってしまったろうから、Iさん自身に何かを訴える希望はもはや持っていない)。そして、あまりにも短絡的な、しかしそのせいで影響力の強いインターネット言論は、どのように正常化されるかということを考えはじめる。私は、言論人になるつもりはないけれど、微力であってもそれを正常化する側に与したい。こういうエリート主義的な考え方は、Iさんや多くの人が嫌うところだろうけれど。
三春充希さんという分析者
このころ、ある新聞記事をきっかけに、三春充希さんを知る。三春さんは『武器としての世論調査』という本を出している。この本は、多くの世論調査からもっともらしい政党支持率等を出して示し、世論を考えるというものだ。選挙の前後における政党支持率の挙動などが、ダイナミックでとてもおもしろい。
三春さんの良いところは、さらに世論にどのようにアプローチするかということを検討しているところだ。世論を良いほうに動かすには、発信すべきだということを切々と訴えている。
私がいくらかの感動をおぼえた要素がわかりやすいのが、次の記事だ。
私は、データに基づいて言うという行為と、世論に響くことを言うという行為の両立はどこにあるのだろうということを悩んでいた。つまり、フェイクみたいな発信をするほうが、超短期的には効率よく世論を動かせるのは自明で、さまざまな党派がそれをおこなっている。しかし、当然それは許されるべきことではない。
一方で、アカデミックな世界はアカデミックな世界で完結してしまっていて、世論に訴える力をあまり持っていない。「象牙の塔」である。
データを作って、同時に世の中を動かす言論を生もうとしている人が、いるんだなと。それも、若くて、市井に。
とにかく、正解がわからなくても、発信をしなければならないのだな、と信じられる。私はあっさり感動してしまった。
政治系ツイッタラー各位
Iさんショックでわけがわからなくなっていた的野は、このころ各政党の支持者を集めたリストを三春さんの伝手で作っていた。各政党の支持者で、まともな主張をしている、あまり専門的な雰囲気でない人というのは、どんな人だろう。
同時に、時折消極的な与党支持者によって無批判に流されてくる暴力的な言説に思いがけず接することが多く、うんざりしていたということもある(おかしな言説を誰も批判しないのを見ると、私の頭が狂っているのだろうか、という気分になるのだが、党派的な意図や打算から誰にも批判されないという面が大きいのだろう)。そういうものに、どんな対抗言論を持っているのかという関心があった。
ちょうどこのころは、参院選だった。だから、党派を明らかにして主張する人が見当たった。結果的に、野党各党の支持者を1人以上リストに登録することができ、私は精神の安寧を得た(本当は優れた与党支持者も探したかったのだが、与党に批判的な三春さんには暴力的な与党支持者がたくさん寄り集まっていて、その中から優れた人を探す気力は無かった)。
そういうことで、参院選以後、こういう人たちの伝手で市井の政治的な言論を取り入れ、意見を述べるようになったという部分がある。
より運動的なツイッタラーたち
正常な言論環境については、運動的な人が嘲笑される現状は、どういうことなんだろうと私は問題意識を予てからもっている。デモ参加者とかね(投票行動は賞賛されるにもかかわらず!)。
そういう意味で、少なくとも私はそういう人たちについて、日和見主義的でありたくないなという感覚をいま、強くしている。それが、最近の発信につながっている部分はある。
以上が、私のツイッターにまつわる変遷である。
ただ、もう少し付き合ってほしい。
言論環境の正常化というテーマ
最近の実験
先述の、ある種義務感のようなものの高まりから、いろいろな発信をしてきた。
さまざまなテーマにふれた。マスメディア、国政、表現の自由、差別など。たいせつなことだと思っている。考えてツイートしている。ただ、申し訳ないことに、それら個別のテーマに対する情熱は、実のところそれほど大きいわけではない。
言論環境の正常化というテーマが、私にとって最大のものだ。たとえば、感情的な障壁のために訴えられにくい対抗言論が、インターネットでもきちんと受け容れられる状況は、どうすれば生まれるだろうか。
単純にポリティカルな情熱からツイートをしていると見られていたかもしれないが、言論環境の正常化という意識で、発信しつづけている。それを示すため、この一ヶ月のそういう意識のツイートを下記に列挙してみる。
ㅤ国政野党を巡る若者の言論環境という局所論としてでなく、ある状況において「野党」として発言する者の勇気を讃え、その勇気を出せない者の背中を押すことばとしてこの記事を。
— 的野ひと (@matonohito) September 6, 2019
あなたの正しさは、あなたをコミュ障という語で嘲笑する者に、損なわれない。https://t.co/oBoGcp94Ww #現代ビジネス
他者を「エビデンス」に厳格に基づいて説得する訓練を受けている研究者は、データが不足しているアクチュアルな問題について発信したくないお気持ちはよく理解できるのですが、過去のエビデンスに基づいた研究が、いま・私たちが直面する問題に含意を持つならそれを発信して欲しいと思っておりますのだ
— ア㊙️イさんのお尻 (@bot99795157) August 30, 2019
私の書いた話は,たぶん「左派的主張」として捉えられがちなんですが,右派・左派の話に絡め取られないように気をつけたいです。
— Nawata, Kengo (@nawaken) August 31, 2019
反発的低評価という心理バイアスがあって,自分と異なる立場だとみなされた時点で時点で話も聞かずに低評価をくらっちゃう。
「エコーチェンバー現象」は本当に恐い
— 大須賀 覚 / Satoru Osuka (@SatoruO) August 21, 2019
同じ志向を持つ人達がSNSで集まって情報交換するうちに「自分達が正しく、他人は愚かで間違っている」と狂信的になること
一度集団にハマるとタイムラインは嘘情報に埋め尽くされ、それが常識となってしまう
医療分野でも大きな問題https://t.co/fk5mvPC6Tn
"共感は「是々非々で考えること」を難しくします。(中略)
— Lemon in the mud🍋 (@Lotusinthemud2) August 20, 2019
議論をする際の作法として、よく「意見と人格は分けて考えろ」と言われますが、その人の主張が当事者性に依拠する場合、これがとても難しくなります。"
ジャーナリズム入門
— 古田大輔 (@masurakusuo) August 17, 2019
誰かが「雨だ」と言い、ほかの誰かが「晴れだ」と言う。お前の仕事は両方の言葉を引用することじゃない。窓から外を見て、どっちが正しいか判断しろ。 pic.twitter.com/NMV9o4yFop
だから、逆に言えば言論環境に関するところでなく、国政などの個別のテーマについて発信してみたのは、練習という感じだ。
同時に、日和見は良くないなという感覚にも基づいている。
ただ、発信してみて改めて思うけれど、Nさんが指摘するように、怖い。
いくらかまともなことを言おうと努めると、感情を廃することとなって共感性を失うからだとも思う。そういうものは拡散されないだけでなく、他者を遠ざける。
たいせつなのは、正しくあろうとすることだろうか。それとも、人と仲良くすることだろうか。
旧来のマスメディアとインターネット言論
インターネット言論は、旧来のマスメディアを叩いてきた。いくつかの問題点を明らかにすることには成功したが、よりよい言論環境を築くことには成功していないと私は感じている。旧来のマスメディアを叩くことによって相対的に地位を上げたさまざまなインターネットメディア(で、流行しているもの)は、取材力、分析力、センセーショナルでないこと、信憑性の全てにおいて、旧来のメディアを越えていないと断言する。(越えているのは速報性だが、これは正常な言論環境にはあまり影響しない要素だと思う)
インターネット言論は、旧来のマスメディアから距離が遠いところにあると思う。そして、独自の影響力をもってしまっていると思う。
このあたりのことは、また気が向けば改めて記事を書いてみたいと思う。
攻撃的な人
クラス会に私は参加することになってしまっているかもしれない。もちろん、あまりにもひどい言説に食ってかかるようなことはしないように努めているけれど、それでも極めてレベルの高い言説を提供しているというわけでもないだろう。
すると、ともすれば怒りから衝動的に発信する人と、私は区別がつかないのではないだろうか。
もちろん、私はそうではないつもりだ。いろいろな社会問題に対する怒りとか、ないわけではないけど、それがそのままことばにされることばかりだということこそが問題だという意識を持っている。だから、改めて目的を定義して発信をすることに努めている。
でも、周りから見たらそんなの区別がつかないに決まっている。だから私はここで、私を信じて恐れないでほしいというほかない。
めちゃくちゃな渦中に入ることは正解ではないのだろうなと実感する。日和見はだめだと思うから、いろいろ実験しているけれど。個人として発信するとしても、ある種のメタ的な視点が必要に決まっている。それはなんだろう。
小説家アカウントとして
平野さんに言及したように、ポリティカルなツイートをするのは、作家としてありだと思う。ただ、そればかりだとちょっと違う。
実際に、私を支配しているのが上述のような義務感ばかりというわけでもない。
ところでNさんは、ポリティカルなツイートばかりをする私に「楽しいのか。あるいは逃避しているのか。」と問うた。額面通りに回答するとすれば、どちらも、無いわけではないが、本質ではない。
目的意識というものに近い。「私も、意見を持てなきゃいけないなあ。」と。正義観を確立しなきゃいけないなあ、と(確立された正義観と狭量は紙一重だし、外からは区別がつかないのが難である)。そして、日和見はいけないし、発信しなきゃいけないなあ、と。
楽しさも無いわけではない。受発信のなかに、「学び」があるときだ。知的なツイートを見て、それに基づいて発信するときには、学びの喜びと、それを広める喜びがある。
ただ、Nさんの「楽しいのか」の意図はそこではないと思う。どちらかというと、私の攻撃性を危惧したのではないだろうか。だから怖れに繋がったのではないだろうか。そうではないと、繰り返したい。
Nさんがそれに言及しようとしたきっかけは、もちろん私との意見の違いかもしれない。でも、意見が違うことが許せなかったのではないと想像する。
そういうときにこそ、「怖れ」は生まれるからだと思う。仲良くしていたと思った人が、急に「わからない存在」になるときにこそ。
だからこそ、私のなかにあるのが攻撃性ではないということを繰り返さないといけない。私は、今でもNさんと本音で穏やかに語り合える。
このことは、Nさんだけでなく、この文章を読む全ての人に伝えたいことだ。
いま、異常に見えるほどポリティカルなツイートばかりが増えているとすれば、その他の小説的ツイートに、一切楽しさを感じられなくなってしまったからだ。
これには、私の生活状況や、小説家的な停滞が影響している。
小説家としてあろうとする私は、ツイッターを辞めようということを選んだ。なぜなら、小説のほうが停滞していて、ツイッターなどやらずに小説に集中せよという焦燥があるからだ。ツイッターでのどかに小説や文化の話をしていても、楽しめないのである。精神的に参っている。
一方、ポリティカルなツイートをしたがるのは、私の別の部分だ。だから、ポリティカルなツイートをする際には、そういう制限は働かない。不思議なものである。
でも、私としては、そういう部分は、小説家としても必要なんじゃないかと思っている。だから、このアカウントからそれを排除したくないと思っている。
そういう意味で、文化的ツイートのほうに返ってきてもらうことが、私のツイッターのバランスを取り戻す上で目指したい方針だ。
同時に、それを達成するためには私の精神的な調子を取り戻す必要がある。これも課題だ。
でも、そういう部分は、死んだわけではなく、きちんと私のなかにある。
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