Invisible Touch Act-1        ~はじまりは、眠り姫。~


「う・わ・あ!こんなの見たことない……!」

 ミハルはとにかく、もの凄く興奮していた。

 虫を追いかけて茂みに入ったミハルの目に、
突然、鮮やかな青い色が飛び込んできた。
周囲の風景から浮き立って、そこだけが明るく光っている。

 そおっと近づいてみると、石やガレキで影になっているそこには、
まだかすかに残雪があって、その中でまるで青い宝玉のように輝いている。

 ミハルの目を釘付けにしているのは、一匹の小さな、
青いカエルだった。

「リヒト!リヒトー!!」

「ハア……ハア……ハア……!!」

 みんなより少し離れた所にいたミハルが、
頬を真っ赤にして、転がるように走っている。
長い黒髪を風になびかせ、兄の名を呼びながら、
その大きな瞳で、大勢の子供達の中から兄の姿を探している。

 雨と晴れとが交互にやってきて、
毎日どんどん暖かくなってくる。

 まだ田植え前の、広々とした田んぼの周りで
楽しげに歓声をあげているのは、
先日幼稚園を卒園したばかりの子供達だ。

 たよりなく吹く風は、いまだ湿気を含んでいるものの、
久しぶりの晴れ間と言うこともあって、
子供達は思い思いの場所で、それぞれがエネルギー大放出中。

 母親の故郷であるこの田舎町で、
リヒトとミハルの兄妹はのびのびと暮らしていた。

 一週間前に6才になったばかりの妹ミハルは、
カラダはちっちゃいが、その分元気はいっぱいだ。
自分の【大いなる発見】を、一刻も早く兄とわかちあいたくて、
ミハルは走る。一生懸命に走る。追い風が気持ちいい。

「リヒトーー!」

 小さな農小屋の壁にもたれて、
田んぼの方に無造作に長い足を投げ出して座っていたリヒトは、
耳なじんだ妹の、自分を呼ぶ声に気づいて、
見ていた図鑑から顔を上げ、前髪をかきあげた。
血筋のせいもあって茶色かかった癖っ毛と切れ長の目をもつ彼は、
向こうから走ってくる妹を認めて、まぶしそうに、そちらを見やる。

風が少し強めに吹き出した。草のにおいが辺りに立ち込める。

 月が替われば、早くも7歳になるリヒトだったが、
ほぼ一才違いなのにもかかわらず、いつでも同級生なこの妹に、
「お兄ちゃん」と呼ばれたことは、かって一度も無かった。

 呼ばれてみたい、と言う気持ちは、
もちろん少しはあるのだが、それでも。

「リ・ヒ・トー!」

 彼の耳にはいつも、心地よく響くミハルの声。
少し舌っ足らずな発音で、自分の名を呼ぶ妹の声が、
彼はとても好きだった。

「ハア……ハア……ハア……!」

「……リヒト!!青いカエル!青いの!居たんだよ!!」

 目の前に立ったミハルは、息を切らせ、胸を押さえながら、
いまだ興奮が覚めやらない様子で、
見上げるリヒトに向かって訴えるように言った。

その姿に彼は、目を細めて微笑んだ。

「ウソだ~!! カエルってフツー、緑だろ!」

 リヒトが口を開くより先に、
ミハルの言葉を耳ざとく聞きつけた子供のひとりが、
水を差す気満々な口調でからんできた。

「……それは<トツゼンヘンイ>って言うのさ。黄色い色素が……」

 リヒトはあくまで穏やかに、そう説明しようとしたが、
その声はこの男児とミハルの言い合う声に見事にかき消された。

「そんなのあるわけないじゃんか!」

鼻で笑いながら断定する男児に、ミハルはしっかり煽られた。

「私、今見たもん! ぜったい!ぜったい居るよ!」

「じゃあ……見せてみろよ!」

「ぜったい!見せてあげるから!」

 こうなったミハルは決して後に引かない。
リヒトは経験上、イヤと言うほど身にしみて知っていた。

 子供らしくも、根拠のない自信を持ったその男児を伴って、
ミハルは先ほど問題のカエルを見つけた場所に向かっている。

最後尾の兄の方を、時々確かめるようにチラチラ見ながら、
ミハルはずんずん進んだ。

 田んぼの脇にある茂みを少し掻き分けて進むと、
ミハルは言った。

「ここ!!」

 ミハルが精一杯チカラを込めて指をさした場所には、
コンクリートのがれきや、少し大きめの石が無造作に積まれているのみで、
ところどころに残雪がのこるなかにも、
青いカエルどころか、目に見える生き物の姿はなかった。

 男児は勝ち誇って、ドヤ顔で言った。

「どこに居んだよ?」

 ミハルはさっきより更に真っ赤な顔になり、
その手をギュッと握り締めた。

(頼むから、それ以上ミハルを煽らないでくれ……)

 リヒトは祈るようにその男児の方を見たが、
彼のドヤ顔には、さらにニヤニヤと意地悪な笑いが上塗りされている。

(ダメだこりゃあ)

リヒトには、この後の展開がすっかり読めていた。

「リヒトー…… 一緒にさがそ? ね?」

 少しバツが悪そうに、上目遣いでおねだり顔のミハル。
毎度のことながら、それはすでに決定事項でしかなかった。

 リヒトは結構ポイントを絞って、居そうなところを
探してみたのだが、そうカンタンには見つからない。

 がれきの周りの草をかきわけると、
ずいぶんしっとりとしていた。
辺りの空気に、むせかえるような湿気を感じる。
汗がひとしずく、頬を伝ってポタリと落ちた。
リヒトはそれを振り払おうと、前髪をかきあげて上を向いた。

ずっと下を向いていたので気づくのが遅れたが、空がかなり曇ってきている。

(これは……ひと雨来るな)

 5~6mほど先で、その小さな手には余るような大きさの石を
手にとっては放り投げているミハルに声をかける。

「ミハル、そろそろ帰ろう。雨が来るよ。」

 さっきまで結構強く吹いていた風が、ふと気付けば止んでいる。

 何となく静かになったな、とは思っていたが、
今しがたまで、周りにたくさん居た子供達の姿が、
いつの間にか見えなくなっていた。

 辺りには、リヒトとミハルと、あとミハルに勝負をふっかけた男児が、
律儀にその場に残っているだけだった。

「もうちょっと……もうちょっと!!」

なかなか諦めがつかないミハルだ。

「ミハル、明日にしよう!」

リヒトの呼びかける声が大きくなる。

 ミハルは無造作に積んであるがれきの山を除け始めていた。
大きいのはちょっとキビしい。

「でも、この辺に居たんだもん……」

 兄の助言に従った方がいいのはわかりきっていたが、
ミハルはどうしてもリヒトにそれを見せたかった。
リヒトなら、『すごいな!』と一緒に喜んでくれる。
そう考えるとワクワクした。

 がんばっていっぱい除けたら、朽ちかけた板があって、
その下に水が溜まっているのが見えた。

ここならあのカエルがいるかも知れない!
ミハルが夢中で掘り続けたので、水だまりは半分くらいその姿を現した。

ただの水だまりだと思っていたが、それは井戸の一部だった。

 もうずいぶんと前から使用されてはいないだろうが、
ここのところ雨続きだったので
水面が上の方まで上がってきていたのだろう。

「あ! あ!」

 居た! 
目の端が青いものを捕らえて、ミハルの瞳が輝いた。
どこから現れたのか、瓦礫や朽木のくすんだ色の中、
そこだけが明るく、ひときわ明るく目を引いた。

 小さな青いカエルは、どこまでも透明な感じの青だ。
今まで見たことがないくらい本当にキレイで、
ミハルをうっとり見とれされた。

 「キレイだあ……」

スグにでもリヒトに見せたい、驚かせたい。

 それから、あのわからずやな男児に、
「えっへん!どうだー!」って、この発見を証明してみせるんだ。
ミハルはグッとこぶしを握った。

 しかし、大きな声を出して驚かせてはいけないので、
板の上に足をかけてそうっと慎重に手を伸ばした。

『すごいな、ミハル!』

 リヒトの喜ぶ顔が目に浮かんだ。
だって珍しいものがスッゴイ好きだもん。
そうだ!誕生日のプレゼントにしよう!

我ながらいい事を思いついた。自然と笑みがこぼれた。

 生暖かい風がすうっと吹いて、水面に映るミハルの顔を揺らした。

水の中で誰かが笑ったような気がした。

 空が一瞬、激しく明るく光った。
同時にドーンと言う大きな音。
どこかに落ちたかな、と思うまもなく、ポツ、ポツと雨が降り始めた。

慌ててミハルが居た方を振り返ったリヒトだが、その姿がどこにも見えない。

「ミハル?」

呼びかけにも答えはない。
ミハルがたった今、そこに居た場所に駆け寄る。

 さっきまで瓦礫が封をしていたそこには、井戸があった。
二重の封の役目を果たしていただろう板が腐り落ちて、
ぱっくりと穴が開いていた。

いやな予感が体中を駆けめぐる。

 井戸の中を、上から覗いても真っ暗にしか見えない。
最近の雨で水位は上がっていただろうが、
あたりに大きく水がはねた形跡があった。

「ミハル!!!」

リヒトの中で不安が確信に変わった。

 今出来得る最善の方法は何だ?……何だ?
リヒトの頭が、フル回転する。
不安そうな顔をして立ち尽くしている男児が目に入った。

「誰か……オトナだ!!すぐにオトナを呼んで来い!!!」

 残っていた男児はリヒトに怒鳴られ、
火がついたように泣きながら走り出した。

 時間はない。
迷わず自分は衣服のまま、暗い井戸に飛び込んだ。

 

 「リヒト タスケテ タスケテ……」

 ミハルの泣きべそ顔。
それだけが、リヒトの記憶に焼きついている。




 パッ!パッ!ドドーン!!!ドン! ドン!

 夏休みも最終日、静かな住宅街の昼下がり。
とある一軒の家からド派手な爆発音が聞こえたが、
近隣の住民達の中にもそれを気に留める者はいなかった。

 家の敷地が広いせいもあるだろうが、
こんな音がするのは、ここではさほど珍しいことでもない。

「チッ 妙な化学反応起こしやがって……」

 悪態をつきながら現れたのは、この家に住む男子高校生、リヒトだ。

 顔はすすだらけの上に、髪の毛はバクハツ状態。
……もっとも髪の方は半分以上、生まれつきだった。

 彼は目に掛かっていた前髪を左手でかきあげた。
右手にはしっかりと大き目のフラスコを抱えている。

 その中にはいかにもおどろおどろしいカンジの濃厚な黄色い液体が入っていた。

リヒトは大事そうにそれをかかえ、丸い底の部分をなでながら、
瞳をキラーン!と輝かせた。

「……完成だ!!!」

「よし。オレ渾身の自信作だ。きっと上手くいく!
オレは天才だ……自分を信じろ……」

「ア……アハハハ!!」

 髪をかきあげながら、トツゼン彼は声を上げて笑った。顔は笑ってなどいないのに。
その姿は、まさしく怪しげなマッドサイエンティストそのものだったが、
そこには誰もつっこんでくれる人もいなかった。

 彼は長年愛用のくたびれたカバンの中に、
普段持ち歩いているコンパクト実験用具と、厳重に密封してケースに入れたフラスコを入れて肩からかけると、
自転車の前カゴに制服を乱暴につっこみ、
まだまだ暑い街の中に、自転車を走らせた。

大学病院まで約15分。

「待ってろミハル!必ずオレが……!!」

「あら、ぼっちゃん。またお見舞い?」
病院につくと、エレベーターの中で顔見知りの
看護師に声をかけられた。
 
 リヒトの父は医師だ。あの忌まわしい事故の直後、
田舎町の医院から設備の整ったこの大学病院に、
父は職場替えした。
彼ももちろん付いてきた。小学一年になる時のことである。

 そういうワケで年配の看護師の中には、
彼に対して、今でもこんな呼び方をする者もいる。
実際のところかなりうっとおしかったが、
今日は機嫌が良かったので、珍しく社交辞令を口にした。

「ええ、いつも妹がお世話になっています」

 看護師は一瞬、意外、と言う顔でリヒトのほうを見たが、
今はそんな事にかまっていられる余裕などない。

 エレベーターの扉が開くと、
大きなデイルームの窓からは、早くも西日が差し始めていた。

 足早に病室へと急ぐ。
10年余、通いなれたこのルート。
たぶん目をつぶっていても歩けるに違いない。

小学生だった彼は、いつしか高校生になっていた。

 ここに来た最初の日から、
数えきれないくらい何度も通ったこの廊下。
何一つ、いつもと変わるところは無い。

 だが、今日の気分は少し違う。
いつも無愛想と言われるリヒトだが、
今日は自然と顔がゆるんでいるようだ。
それがすれ違う人々に多少の違和感を与えていたが、
そんな事は知ったこっちゃなかった。

「あら、リヒト君!こんにちは。
 どうしたの?今日いつもより遅かったじゃない?」

 ちょうど病室から出てきたところだった、クラスメートの立石真里とすれ違う。
誰をも安心させるようなニコニコ笑顔。
柔らかそうなセミロングヘアに、穏やかな瞳。
清楚な格好で、良家の子女らしい上品さを持ちあわせた女子だ。

「ああ真里。今日も来てくれてたのか。いつもありがとうな」
 先ほどとは違い、これは心からの礼だった。
この光景も、10年間続く日常のひとつだ。

 真里の父親も、ここの医師である。
同い年という事もあるが、ここに来て出会った直後から、
何かと二人を気にかけ、いろいろ気を配ってくれている。

 一度も言葉を交わした事すらないのに、
ずっとミハルの世話を焼いてくれている奇特な女子である。

 彼女はいつも大きなカバンを提げていて、
リヒトは密かにそれを【四次元バッグ】と呼んでいた。
この中に入っていないモノは無いんじゃなかろうか、
と思えたからだった。

横柄なリヒトだが、真里には少々、頭があがらない。

「ミハルちゃん、今日はすっごく顔色がよくて。
今にも話しかけてくれそうなカンジだったんだよ」

 真里はひときわ嬉しそうに、そう報告してくれた。
彼女は情緒安定感バツグンで、いつも穏やかに笑っている。
多少ヘンクツな、リヒトでさえ癒されるぐらいに。

「今日は私そろそろ帰るね。また明日、学校でね!」

「おう、サンキューな」

 大きなカバンを引きずる様にしながら、
帰っていく真里を見送って、リヒトは思った。
 
(ミハルが目を覚ましたら、
真里のような娘が友達になってくれればいい。
 ミハルは気ィは強いけど、どっかヌけてるからなあ……
しっかりしてる真里がついてれば、安心なんだが。)

 頭の中で、二人が一緒にいるところが自然と思い浮かぶ。
とてもしっくり来る。絵になる。

 そんな事を一人想像している彼は少々キモイ感じがしたが、
ミハルの事となると、思考がいつでも暴走気味なリヒトだった。

 病室に入ると、とても良い香りがした。

(真里の持ってきた花だろうか?)

レースのカーテンの隙間から指す西日が部屋を赤く見せる。

「ミハル……」

(オレの妹は静かに眠っている。
もう10年もそのままだ。)

 顔を近づけてかすかな寝息を確かめる。
今日は確かに、顔色が良い。

 良い香りは、ミハルの長い黒髪からだった。
多分、真里が洗髪してくれたんだろう。

「良かったな、キレイにしてもらっって」

 流れる点滴液が、リヒトの目に触れる。
相も変わらず妹の身体には、無機質な管が数本通っている。
これさえなければ、まるで眠っているかのようじゃないか。

 しかしこれが彼女の命綱であり、
復活につながる大事なラインなのだ!
リヒトにとっても希望、と言えなくもないだろう。

 今から病院は夕食の時間、だがミハルには食事の必要はない。
医師の回診も終わったハズだ。
次の見回り時間まで、ここへ看護師はやってこない。

 リヒトは用心のため個室に鍵をかけ、
すばやくカバンをあけると、くだんのフラスコを取り出し、
中の液体を注射器に慎重に移し変えた。

「大丈夫……きっと上手くいく」

彼は息を詰めて、点滴のバイパス部分に注射針を挿した。

 黄色い液体が点滴液の中に混入していく。
さすがに、どっと汗が流れ出た。

「フー……」

 ベッドサイドのソファにどっかと腰をおろす。後は結果を待つだけだ。
 元の点滴液と混ざって少し色が薄くなった液体が
ゆっくりとミハルのカラダの中に流れてゆく。

(大丈夫。絶対だ……!
この日のため、昼も夜も考え、計算し、実験した。
やっと、やっと見つけた蘇生への配合なんだ)

「絶対に、成功する!」

 せわしなく前髪をかきあげながら、
今日数え切れないくらいつぶやいたその言葉を、
もう一度強く、自分に言い聞かせる。
手にした本に眼を遣りながら、時間が過ぎるのを待った。

 どのくらい時間がたっただろうか。

ノックの音に多少驚いたリヒトだったが、
うっかりドアに鍵をかけたままだった事を思い出し、
急いで入り口を開けた。

若い女の看護師が、医療用具を乗せたワゴンを突いて入ってくる。

「まだおいでだったんですか?もうすぐ消灯ですけど……」

 看護師は手を止めることもなく、
機器の動作確認をしたり、血圧を測ったり、
定期的な作業をこなしつつ、リヒトに話しかける。

(そうか。いつの間にか3時間も経ってたんだ)

「ああ……今日はここに泊まっていくつもりなんです。
明日から新学期で、そんなに来れなくなるんで……」

できるだけ自然に、そう言った。

「そうですか。少し雨模様になってきたんで、
その方がいいかも知れませんね。」

 看護師は、リヒトの事は家族として認識しているのだろう、
べつだん疑問に思うようなこともないようだ。

 看護師が出て行ったあと、
ミハルの様子を伺った。何にも変わった事がない。

(ない。ない? ない。……何でないんだ!
そろそろ効果が……いや待てまだ3時間。
もう3時間?イヤまだ3時間……)

 悶々としていて、さらに3時間が過ぎた。
外では雨が降り出したようだった。
開けたままにしていたカーテンを引くと、
病室の空気が一段重くなったような気がした。

 研究以外に時間のつぶし方を知らないリヒトは
ベッドサイドをうろうろ歩き回って、
脳内で薬品の配合を反復したりしていたが、
急激に疲れを感じて、ソファに腰掛けた。

 至近距離でミハルの顔を覗き込むが、見て取れる変化は何もなかった。

「まさか……ダメなのか?!」

不安が鎌首をもたげ、彼の心をかき乱す。じわりと、冷や汗がにじみ出る。

「そんなハズないだろ!そんなハズ!」

 さすがのリヒトもちょっと弱気になって、
ミハルのそばにもたれかかり、耳元で囁いた。

「目ェ覚ませ……」

 何度も何度もココロでつぶやいたその言葉。
もう一度、呼んでくれ。オレの名を。

「リヒト、って呼べよミハル……」
 
 もしもこの世界に、神様なんてものがいるならば。
ちょっとぐらいは……可哀相かな、と思ってくれてもいい光景だった。

 窓の外の雨の音が、どんどん大きくなってゆく。
そのリズムが、眠りを誘ってくる……

 実際のところ疲れ切っていたリヒトは、
妹の傍で、くずれるように眠りに就いた。
ソファに腰掛けたまま。

どんどん激しさを増していく雨の音……


『リヒト、ほらっ!』
小さなミハルが、
大きな青いカエルに乗っかって、こっちに手を差し伸べている。

(何だそれは。それがオマエの探していたカエルか?
ちょっと大きさおかしいんじゃないか…?
何でオマエは小っさいままなんだ?
そんなじゃ学校いけないぞ)

(ミハル、ちゃんと大きくならないと……)

ダン!ダーーーーン!!!!

 室内にいてもその振動が伝わる。
激しい雷の音で、リヒトはバチッ!と目を覚ました。
 
病室の時計は8時半を指していた。

「ヤッベー!!遅刻!」

高校は大学病院に隣接しているが、外は大雨だ。

「ミハル……」

 見ると、点滴を管理している機器のランプが点滅している。
過電流に拠る小さなトラブルのようだ。

 看護師を呼ぶまでもないので、スイッチをリセットして、
ミハルの顔を覗き込んだ。

点滴は正常で、見たところ何もかわったところはない。

「クソッ!何でなんだよ……」

リヒトは制服をひっつかんで、病室を後にした。

雨の中自転車を走らせながら、とてもとてもとても。只ひたすらに悔しかった。

(どこでもミスはしていないハズなのに…!
今度こそ上手くいくハズなのに…!!)

アタマがバクハツしそうだ。冷静な自分じゃいられない。


「スゲーなあ……何ていうか……
 オマエこん中、何か飼ってんじゃねーの?」

 実際にアタマがバクハツしたようにしか見えない状態のリヒトのその頭髪を、
デカイ手でポンポンと叩いてみたりしているのは、同級生の槣原大地である。

まるで珍しいものでも見るような態度で、
しげしげと見ながら、感心することしきりだ。

「……全部雨のせいなんだよ!」 

 リヒトはその手をうるさそうに払いのけて、そう吐き捨てた。
憮然とした顔つき。まさしくイライラ全開のご様子。

 時間ギリギリだったので、
学校に着くなり濡れたまま始業式に参加していたリヒトは、
今しがたやっと式から解放されて、家庭部の部室で濡れたカラダを乾かしていた。

生乾きの髪の毛が、ちょっとヤバいことになっている。

 かたわらに居る真里が、
ぐしょ濡れの彼のシャツにせっせとアイロンをかけていた。
その所作はもはや職人技だ。
ピシッ!となった襟元を見て、彼女は満足そうに微笑んだ。

「うん!キレイになった。次はズボンね。
 リヒト君、 ちょっと、脱いでくれる?」

 うら若き乙女がそのセリフはどうかと思うが、
言われたリヒトの方も、遠慮のカケラすら無く、
ズボンを脱いでベルトを引き抜くと、真里に手渡した。
見ていた大地は、二人の潔さに感心した。
 
 ここ家庭部の部室は、真里のホームである。
いろいろ彼女の秘密兵器(?)が、そこかしこに装備されていて、
どこで誰が、どのような事で困っていても、
大概の事は、ココに来ると解決できてしまうのだった。

 もちろん現在大活躍中のマイアイロンも、常備品のひとつに過ぎない。
そんな彼女は、家庭部部長の鑑と言えるだろう。

 イスに腰掛けているリヒトは、眉間にシワを寄せて難しい顔をしているものの、
下着姿にシャツをはおっただけのお間抜けな格好では、いまいち迫力に欠けた。

「まあまあ。そう怒んなや。昼メシおごってやるからよ。」

 さきほど払いのけられた手を、何一つ気に留める様子もなく、
大地は再び、リヒトの頭をポンっと叩いて、明るくそう言った。

 大地はそのデカイ身体から、
常に陽気な雰囲気を溢れさせていて、気は優しくて力持ち。
誰にでも合わせられる包容力のある人となりは、
【百万人の相棒】と言われる由縁である。
身長も高いが体格もガッチリ(少々横幅も広い)のスポーツマンタイプ。
怒っているリヒトをからかうのが、実は密かな楽しみだったりする。

 彼は1学年160名中、10人前後しかいない高校からの編入組で、
この大学付属の一貫校においては変わりダネと言える。
実家は本人いわく、【由緒ある貧乏寺】で、
どこかで道を踏み外さない限りは、将来僧侶の御身である。
ここには社会勉強に来たらしい。

 その社会的順応力はかなりなモノで、この学校にスグ馴染んだのみならず、
通算10年以上ここで学生しているリヒトよりも
余程この学校の内部にまで精通している大地であった。

 自他ともに認めるカメラの腕前で、
新聞部に重宝されている事もあって、
校内に独自のネットワークを持っているようである。

 リヒトとの共通点なんて、何一つないに等しいのだが、
二人ともわが道を行くタイプなので、なんとなく気が合った。
リヒトにとっては、数少ない理解者のひとりだった。

 乾いたズボンをはいて、一応体裁は整ったものの
いまだ少し不機嫌さを残した顔でいるリヒトを、
小突くようにしながら、大地は学食に向かう廊下を歩き出した。

窓の外では、激しく降っていた雨も上がって、
雲の隙間から晴れ間が見え始めていた。

 学食、と言ってもここは、最近新しく建て直されたばかりで、
斬新な最先端の建築デザインと、豊富かつ健康的なメニューがウリで、
この学校の自慢のひとつになっている。

天井がすばらしく高く、開放的な空間が広がる。

 天窓から雨上がりの空が見え、
キラキラと光が差し込んでいる一角に3人は陣取った。
大地が、3人分にしてはかなり多めな料理を運んでくる。

日の光には、人の心を明るくするチカラが有る。

「絶対あきらめねぇ……」

 リヒトは長い前髪をかき上げ、
窓越しに中空を見据えてボソっとつぶやいた。

 細身のカラダに似合わず、結構ガッツリ食いながら、
彼の頭脳は再び回転を始めたようだった。

その様子を見ていた大地は、満足気に大きくうなずいた。


 その頃、リヒト達のクラス、2-Bの教室が有る校舎の棟では、
大変な騒ぎが起こっていた。

「何事ですか……?ずいぶん騒がしいですね……??」
生徒達に配るプリントの準備をしていた2-Bのクラス委員長・安田顕章は、
デフォルトでズレ気味のメガネをずい、と上にあげ、廊下の方を見やった。

ド近眼故のビン底メガネに、少々ヒョロい体つき。
いつ何時も、詰襟の学生服を着て、最上部のボタンまでキッチリ止めている。
真面目一筋、熱血漢の安田委員長は、いつでも世のため人のため、
非常識な大騒ぎに一言注意しようと、立ち上がって廊下に顔を出した。

「みなさん!今日から新学期で盛り上がるのもわかりますが……
少々うるさすぎじゃ……!?…!!@?!○×!!」

 委員長は、今まさに、自分の眼前で繰り広げられている
普通じゃない光景に、圧倒されて絶句した。

 彼は自分の見ているモノが信じられない、という風に、
掛けているメガネをさらに上に押し上げてよくよく見直した。

 廊下を転げそうになりながらも懸命に走ってきたのは、
童話の世界から抜け出してきたかのような可憐な美・少・女。
長い黒髪をなびかせて、大きな瞳がウルウル……

 騒然とするギャラリー。
まるでスローモーションの様に、彼女が駆け抜けたその後には、
タマシイの抜けたようなカオで立ち尽くす男子生徒たちの
残骸が残されていく。

「………………」

 安田はもう、眼をそらすことが出来なかった。

 思わずその手を取って、
支えてやりたくなるような覚束ない足取り。
色白の頬を紅潮させて、額の汗さえ輝いている。

けれども何より、カラダを動かす事が楽しくてしょうがないといったその風情が、
委員長のココロを深く捕らえて離さない。

「な、なんて……なんて美しい人なんだ!!!」

 彼は、再びズレていたメガネを掛けなおし、
その姿を眼に、ココロに、焼き付けた。
 全くと言っていいほど女子に免疫のない委員長は、
どストライク直球を受けて完全に撃沈されたのだった。

 その場にいた大勢の男子諸君も同様に、
キョーレツなアッパーをくらっていたには違いないが、
一応ココは世間に知られた優秀な進学校であったゆえか、
大半の生徒は、なんとか紳士的な態度を死守した。

 見て見ぬフリをしてやる。
それが真の男の優しさなのかもしれない……

 そう、問題の彼女は素肌に術衣一枚!
いわゆる【まっぱ】に限りなく近い
出で立ちで校内を駆け抜けていったのである。

「大変だーっっっ!!!ほとんどハダカ……!!
いや、目一杯薄着の!!
女の子がこっちに走ってくるぞー!!」

 リヒト達の居た学食にその騒ぎが届くのに
たいして時間はかからなかった。

「何だ何だ、特ダネか?おもしろそうだな? 
ちょっと行って来るか」

 カメラ小僧な大地が、いつも持ち歩いている一眼を手にとる。
窓側を向いて、頬杖をついていたリヒトは、
キョーミねぇ、と言う風に手を上に振る。

 立ち上がり、出入り口のほうへ向かおうとした大地だったが、
それよりも早く、騒ぎの大元が近くに歩み寄ってきた。

 その姿を眼にしたとたん、
さすがの大地もレンズをすばやく下に向けた。
……いわゆる自主規制、というヤツだ。

 被写体としてカンペキながら、
惜しくもR18検閲に抵触している美少女が、
息を切らせながら口をひらいた。

「……リヒト」

(誰だ? オレの名を呼ぶのは……)

 騒ぎに背を向けていたリヒトだが、
正面に座っている真里の、ぽかん、とした顔をみて、
ゆっくりと後ろを振り返った。

「り・ひ・と……」

 ひと事ひと言、何かを確かめるように発音する。
こちらを見つめるその大きな瞳から、
大粒のナミダが……零れ落ちた。

「ミ……」

 リヒトは椅子から転げるように立ち上がった。

 目の前に立ったミハルが、息を切らせて胸を押さえている。

 あの日も、こうやってオレの前に走ってきたミハル。

『リヒト!……青いカエル!居たんだよー!』

 あの時のミハルの言葉が、リヒトの心に呼び起こされる。
彼の脳裏に、10年間の出来事全てが、一瞬にして蘇ってきた。

 彼の優秀な頭脳は、入ってくる数多の情報を処理しようと
高速回転し続けている!!!

 しかし、どういうわけだろう。
最終的にぽっかりと、リヒトの心に浮かんだ映像は
今朝見た示唆的な、夢のそれだった。

「ミハル!!!  お前……!
オマエ!! カエルに乗ってきたのか??!」

 彼はまったく妙な事を口走ったが、
誰もがミハルの方に気を取られていたので、
注目されていないのは幸いだった。

「リヒト!!!」
「リヒト リヒト リヒトー!!!」

 何度となく、オレの名を呼ぶのは、
まちがいなく心地好い、あの妹の声だ。

 飛び込んでくる妹をしっかと受けとめて、
やっとコレは現実なのだ、と感じることが出来た。

「おっきくなったね!リヒト!
 背が高くなって……やっと、やっと……触れたーー!!」

 感極まったのか、溢れるナミダを止めようともせず、
強い力で抱きついてくるミハルが、今確かに腕の中にいる。

 青い空。遠くの山の残雪。広々とした田畑……
懐かしい田舎の風景が、今、目の前に広がるような感じがした。

(ミハルは戻ってきた!!
オレはやったんだ!!
とうとう、成功したんだ!!!)

 リヒトは腕の中の妹をぎゅっと強く抱きしめて、
ほぼ10年ぶりに……微笑んだ。

「あ!笑ったわ!」 
「今、笑ったな!」

 真里と大地が、目を丸くしながら顔を見合わせた。

 あまりにもぎこちない笑顔だったので、
それが笑顔だと理解できたのはおそらくこの二人だけだったろうが、
そのせいなのか二人とも無意識にドヤ顏になっていた。

 あっけにとられて反応し損ねていたギャラリーから、
悲鳴とも歓声ともつきかねる大きなどよめきが巻き起こったのは、
それよりさらに数秒後のことだった。

 学食内は上を下への大騒ぎで、収支がつかない状態だったが、
ひし!と抱き合う兄妹にとっては、そんな事はまったくどうでも良かった。

 こののち一週間ほど、
超カタブツなリヒトに同棲相手がいた、とか
美少女をペットにしてる、だとかのウワサが
学校内をもれなく循環していたが、
ミハルが正式にクラスに編入してくるにあたって、
大地が新聞部に手を回し、正しい情報を流して事なきを得た。



「あーまた!ミハルちゃんの【不思議ちゃん】発言出たよー」

 楽しげな笑い声が昼休みの学食に響く。
リヒトのクラスの女の子たちだ。
その中心にはミハルが居た。
また何かとんちんかんな事を言ったらしく、
それがみんなに大ウケなのだ。

 騒然とした学食内でも、女の子たちの明るい歓声は、
ひときわくっきりと、耳に入ってくる。
 とは言え、かなり離れた所に居たリヒトが、
セリフ中の妹の名前を敏感にキャッチしたのは、
やはりさすがと言うべきか、もはや痛々しいと言うべきなのか。

「もう~やだ~ミハルちゃんったら!」

「そんな事ないよ!本当なんだよ!」

 ミハルが少々ムキになって反論している。

(大丈夫かよ、アイツ。
 また妙なこと口走ってなけりゃイイけど)

 リヒトはさりげなく女子の集団に近づいて、ミハルと周囲を観察する事にした。
読んでいるふりをしている本が逆さまなのがちょっと悲しい。

 世間知らずなのは致し方ない。
ミハルの生い立ちを考えればそれは自然なことだった。
リヒトが気にしているのはそこではない。

 ミハルはどうかすると時々、
コチラが驚くようなコアな知識を突然披露する事があった。

 それは、ミハルがココに戻ってきてからというもの、
授業についていけるようにと、
付きっ切りでカテキョしているリヒトをとても驚かせた。

 ミハルには、まったく他意がないが、
【不思議】を通り越して、【変なコ】扱いされやしないかと、
リヒトは懸念していたのだ。

「ホントに……ホントなんだから!」

 ミハルの訴えるような声に、
リヒトはチラと妹の方に目をやった。
皆がまったく本気にせず笑いっぱなしなのに抗議して、
ふくれっつらをするミハルが目に入る。

「ミハルちゃんが言うのなら、きっと本当のことね!」

 少し遅れてやってきた真里が、
皆のところに近づいてきて、ニッコリ笑いながら声をかけた。

 ミハルの顔がパァっと明るくなった。
そのまま真里の方をじっと見つめていたかと思うと、
急に思いついたように立ち上がった。

「あ……あのっ!立石さん!」

少し緊張した面持ちで、ミハルは話しかけた。

「はい?」

「いつも……いつも お見舞いに来てくれてありがとう!!」

ペコリと頭を下げる。

「いつも髪の毛キレイにしてくれてホントにありがとう。」

「あら、どういたしまして。
ミハルちゃん、すごくキレイな長い髪だから、
見てたらお手入れしてあげたくなって」

真里は少し照れくさそうにそう応えた。

「すごく嬉しかった、私。
ずっとずっと、こうやって、お話してみたかったの……」

 長年心に溜め込んでいた真里への感謝が一気に溢れ出したのか、
ミハルは少し涙目になっていた。

真里はニッコリ笑った。

「リヒト君からいろいろ聞いたのね?
 私も、ミハルちゃんとこうしてお話しできて嬉しいわ!」

「あの……それからっ 真里ちゃん!って呼んでイイ?」

まるで一世一代の告白でもしてるんじゃないか、みたいな勢いで
ミハルがそう言うと、飛び切りの笑顔で真里は応えた。

「そんなの当たり前じゃない。
私もミハルちゃん、ってずっと呼んじゃってるし」

ミハルも頬を紅潮させて、はじけるような笑顔を返した。

「よしっ!!!」

 その心温まる光景を見ながら、
リヒトは思わず、小さくガッツポーズをした。
普段感情をあまり表に出さない彼にしては、珍しいことである。

「さすが真里。グッジョブ!!」

 真里に心から感謝したその直後、
自分が持っている本の向きにやっと気づいて、
誰にも見られないようにさりげなく上下を入れ替えた。

 クールで通ってるリヒトが最近、
人知れずガールズトークに耳をそばだてているだなんて、
誰も知る必要はないのだ。
 
 リヒトの過保護な心配をよそに、
ミハルのまわりには、いつでも女子たちが集まっていて、
毎日毎日、他愛もない話に花を咲かせていた。

 まあ半分くらいは、真里の尽力もあっての事だろうが、
すっかりミハルはクラスに受け入れられているようだ。

(オレの取り越し苦労だったか。
 そう言えばあいつは、幼稚園の頃もクラスの人気者だったな。
みんなミハルちゃん、ミハルちゃんって言って……
いつでも大勢に囲まれてたっけな)

 常に輪の中心に居て、元気いっぱいで笑いの絶えないミハル。
今更ながらだが、幼い頃の自分は、そんな妹を見ていることで、
とても満たされた気持ちになっていた事を思い出した。

 昔と変わらないミハルを見ていると、
10年間、すっかり忘れていた穏やかな感情が、
リヒトの中にも戻って来るようだった。

「はいはい。
 今日もオニイチャンはミハルちゃんに夢中~っと」

 不意をつかれてハッとしたリヒトが振り返ると、
大地が食事の乗った盆を両手に掲げながら立っていた。
その顔に浮かぶニヤニヤさ加減が、かなり腹立たしい。
盆の上のカレーライスは二つともかなりの大盛りで、
片方の盆には、ダメ押しのようにパンが2コ乗っている。

(しまった……こいつ、いつからココに居たんだ?)

「オマエそれ、食いすぎだぞ!いつものコトだけどな!」

 大地の、おかしさをこらえているような表情に、
パンの乗ってない方の盆をひったくるように受け取って、
少し怒った風に言ってみるリヒトだっだが、
大地はまったく意に介さず、
向かいに座って早くも昼食にがっつき始めていた。

「それにしてもさあ、ミハルちゃんスゴイ人気だぜ。」

「人気? 何だそれは?」

大地は少しあきれたように言った。

「知らないのかよ?二年生男子総ナメだぜ!
 学校新聞の記事読んでねえの?
【眠り姫】だっつって。あの見た目だしな。
 って言うか、上級生すら教室覗きに来てるヤツいるだろが」

「ああー……」キョーミ無さそうにつぶやく。

「新聞部からも写真撮って来い、撮って来いって、
ウルせーの何の。オレは新聞部員じゃないっつーの」

 大地はリヒトと同じく帰宅部だが、カメラの腕を買われて
新聞部部長から委託されて、しょっちゅう写真を提供しているのだ。

「奴が言うには、【眠り姫】の休日の過ごし方とか何とか、
そういうプライベートな画が欲しいらしいんだがな……」

メシを掻きこみながら話す。

「わかってるぜ。オマエの大事な妹だかんな。
そうそう安売りはせん」

「そうしてもらえると有難いね」

 リヒトは口では冷静にそう言っただけだったが、
その脳内では結構ツッコミを入れていた。

(【眠り姫】ってか……
確かに、10年間も眠りっぱなしだったワケだが。
でも、【姫】っつーのはちょっとどうかと……
あれでものすっごい強情なんだよ。とにかくおてんばだしな!)

リヒトはミハルの方に目をやった。

女の子達が言ってたように、
確かに、【不思議ちゃん】とは言えるかもしれない。

ミハルの天然ボケ発言の数々が思い起こされる。

彼女の知識や、持っている情報にはひどく偏りがあって、
リヒトは教えながら絶えず違和感を感じていた。

 英語は文法がイマイチなものの、発音は見事なものだった。
数学は何故かインド式理解で、そのうえ妙に海外情勢に詳しかった。

10年と言う長い間、世間から隔絶されていたはずのミハルが、
基礎的な学力を身につけているのみならず、
特別な知識まで持ちあわせている。

(そこに【何か】の存在が見え隠れするように思うのは、
自分の考え過ぎだろうか……)

 ミハルがその事に触れられたがらないそぶりを見せるので、
リヒトはあえて尋ねるのは止めたのだが、
それがリヒトの抱える漠然とした不安につながっていた。

 ついこの前の授業中のことである。
1992年に導入されたロシアの消費税が20%だと言う
教師の説明に、ミハルが異議を唱えたのだ。

 ミハルは、まるで小学生がするみたいに元気よく手を上げて、
教師に指名されるのを待ってからこう言った。

「先生、20%になったのは次の年なんです」

 92年に導入された当時は税率が28%だったと言うミハルの指摘に、
教室内はざわついた。

 リヒトがネットで検索してみると確かにソレはその通りであったのだが。

(どうしてそんな細かいコトに詳しいんだ?……つっこまれたらどうする?)

「すげー日本よりもっとヒデェじゃんか!」

クラスの誰かが感慨深げに言う。

「大丈夫大丈夫、大体の食品は10%なんだよ」

 ハラハラしているリヒトを尻目に、
ミハルはクラスメート達の方を振り返って、
すかさずそう言い放った。

「素晴らし~いです!最高です!ミハルさん!!
可愛い上に知識も豊富!まさに、まさにカンペキです~~!」

「えええ?そんなの!褒めスギだよ~~」

 知りすぎているミハルの発言に
多少とまどった感の流れた教室の微妙な空気を、
打ち破る絶妙のタイミングでミハルを大絶賛した委員長と、
赤い顔をして頭を掻く、という
ベタすぎるリアクションで応えたミハルのコラボレーションに、
クラス中爆笑に包まれた。

 おかげ様でこの時は、
リヒトの憂いは見事気泡と化したのだったが。

(このオレがカテキョしてるんだから、
優秀なのはトーゼンなのか?さすがオレの妹!ってか?
イヤ……しかし、おかしな子だと思われたら?)

「うん……むー……」 

 リヒトは前髪を数回後ろになでつけ、頭を振った。
彼は心配のあまり、ツッコんでいるのかノロケているのかさえ、
もはやよく分からなくなっているようだ。
まさしくザンネンな兄っぷりだった。

「そんなに心配せんでも、あの娘なら全然問題ないんじゃね?」

あらかたメシを食い終わって、パンに噛り付いていた大地が、
突然さらっとそう言った。

リヒトはちょっと目を丸くして、訝しげな顔で大地を見た。

「おまえ……オレの頭ン中、見えんのか??」

「あの現実離れしたカンジが、今の世の中ウケるんだって」

「そうか?何だかオレは、見てて危なっかしくてさ……」

「オマエ、ほんま苦労性なあ。
 アイドルと言うのはなあ、可愛ければ正義!
 みんな可愛いミハルちゃんが居ればそれでイイのであって、
 誰も細かい事にツッコんでなんか来ねえの!
 だからそんな気にすんな!」

 大地がリヒトの肩をバシッバシッと2発叩いた。

「痛てえんだよ、バカ」

(いいのか、それで? いいのか? 本当にいいのか?)
リヒトは、肩をさすりつつ、考える。

「ところで、誰がアイドルだって?」

 納得できない面構えで、大地を問い詰めようとしたリヒトだが、
大地は早くも、食器を返却するため席を立ったあとだった。
ちょっと拍子抜けだ。

 10年間の人生(学生生活)の
ブランクにおける数々のすっとぼけた言動もご愛嬌。
それどころか、一部に熱狂的なマニアを生み出している事を
この時のリヒトは知る由もなかった。

いつでも誰かが、ミハルを見ているよ……

 昼休みの学食はとにかく騒がしいものだ。
たえずどこかの席で、誰かが、何らかの新しい話題を提供している。

 「ドッジボールする人~~!!」

 大地が買ってきたペットボトルの紅茶を、
リヒトが口にしたとき、ミハルの高らかな宣言が耳に入った。

あぶない、思わず吹くところだった。

「あいつ……何を言ってるんだ? 小学生か!
いまどき、誰が昼休憩にドッジをするんだよ!」

 彼は妹の代わりに軽く赤面しつつ、
立ち上がって高く手を掲げているミハルの方をおそるおそる見た。

 リヒトは信じられない光景を目にした。
何人もの生徒達(若干女子も居るが、ほとんど男子)が、
ミハルの後をゾロゾロとついて、校庭へ出て行くではないか!

「???!!!」

「どうしたんだ……みんなマジかよ!本気でやんのかよ!」

なかばヤケなカンジのツッコミがもの悲しいリヒトである。

 真里がニコニコ笑いながら、リヒトと大地の居るところにやって来た。

「ミハルちゃんって、なかなか体育会系なんだね~?!
ドッジやりたい!ってはりきっちゃって
みんな誘いたいって……飛んで行っちゃって!」

両手を口の前で合わせて、愉快そうにそう言う。

「ミハルちゃんにああ言われちゃあ、
 みんな行くっきゃないだろなあ」

大地まで、あごに手を当ててウンウンと頷いている。

 窓の外から、キャアキャア、と歓声が聞こえてきた。

 頭をかかえていたリヒトは、
校庭の方を見て更に目を丸くする。
さっきより更に、大勢の生徒が集まってボール遊びに興じている。
高校生の男女が。……クラス委員長の安田まで居るじゃないか!

 最近では、ちょっと見られない光景だ。

 最初の方はあぜんとして、
その光景をただ眺めていたリヒトだったが、
生徒達の中心で誰よりも楽しそうにしているミハルを見ているうち、
だんだんとその表情は和らいできた。

(そうだよな。あいつ……
まあ小・中とすっとばしてるからな。
こんな当たり前のことも、今までして来なかったんだもんな)

 まだぎこちない動きで、見ているともどかしいけれど、
一生懸命ボールを追うミハル。

(そう言えば、小さい時からカラダを動かす遊びが大好きだったっけ。
やんちゃでなあ……けっこう生キズ耐えなかったっけな)

 昔を思い出し、リヒトは思わずフフッと笑った。

「おお……ええ顔してんなー」

 パチリ! 傍に居た大地はシャッターチャンスを逃がさなかった。

「何だよ……」

「ハッハッ……照れんな照れんな。記念記念」

ミハルが戻ってきてから、リヒトは表情が豊かになった。

「ええ傾向や」
大地は素直に喜んでいた。

 スカッとした秋晴れの青空の下で、
まさに天真爛漫、と言う言葉がお似合いのミハル。

それを見ていた真里がつぶやいた。

「私も行ってこようかなー^^」

「よっしゃあ、オレも!」

大地はカメラを手に取った。こんなチャンスを逃がす手はない。

「え……!? 何だってんだ!オマエらまで?!」

 二人は展開に付いていってないリヒトをその場に残して、
さっさと出て行こうとしていた。

 リヒトには珍しく、少しペースを乱されているようだ。

大地がリヒトの方を振り返って憎らしく捨て台詞を一発残していく。

「オニイチャンはもうお年デスカ~」

「何だと?……何言ってやがる!」

挑発する大地を追いかけ、ついにリヒトも走り出した。

 校庭に出てみると、ガラス越しに見ていたのと違って、
真上から射してくる日差しはずっと熱かった。

けれどもそこには、心地よい風が吹いていた。

 校庭へと走ってくる3人を目ざとく見つけたミハルは、
嬉しくてたまらなくなって、ゲームの最中というのに、
こちらに向かって駆け出した。

「リヒトー、リヒトー!」

転げそうになりながら、兄の方を目指してミハルが走ってくる。

 今がチャンスとばかりに、対戦相手が投げたボールが
彼女の後ろに迫っていた!

ミハル危機一髪!

 ボールがミハルにヒットするギリギリ2秒前、
それを難なく受け止めたリヒトの眼が、
キラーン!と鋭く光った。

 多少俯き加減なので前髪で表情がよく見えないが、
抱きついてきたミハルを左腕に、ボールを右腕に抱えながら、
彼は何かぶつぶつつぶやいていた。

「リヒト…?」

「後悔させてやる……!」

リヒトは顔をあげ、髪をかきあげると、前方をキッと見据えた。
ついうっかり、何かのスイッチが入ってしまったらしかった。

……もう誰も、彼を止められはしない。

大地がからかうような言い方でゲキを飛ばす。

「明日ギックリ腰になんなよ!」

「オレをなめんじゃねえええ!!」

「ドッジは物理だぜ!」

 彼以外の誰にも理解できないような屁理屈をこねながら、
ミハルチームに参戦したリヒトが、
顎に手を当てて、相手チームをなめ回すように見ている。

 高速回転する彼の頭脳!

「見切った!!」

 ニヤッと不敵な笑いを浮かべると、手にしたボールで、最初の一撃を与える。

 シュミレーション通りに敵をなぎ倒して行く様は、
見ていても気持ちのいいものだった。
ひとり倒すたびに、ミハルは大喜び、外野からは大歓声。
大地は連写モード突入!!

「ミハルさ~ん!!気をつけて!右です!右!そう!!
 さすがです~~!」

 メガネの委員長が外野から、声をからして応援している。
ミハルは余裕タップリ笑顔で手を振る。

 すばしっこいミハルが、コートの中を縦横無尽に駆け回る。
コントロールし切れないミハルの危なっかしい動きが、
かえって相手チームを翻弄していた。
もはや時任兄妹の独壇場か。

 しかし。どれだけリヒトの物理が正確であろうとも。
いつでもどこでも誰にでも、この現実世界では
不確定要素は確実に出現するのである。

 奇跡的にと言うべきか、いまだコート内に残っていた、
若干ドンくさいめの真里が、狙いをつけられた。
それまでニコニコ笑顔で逃げ回っていただけの彼女は、
ボールが眼前に迫って、ようやっと危機に気づいた。

「あら?」

「真里ちゃん危なーい!!」

 ミハルが真里をかばって、前に飛び出した。
とっさの行動で体勢を整えきれず、ミハルはボールに当たって、
真里の方に倒れた。それを真里が受け止める。

「ミハル!大丈夫か?!」

「大丈夫!腕に当たっただけー!」

 間髪入れずにミハルの方に駆け寄ったリヒトと、
心配そうな顔で覗き込む真里の2人に、
けなげに無事をアピールするミハル。

「おい!ダイジョブか?保健室行くか?」

 先程から縦横無尽に走り回って、皆の写真を撮り続けていた
大地も、慌てて駆け寄ってきた。

 その時のことである。
自分達の背後に何か異様なまでの熱苦しさを感じた4人が、
同時に後ろを振り返ると、そこには
ドッジボールを持ったスーパーサイヤ人(?)が立っていた。

 リヒト以上に過剰な反応を示しているコイツは、
外野で応援だけしていたハズの委員長である。
あきらかに、様子が変だ。
髪の毛を逆立てて、後ろに炎が見える。
大地は思わず、シャッターを切っていた。

「あああ……ミハルさんん!!!
 何てことするんです!……ミハルさんにケガでもあったら!」

 安田は、ミハルに当たって自分の前に転がってきたボールを手にしていた。
その目つきがどう見てもアブナイ。

「おい!……落ち着けよ委員長!ゲーム中だぞ?」

リヒトは一応、呼びかけてはみた。

「安田クン!大丈夫だから!私全然……何ともないよ!ホラ!」

 ミハルが無事を示そうと振り上げた腕に、
ボールに当たってうっ血した後が見えた。

「うがーーーっつっ!!」

 もはや安田の耳に誰の言葉も届かなかった。

 殺気を感じて逃げようとした対戦相手だったが、
安田の怨念のこもったボールを避け切れず、
ボールは、気のドクな相手の顔面を直撃した。
ひょろっ玉なので、大してダメージは無かったが。

 普段草食系で穏やかな委員長の、あまりの剣幕に唖然として、
ツッコミを入れようとするヤツが誰もいない。
それはリヒト達にしても同様だったが、
安田の近くから見ている4人には、
まだ彼が怒りに肩を震わせているのが見て取れた。

その時ミハルが叫んだ。

「ダメー!安田クン!!怒っちゃダメだよー!
 そんなの…安田クンらしくないよ!」

 ミハルの大声にハッとして振り返ったスーパーサイヤ人は、
大好きな人が、少し怒っているような、泣いているような
そんな表情で自分を見ているのを目の当たりにした。

「ミハルさん……?」
「安田クン……!」  見詰め合う二人。

 ミハルワールドと安田ワールドは、
どうも体感温度が似かよっているらしかった。
二人の間に、参加するには少し勇気がいるような、
暑苦しい空気が漂っている。

 ほどなくしてサイヤ人は、めでたく人のココロを取り戻したようだった。
逆立っていた髪の毛が、大人しくなってきた。

「ミハルさん!ありがとう……
 お見苦しい所をお見せしてしまって、スミマセン!
 もうボク、大丈夫ですから!」

委員長は頭を掻きながら恥ずかしそうに言った。

「それでこそ、安田クンよ!」

ミハルは胸の前で、両手で小さな拳を作りながら応えた。

「何なのかしら……この小芝居は?」

「……いやもう青春やから。もうそうとしか考えられんわ」

 真里と大地がひそひそ話し合っている横には、
これまた不機嫌そう~な仏頂面で突っ立っているリヒトが居た。
……こっちも触れない方が良さそうだ。

 ようやっと、平静を取り戻した委員長は、
リヒトに声をかけ、握手しようと手を差し出した。

「時任君!あなたがいれば絶対勝てます!
 ミハルさんは僕が!保健室に連れて行きますので!
 安心して頑張って下さい!絶対に頑張って!!
 ミハルさんの為にも…!!」

「言われなくても!そうしてる!!」

 どうにもブスッとした顔つきながら、
委員長と握手して、エールを受け取ったリヒトだった。

 しかし彼は、さりげなく髪を後ろにかきあげると、
スグに気持ちを切り替えて、
頭の中で新たにシュミレーションを組みなおした。

 ミハルがリタイアで、チームはピンチかも知れなかった。
真里を狙ってくるボールを、ことごとく投げ返して、
相手を倒していかねばならない。
リヒトは気を引き締めた。
いつのまにか、すっかり彼は本気モードだった。

 一方、委員長に保健室に連れて行かれたミハルは、
負傷した腕に湿布を貼り付けただけで、すぐにゲームに戻ろうとしていた。

「ミハルさん!どうか少し休んでいて下さい!」

「安田クン……私、もう大丈夫だから。
 どうしてもまだ、やりたいんだ。私。……お願い!」

 キラキラキラ。その大きな瞳に見つめられて、
安田の血流ジェットコースターのスイッチがONになった。
カラダ中を駆け巡って、頭のてっぺんまで駆け上った血が、
最上部から、急激にフォールダウンしてしまう。

「……ハイ!!ミハルさん!」

気づくと彼は、うっかり、あっさり、そう言っていた。
ミハルがニッコリ笑った。

「遅いぞ!ミハル!」

 ミハルは急いでグラウンドに駆け戻って来たが、
すでに兄の方が相手チームをあらかた片付けて、
相手コート内に残っていたのはわずかあと一人だった。

 こっちにはリヒトと、
相変わらず危機感をまったく感じさせないニコニコ笑顔の真里が残っていた。
真里とミハルは手を振り合った。すでに勝負は付いている様なものだが、
ミハルはめでたくチーム復帰した。

もはや何十球目かわからない、真里の前に飛んできたボールを
横から受け止めて、リヒトは言った。

「最後はお前、行け!」
 
 リヒトは外野のミハルに向けてボールを放り投げた。

「うん!!!」

 ミハルはボールを受け止めて、輝くような笑顔を見せた。

 ミハルと一緒に保健室から走ってきた委員長が、
ぜえぜえ言いながら、やっとグラウンドに到着したとき、
ちょうどミハルは、ラスト一人の敵に狙いを定めたところだった。

「ゴメンね♡」

そう言いながら、彼女は意外にも、ちょっぴり残酷そうな微笑を浮かべた。

「ああああ。何て綺麗なんだ……ミハルさん!!」

 ゲームの最後はまったくあっさりと勝負はついた。
どういうわけか、やられた相手は妙に幸せそうだった。
まあ、ミハルに討ち取られたなら、本望なのかも知れない。
もっとも、イチバン幸せそうな顔をしていたのは安田だったが。

「よっしゃあ!終了ー!」

 大地が大声で宣言した。
いい写真が大量に取れて、かなり満足げな様子だ。

 どこかのタイミングで、昼休憩終了のベルが鳴っていたかもしれなかった。
委員長も含め、参加していた全員が満足げな表情を浮かべていたので、
そこは大目に見てやってもらいたい。

 リヒトは、近年にないくらいフルパワーで身体を動かして、
大汗をかいた。
しかもそれが、思ったよりずっと、……気持ちよかったりした。

「ああー……スッキリ……」

 前髪をかきあげて、フーッと息をつく、リヒトのめっちゃ爽やかな表情。

 あれだけ写真を撮って、まだ撮り足りなかったのか、
いつのまにか近くに来ていた大地が、シャッターを押していた。

『カシャッ!』

 リヒトが大地の方を見た。視線がバッチリ合う。
大地はニカッと笑ってピースサインをした。

……………………………ビミョ~な空気が流れた。

 息を整えて数秒後、我に返ったリヒトは苦笑いをしていた。

「オレは何をやってるんだ……!オレは!!」

ドッジボールを胸にかかえたまま、立ち尽くしているその姿に、ミハルと真里は顔を見合わせて大笑いした。

『……童心に返った僕らは、とても楽しい時間をすごしました。
 決着が着くまで興じていたので、
午後の授業にすっかり遅れて、先生からお叱りを受けましたが、
それを補って余りある充実した時間を過ごせたと思っています』

〈後日の学校新聞(写真つき)より・2-B委員長安田、談〉



 先だっての学校新聞は、校内で飛ぶような売れ行きを見せた。
大地が撮りまくっていた2-Bオールスターズの、
躍動感溢れる写真は特にウケが良かった。

 これまで全く日陰の存在だった弱小新聞部(部員数が片手に満たない)
の部長・篠田巧は、このチャンスを逃す気はさらさら無かった。
彼は、【時任未晴さん特集】の企画を引っさげて、
ミハルに取材を申し込もうと意気込んでいた。

 その日も、篠田はミハルが一人になるチャンスを、
今か今かと待っていた。というのも、彼女にはいつでも、
周囲をくまなく警戒している、大変に鬱陶しいオニイサンが
くっついていたからである。
あんなのが居たんじゃあ、ナイスなネタが取れるハズもない。

 数日張り込んでいたおかげで、その時は巡ってきた。
注文していた体操服やスクール水着が届いたので、
受け取りのため放課後にミハルが職員室に呼ばれたのである。

「職員室から出てきたその時がチャンスだ!
 この時を逃せばもう二度と……!
 もう二度とコンタクトを取る機会はないだろう」
篠田はメガネの奥の瞳をキラリと光らせた。

 どうやらリヒトの過剰な保護者っぷりは、
校内すみずみまで知れ渡っているようだ。

ミハルが入っていった職員室の前で、
ひとりブツブツ何事かを唱えている篠田部長。
背がとても高く、痩せぎすで眼光鋭い彼は
少しばかりダークな雰囲気を身にまとっている。
一見すると少々怖いめに見えるので、
通りかかった生徒達は一様に彼を避けていった。

 ガラガラガラ……
しばらくして引き戸が開いて、待ち人が姿を現した。

「ありがとうございましたー」

職員室に向けて挨拶を済ませたターゲットを呼び止める。

「時任未晴さん!ですよね?」

「はい!そうですけど……?」

 不意に話しかけられて、ミハルは少し驚いた様子だったが、
それでも返事はハッキリとして、篠田の方を振り返ると、
少し首を傾けて彼を見た。

「ふ~~む……」

 今まで大地の撮った写真か、
遠目でしか見たことのなかったミハルを、
篠田部長は、初めて間近で目にした。

校内一番の話題のアイドル(?)は、
確かにそうそういない美少女だった。
小さくて細っこい身体は高校生というには幼すぎる印象ではあるが、
前髪パッツンの長い黒髪。雪のような色白な肌に、
ハツラツとした光が宿る大きな瞳。
一流のモノには目利き、の自信を持っている自分が見ても
かなりのベッピンさんだ。

篠田は一歩ミハルの近くに進み出て、一気に捲くし立てた。

「時任未晴さん!
 どうかわれわれ新聞部の取材を受けて下さい!! 
 貴女の特集を組ませてもらいたいのです。
 あなたの写真を載せる許可が欲しい!」

 ミハルは、両手で抱えている体操服の入った大きな紙袋を抱えなおすと、
ぱっちりした瞳を部長に向け、
にっこり笑って、無邪気にもこう応えた。

「取材??写真?!……うん!別にいいよー」

 ミハルは、この前大地が撮った、
ドッジの時のみんなの写真をとても気に入っていたので、
また楽しい写真が撮れるなら、と単純にそう思ったのだった。

(ほう、確かに。コレはカワイイな……!!)

 篠田は思った。間違いなくカワイイ。
美少女なだけでなく、めちゃくちゃキュートだ。

(……これはイケる!絶対取れる!逃してなるものか!!)

眼鏡の奥の彼の瞳がキラッ!と鋭く光った。
篠田はミハルにさらに接近して、急に声を潜ませて言った。

「少しでいいんです。新聞部の部室へ来て頂けませんか……?」

 篠田のために言っておくと、普段の彼は思慮深く理知的な人物で、
特ダネの匂いに暴走しがちでは有るものの、別段危ない人というわけではない。
それほど女性にキョーミを示すタイプでもなかった。

しかし今はどう言い訳しても、アブナイ人にしか見えなかった。

ミハルは少しとまどう様子を見せた。

「うん……構わないんだけど……」

彼女は申し訳なさそうな表情で篠田を見る。

「えっと。でも、知らない人についていったらダメって……
リヒトに言われてるんだ。ごめんなさい」

『小学生か!!』と言うツッコミは横に置いといたとしても、
あの兄貴か……!どこまでこの娘を支配してるんだ!
人間とは……もっと自由にならなければイカン!
個人はもっと……もっと尊重されるべきだ!

篠田は、若干引き気味のミハルの眼前で熱弁をふるい始めた。

「貴女は兄の人形ではない。【時任未晴】と言う
一人の人間なんだ!自分の意思で行動できるんだ!
そうすれば、もっと世界は自由に……!」

「……んなトコでナニ演説してんだ?篠田?」

 いつの間に来ていたのか、少し呆れたような顔つきをした
大地がそばに立っていた。

「あ!ダイチだ~~!」

 ミハルは大地を確認すると、少しホッとして、
ピョン!と跳びはねるようにして彼の方に近寄った。

「お!ミハルちゃん?!……リヒト一緒じゃねえの?!」

 大地はミハルの荷物を受け取ってやりながら、
辺りをキョロキョロ見回して、リヒトの姿がないことに大層驚いた。

「うん!体操服取りに来ただけだもん。
 真里ちゃんとリヒトはそうじ当番ー」

「マジか……!いつでも二個一じゃねえのか?!
 今日大雨かもな~」

大地は、ミハルと篠田を交互に見て言った。

「ところでお前は何やってんだよ?こんな一人で居るトコ狙って……
 無許可で半径1メートル以内に近寄ったら
 リヒトにコロされっぞ?」

 大地はちょっと人の悪い笑いを浮かべて、
篠田部長をからかうように見た。

「この娘に取材OKもらったのさ!たった今な!!
 オマエも一緒に部室へ来てくれ!」

 多少興奮気味に、篠田は言った。
彼の頭には記事を取ることだけしかないようだ。
ミハルの方を振り返って、ストレートに要求した。

「……未晴さん。ウルシ(大地のこと)も一緒だったら、
 部室に来てもらえるかい?」


 汗をかいて額に張り付く前髪がうっとおしい。
リヒトは腰をかがめたまま、憂いを含んだ表情でその顔を上げた。

 頭には三角巾、両手にゴム手袋を嵌めているので、
髪をかき上げるお得意のしぐさもままならず、
先ほどからすでに60回を越えているため息を、
またひとつカウントした。

右手には、トイレ掃除用のラバーカップが握り締められている。

「リヒト君……私ココやっといてあげるから、
 そんなに気になるなら迎えに行って来なさいよ?」

 トイレの床の一番奥の隅から、
キッチリ隙間なくデッキブラシをかけていた真里が、見かねてそう声をかけた。

 リヒトは、口を一文字に結んで、上目遣いで真里を見上げた。
まるで駄々っ子のような面構え。
……こんな顔はおそらく真里しか見たことが無いだろう。

「いいから!いってらっしゃい」

真里は優しく微笑んでそう言った。

「私もう、終わりだから。ね?」

彼女は子供をあやすようにたたみかける。

 リヒトは無言で、すっくと立ち上がり、
右手に持ったラバーカップを中空に突き出した。

「よし!オレは行く!
 後は任せる!……サンキューな!真里!」

 重圧から解放された明るい表情で、威勢良くトイレから飛び出して行くリヒトを、残された真里はニコニコして見送った。

妹の無事を確かめるべく勇ましく目的地に向かった彼だったが、
その手にはゴム手袋とラバーカップを装着したままであった……

 リヒトが職員室に到着すると、すでにミハルはその周辺にはいなかった。
彼は辺りを見渡して不安に襲われた。

(しまった……やっぱり目を離すんじゃなかった!
アイツどこへ行ったんだ??)

「あの変なヒトもう居てへんよ」

「ほんまや良かった~。でもミハルちゃん大丈夫かな?」

 職員室から出てきた二人の女生徒の会話の中に、
【ミハル】と言うキーワードが
入っているのをリヒトは聞き逃さなかった。

「大丈夫でしょ。大地君も一緒やったし」

「さっきのヒト新聞部の部長ちゃうの?
 この頃ウチの教室の前でも、よう見かけるし」

 ビュン!!目にも留まらぬスピードで、女子二人の横を
誰かが立ち去っていった。後にはかすかな気配だけが残っていた。

「……何か今の時任君に似てへんかった?」

「えーまさかー。何やおかしなもん持ってたで?
 あ!もしかして……ミハルちゃん奪還に行くねんや?」
「ラバーカップで戦うのん?」

「有り得る~」

女生徒たちは大笑いしながら、廊下を歩いて行った。


「お次は……体操服に着替えてもらおうか?未晴さん……」

 ミハルへのインタビューを続けながら篠田は、
ジャーナリストの悲しい性か?(そうだろうか?)
……貪欲にも次の要求を口にした。

「え、ここで……着替えるの?」

 ミハルが不思議そうな顔つきで、大地の方をチラと見た。
制服姿のベストショットを撮影していた彼は、カメラを下に提げて、
手でNGサインを作って見せると、篠田に向かってダメ出しした。

「おい……あんまりチョーシこいてっと、死ぬぞ?」

「とは言え……世間がそれを求めてるからなあ」

 大地のありがたいアドバイスも、
命知らずな篠田は聞く耳を持たないようである。

「さあ!世界が君を待っている!いざ……!!」

篠田が一歩、ミハルの方に踏み出した時。

「待てやああああ!!!!!」

 怒号とともに新聞部部室に飛び込んできた人物は、
高速道路のSAに居るトイレ掃除のオバチャン……ではなく、
本校きっての過保護父兄と目されているミハルの兄であった。

「リヒト!」ミハルが嬉しそうに兄を見遣る。

「……何してやがる……」

 坐り切った目で新聞部部長を睨みすえているリヒトは、
ドスの聞いた低音でそうつぶやくと、
右手に持った木刀、……もといラバーカップを振り下ろし、
篠田の眼前でビシッ!と止めた。

 さすがの篠田も、迫力負けしそうになった。
(こんな険しい目で見られたのは初めてだ……ラバーカップやけどな)
篠田は妙に感心して、リヒトの顔をまじまじと見つめた。

「何やってんだリヒト!……んなモン振り回すな!」

大地は大きくため息をついて、二人の間に割って入った。

「今日はもう、こん位でいいだろ、篠田。
 ミハルちゃん、おいで! ……リヒト、行くぞ!」

 毛を逆立てたネコ科の動物みたいなリヒトをひっぱって、
大地は部室を後にした。

 リヒトの剣幕に、ミハルはひどく後悔していた。
兄の左腕に巻きつくようにして、目を閉じてつぶやいた。

「ゴメンねリヒト……ゴメンね……!!」

 黙り込んで空中を睨んでいる兄に、
ミハルの心はズキズキと痛んで、辛くて泣きそうになった。

「ミハルちゃん、なーんも悪くねぇよ。
 おら!リヒト!んな顔すんなって!」

 大地は、気難しい顔を晒したままのリヒトの背中を
バーン!と一発ぶったたいた。
ミハルはチラ、と兄の表情を伺った。 

     微妙な空気が流れる。

突然、思い出したようにリヒトがボソッとつぶやいた。

「せめて、ゴム手袋は外して行くんだった……」

「そこか!?」
大地(と、ミハルも)つっこんだ。

同じ頃、部室に一人残された篠田もボソッとつぶやいていた。

「たいがいアブネェ奴……」

 そう言いながら篠田部長は、
時任理人、と言う人物に少なからず興味を引かれ始めていた。


 ガターン!!
「何だって……?!」

リヒトは、飲んでいたティーカップを持ったまま、
思わず、キッチンのイスから音を立てて立ち上がった。

「えーと……ん、私の方から言っちゃったんだ。ん……」

 時任家では、夜眠る前にお茶を飲む習慣があった。
それは二人が小さい頃からそうであり、
10年振りにめでたく戻ってきたミハルも、
来客用のカップで参加した、その夜の二人のティータイム。

ミハルは申し訳なさそうに告白した。

「私の写真ばっかり撮ってて、つまんないから……
 もっとみんなで、一緒に撮りたい!ってダイチに言ったの。
 そしたら篠田さんが……」

 ミハルの口ごもりつつの報告に、
リヒトは内容を聴く前から、すでにお怒りモードである。

「インタビューだって!?取材だって!?
 ……ダメだダメだダメだーーー!!
【高校生らしいお遊び】だと!?オマエは……
 アイドルなんかじゃないんだぞ!?」

「でも私、いいよって……言っちゃったんだもん!
 篠田さんと約束したの。ごめん……でも、ウソはつけないよ!」

ミハルは早くも半ベソである。

リヒトは遠くに目を泳がせて、ため息をついた。 

(やっぱり、目を離したオレが甘かった!
コレじゃあ……妹一人守れてないじゃないか)

リヒトは、頭に手をやって、髪をかきむしった。

 篠田との【約束】は、こうであった。

もっと、みんなとの写真を撮りたい、と言ったミハルに、
休日に友人達と外出する様子を取材させて欲しい、と彼は申し出た。
篠田は、大地の耳元でこう囁いた。

「未晴さんの……初体験モノがいい」

 いちいち言い方がアブナイこの男だが、 
要は、学生生活に復帰して間もないミハルに、
イマドキの高校生らしい体験をしてもらって、
そのギャップや彼女の新鮮な反応を切り取って、
ミハルの魅力を紙面を通して伝えたいという事のようである。

 もし、兄の方に先に話が通っていたら、
完全にNGを出されたに決まっているが、
ラッキーにもミハルに直接コンタクトを取れたことで、
幸い企画倒れにならずに済んだ今回の話であった。

 もちろん篠田部長は、
ミハルちゃん【高校生らしいお遊び】初体験!
と言うお題のこの取材に、当然自分も同行したかったのだが、
より自然なカタチでのミハルを記事にするため、
その役割は、しぶしぶ大地に一任された。

 それにこれ以上ミハルに近寄る事を、
そうカンタンにあの兄が許すハズもなかった。
自分がリヒトに相当な悪印象を持たれた事を、
篠田はハッキリと自覚していた。

「ごめんね……リヒト。今度だけにする!
 それに篠田さんは来ないよ。ダイチが、
『オレにまかせろ!』って言ってくれたから。
 それに、それに……真里ちゃんも一緒だから!」

 ミハルはリヒトを涙目で見つめて、必死で訴えた。
泣きベソ顔のミハルに、リヒトが逆らえる可能性は、
もとより1パーセントも無かった。
リヒトは苦渋の決断をした。

「……いい……だろう……
 ただし!オレも付いて行く」

「ほんと……ホントに!?
 リヒトも一緒なんだ?やったあ!!」

 ミハルの表情が一気に明るくなった、かと思うと
飛び込むようにして兄に抱きついてきた。

「ありがとー!ありがとー!リヒト!!……嬉しい!」

(甘い!!!……甘すぎるだろ、オレ!)

 リヒトは心の中でひとりツッコミしながらも
ミハルを抱きとめるその顔はユルユルである。
今更ながら、救いようが無かった。

「さあ……もうそろそろ寝る時間だ!」

「うん!お休み」

ミハルはそう言った後も、しばらくリヒトを見ている。

「……? どうした?」

「ありがと…リヒト」

 自分で自分をなだめているような顔つきのリヒトの目に、
潤んだ瞳でこちらを見て、微笑むミハルが映る。

(妹がしたい、と望むことに、オレがノーと言う事はない。
日曜日のイベントは当然のごとく決行される事だろう。)

「おやすみなさい」

「お休み」

 ミハルが自室に引っ込んだあと、
リヒトはいまだ納得しきれていない自分を抱えたままベッドに
寝転がった。

(新聞部の部長……篠田っつったか。
いまいましい、いまいましい、いまいましい)

リヒトは羊を数えるかのごとく、いまいましい、を繰り返し唱えていたが、
羊以上に効果があったのか、いつの間にか眠りの世界に入っていった。


「未晴さん!こっち向いて!
 こっち向いて笑って下さい!」

 請われたミハルが、はにかんだような笑顔を見せる。
一斉に焚かれたカメラのフラッシュが眩しい。
ムリヤリ眠りから起こされた頭には、かなり耳障りな音だ。

「……それで未晴さんは、眠っていた10年間のことは、
 何も覚えていらっしゃらないんですよね?」

 ミハルが質問攻めにあっている、ように見える。

(どこだココは…?)

 リヒトは現在自分が、結構な人込みの中にいるのだ、
と言う事を認識するのに少し時間がかかった。

 ミハルが立っているのは一段高くなった壇上だ。
後ろには青と白の市松模様のボードが見える。
よくTVのニュースで見かけるアレだ。
記者会見場……?!何でこんなところで?

「ところで……どこで覚えたのですか?
 そのクイーンズイングリッシュ??」

 声のした方に目をやると、質問しているのは新聞部部長・篠田だった。
眼鏡の奥の目が、怪しげに光っている。

「え、えーと……」少し困ったように言いよどむミハル。

 再びカメラのフラッシュが激しく焚かれる。
その中に大地の姿があった。

「オマエ……お前がついてながら、何やってんだよ!
 こんなこと!こんな事させるな!止めさせろ!!」

 リヒトは大地に向かってそう訴えたが、
隣にいる篠田と何やら議論している大地に、
コチラの声は届いていないらしく、まったく反応が無い。

「やめろ!止めさせろ!
 ミハル!こっちへ来い!ミハル!」

 あろうことか、妹にさえ自分の声が届かない。
近寄ろうと試みるが、人ごみにもまれて、近づけない。

 その時ミハルの後ろに、大きなバッグを持った真里の姿が見えた。
ホッと胸をなでおろしたリヒトは、真里に呼びかけた。

「真里!! ミハルを連れてこっちへ!」

しかし真里ですら呼びかけには無反応なのだった。
リヒトが歯がゆく思っていると、
彼女はでかいカバンから、何やら、かさ高い衣装を取り出して、
晴れやかに微笑んだ。

「さあ……ミハルちゃん!そろそろ、お着替えの時間よ♪♪」

彼女が手にしているのは、純白のウエディングドレスだった。

「??……?……!?!……!!」

 混乱しているリヒトの後方から、
タキシード姿の男が颯爽と走ってきた。
大層な花束をかかえているので顔が良く見えない。

走りながら男は、ズレ気味の眼鏡を上にあげ、ミハルに向かって声をかける。
「ミハルさーーん!!ずっとずっとお待ちしておりました!!」

……喜色満面で駆けて行くその男は、あろうことか委員長の安田だった。

「はああ???」

 リヒトが慌ててミハルの方を振り返ると、彼女はすでに着替えを済ませて、
ニコニコしながら安田に手を振っていた。

ミハルは長い髪をアップにして、
ふんわりとしたオーガンジーのベールを被っている。
ウエディングドレスには珍しい、丈の短いデザインが、
おきゃんなミハルにとても良く似合っている。
不覚にも一瞬心を奪われた。

「う……!眩しいい!!!……いや!違う!!違う違う違う!
目ェ覚ませ!ミハル!!」

ニコニコニコ。ニコニコニコ。ニコニコ……
相変わらず、カケラも声は、届いちゃいない。

「……させるかああああ!!」

 リヒトはダッシュして、走っていく委員長の首根っこを捕まえる。
安田は、虚を突かれた表情でリヒトを見上げた。

「お兄さん……?」

「誰がお兄さんだ!!
 ……オマエ……誰の許可得て……ナニさらしとるんじゃ」
〈※註 リヒトです。〉

関西弁で凄んだリヒトは、思った以上に、相当ガラが悪かった。

「あれえ?どうしたのかな?安田クン来ないよ?」

 短いウエディングドレス姿がひときわキュートなミハルは、
戸惑ったような目をして真里に訴えた。

「おかしいわね。約束の時間とうに過ぎてるのに……」

 真里は時計と、周囲に群がる記者たちを交互に見やって、首をかしげる。
一方会場内は、待たされている不満が口々に吐き出され、
ざわめきとなってあたりは騒然としてきた。

「未晴さん、お相手はまだですか?!」

「どうなってるんですー!もう時間大分過ぎてるんですが!」

「早くしろーー!!」

 委員長をとっ捕まえたものの、壇上にいる二人が責められているのを見て、
リヒトは少なからず焦った。
しかし相変わらず、ミハルたちにはアクセスできない状態だ。
ミハルが不安そうに真里を見ている。

「どうしよう……真里ちゃん?何かみんなコワイよ?」

「心配しないで、ミハルちゃん! 私がなんとかするから!」

 真里はしばらく考えて、
いつもの【四次元バッグ(byリヒト)】を抱えこんで目を閉じた。

「こうなったら仕方ないわね……」

 真里はそういうと、あっという間にバッグからウエディングドレスを取り出し、
ミハルのとよく似た白い衣装に身を包んだ。

「わあ!真里ちゃんカワイイ!」 ミハル大絶賛!

真里は記者たちに背中を向け、かばうようにミハルの前に立って言った。

「さあ!ミハルちゃん!私が皆を引きつけておくから!
今のうちに遠くに逃げるのよ!」

 真里は体を張ってミハルを逃がそうとしたが、
殺気だった記者たちが壇上に押し寄せてきて収支がつかなくなってきた。

「ミハル!真里!こっちだ!こっちへ来い!」

リヒトも安田も、騒乱に巻き込まれて身動きがとれない。 
記者たちにもまれて、真里が倒された!

「真里ちゃあん!」

「だいじょうぶ!大丈夫よ、ミハルちゃん」

 真里が痛そうに顔をしかめるのが、ミハルの目に映った。
ミハルがついに沸点に達した。

「真里ちゃん!……真里ちゃんに何すんのよ!!!」

ミハルは周りに居た記者数名を思いきり突き飛ばして、大声でどなった。
見ると大粒のナミダをボロッボロッ流している。

……一瞬あっけにとられて静まり返った会場。

「こんな……こんなとこ!もう居たくない!!
みんな……みんな大嫌いだああ!!!」

 ミハルはそう叫ぶと、座り込んでいる真里の手をとって
ことのほか大げさに嘆いた。

「どうしちゃったの?
 安田クンも、リヒトも……全然助けにも来てくれない。
 ダイチだって、篠田さんだって、ヒドイよ?こんなの……」

ミハルはキッと瞳を上げて言い放った。

「……真里ちゃんだけだよ!私のミカタ」

 そんな事ねええ!!少なくとも、オレは助けに行こうとしているぞ!?
……リヒトは心の中でそう訴えたのだが。

「行こう!真里ちゃん」

 ミハルは泣きながら、悲しそうにこちらを見下ろすと、
真里を引っ張り上げて、猛ダッシュで壇上から姿を消した。
成り行きとは言え、ウエディングドレス姿の二人の逃避行。
場内は唖然、騒然。

「そんなあ!!僕の、ミ……ミハルさ~~ん!!」

「オマエのじゃねえ!!」

 リヒトは間髪居れずに安田をぶん殴ると、
急展開の壇上を凝視する。
しかしそこはすでにもぬけの殻だった。

『みんな大嫌い!』×約3回+フェイド・アウト。 
ミハルの声が心にこだまする。
ミハルの悲しそうな顔が、リヒトのハートを直撃中。

座り込んだまま、ハンカチを咥えて嘆いていた委員長がゆっくり立ち上がった。

「僕はまだ……絶対にあきらめません!
 今日のところは、コレはお兄さんに……!!」

「……はあ?」

 安田は持っていた花束をドサッとリヒトに預けると、
悲嘆にくれながら走り去っていった。

 受け取った花束を見つめてリヒトは混乱した。
ぐるぐるぐる。何だこの展開。何だこの……
ガラガラガラ…何かが壊れる音がする。

「や、やめんかーーー!!!」

 カラダに良くない汗を大量に掻いて、リヒトはガバッと飛び起きた。
信じられないくらい息が荒くて、喉もカラッカラだ。
枕元に置いていた水を一気に飲み干した。

相当な精神的ダメージを負って目覚めたらしい。

とことん気苦労の多い兄であった。ハゲないように祈るしかない。
やっぱり数えるのは、羊にしておいた方が、
健康のためには良さそうだ。

 

 待ち遠しいわけでも無いのに、日曜日はスグにやってきた。

 カメラマン件案内役は大地、真里はガールズトーク担当。
4人で街に繰り出すのである。
リヒトの手前、手放しでは喜べないものの、
ミハルの方は、今日を結構楽しみにしていた。

 一方、まったく乗り気ではないリヒトだったが、
この前の夢見が悪かった(笑)せいもあり、
自分の知らないところでミハルに何かあっては大変と、
相変わらずの超過保護っぷりを発揮して、くっ付いて行く事にした。

「……オレは何をしてたらイイんだ?」

 余談だが、リヒトはいわゆる【高校生らしいお遊び】とは
まったくの無縁であるため、この場合はクソの役にも立たない。

「あー。じゃあオマエ来なくていいわ。家で待ってろ。」

「……!!」

 大地がワザと意地悪く言って、リヒトの反応を楽しんでいると、
それをうっかり本気にしたミハルが、
リヒトの腕をとって真剣に訴えるように言った。

「一緒じゃないと、どこにも行かないよ?」

 ほんまにこの兄妹はよ……そこ!デレデレすんな!!
大地はげんなりして、ココロの中でそっとツッコんだ。

 彼は気を取り直して、
カバンから各種のパンフレットを取り出すと、
ミハルの目の前でトランプさながら広げてみせた。
オマエは旅行会社の営業マンか?

「さあ、ミハルちゃん、どれから行こか?」

 映画館?水族館?カラオケ?ファミレス?ゲーセン?
みたいな……あと大型ショッピングモール。

「フン、大したことねぇな!」

さっきの仕返しなのか、リヒトがラインアップにケチを付けた。

「高校生らしいっつったろうーが!こんなもんだろ?
それとももっと、ア・ダ・ル・トに……」

 言いかけたところで、
丸めたパンフの束でリヒトにバシッとはたかれた。

「えっと……ミハルちゃんは、どこへ行きたいかな?」

クスクス笑いながら真里が尋ねた。

「私……私!ずっと行ってみたかったトコが有るの!」

「ん?」

 みんながミハルに注目し、発言を待った。
平静を装っているリヒトでさえ、いくぶん期待と不安の入り混じった表情だ。

「あのっ……!しょうがっこう……」

ミハルは少し小さな声でそう言った。

「小学校~~??」ここはひとつ、ユニゾンで。

 結局、ミハルの意見を尊重し、
高校から数キロ離れた付属の小学校に向かうことになった。
言うまでもなく、リヒトと真里にとっては母校である。
真里の弟が在校生、と言うこともあり、
模範卒業生だった彼女が事情を話すと、学校側は快く見学を受け入れた。

 正門の横から入っていくと、一本の桜の木があって、
そのスグ向こうに校舎が見えた。

「わー……すごく大きな学校なんだ!」

どこと比べてそう言っているのか、わかるのはリヒトだけだった。
ミハルにとっての【小学校】のイメージは、
昔住んでいた田舎の幼稚園の隣にあった、小さなそれであった。

 自分が、リヒトと共に通うはずだった小学校。

「でも、桜の木が有るのは一緒だね!」

 秋の風がたくさんの木の葉とミハルの長い髪を揺らし、
その幹に触れながら、ミハルはくすぐったそうに笑った。

 そのしぐさが、まるで小さな女の子みたいで、
リヒトはふと、小学生のミハルがそこにいるような、錯覚を覚えた。

「咲いてるとこ見たいなあ~!キレイだろうなあ……」

幹に抱きつきながらミハルがはるか上を見上げる。

 シャッターチャンスとばかりに、大地がカメラを構える。

「確かにココはいつ見てもでけぇよなあ。
オレんとこは、1学年1クラスだったからよー、
全校生徒、みんなすっげ仲いいんだよ。……あいつら元気してっかなあー」

【小学校】行きに、最初は難色を示していた大地も、
来てみてみれば、何かノスタルジアに浸って、
昔を懐かしんでいるようだ。ちょこっと遠い目をしている。

真里は真里で、リヒトが始めてココに来た日のことを思い起こしていた。

 リヒトは、入学式から三日程後れてクラスにやってきた。

 いまだ秩序も何もない、雑然とした一年生の教室で、
どこか冷めたような大人っぽい眼をして、皆を眺めている彼は、
あからさまに近寄りがたいオーラを全身から発していて、
一部女子を除くほとんどのクラスメートは彼を敬遠していたが、
真里はその顔にしっかりと見覚えがあった。

 (同い年だったのね……) 

最初会った時は年上だと思っていた。

 何となく照れくさいような、嬉しいような、
フクザツな気持ちで、リヒトを眺めていると、
彼の方でも真里の姿を認めたようだった。
近づいてきて真里の前に立ち、長めの前髪をかきあげると、
ほんの微か表情を緩めて言った。

「オレは、時任理人。よろしく!」

緊張が解けて、真里も飛び切りの笑顔で応えた。

「立石真里です。こちらこそよろしくね。」

二人はこの時点で、すでに戦友であった。

 さかのぼる事10日ほど前、
父親の勤める病院で、【特別な患者】を受け入れることになり、
泊り込みで準備にあたっていた父親に、
着替えを届けに行った時のこと。

 医局に居なかった父親を探して、廊下を歩いていると、
西側の突き当たりの特別室の前に、少年が立っていた。

 するどい目つきで、チラッとこちらを見る。
賢そうな顔つき……年は自分より少し上だろうか?

歓迎されていない事はひと目見ればわかるが、
真里はひるまず尋ねた。

「あの……立石先生、こちらに居りませんか?」

彼は怪訝な顔をして言った。

「立石?君は……?」

「私、立石の娘です。父に届けるものがあって……」

着替えの入った袋を見せると、彼は少しだけ警戒を解いた。

「ああ。先生は今、オレの父さんと話中。妹のことで……
ここで待ってれば、そのうち戻ってくる。」
 
 少し意外な気もしたが、
彼はあっさりと真里を病室に招きいれた。

 無機質な機械と、いくつかの管でつながれている
ベッドに横たわる少女の姿が目に入る。
真っ黒で美しい長い髪の毛、整った顔立ちのその少女は
真里の目には、眠っているようにしか見えなかった。

(この子がそうなの。すごく可愛い子なのに……)

真里は担当医である父から、かいつまんだ事情を聞いていた。

 殺風景なこの部屋を見渡してみる。
所在なさげにソファに腰掛けている少女の兄が目に入る。
その姿が、数ヶ月前の自分と重なって見えた。

 真里は去年、ここに入院していた友達を失くした。
瞳の大きい、可愛い子だった。
すごく仲が良かったのに、助けてあげる事が出来なかった……

 もしも自分にできる事があるなら、どんな事でもしようと
思っていたのに、何一つそれは叶わなかった。

 自分の無力を思い知った。

 その事は、幼い真里にとって忘れられない痛みとなった。
少年の姿にあの時の自分が重なって、唐突に息苦しいカンジが甦ってきた。

真里は思わず、つばを飲み込んだ。

 コンコン!ノックの音がした。
父かと思ったが、二人の看護師だった。

「失礼します。散髪に来ました。髪を短くさせていただきますね」

ガターン!と少年は立ち上がった。

「やめてくれ!」

二人の看護師は顔を見合わせ、戸惑っている。

「あいつはこの髪が自慢なんだ!」

「ですが、ケアの為です。指示が出ているので……」

看護師たちは、定石通りに仕事にとりかかろうとした。

「やめてくれ!やめろって!」

 子供のいう事など、聞く耳をもってもらえないのだろうか。
真里は泣きたくなった。

 押し問答をしている彼らを前にして、
ついに真里はキッと顔を上げた。

「やめて下さい!」

真里の大声に、その場に居た全員が驚いて彼女の方を見た。

「髪、切らないで!私がケアをします!髪を洗いに来ます!
必要なら、毎日でも!……私が、やります!!」

「だから、切らないで下さい!」

 気持ちが高揚して、頬が熱くなる。
自分でもどうしてかわからないが、絶対に譲れない気がした。

「私は……立石の娘です」

少し落ち着いた真里は、思い出したようにそう付け加えた。

看護師たちは顔を見合わせると、気まずそうに出て行った。

 残された二人は、しばらく無言で突っ立っていたが、
いまだ頬を赤くしたままの真里の方は見ずに、少年がボソッと言った。

「ありがとう……」

「ど、どういたしまして……」

真里はどんな顔をして良いのかわからず、ようやくそれだけ口にした。


(おせっかいは生まれ持った自分の性癖だが
あの時はホント、夢中だったなあ……)
真里は蘇った感情で少し赤くなった頬を、秋風にさらした。

「見て、見て! 私たちの!学校見えるよ!」

 ミハルの興奮気味の声に、それぞれが現実に引き戻された彼らは、
はしゃいでいる彼女の様子に思わず笑みをもらした。

 ふもとの小学校の校庭からは、
少し高台に有る自分達の通う高校が見える。

 リヒト達にとっては見慣れた当たり前過ぎる光景だが、
ミハルにはそれが新鮮で嬉しいらしい。
めちゃくちゃご機嫌。

「こっから見てたらねー。小学生はみんな、
いつか、大きくなったら、あそこに行くんだー
って、思えるんだねー」
「【高校生】とか、かっこ良く見えるんだよー」

くるっとこちらを振り返って、ニッコリ笑った。

「それで、私は今その<高校生>なんですー!
やったー!!」

 ミハルらしい考え方だ。邪気がなくって微笑ましい。
まあ、言ってしまえば可愛らしい。
大地はファインダーを覗きっぱなしで、シャッターを切る。

ミハルは何か企んでいる様子だったが、
まさしく小学生のようにいたずらっぽく、ニカっ!と笑うと、宣言した。

「【かくれんぼ】するもの、この指とーまれ!!」

「今度はかくれんぼかーい!!」

 ミハルちゃん小学生シリーズ第二弾か。
もはや【高校生らしいお遊び】と言う当初の目的は
すっかり忘れ去られた模様である。

 ジャンケンをして最初に鬼になったリヒトは、
二階の廊下に通じる外階段の方に向かっていた。
たぶんミハルはその途中に居るだろう、という予測の元に。

その時どこからともなく、怪しげな声が聞こえてきた。
聞こえるか聞こえないか、のような大きさで。

「ミハルさんは……ココにはいませんよ……あっちです……」

「?」

リヒトは振り返って辺りを見回したが、
別段誰の姿も確認できなかった。

「気のせいか……?」

 彼はその事をほとんど気にもかけず、
目的地に向かってズンズン進んでいった。
彼の妹は、まったく彼が予測したとおりの場所に隠れていた。

「ミハル見ぃーっけ!」

「あーまた!見つかっちゃった!」

「おまえの隠れるところなんてお見通しさ!」

「もう!絶対リヒトに見つけられる~~」

 ミハルはぷう~っとふくれっ面をして見せた。
それは二人が小さな頃から、変わらずずっとそうだった。
しかし逆もまた真なり、ミハルの方も、
誰も見つけられないリヒトを探すのが得意だったのだ。

かくれんぼはミハルの圧勝に終わった。ただしリヒトが鬼の時を除いてだが。

「あー楽しかった!!」

ミハルは満足げにそうつぶやいて、クスッと笑うと皆に言った。

「あと…喉渇いたし…おなかもすいたね……!!」

「よっしゃ…オレも!オレも腹減った!」

「オマエはいつもだろーが!」

「じゃあ、お店行きましょうか?」

 たっぷり遊んだあとは、お次は買い食いに。
レベルが本気で小学生並みになって来ている気もするが、
意外にも?他メンバーも楽しそうであったので、良しとしよう。
高校生らしからぬお遊びは、いったんここで終了だろうか。

「なあお前、何かヘンな声聞かへんかったか……?」

 小学校を出たところで、大地が小声でリヒトにそう尋ねた。

「変な声?」

「そう。ミハルちゃんを探してる時な。
 何か……どこからともなくな?
『ここにはいませんよ~』みたいな。ほんで、見渡してもダレもいねえのよ。」

「さあ?特になあ……?」

「何かさ。誰かに?ずっと見られてるような気もすんだよな……」

 大地はしきりと首を傾げて不思議がっていたが、
リヒトは、自分のキョーミのない事はスグにアタマから消してしまうヤツであったので、この問題は深く追求されずに終わった。

 4人は次の目的地である最寄駅近くの大型ショッピングモールに向かっていた。
前を歩いているミハルと真里はおしゃべりに夢中。
その後ろをリヒト、カメラを提げた大地がついていく。

 大地は道すがら、それとなく兄妹の様子を観察していた。
ミハルが心から楽しんでいるのがわかるし、
それを見ているリヒトの表情も穏やかだ。

「まあまあ……いい取材になりそうやな!」

大地はひとりウンウン、とうなずいた。

 ホッと一息ついたのもつかの間、
巨大なモールを目前にして大地は再び気を引き締める。
こういう場所は、ミハルはもちろんのこと、
リヒトも縁が薄いので、退屈させないようどう立ち回るか?
いかにして好い画を収めるか?彼の腕の見せ所だ。

 ガラス張りの大きなゲートから中に入ると、
活気に溢れる広い空間が一気に五感になだれ込む。
大地たちにとっては、日常見慣れた風景だが、
ミハルは圧倒されたのか、しっかりと兄の腕に巻きつきながら、
声を出さずにキョロキョロ辺りを見渡している。
目をパチクリさせているその表情もチャーミングだったので、
大地は目立たぬようにシャッターを押した。

後ろに居た真里が、近くに寄ってきて目配せした。

「ミハルちゃんは、まかせてね!」

 つまりオレは、この堅物オトコのお守りってコトか。
大地は気合を入れて、仏頂面のリヒトの方を見やった。

「なんだよ?」

「イヤ!何でもねえ!それより……大人しくしてろよ、オマエ。
くれぐれも言っとくが、悪目立ちすんなよ……」

「?」

 本人まったく自覚がないが、こういう人の多い場所に連れてくると、
リヒトはどうにも目だってしまうのだった。

すれ違う女子達がリヒトを二度見して、
きゃあきゃあ囁きあいながら去っていく。
今更ながらこのオトコ、まったくムダに、見た目が良かった。
彼はドイツ人のクォーターで、スラリとした体躯に、彫りの深い顔立ち。
全くと言って良いほど身なりに構わない部分を差し引いても
結構イケメンであった。
大地にとっては、不本意にモテてる(?)
リヒトというのもなかなか面白い見ものでは有ったのだが。

「何はともあれ……まずメシだーー!!」

「私、私も!ダイチ!アイスクリーム食べたい!!」

「よっしゃあ!!任せときな!!」

4人は、真っ先に2階に有るフードコートを目指した。

「チョコにソーダに、マンゴー。
それから、キャラメルのと……あ!ワサビのが有る!
あと、うーん……どれもこれもスッゴク美味しそう!!」

にこにこにこ。

(ヤバイなこの客…一人でどんだけ頼むんや?)

 ヒマっそうにだらだら座り込んで、
いかにもやる気無さ気だったアイスクリーム屋のバイト店員は、
嬉しそうな声音で次々と大量のソフトクリームを注文する客の声を聞いて、
げんなりして声の主を見やった。

にこにこにこ。

(!!何や何や…ものすごい可愛い娘やんけ!ヤバイわ!俺!)

彼は掛けていたイスを蹴って立ち上がった。

「お、お嬢さん……あと3ツくらい!!俺が、個人的に……
 サービスしときますよって!!」

店員は満面の笑顔を湛えてそう言い切った。

「ホント!ほんとに?うわあ!ありがとう!!」

にこにこにこ。

両手にトリプルのソフトクリームを抱えたミハルは至極ご満悦な様子で、
リヒトの前に立っていた。

「おまえ……さすがにソレは食いすぎじゃねえのか。腹こわすなよ?
 だいたい千円しか持っていってねえのに
 その量おかしくねえか?」

1階のスーパーに買いに行ったペットボトル(大)の茶を持って戻ってきたリヒトは、ミハルのその様子に驚いた。

「うん。でもお釣りももらったよー!サービスだって!」

 ミハルの手のひらには、100円玉2つ、10円玉6つ。
お釣りを受け取ったリヒトは?な顔つきで、
にこにこ先を歩いていくミハルの後を追った。

「?まあいい……とにかく落っことすなよ」

「ダイジョーブだよー。私運動神経いいもん!」

運動神経が良いとアイスを落っことさないのかどうかは不明だが、
とにかくミハルは上手に食べながら歩いていった。

フードコートでは、席を取っていた大地と真里が二人を待っていた。
ミハルの食べているアイスの量で皆がひとしきり沸いた後、
テーブル上の複数の受信機が、次々に鳴り出した。
注文品が出来たコトを知らせる合図だ。

 ラーメン、たこ焼き、ハンバーガー。
大地が頼むメシの量は、相変わらずハンパない。
早くもソフトクリームを食べ終わって満足そうなミハルを、
微笑ましそうに見ながら、真里が紙コップにお茶を汲む。

 大量のアイスである程度お腹の膨れたミハルは、
みんなの食べるのをキョーミ津々に見ていた。

ラーメンをウマそうに啜っている大地が、
何やら長い葉っぱで包まれた魚の乗ったメシ?を取り出し、
くるくるとその葉を取り除いて、
中身のメシと、ラーメンとを、交互に食い始めた。

「旨い!!やっぱコレじゃないとな!」

 大地はしきりに頷きながら旨そうに食っている。
見ると、大地と同じくラーメンを食っているリヒトも、
同様にそのメシを食っていた。そして意外に真里ちゃんも!
あまり表情が変わらないリヒトだが、彼がもくもくと食っているのは、
「美味い」と言うコトを指している。マズイと食わないのだ。

「ねえ……ねえダイチ?それ何?すっごく……おいしいの?」

ミハルは瞳に光を湛えて、「それ」への興味をあらわした。

「コレか……これは【早寿し】と言ってだな
【麺】と一緒に食べるための(?)押し寿しなんだ。
ラーメンとの絶妙なコラボ……究極の、通の、上級者の食い方なんだ。
まあその……既に文化と言ってもいいだろう」

箸を振りかざして恍惚と、自説をぶち上げようとした大地をさえぎるように、
リヒトはあっさりと言った。

「ほら、オマエも食ってみるか?」

 彼は妹のために、【早寿し】を箸で器用に切り分けて、
雛鳥にエサを与える親鳥のごとく、『アーン』してやった。
嬉しげにこっくり頷いたミハルが、それを賞味する。
眼前で行われたそのパフォーマンスは、あまりにも自然だったため、
大地がツッコむのを忘れるほどだった。

リヒトのラーメンの汁も飲みほして、ミハルが感慨深げに言った。

「……おいしい!!……こんなの初めて食べた。
 スッゴク美味しいね!ダイチ!これって……文化、なんだね!」

「お、おう……!そう、文化、なんだよ!
 さすがミハルちゃん、違いのわかるオンナだよな!」

 大地は嬉しげに、隣にいるリヒトの背中をバシバシ叩いた。
リヒトは遠くに目をやって、フッと苦笑いして呟いた。

「オレもずいぶんとその文化とやらには毒されたもんだよ。
 コイツと一緒にラーメン食いに来たら、
 必ず抱き合わせて食わされてるウチに、
 無くてはいられないカラダになっちまった……」

 いったい冗談なのか何なのか、判断がつきかねるセリフだったが、
そばに居た真里もウンウン頷いているところを見ると、
もしかして二人とも大地に相当洗脳されたのかも知れない。
ミハルは3人目の犠牲者(?)かも知れなかった。

 無事に腹ごしらえも終わったので、お次は女子の定番、
【たのしいショッピング】をする事になった。
大地は食いしん坊モードからカメラマンモードに素早くチェンジし、
シャッターチャンスを待った。
真里にエスコートされて歩くミハルの後を、ジャマしないように
付かず離れず歩いていく。その後ろを、仏頂面のリヒトが行く。

「わあ!コレかわい~い!!」

 それぞれの店が工夫を凝らした、人の眼を引くディスプレイが
軒を連ねる店内を歩く。ミハルが一軒の雑貨屋に目を留めた。

「じゃあ、まずココ見ましょう!」

 真里がミハルの手を引いて、さっさと中に入っていく。
ミハルには見るもの全てが新鮮で魅力的で、瞳を輝かせている。
 後を追う大地はカメラを目立たないように提げて、
商品を見る振りをしながら自然に店内に入っていった。

 ところで、こうなるとどうしようもなくお荷物なのが、
いわずと知れた朴念仁・リヒト君であった。
真里とミハル(と、大地も)の入っていった、
キラキラした店内に入って行くタイミングを逃し、
手持ち無沙汰に店の前に突っ立っている。

(ここは何処なんだろう……)彼にとってはすでに異世界か?

リヒトは仕方なく、店頭に並べてある商品をぼんやり眺めていたが、
彼の目を一体のキャラクターが捕らえた。
値札に半額処分品!!というシールがついている。

(コレは一体ナニをするモノなんだ?
 どうしてここまで季節感無視出来るんだ??)

彼は、見本として飾られていたそのキャラクターと対峙した。
オトコマエにじっと見つめられて、少し当惑しているかもしれない
30センチくらいの雪だるまは、その手に団扇を持っていた。
「なかなか愛嬌のあるカオだな……」
何となく、少し面白がったリヒトは、その商品をお買い上げした。

「……リヒト君」

「なんだ?真里?」

 ミハルがカワイイ雑貨に夢中になっているスキに、
真里がリヒトに近づいてきてそっと囁いた。

「あのね……ちょっとミハルちゃんを見てみて?
すごく楽しそうじゃない?」

 真里に促されて、リヒトは店内にいるミハルを伺い見た。
ミハルは両手にウサギのぬいぐるみを持って、
ゴキゲンで、大地の前でポーズを取っていた。

「女の子って、ショッピングが大好きなものよ。
少し自由に遊ばせてあげたらいいと思うよ?
ミハルちゃんには、私が付いてるから、心配しないで!」

納得した、とは言い難い表情のリヒト。
真里はもう一押しした。

「とにかく!貴方がそんなところに仁王立ちしていては、
ミハルちゃんも気になってショッピング楽しめないよ?」

「楽しむ?アイツは……オレといるとどこでも楽しい、って
 いっつもそう言ってるぞ?」

リヒトは軽く眉を寄せて、すがるように真里を見る。
真里は深くため息をついた。

「うん。うん、わかってる。すごーく良くわかってるよ!
私が言いたいのは、そうじゃなくて……
…………あ!そうだ…!リヒト君。
カバン!新しいカバン見ておいでよ?それかなりボロボロだよ」

 真里は笑いながら、リヒトの持っているカバンを指差した。
中学入学の時から愛用している彼のカバンは、
シンプルで丈夫なものだが、5年もの間、持ち主の容赦ない使用に耐えている上、
彼が無造作にどこにでも置くので、底がかなり痛んでいた。

「このまま向こうへ歩いていったら、
10軒ほど先かな、カバン屋さんがあるよ。左側ね」

「うん……むー」

あまり乗り気でもなかったが、まあいい機会かも知れない。

真里に背中を押され、リヒトはカバン屋に向かって歩きだした。
彼を見送る真里の表情は、まさに「やれやれ」と言ったところだろう。


(どれも似たり寄ったりかな。
こんなに有るとまったくどれがいいのか分からん)

店頭にどっさり並べられた大量のカバンを前にして、リヒトは少々混乱していた。
単に選ぶのが面倒くさいとも言うが。
 もともと今のカバンだって中学校の入学祝に
ドイツに居る祖母から送られたものだった。(ドイツ製)

「うん……むー」 

 コレと同じような、使い勝手の良いものが欲しいんだけどな。
そう思って、棚に手を伸ばした時。
ドスン!肩から掛けた愛用のカバンに軽い衝撃を感じて、
リヒトは後ろを振り返った。

「あらあ!ごめんなさいねえ。余所見してたの。
 大丈夫かしら?」

 中年の女性が、詫びを入れてきた。
かなり着飾ったその女は、高そうな服、高そうなバッグ、
香水の匂いをプンプンさせながら、リヒトに向かって
にんまりと笑ってみせた。

「いいえ……別になんともありません」

 リヒトはすぐに、カバンの品定めに戻ろうとした。
なかなか、コレと言ったモノがない。
結局のところ、リヒトはこのカバンがお気に入りだった。
たとえボロでも。

「新しいカバンが欲しいのね?
あなたなら、もっと、こっちの方がいいんじゃないかしら?」

 女が指差したバッグは、大きさはまあまだが、
何やらデザインされた文字?の総柄で、値段も相当高そうで、
そしてリヒトのシュミでもなかった。

「いや、オレは……もう少しシンプルな物がいい」

「あらあ。似合うと思うけど……じゃあ私が選んであげる。
遠慮しないで。私からのプレゼント。どうかしら?」

 女は、いつのまにかリヒトのパーソナルスペース内に
どっかりと侵入して来ていた。
その素早さに、リヒトは多少感心して女を見た。
ハデな豹柄の洋服が、隠せない内面を露呈している。

「カワイらしい坊やねえ……」

女がねっとりとした目つきをして、
上から下まで、リヒトを値踏みするように見る。
何かおかしな雲行きになってないか……?

 次から次へと目に入る商品の楽しさにすっかり夢中になって、
ミハルはウインドゥショッピングを満喫していた。

「あれは何?」
「これはどうやって使うの?」

 矢継ぎ早に質問するミハルに、
苦笑しながらもひとつひとつ丁寧に応える真里。

ずっと眠り続けていたミハルと、
何処にでもいるフツーの女友達のように、
こうして有り触れた時間が過ごせるなんて、
真里にとっても感慨深いものがあった。

 雑貨屋から出た二人は、ちょっとおシャレな雰囲気の
アクセサリーショップに入った。
店内は明るく、照明が効果的に使われていてムードを盛り上げ、
ミハルを充分ドキドキさせた。

「わあ!どれもスゴく、キレイだあ……!」

 初めて目にするキラキラのアクセサリーに、
あちこち目を奪われていたミハルは、
あるひとつのペンダントに目を留めた。

彼女は吸い寄せられるようにそれに近寄って、手に取った。

 透明な水晶玉を、カエルがお腹に抱え込んでいるデザイン。
ラピスラズリで彫られたカエルの部分は緑でなく、
深いブルーだった。
それが光の角度によって、クリスタルの部分すら青く見えて、
ミハルは一瞬にして心を奪われた。

「あ!青い……青いカエルだよ!ねえリヒト!」

彼女は思わず兄の名を呼んで、後ろを振り返った。

(リヒトに見せたい!いつも近くに居るのに?)

「……?リヒトはどこ??」

 ミハルは不意に目が覚めたかのように、兄の不在を認識した。

 青い、カエルを、……見せたかったのに。

そう感じたとき。突然、猛烈な不安が彼女を襲った。

「リヒト……!」

「ミハルちゃん?どうしたの?」

「リヒト?リヒトいない……?
 真里ちゃん?リヒト知らない?」

 急に店内から飛び出して、迷子がお母さんを探すような様子のミハルに、
真里も大地も少なからず驚いたが、
ミハルの不安な心中を察して、
すぐにリヒトが居るであろうカバン屋に向かうことにした。

 少し涙目のミハルが、店舗が立ち並ぶセンターの通りを、
人をかきわけ、全力疾走して行く。けっこう足が速い。
少し遅れて大地、その後を真里が、慌てて追いかける。

真っ先にカバン屋に到着したミハルは、
躊躇せずいっきに売り場に走り込んだ。

「リヒトーー!!」

 高そうな総柄のバッグをカラダごと押し付けて、
兄に迫っているハデな豹柄の中年女が、ミハルの目に飛び込んでくる。

「リヒトー!ダメー!!」

まっすぐ突進してくるミハルに、
さすがの猛禽類オバハンも、一歩だけ、退いた。

「ミハル?!」

飛びついてきた妹の頭を撫でてやる。

「びっくりした……びっくりした!
 いきなり居なくなるんだもん……」

リヒトを見つけてホッとしたのか、
ミハルは泣き笑いの表情で兄を見上げた。

「ああ、ちょっとな。カバン見に来たんだ。
オマエもこの前コレ見て、すごいボロボロだって感心してたじゃねえか?」

「うん。それはそうだけど……でもアレは良くないよ。
あんなゴミ箱みたいな模様の、リヒトに似合わないよ」

ミハルは悲しそうな顔をして、派手女が押し付けていたバッグを指して言った。

「ゴミ……☆@!? これヴィ◯ンよ!?何言ってるの?」

当惑した女が叫んだ。

「だってロシアで……道端にアレとおんなじゴミ箱が、
いっぱい並んでるの見たんだもん……」

ミハルは少しふくれっつらをして、兄の胸に顔をうずめる。

「またオマエは妙なコトを……
 そんな事あまり人前で言うもんじゃない」

リヒトはため息をついて、妹を強く抱きしめた。
ミハルは子猫が甘えて擦り寄るような、至福の表情で兄に身を預ける。


「おい、カバン屋で映画の撮影やってるらしいぞ?」
「何か新人の俳優が来てるって?!見に行こ!」

 かなりトロいながら、一所懸命カバン屋に向かって走っている真里を、
追い抜かしていくカップルのセリフが耳に入る。
「……」
何となく状況が想像できてしまう自分が悲しい。
真里がカバン屋に到着したとき、
【時任兄妹小劇場】は、すでに佳境に差し掛かっていて、
知らぬ間に人だかりが出来ていた。

 ギャラリーの最前列で、
ごく自然に撮影かましていた大地が、ポツンとつぶやいた。

「あれほど目立つな、って言っといたのにな。
オレは知らね。……まあ見てて面白いけどな」

 背の低いミハルがリヒトの首に手を廻し、
ぶら下がるようにして訴えた。

「ねえリヒト。さっき行ったお店に、すっごく、
素敵なペンダントが有ったんだ。リヒトにも見せたい!
買ってもいいかな?」

「ああ、オレがプレゼントするよ」

リヒトはそう言いながら、ミハルの頭をなでなで。

 何かカン違い……なギャラリーが、
一斉にケータイで写真を撮る音があたりに響いている。

 いつまで抱きあっとるんじゃ!状態の兄妹と、
プライドをズタズタにされてわなわな震えている気の毒な中年女性が、
この茶番の幕引きを待っている。

「さあさあみなさん!イベントはもうお終いですー!」

その場のノリに合わせて、いけしゃあしゃあとそう宣言した大地は、
集まったギャラリーに解散を促した。

「何だ~たったコレだけなん?短いやん。」
「どーせワンカットやろ。俺ら映ってるかいな?」
「やっぱー美男美女でステキよねえ。」
「脇を締めてたあのオバサンの演技力もなかなかやったで!」

「いやあ、なかなかええもん、見せてもらいましたわ~」

 最後にオッサンが笑顔でそう言い残し、立ち去っていった。
大地と真里は愛想笑いで応える他なかった。

今回の一件で、身にしみて良~~く分かったコトが有った。

うっかり不用意に、この兄妹を引き離すのは止めて置いた方が、
世のため人のため、わが身のため。
真里と大地はそう悟ったのであった。


「オマエ、今日一日でかなり日に焼けたな……
真っ赤だよ、顔」

 その夜の就寝前のティータイム。
リヒトは向かいに座ってお茶を飲んでいるミハルの顔を
しげしげと見て言った。

「えー。そうかな?
実は……それ真里ちゃんにも言われた。
さっきお店でこれ買ってくれたんだー」

 ミハルが見せたのは、
白地に赤い花柄の、小さな容器に入った日焼け止め薬だった。
さすが真里だ。手回しがいい。
それに、そんなの持ってると、……なかなか女子っぽく見えるぞ。

「リヒトは、色の白い方が好きなの?」

こちらを向き直って、少し心配そうにミハルが尋ねた。

「?? そんなこと気にすんな!
毎日外で遊んで、真っ黒けになってもいいさ!
その方がおまえらしい……」

 ミハルがニマッと笑った。その瞳に宿る悪戯な光。
リヒトはしまった、と後悔したが、時は既に遅かった。

ミハルは深夜にもかかわらず、キラキラ眼を輝かせて言った。

「じゃあ明日も……ドッジとか、かくれんぼとか、しようね!!」

「なに!?……ちょっ!ちょっとそれは勘弁してくれ」

 満面の笑みを浮かべて、ベッドにもぐりこもうとする妹を
阻止しようと、リヒトは立ち上がった。

「へへへ~焦ってる焦ってる。」

「こいつはあ~勝ち逃げは許さねえ!」

 リヒトは、ミハルを後ろからつかまえて、
アタマを軽く小突くマネをした。
幼いころのようにじゃれ合う二人。

 楽しそうにクスクス笑っているミハルの胸で、
今日リヒトに買ってもらったばかりのペンダントが、
部屋のダウンライトを取り込んで柔らかな光を放っている。

ミハルはふっと真顔になって、リヒトに問うた。

「ねえリヒト……私のランドセルどうしたかなあ?
しばらく病室に置いてくれてたよね?」

 ミハルは、カエルのペンダントを手で触りながら、
ゆっくりとリヒトの方に振り返る。

確かにそうだった。ミハルの為に準備していた赤いランドセルを、
母さんはしばらく病室に置いていた。
ミハルが目覚めた時、いつでもスグに学校に行けるようにと。

(でもどうして、お前がそれを知っているんだ?
まるでその目で見てでもいたかのように……)

数秒間の沈黙が流れる。

「なーに……?」

問いかけるミハルを、リヒトは後ろから抱きすくめて言った。

「オマエ、絶対に人前では……そういう事は言うなよ」

ミハルも少しの間黙りこくった。

「言わないよ……リヒトの心配性!」
いたずらっぽく笑って、ポツンと付け加えた。
「だって私……いろいろ知ってるんだもん」

「だからそれが心配だって言ってんだろ!」

ミハルは振り返って、リヒトに抱きついて微笑んだ。
「心配しないでいいの。リヒトは!な~んにも!」

……そんな顔されると、何も訊けないじゃないか。
二人の後ろでは、団扇を持った雪だるまだけが、じっと二人を見ていた。



「あー。悪い!大丈夫か?」

教室を出ようとしたリヒトは、
慌てて入ってきた誰かとぶつかった。
自分が最後だと思って油断していた。

「あ!……お兄さん!!や!イヤ、
ス、スミマセン!!急いでいたので!」

「お兄さん、だと??」

リヒトは何となく、イヤな汗を掻いた。

「……委員長か。何してんだ?
まだ制服かよ。次プールだろ?」

「えええええ、そ、そうです。もちろん!
着替え……着替え取りに来たのです!
時任君は、見学でしたよね……」

「そうだけど……お前、何だよその格好?ボロッボロだぞ」

 委員長はよく見ると、普段の彼らしくもなく
制服はグチャグチャに乱れ、髪の毛もボサボサである。
ケンカとかとは無縁のタイプに見えるが、
まるで今しがたケンカの渦中に居たかのようだった。

「イヤこれは!名誉の負傷!と言うか!
とにかく僕には崇高な使命がっっっ!」

どことなく誇らしげな表情をした彼は、ずり落ちていたメガネを掛けなおした。

「ふーん……」

(ヘンなやつ。そういや最近、やたらとコイツと目が合うな。
この前小学校へ行ったときも途中で見かけたっけな。
コイツの家って近所だっけ?)

そんな事を考えながら、プールに向かって歩いていると、
さっきの委員長とまったく同様に、
服装の乱れた数人のガタイの良い男子生徒とすれ違ったが、
何故かみな一様に、その顔に意味不明な達成感を漂わせていた。

言うまでもなく彼らは、委員長の安田が立ち上げた
「(我らが眠り姫)
ミハルさんのためなら・どんな事でもやっちゃうよ?・委員会」
(略称:MDI)の構成メンバー達であった。

彼らの名誉のために言っておくと、
つい先ほど彼らは、眠り姫の【生着替え】を覗こうとしていた不届き者数名と、
果敢にも戦いを繰り広げたのであった。
リヒトには、少しは感謝されてもいいかも知れない。

 
文武両道を自認するリヒトにとって、プール授業は少々不名誉な時間であった。

彼は10年前のあの時から、入水する事が出来なくなっていた。
精神的トラウマと認定され、ドクターストップがかかっている。
なので、高二の今までプール授業はずっと見学してきた。

もちろん彼本人は、それを克服したいとずっと願ってきている。
主な理由は【カッコワルイ】からだ。
それこそリヒトらしい理由だった。

 今日もいつもと同じように、プールサイドで
皆の泳ぐのを見ながら、医学書をヒザに広げて考えていた。

(そういやミハルは、プール張り切ってたっけな。
あいつはその辺スゴイな。もともと泳ぎが得意だったとはいえ、
あんな事が有ったのに臆する事がない。
わが妹ながら、たいしたヤツだ……)

毎度おなじみ妹にベタ惚れな事はよくよくわかっているが、
一方のミハルは、幼稚園以来のプールに、がぜんやる気満々であった。
ここは高校、自分は女子高校生、
と、いうのを忘れがちなのが少々気になるが。

ミハルを遠目で見ていても、そのテンションの高さが伺えた。

(あんまりはしゃぎ過ぎてケガとかすんなよ……)

リヒトの心配をよそに、ミハルは元気一杯準備体操をしている。
プールの水面に、午後の光が反射して、キラキラとまぶしい。

ミハルは、別にプールだけではなくて、
学校行事すべてに、全力で向き合っていた。
無理もない。彼女にとって、すべてが初めてと言っていい。
真新しい制服も、いろいろな授業も、部活動も。
体育祭や文化祭、定期テストでさえも。
すべて彼女が奪われてきたものだったから。

(全部、やりたいんだよなあ……当たり前か。
 何でも、望む事は全部、やらせてやりたい)
リヒトは心から強くそう思った。

(少し日がかぎってきたかな……)

 まぶしさが少しやわらいで、
リヒトはにぎわうプールの中にミハルの姿を探した。
背が低いので、プールの端っこの方に居たミハルが、
リヒトの姿を認めて、大きく手を振っている。

その姿を見て久しぶりに、泳ぐのも悪くないな……と思った。

 水面に映る太陽を、雲がゆっくりと隠して行く。
途端に風が冷たくなって、ミハルは小さく身震いした。
自分で自分の肩を抱くようなしぐさをした彼女は、
一瞬不安そうな顔をした。

 水が足元にまとわりつくような感触。

「ちょっと寒くなってきちゃったねー」

 のんびりした声。
後ろを振り返ると真里がいて、寒そうに頬に手をやっていた。
ミハルは何だかとてもホッとして、真里の方へ近づいた。

体育教師が終了のホイッスルを吹いた。

「今年のプールももうラストかな。
 ミハルちゃんは結構、泳げるんだね。ビックリしたわ」

真里の笑顔に、ミハルの不安は少し柔らいだ。

 プール授業に参加していた生徒達が更衣室にひきあげ、
着替える必要のないリヒトは、しばらく見学席に残っていた。

(どっか……適当なスイミングスクールでも物色するかな)

 そんな考えがふっと心に浮かぶ。
着替え終わった大地がやってきた。

「まだ居たんか。次、遅れるぞ」

「ああ……」

 リヒトはどこか上の空で、ぼんやりとプールの方を見つめていた。

 いつもはかなりな自信家のリヒトだが、
こういう時の彼は、どこか儚げに見える。

(何か考え事をしているな……)
大地はどっかりと隣に腰を据えると、自慢のカメラを取り出し、
レンズを磨き始めた。

「まあ、今年もプールはラスか。
ミハルちゃん、張り切ってたな。参加できて良かったじゃん。
女子更衣室は大変な騒ぎになってたみたいだけどもな……」

「大変な騒ぎって何だ?」

「あー……まあ、気にすんな!」

 大地はリヒトの肩をぽんっと叩いて言った。
リヒトもそれ以上は何も聞いてこなかった。
もともとあんまりキョーミは無さそうだ。

情報通な大地は、校内で起きている様々な事に精通しているので
当然、最近結成された某団体の事も聞き及んでいたが、
対するリヒトはそう言う事にはまったく疎いのだった。

「そろそろ行くべ」
「ああ……」

 リヒトをうながすようにして、
プールサイドの出口に向かった大地だったが、渡り廊下の途中で
うっかりレンズの蓋をベンチに置き忘れていた事に気がついた。

「やっべ忘れ物!……ちょっと戻ってくっから、
 先行っといてくれ!」

 プールサイドまで急ぎ駆け戻っていく大地を、
どこか上の空な表情をしたリヒトが、しばらくその場で見送っていた。


 誰もいなくなったプールは、
先ほどまでの喧騒がウソのように、しーん、として寂しげだ。

すうっと吹いた風が、ずいぶん冷たく感じられた。

(もう夏も終わりかあ……)

傾いた日差しがプールの静かな水面を照らして、
どこか不思議な色味を帯びていた。

大地は蓋を手に取ると、出口に急ごうとした。

 ふと、ベンチの隅に、
きらり、と青く光るモノが見えた。

「??」

「女子が髪飾りでも落としてったかなー」

かがんで拾おうとしたら、それはピョーンと跳ねた。

「?!」

 大地はもう一度近くでそれを見ようとしたが、
プールの方へ方へと、跳ねて行ってしまう。
水に飛び込む直前、大地の目は目標をはっきり捕らえた。

「えー?何だぁ?!……すげぇ珍しいぞ!」

思わずカメラを向け、シャッターを切る。

 カシャ!
 カシャ!カシャ!

それは一匹の小さな……青いカエルだった。

 


 パッ!パッ!ドドーン!!!ドン! ドン!

 残暑キビシイ9月下旬、静かな住宅街の昼下がり。
とある一軒の家からド派手な爆発音が聞こえたが、
近隣の住民達の中にもそれを気に留める者はいなかっ…

「…って違うだろう!
何で夕飯作っててそんな音がするんだよっっ!!」

「ごめんなさーい!!」

 日曜の夕飯は、ミハルがごちそうを作ると言うので、
昼過ぎからキッチンを占領して何やら混ぜ合わせていたが、
そこは兄譲りの才能ゆえか?
ボールの中身が醗酵してバクハツすると言う妙技をやってのけた。

「…………」

「…………」

 となりにある実験室から飛び出してきたリヒトは、
キッチンの惨状を眼下に、食材まみれのミハルと対峙した。

よもや自分の実験室以外からこんな音を聞くとは思わなかった。

「ごめんな……さいっっ!」

 上目遣いで半ベソなミハル。
その姿は、幼稚園の時と少しも、変わっちゃいない。
何かマズイ事をしでかした時のあの顔だ。

その顔をされると、オレはもうお手上げだった。

あーそうだよな。わかってる。
オレはオマエに……弱いんだよ!!!

「い、いいからオマエはシャワーでも浴びてこい。
ここはオレが、片付けておくから……」

軽い目眩を払いのけるように壁に手をついて、
無駄にポーズを決めながらそう言った。

「で、でも……」

ミハルは申し訳なさそうに、更にベソ度2割増しだ。

「いいから!さっさとフロに入ってこーい!!」

 ミハルを風呂場へ押しやると、
リヒトは散らばった食材類をゴミ箱に入れ、
床にモップを掛けながら、
頭のスイッチをさっきまで実験室で考えていたことの続きへと切り替えた。
 
 何故、蘇生薬はスグに効果を発揮せず、
半日以上経過してから効能が発動したのか……?

 あの日からずっと考え続けているが、
明確な答えはまだ出ていなかった。

(配合が足りないワケじゃない。何か、他の条件が……)

「いやーーーーっ!!」

 悲鳴がリヒトの思考を中断した。
シャワーを浴びていたミハルがバスタオル姿で飛び出してきて、彼に抱きついた。

「わーーーー!何やってんだ!!!!
オマエはもう幼稚園児じゃないんだぞ~」

慌てふためきながら、カラダにタオルを掛けなおしてやる。

しかし、ミハルの様子は明らかに尋常ではなかった。

「ミハル……?」

ひどく怖がり、何かに怯えている。

「いやだ……イヤ!」

「ミハル……?」

真っ青な顔で、ガクガク震えている。

「イヤだ!戻るのはいや……ここに居たい!」

「ミハル?どうした?」

 怯える妹の髪を撫でてやりながら問いかける。
その長い髪は湯ざめして冷たい。

 腕の中にいるミハルを、なだめるように強く抱きしめる。
そのときリヒトは、つかみ所の無い何かの気配を感じた。

遠い記憶を呼び覚まさせるようなこの感じ。
でもそれは、まだハッキリとした形ではない……

リヒトは一瞬、味わった事の無い不思議な気分に囚われたが、
すぐにそれを振り払って、普段の自分に戻った。

「ミハル?一体どうしたんだ?
……ハッ!! さては、覗きでも出たのか?!」

リヒトがゆさぶったので、ミハルもやっと我に返った。

「ちくしょー……
そういや最近、何かとチョロチョロしてるやついるしな。
今度見つけたら実験台にしてくれる!!」

「ダメだよそんなの!ごめんね。もう大丈夫」

 物騒な発言をしているリヒトをいさめながら、
ミハルはにこっと笑顔をつくる。

彼女は兄に余計な心配をかけたくなかった。

(リヒトには、言えない……)

出たのは、覗きではなかった。
利発な彼女には、【それ】が姿を現したことが何を意味するのか、
わかりすぎるほどに、よくわかっていた。

ここがあまりにも楽しいので、うっかり忘れていた。

10年前に交わした、ある約束のこと。
あのときに自分の背負った運命のこと。
だって、自分で選んだのだから。



 「よぉーし、スタート!」

次の日から、体育祭の練習が始まった。
ミハルちゃん言うところの【運動会】というヤツだ。

 なかでも、【かけっこ】、ではなくて、
短距離走は彼女のもっとも得意とするところ。
身体能力を取り戻すリハビリにもなるので、
体育の授業になると、おお張り切りだ。

それにカラダを動かしていると、余計な事を考えずにすむ。

午後2時間、みっちり体育の授業を終えて、
ミハルは爽快な汗をかいた。

 ウォータークーラーで水をごくごく飲んで、
ついでに顔まで水を浴びる。まるで小学生のように。

火照った頬を冷やすため、再び勢いよく水に顔をさらした。
そうする事で不安を払いのけようとしているかのようだ。

「はい!タオルどうぞ!」

水から顔を上げると、
タオルを差しだし、ニコニコしている真里がいた。

「うわあ!真里ちゃん気が利くー!ありがとう!!」

キラキラの笑顔を交わす二人の後方で、
妹同様顔に水を浴びて、
滴をポタポタたらしながらも嬉しそうなリヒトと、
自分もタオルを手にチャンスを伺っていたが、
真里にあっさり先を越されて、落胆する委員長の目が合った。

安田はメガネを掛けなおしながら、キリッと顔を作って言った。

「ど……どうぞ!お兄さん!」

「はあ??」

走り去る委員長に渡されたタオルを手に、
ぽかんとするリヒトが残された。

「よーよー どしたん? まあおモテになりますこと!」

大地のしょうもないつっこみは置いといて、
とりあえず、タオルはきっちり使わせていただいた。

「ミハルちゃん。今日これから家庭部にこない?
モンブラン作るんだけど、一緒にどうかな?」

 教室に戻る途中で、真里からのお誘いがあった。
ミハルはもちろん、部活動というものを全く経験した事が無かった。
ゆえに、漠然とした憧れがあった。

 それに、ゆうべの失敗を、取り返したいキモチも沸いてきた。
そうだ!真里に料理を教わればいいんだ。

「私も混ざっちゃってもイイの?ホントに?」
「あたりまえだよー。
 何なら、気に入ったら家庭部に入部しちゃう?」

 真里はいつでも優しくて、
ミハルの気分をあったかくしてくれる。

「うん、行く!真里ちゃん、ありがとう!!」

ミハルは晴れやかな笑顔でそう言った。

 昨日の一件から少し元気のなかったミハルを
気にかけていたリヒトは、
ミハルが楽しそうに笑っているのを見て、ホッと一安心した。

 自分の方を見ているリヒトに気が付いたミハルが、
兄の近くにやってきた。

「リヒト!今日これからねー 家庭部に行ってもイイ?
  真里ちゃんが誘ってくれたんだー♪ 」

(嬉しそうな表情。真里に感謝だな……)

「……ああ、良かったな。オレはやる事あるから先帰っとくよ。」

 リヒトはミハルの頬に手を伸ばして軽く触れた。
まるで小さな頃のように。ミハルはこっくり頷く。

「バイバイ、リヒトー」
「おー。バクハツさせんなよー」
「リヒトの方こそ!!実験もほどほどにねー!」

ミハルは真里と連れ立って、楽しそうに教室を出た。

「さて。オレは帰るか」

二人を見送って帰り支度をするリヒトは、ふと違和感を感じる。
……いつもなら、何だかんだと構ってくる大地の姿が、
今日はなぜか見えない。

「写真がどうのこうの言ってたか?」

 大地は時おり、新聞部の奥に有る個人的スペースにこもって、
現像作業に没頭しているときがある。正規部員でもないのに。

……おそらくそんなトコだろう。
リヒトは教室を出て、家路に着いた。


「私ね、真里ちゃんに教えて欲しい事いっぱい有るんだー」

 家庭科調理室に向かいながら、
ミハルは昨日の料理(?)の失敗談を真里に聞かせる。
真里はクスクス笑いながら聴いている。

 二人が調理室に到着すると、
数人の女子がいて、すでにケーキ作りの準備を始めていた。
部長の真里も参加して、テキパキと下準備をはじめる。

ミハルはその間、調理室の中を見回していた。
「いろんな器具が有るなあ。
うちのキッチンに無いのもいっぱい有る…」

ミハルには、見るものすべてが結構目新しいのである。

「じゃあ、二人でペアになって。
今から初めまーす!」

真里の合図でみんなが作業に取り掛かりはじめる。
「お待たせー ミハルちゃん。
ミハルちゃんは、私とペアね。まずは……」

 小麦粉を量る。バターを温める。
当たり前と言えば当たり前だが、
ひたすら手際の良い真里に、
何だか手元がおぼつかないミハル。
一生懸命教える真里に、真剣に応えようとするミハル。

他ペアに比べ、明らかにツーステップは遅れを取っている二人。
ミハルのあまりの才能?の無さに、
まわりの女子達も思わず引きそうになっていたが、
それでも真里の根気強さは賞賛に値する。

何度でも繰り返し、彼女は教えてくれる。
真里もまた、<あきらめる>ということをしない人間だった。
こういうとき、心底頼りになった。

 それなのに……。
自分のふがいなさに思わず半ベソになるミハル。

「ミハルちゃんお料理もたぶん初めてよね。
 だから出来なくてあたりまえ」
「私も手伝ってあげるよ」
「これは、こうやって混ぜるんだよ」

 自分の作業が終わった仲間達が、ミハルに声をかける。
いつのまにか、みんなが応援してくれていた。

「ありがとう!嬉しいよー!みんなー!!」

泣き笑いのミハル。

 こんな校舎のかたすみで、女の子達による
ウルウル青春ドラマ(ミハル主役)が繰り広げられているのを、
露とも知らないなんてリヒト君には本当にザンネンな事だった。

しかしながら家庭科室前の廊下には、
ドラマの一部始終を知るひとりの男がいた。
我が事のように感動してヒザをついていた彼は、
ひっそりと立ち上がり、辺りを伺うとその場を静かに立ち去った。

その直後、こんなハンパな時期に、
職員室にクラブ入部願いの用紙を取りに行く委員長の姿があった……

 部室の中では、家庭部員たちが、一致団結(?)するのを
満足そうに見守っていた真里が、ミハルに声をかけていた。 

「『作ってあげたい』ってキモチが大事なんだから、
    絶対上手になれるよ。
そうだ、今度うちに来る?一緒に何か作ろうか!
体育祭の次の日、休みがあるから……」

願ってもない真里からの申し出だった。

「うん!ありがとう…真里ちゃん」
「うん?」
「真里ちゃん…大好き!」

 焼きあがったケーキを、みんなで一緒に食べた。
ミハルと真里のケーキは、ちょっぴりイビツだったが、
みんなで食べると最高においしかった。


「チッ。降って来やがった!
夜からって言ってたのによ……」

 ミハルたちのティータイムが
大盛り上がりを見せていたちょうどその頃、
ケータイをいじりながら、
ブツクサと空模様に文句をつけている大地の姿があった。

 彼は一人で、グラウンドの裏手にある備品置き場に向かっていた。
ある人物に会いに行くためだ。

 降り出した雨の中、
約束の時間ちょうどに目的地に到着した大地は、
三つあるドアのうち、<3>と書かれたドアの前に立った。
カラフルなスプレーで英語が乱雑にラクガキされていて、
いつ見ても異様な雰囲気が、このハイソな学校には不釣合いだ。

 辺りを見回してから、そっとドアを開けた。
中に一歩踏み入ると、カビくさいような匂いがした。

 かっては吹奏楽部の部室だったらしいこの部屋には、
古くなって使われなくなった楽器や、
永遠に出番が来るとは思えない妙な衣装などが
隅の方にかためて置かれていて、うっすらホコリが積もっている。
『何か出る』とウワサされているのもムリからぬ事だ。
 
 大抵の生徒はここには近づかないが、
ごくごく稀には、ウワサを聞きかじった生徒のうちの、
物好きなやつらがここを訪問したりする。

しかし、ご期待に添えるようなものは何も出なかった。
学校の怪談なんてそんなものだ。

大地は手馴れた感じで、薄暗い部屋の更に奥へと進み、
板とカーテンで囲まれた、手作り感満載の空間の前で足を止めた。

板にはこれまたスプレーで、大きく<4>の文字が描かれている。

そう、この場所こそが、【霊能者・チトーさんの4番ドア】と
呼ばれるところである。

 その存在については、確かに校内でウワサされているものの、
誰も実際の場所を知らないトップシークレットであった。

【霊能者・チトーさん】にアクセスしたかったら、
新聞部に有る投書箱の【4番】に手紙を入れること。
それだけが唯一、【チトーさん】とコンタクトを取る方法だ。

「待たせたか? 大地……」

 カーテンの向こうから、待ち人が姿を現した。
男子のような言葉で話してはいるが、
レッキとした女子高校生である。

「おー。悪りぃなあ、呼び出して。
 ……ちょっとこいつを見て欲しくてな」

大地は彼女に一枚の写真を手渡した。
 
大きなセルの眼鏡をかけ、見た目は大人しそうな文学少女、
と言ったカンジか。少し暗めな表情に深い眼の色。
顔立ちは悪くないのに、三つ編みのお下げにした長い髪の毛が、
微妙に古臭い印象を与えている。

この学校の知る人ぞ知る霊能者、【チトーさん】である。

ここの学生であること、そしてハンパない強い能力を持っていること、
それ以外は、全てが謎のベールにつつまれている。
ココは教師ですら触れてはならない聖域だった。
(と言うかすでに魔界?)

 大地が彼女に見せた写真。それはあの日プールサイドで見つけた
青いカエルの飛び込みシーンを撮影したモノだ。

しかしそこには、それ以外の奇妙なものが映りこんでいた。

プールの水面が、明らかに普段とは違う様相を見せている。
水中で何かがうごめいているような不自然なうねり。
波間に見える人の眼のような水紋。

現像が出来上がってきたとき、
その類の写真をけっこう見慣れている大地でも、
ちょっとゾクッとした。

「オマエこれ、どう思う?」

彼女はじっと写真を見つめている。
伏目がちにした睫が長い。

しばらく無言で考えていたが、
そのあと、まっすぐ大地を見つめて言った。

「大地、これは……少し厄介かもしれない」
やにわに、雨の音が大きくなった。



「あー、楽しかった!」

先ほどから降り始めた小雨のせいか、
調理室の窓から見える外はもう、うっすら暗い。

校内に帰宅を促す放送が流れる時間になった。
楽しい時間は、あっという間に過ぎる。

 ミハルはすっくと立ち上がり、
ちょっぴりおどけてお辞儀をして言った。

「さて!本日私は、
みなさんにスゴク、すごくお世話になりましたので」
「お片づけはぜーんぶ!ぜーんぶ、私が引き受けたいと思います!」

「えー!ミハルちゃん一人でやったら疲れちゃうよー」
「遅くなっちゃうよー」
みなが口々にそう言うので、真里が立ち上がって言った。

「大きな調理器具はあらかた片付いているので。
あとは、ミハルちゃんと、私が片付けられます。
いちおう、部長だからねー(笑)まかせといて!
雨がひどくならないうちに、みんな、帰り支度して下さーい」

「えー部長!ミハルちゃんひとりじめですかー」
誰かが茶化して言った。みんな大笑いして、お開きとなった。

 名残惜しげに皆が帰ったあと、
二人はたくさんの食器を洗い場へと運んだ。
大きなシンクにいっぱいに溜めた水の中で、
並んで汚れ物を洗いながら、いまだ尽きないおしゃべりをしていた。

どうやら雨は、本降りになってきたようだ。

「ウフフフ……それにしてもミハルちゃんは、
けっこういろんな事知ってるよね。
何だか、10年間も眠っていたなんて思えない」

真里が少し不思議そうに言った。

「うん……ん。 実は……」

「真里ちゃんにだけ、言っちゃおうかな……」
「信じてくれるかなあ?」

ミハルはくるくる表情を変えながら、言葉を区切っていった。

「なあに?【眠り姫】の秘密?
私、ミハルちゃんが言うのなら、信じるよ。ぜったい」
にっこり笑う真里。

「あのね……」

ミハルが何か話そうと、真里に顔を向けた時だった。
シンクの縁で何かが動いたのを、二人同時に気づいた。

どこから入ってきたのだろう。小さな青いカエルが、そこに佇んでいる。

それを見た真里は、素直に驚いた。
「わあ! こんな色の……カエル?  初めてみた!
 ねえ、ミハルちゃん……」

ミハルの方を振り返った真里は、さっきまでとは全く違う、
青ざめた顔で硬直したままの彼女にさらに驚いた。

「ミハルちゃん……?」
「どうしたの?ミハルちゃん?
 どうしたの?!」

「ハア。……ハア……ハア」

「ハア。……ハア……ハア」

ぽちゃん。

ぽちゃん。

ミハルの耳に水滴の音が大きく響く。

「ミ・ツ・ケ・タ……」

「ミ・ツ・ケ・タ……」

「いやだ……イヤだーーー!!!」
ミハルは耳を押さえてうずくまった。

「ミハルちゃん! ミハルちゃん!!」
真里が名前を呼んでも首を振るばかりだ。

いつでも元気なその瞳が、怯えたような色で染まっている。
その暗い眼を見ていると、真里の心も不安にかき乱される。

「どうしたの?コワイものでも見たの?」
真里がミハルの顔を覗き込んだその時だった。

水をなみなみと湛えたシンクの中から
勢いよく水が溢れ出したかと思うと、
それはみるみる手のようなカタチになり、
ミハルの腕を抱きかかえるようにして掴んだ。

「ミ・ツ・ケ・タ……」

「!!?!!!!!!」

真里はとっさにミハルの反対側の腕に抱きついた。

強い力でひっぱられる感触。
何が起こっているか、まったくわからない。
ハッキリしている事は、この手を決して離してはならない事。
真里は腕に、渾身の力を込めた。

「誰か……誰か来て!助けて!」

真里は精一杯の声を出して叫んだ。

雨の音がその声をかき消す。

もう時刻も遅い。おそらく近くには誰もいないだろう。
自分がミハルを守らなければ!でもどうやって??

「ミハルさん!どうしたのです!!」
その時、委員長の安田が大慌てで飛び込んできた。

……彼が何で今ここに居るのか?は、この際問わない事としよう。

必死の形相の真里は、叫んだ。
「安田君!!引っ張って!ミハルちゃんを!!お願い!!」

 彼は状況を見極めようと、メガネをずい、と上にあげた。
水がまるで、自らの意思があるかのようにミハルに纏わり付いている。
異様な光景だった。

「!!?!!!」
「で、では!!おみ足に!失礼します!!」

 安田はこの場には全く不必要な恥じらいを見せながらも、
持っていた書類を放り投げ、据わりこんでミハルの足を両手で抱えた。
真里の負担が少し軽くなる。

安田は火事場の馬鹿力を発揮し、必死にミハルにくらいつく。

 先ほどまではおそらく余裕だった相手が、反撃にでた。
水がさらに形を成し、委員長に襲い掛かる。

「!!!!」
「く、息が……!」彼は急に苦しみ始めた。
「息が……!」
安田の顔がみるみる青ざめていく!

「どうしたの?!!安田君!!」

「ミ、ハルさん……!!死んでも!離さない~!!!」
委員長はあえなく意識を失った。
しかし執念のファインプレー、
安田の腕はけなげにも、抱えたミハルの脚を決して離さなかった。

「安田君!!」

状況はかなり絶望的だった。

「何でもいい!何かないの?!」
わらにもすがりたい真里の眼に、
シンクの横の台に置いてあった大きな小麦粉の袋が見えた。

「えーーーい!!!」

片方の手でそれをたぐりよせ、袋の口を開けると
一瞬ミハルを委員長に委ねて、思いっきりシンクの中に投げ入れた。

 粉が煙のようになって調理室にもうもうと舞った。
得体の知れぬ相手の力が少しゆるんできたのを感じた。

かと思うと、急激に引っ張る力が消え、
真里とミハルは反対側に尻餅をついた。
シンクの中で粉が水を吸う音がぶくぶくとしている。

「ハア。……ハア……ハア」

「ミハル……ミハルちゃん!!」

「ミハルちゃん!ミハルちゃん!!」
「安田君!しっかりして!!」

 どうやら、当面の危険は脱したのだろうか??
自身も頭が混乱するなか、二人の名前を呼び続ける真里。

「どうしたんだ!! 大丈夫か?!」

 チトーとの極秘会談を終え、廊下を歩いていた大地は、
真里の悲痛な叫びに気がついて、驚いて駆けつけてきた。

 そこで彼が目にしたものは、
水浸しになった3人のクラスメート。
うち一人は完全に気を失っていた。

「大地君!」
「何があったんだ?立石??」

「水が!水がまるで腕みたいになって……
ミハルちゃんを連れて行こうとして!!」
「スゴイ力で引っ張られて。
安田君が来て、でも彼にも水が襲い掛かって!」

「??」

 真里は大地に説明しようと試みるが、
今三人が体験した事は、自分でも俄かには信じがたく、
どこから何を、どう話せば良いのかすらわからない。

「私も何が何だかわからないの。
ミハルちゃんと二人で後片付けしてたんだけど……」
「私はじめて見た。どこから入ってきたのかしら……
珍しい、青いカエルがそこに居て……」

真里はシンクの縁を指差して言った。

「青い、カエル?だって?」

 大地は、困惑の表情を浮かべた。
先ほどの【チトーさん】との会話が彼の脳裏に再現される……


「この青いカエルは……化身なんだ。すごく強い力を感じる」
「誰かを探してる。取り戻しにきた…」

写真に手を置き、眼を閉じて彼女はゆっくり話し出した。

「取り戻しに…?何を?誰が?」

「……井戸の水神様。……尋ね人は、可愛いお姫様……」

「井戸?? 姫……って? !!まさかミハル?!」

 【チトーさん】はそれには答えず、
メガネの奥から大地を除き見るようして、ひとことこう言った。

「もし……見つかったら。
 フツーの人間の手には負えないよ。大地。」

(何てこった!ホントに取り返しに来やがった!ってか?)
冷や汗が滲み出てきた。

「立石……この写真見てみろ。何か見えるか?」
「あ!」

 大地が差し出した写真を受け取った真里は、小さく声を上げた。
青いカエルが飛び込まんとしているプールの水面が
まるで意思を持っているかのようにうねっている。

それはついさっき、ミハルを捉えようとした水の動きそのものに見えた。
見方によっては、まるでたくさんの人の目が蠢いているようにも見える。
真里は戦慄した。

「大地君……この写真!?」

「ああ。この前最後のプール授業のあと、偶然撮ったんだ。
青いカエル追っかけててな。」

「気色悪いだろ。ちょっと……知り合いに見てもらったんだよ。
【水神様】だって言うんだ【井戸】の」

大地は少し言い淀んだ。

「……ミハルを取り戻しに来たって」

 真里はゴクリとつばを飲み込んだ。
そんなことあるわけない!と言いたかった。
でもさっきの体験の後では、まったく説得力がなかった。

いまだ茫然自失のミハルと、失神したままの委員長。
シンクの小麦粉は生々しく、水と一体になってそこにある。

「とにかく……もう遅いし、リヒト君に連絡するわ。
ミハルちゃん、一人にしておけない。
迎えに来てもらおう」

「ああ。そうしよう。オレは安田何とかするわ」

 大地がノビている委員長を肩に担いで、
真里が携帯を取り出した時、
ミハルがのそりと動いてその手を止めた。

「真里ちゃん……ゴホッ
リヒトには連絡しないで……お願い!」

 咳き込みながら、すがるような眼で言う。
真里と大地は顔を見合わせた。

「わかってるの。私……見つかっちゃったんだ」
「ずっとここに居たかった…… けど私には……約束があるの」

ミハルの頬に、一筋の涙が流れた。

10年前。

 井戸の中にすべり落ちたミハルは、
水の中でもがいている時、必死で自分を呼ぶリヒトの声を聞いた。
リヒトのところに行かなくちゃ!と懸命に泳いだ。
泳ぎは得意だった。でも何処まで行っても上に着かない。

しばらくすると何故か呼吸がラクになって、
不思議なことにそれからはずっと意識が保たれていた。
井戸の中は、ミハルが思っていたよりずっとずっと広くて、
どこまでも泳いでいられる感じがした。

少しも苦しくなくって、目も開いていられる。

「私、死んじゃった?のかなあ……」

 向こうにぼんやりと光が見えて、泳いで近づいていくと、
青い光に包まれた人影が目に入った。

 近づくに連れて、まぶしい光の中に後姿の輪郭が見えた。
怖くはなかったけれど、声をかけられない。

じっと見つめていると、ミハルに気がついたようだった。

振り返ったその姿は、ミハルが今まで見たどんな人より、
美しく神々しく、ミハルはうっとり見とれた。

「キレイ……」

 まるで夢のよう。現実感がまったく無いその風景の中で、
ひとつだけ見覚えのあるそのカタチ。
その腕に抱え込まれた一人の子供。

「!!!!」

それは間違いなく、兄のリヒトだった。

ミハルには一瞥をくれただけで、
そのまま後ろを向いて、水の中に溶け込んでいくその姿……

「待って!!連れて行かないで!!」
ミハルは必死にしがみついて叫んだ。

「……?」
一瞬、驚いたような表情を見せたその存在。

「おまえ、私に触れるのか……?」

触れたとたん、ミハルの口から自然とその言葉が出た。

「か・み・さ・ま!」
「リヒト、連れて行かないで!」
「たすけて!かみさま、助けて!お願い、
リヒトを助けて、お願い……」

 大きな瞳にナミダをいっぱい溜めて、しがみついてくる
小さな子供に、水神はココロを動かされたのだろうか。
しばらく考えていた神は、手を差し伸べてこう言った。

「では、おまえが代わりに来るか?
おまえは少し、他の子供と違うようだ……」

「おまえが来るなら、こいつは助けてやろう」
「かみさま……本当に?私が行けば?
 リヒトを連れて行かない?」

「約束しよう。おまえが来るなら」

(リヒト……大好きなリヒト)
ミハルは、意識の無い兄の頬に愛しそうに触れた。

(ごめんね。私のせいだ……ぜったい、ぜったい、助けるから!)
 
「大好きだよ、リヒト」

しばらくそうしていて、今度は神の手を取って言った。

「約束だよ。かみさま……」

 長いような、短いような10年間。

普段は井戸神と一緒に、あの井戸の中で暮らしていた。

ミハルの本体は、優秀な医療スタッフの懸命な治療のおかげで、
その機能をカンペキに維持していたが、
決してそこに戻る事は出来なかった。

しかし神の許可さえ有れば、ミハルの魂はどこにでも行けたし、
望めば何でも見ることもできた。

井戸神様には、年に何度か訪ねて来る友人が居た。
年の頃は50代位の、あごひげまで銀髪のロシア人男性だ。

実際のところ、
気が遠くなるくらい、長い事生きているらしい井戸神だが、
見かけはまるで二十歳そこそこなので、
友人と言うには少々アンバランスに見える彼らではあったが、
二人には、気の置けない間柄特有の親密さが感じられた。

中年男性は【教育】と称して、
ミハルを定期的に自分のところ連れて行き、
いろいろな物を見せ、様々な事を教えてくれた。

そこは、【迷える魂の牧場】だと、誰かが言っていた。

ミハルと同じように、決められた寿命以前に、
何らかの理由でコチラに来てしまった人々が集められていた。

中年男性はそこの世話役をしていた。

 彼はミハルに、二人の若い教育係をつけた。
30代のインド系米国人の医学博士と、20代前半の英国人の大学生。
二人は気さくで優しくて、何でも教えてくれた。
彼らはよき先輩で、姉であり、兄であった。
退屈な日常のなかで、彼らの存在がミハルの世界に色を与えた。
そこに行く事はミハルの一番の楽しみとなった。

 時々は、病院にある自分のカラダを上から眺めていた。
リヒトはずっと、あの事故以来自分を責めていた。
どうして、妹を、守ってやることが出来なかったのかと。

唯一、それを見るのがつらかった。

 やがて彼が、ミハルを蘇生させるため実験に没頭していった事、
出会った頃はまだ小学一年生だった真里が、
しょっちゅうやってきて、一生懸命細かいケアをしてくれた事、
ミハルは全部知っていた。

「私、ホントに嬉しかった……」
真里を見つめて、ミハルが言う。

「戻れるなんて思ってなかった。リヒトはスゴイよね」
ミハルは誇らしそうににっこり笑って言った。

「リヒトには、神様との約束の事は言わないでね」
「私は別に身代わりなんかじゃないの。
自分で選んだんだから」

「でも、この事をリヒトが知ったら……
きっと、もっと自分を責めちゃうと思う」
「向こうにいるのも満更でもないんだよー。
楽しいこともいっぱい有るし、お友達もまあまあ居て……」

 ミハルは笑顔でそう言った。
そのつもりだったが、それは客観的に見て失敗していた。
作り笑顔を続けることは、今のミハルにとっては本当にむずかしかったのだ。
彼女はうつむいた。

「でも、ココは……もっと楽しくて……」

「もし……もしもこのままずっと、ココに居れるならって……」

 突然、真里はミハルを抱きしめた。
「いいのよ、もう。ひとりでよく我慢してたね」

「ホントは……ホントはねっっ!」

涙が、堰を切って溢れ、ミハルはついに声をあげて泣き始めた。

「ここに……ここに居たいよー」

真里も涙を流しながら、ミハルをあやすように話し始めた。

「ミハルちゃんに初めて会った時ね……なんて可愛いの!
ホントのお姫様みたい、って思ったわ。」

「リヒト君は、絶対に貴女の、目を覚まさせるんだって、
ずっとずっとその事ばかり考え続けてて、一生懸命で……」

「私はそのとき、貴方たち二人の力になりたい、って。
この人たちと、一緒にいたいな、って思ったのよ」

真里は涙を振り切るように笑った。

「リヒト君なら、絶対に助けてくれる。
 ミハルちゃんが、ここにずっと居られる様に。
 私も、どんな協力だってする。
 だから、決してあきらめないで。」
 優しく、力強い言葉だった。
ミハルの背中を撫でる真里の手は暖かだった。

 「うおおおおーーーんっ!」

 盛大に鼻水をすすりあげる音がして、
一同が音のした方を見た。

「ミハルさん!!僕が貴女を……必ずお守りしますから!」

 いつのまにか、意識を取り戻していたらしい委員長は、
大地にかつがれたまま、グルグルとこぶしを振り回していた。
その顔はナミダと鼻水でグチャグチャだ。

「オマエにゃ無理だって。そうカンタンには行かねえよ。
相手は、【神】さんだからな……」

 迷惑そうな顔で、乱暴に安田を下に降ろした大地は、
手に持った写真を見ながら、ため息をひとつついた。

「フツーの人間の手には負えねェ……か。 
だったら、フツーじゃなきゃいいんだろ!」

大地は、不安を振り切るように、皆を見渡して宣言した。

「リヒトは……フツーの男じゃねえ。
アタマいいし、行動力も有る。何より意志が強ェ。
アイツは、やるっつったらやる。」


 下校時には降っていなかった雨が、
時間の経過とともにその強さを増していた。
リヒトは実験室で蘇生薬の調整に没頭していた。

条件をひとつずつ変えた試薬を何種類か作っては、
実験を繰り返す。
最後の決め手が何か、彼にはうすうす解りかけていた。

 あまり夢中になっていたので、
ミハルの帰りが遅い事に気がついた時には、すっかり外は暗くなっていた。

「傘持ってたっけな?あいつ」

携帯に電話しても出ないので、真里に連絡しようとしたとき、
着信音が鳴った。

「ミハル?どうかしたか?」

「リヒト!……遅くなってゴメンね。
今、真里ちゃん家だよ。雨にあっちゃって」
「真里ちゃんトコで着替え借りちゃったの」

「あと、真里ちゃんのお母さんが、
ついでが有るから送ってくれるって。」

「そうか。ちゃんと礼言っとけよ。
真里ん家にはさんざん世話になってるからな」

「うん。うん、わかってる!
それから、おみやげ有るから、楽しみにねー」

電話口のミハルの声は、とても朗らかに聞こえた。

「送ってもらえるなら大丈夫だな……」

 ミハルの声を聞いて、ひと安心したリヒトは、
大きなあくびを一つすると、
先ほどまで根を詰めていたせいもあって、
机に突っ伏してそのまま寝てしまった。

 ざー……ざー……
雨が降っていた。どこから現れたのか、
小さな青いカエルが、じっと、リヒトを見つめていた。


「お、に、い、ちゃん!」

耳元でささやくミハルの声に驚いたリヒトは、
耳なれぬ呼び方をされた事で、いつになく焦って飛び起きた。

「お茶が入りましたよー」

いたずらっぽく笑うミハルがそこに立っていた。
見慣れないワンピース姿。真里のだろうか。
何故かいつものミハルじゃないようで、少し戸惑う。

「まったく、兄貴をからかうな!」

 何だか、イヤな夢?を見ていたような気もするが、
ミハルの【お兄ちゃん】呼ばわりのせいで、
それはどこかへ飛んで行ってしまっていた。

「こちらへどうぞ!」

 キッチンには、確かにお茶の用意が整っていた。
紅茶の香りがあたりに漂う。
ミハルのおみやげのモンブランケーキ。

いざなわれて椅子に腰掛けるリヒト。

「ホントに喰えんのか…??」
おそるおそるのリヒトは、開口一番その場のムードぶち壊しだ。

「失礼ね!真里ちゃんも一緒に作ったんだから!」
ミハルちゃんは多少おかんむりである。

「ふ~む。……なら大丈夫だな?」

思い切りよくパクッと口に運ぶ。ドキドキのミハル。

「う…む…。コレは……うまい!」

「そうでしょ?そうでしょ?!」

「よしっ!良くがんばったな!」

そう言うと、ミハルの頭に手を置いて髪をくしゃっと撫でた。

 小さい頃、何でも上手に出来た時には、
よくこうしてくれたっけ……
そう思うと、ミハルは何だか泣きそうになった。

「リヒトぉ……」

腰掛けている兄の背中に抱きついた。
その眼は堅く閉じている。
リヒトと眼をあわすと、こらえきれなくなりそうだった。

「?どうしたんだよ?
    ……何か心配事でもあるのか?」

「何にも、何にもないよ。
おいしい、って言ってくれたから、嬉しいだけだよ!」

 ミハルは、彼の肩に顔をうずめながら、
不安を振り払うように強く言った。

 ミハルの髪からは、良い香りがした。

(まただ。何だ……この感じ……?)

リヒトの中に、また何か不思議な感覚が沸き起こって、
一瞬それにキモチが支配されそうになる。

ふと思いついたように、リヒトは言った。
「おまえの身体機能はどんどん回復してる。」
「もう何だって、好きな事できるぞ。
水泳だって、跳び箱だって、そうだ、部活も参加できる!
……ってか、もうすでに何でもやってるけどな!」

リヒトは他では決して見せないような、優しい表情で笑った。

「うん。……うん」ミハルは何度もうなずいた。

 今が永遠に続けばいいのに。このまま時が止まればいいのに……
ミハルは後ろから兄を抱く手に、より一層の力を込めた。


 ミハルを家に送り届けた後、
真里と大地は二人で善後策を練った。

とにかく、ミハルを一人きりにしないこと。
溜まった水の所には近寄らせないようにすること。
雨の日は、特に用心すること。

「これじゃまるで、小学生の登下校時の注意事項のレベルだぜ」

大地はひとりでつっこんだが、
今のところ、有効だと思えることはこの位しかない。

リヒトに危機を知らせず、ミハルを守るなんて、
もともとがかなり無理ある計画だった。

ミハルの意を汲んで、リヒトに黙っておく事が最善なのか、
それともリヒトには、やはり知らせるべきなのか。

二人はそれぞれの考えを話し合った。
真里は、ミハルの気持ちを大切にしたい、と言った。
大地は、リヒトなら、きっと知りたいだろう、と考えた。

結構長いこと、本気で議論した。
 
……結論は、出なかった。

 翌日、少し早めに登校して
昨夜の話し合いの続きをしていた二人は、
リヒトに報告すべきか否か?は、とりあえず置いといて、
結局のところ、ミハルを守るためには、
学校にいる間中、基本は真里が傍についていて、
大地はそのサポート、と言うことで落ち着いた。

 今のところ、敵の出現条件は、
大量の水の有るところ、に限定されているので、
そこに重点を置いてガードを固めさえすればいいとの判断だ。
あと、青いカエルに要注意だ。

 今後の展開はまったく先が読めない。
昨日の一件から察するに、敵はかなり強力だ。
二人は緊張感を持って襟を正し、共同戦線を張る覚悟を固めた。

真剣な表情で何やら話し合っている二人を目にして、
委員長の安田がやってきた。

「僕も出来る限り協力したいと考えまして…」
彼はメガネをずい!と上にあげ、自らの決意をアピールした。

「ありがとう。でも昨日みたいな事になるかも知れないし……」
「そうだぞ。ヘタすりゃコレもんだ」
大地が首に手刀をあてて、横に引いた。

「なんの!僕には一緒に戦ってくれる仲間がいるんです!」
彼はVサインを作って見せた。仕草がいちいちクラシックだ。

「仲間って?! オマエまさか?
ミハルちゃんの事連中に言ったのか?!」

「?連中ってなに?大地君?」
真里がニコニコしながら、首をかしげた。

「イヤ…いやいや!それくらいは僕もわかっています!
 もちろん誰にも詳しい事情までは話していません。
ただ、化物がミハルさんを狙っている!と言ったのです。
みんな身を挺してミハルさんを守ると、言ってくれました!!」

委員長は興奮気味に拳をつくって言った。

「バケモノ……」
安田のセリフに、大地は思うところが有った。

(立石はああ言ったけど、
やっぱリヒトに隠しておくわけにもいかねえよな……)

「そうか!その手があったか。バケモノというワケでもねえが……
ま、似たようなもんか?あいつが信じるとも思えねえが、
ものは試し、トライしてみっか」

大地はさっさと、その思い付きを試してみたくなった。

 委員長は良い反応を期待しながら、大地の返答を待っている。
ああ、そうだった。
「枯れ木も山のにぎわい、と言うしな。
んじゃ、あぶねえ時には、頼んどくわ。」

 大地が親指を立ててそう告げると、
委員長は真剣な顔をしてうなずいて、その場を立ち去った。

真里が何か問いたげに、こっちを見ている。
「?連中ってだれのこと?大地君?」

「あーーーそれは後で!!な、それよりな!
ゆうべ堅苦しく考えすぎてた!リヒトに、過去の話はぬいて、
とにかく危険だ、って事だけ、わからせる!そうすりゃ……」

真里の素朴な疑問をさえぎって、大地は気ぜわしく立ち上がった。

「何だ今日はずいぶん朝早いんだな?」
「真里ちゃん、おはよー」

 声に振り返ると、問題のご本人達が目の前に立っていた。
今しがた、兄妹仲良くご登校したらしい。

「あ!おい!ちょっと!
オマエに話あんだけど、ちょっと来いや!」

 思い立ったが吉日。
大地はリヒトをひっぱって、さっそく廊下へ連れ出した。

「何なんだよ、やぶからぼうに?」
「いや!今ちょっとな。問題が起きてんだよ」

リヒトはキョーミ無さそうに訊いた。

「問題ィ?どんな……?」

(聞いて驚くなよ。ちっとは焦れっつーの)

「あー。オマエの大事な大事な……妹のことだ」
大地は、もったいぶる様にコホンと一つ咳払いをした。

「ミハル?ミハルが何だって?」

(喰いつきいいな、このヤロー。さてどっから話すかな)

「あー。そう……実はその……ミハルちゃんの事な、
狙ってるヤツがいるんだ」

「狙ってるって? 着替えを覗いた、だのいう連中の事か?」
「違う違う!そうじゃなくて、バケモノが!」
「取り返しに来るんだ。って言うか、もう来てるんだ!
バケモノだぞ!バケモノ! めっちゃヤバイんだ!」

 大地は勢いに任せて一気にそう言った。
リヒトは怪訝な顔つきだ。

「ばけものって何だ?……それがミハルとどう関係ある?」
「バケモノはバケモノだって!とにかく!人間じゃねえんだ」
リヒトは眉を寄せ、理解できん、と言う風にこっちを見ている。

(どうも、コイツを前にするとオレの分が悪いわ……)
この時点ですでに劣勢気味の大地は、頭を掻いた。

「??」
「あーもう!あ!そうだ、コレ見てみろ、コレ!」
 大地は胸ポケットに突っ込んであった例の写真を取り出して、
リヒトに突きつけた。そうだ!証拠がここに在るではないか。

(この写真にうつってるヤツはハンパねえぞ。
これ見りゃあ、誰だって【バケモノ】って思うだろうよ)

リヒトはしばらくその写真を眺めていた。

「この……プールの写真がどうかしたのか?」
リヒトの素の反応に、大地は目がテンになった。

「……イヤ!?これ……その、何か変……だとは思わねえか?」
「変?どこが?」

 リヒトはもう一度、手にした写真に目を落とした。

(こいつ、ワザとボケかましてんじゃねーだろな?)
 大地は、チラ、とリヒトの表情を伺い見た。

彼は写真の天地をひっくり返したり、
あげくは日に透かしたりして、真剣に首をかしげている。

「うん……何もおかしな所はない!」
リヒトは写真から顔を上げると、きっぱりとそう結論づけた。

そのあまりにも爽やかな様子に、大地はドン引きした。

(ちょっとは期待したオレがバカだったか!
ニブイ、ニブイとは思っていたが、まさかここまでニブイ奴だとは!!

 まったく残念な事に、リヒトはスピリチュアルな感性ゼロ、
いやそれどころか、それ以下な男だった。

約1分後、ミハルとおしゃべりしていた真里の携帯が鳴った。
「あれ、大地君?」
メールを開けると大地からのSOSだった。

『たすけてくれ…立石!!』ご丁寧に泣き顔の絵文字付きだ。
「仕方ないわねえ……」真里は大きくため息をついた。

「どうしたの?真里ちゃん?」
「うん? ちょっとね。待っててね。」
真里はメールの画面を閉じると、委員長を呼んだ。

「安田君。私が戻ってくるまでミハルちゃんお願い!」 

 そう言い残すと真里は、
気の毒な大地の加勢をするため廊下へと向かった。

 真里には、何があったのか大体の予測は付いている。
リヒトと長いつきあいの彼女は、
対リヒト処方箋を少なくとも数パターン持っている。
大地のココロ強い味方となってくれるだろう。

 一方教室には、
喜びと緊張のあまりカチコチになった委員長とミハルが残された。

「安田クン。昨日はごめんね……身体どこか痛くない?」
ミハルは安田に、優しくそう語りかけた。

「そそそんなっ!
ミハルさんが謝る必要なんて!まったくないんです!
僕が勝手にっっっ」

 話しかけられるだけでも、テンション上がりまくりな安田に、
ミハルはニコッと笑顔を向けた。

「助けてくれて、ホントにありがとうね!」

~~ありがとう…ありがとう…ありがとう……~~
エコーのように鳴り響くミハルの声。

(天にも昇る心地って、こういうことを言うんだな…♪)
今、安田のココロには、天使が舞い降りているに違いない。

「な、なんて可愛いんだっっ……ミハルさん!!!」

 始業までの短い間だったが、真里の代わりに
ミハルと一緒で、安田は至福の時間を過ごした。


 リヒトは、一限目の授業が始まってからも、
二人からこぞって言われた【バケモノ】についての話を考え続けていた。

 朝っぱらから大地が、
わけのわからん事を言ってくるかと思えば、
真面目な真里までが口をそろえて、
バケモノがミハルを連れ去ろうとしてるから
水場に近寄らせるなだの、雨の日は気をつけろだの、
いったい何を言ってるんだか……

しかもあいつら、かなりマジだったよな。

「とにかく!青いカエルを見たら、
 危険が迫ってるって思って。」

 リヒトとの空虚な議論をさっさと打ち切るため、
真里が人差し指をビシッと起てて言ったセリフが
リヒトの心に引っかかっていた。

「青い、カエルか……」

「時任君!前に出てこの問題解いてみなさい!」

まったく授業を聞いていなかった事を、
どうやら教師に見抜かれたらしい。

 リヒトは大儀そうに立ち上がると、
黒板に書かれた数式にチラッと目をやって、
サラサラと問題を解いてのけた。

 手についたチョークをパンパンと叩きながら、
教師の方を見て、しれっとした顔のリヒト。

「正解です。……」
まったく憎たらしい男だ。

 大地がヒュッ♪と短く口笛を吹いて、
真里は額に手を当てて苦笑する。
委員長が怪訝な顔つきをして呟いた。

「ちょっと……この展開ベタじゃありません??」
「お前が言うな!!」
クラス全員から、間髪入れず愛あるツッコミが入る。
ミハルは、と言えば、少し照れくさそうに、はにかんでいた。


 それからしばらく、秋晴れの良い天気が続いて、
体育祭の練習は、これ以上ないくらい順調にはかどっていた。

 ミハルは毎日、文字通り真っ黒けになるまで外で運動した。
真里にもらった日焼け止めが、みるみる減って、
スグに残り半分を越えてしまうほどだった。

 月曜の午後は、2時間みっちり体育授業だ。
体育祭まであと一週間。
クラス対抗男女混合リレーの選手に選ばれている
リヒトとミハルは、練習に余念がない。

特にミハルは、といえばそのハリキリようは格別だ。

何しろアンカーに選ばれた。
何しろ自分で勝ち取った。

毎日練習して、タイムを上げて、頑張ったのだ。
なかなか手ごわい相手だった兄をも、ちゃんと負かしての快挙。
背の小さいミハルだけれど、走るのは誰よりも速かった。
幼稚園に通っている頃から、かけっこでは負け知らずだったのだ。

「はあーっ」

 ウォータークーラーから顔を上げると、
いつものように真里がタオルを持ってきてくれた。

「ん!!」

スッゴク、冷やっこい。
何と!本日のタオルはスペシャルバージョン!!
冷凍庫で冷やされていたのだ!

「ありがと♪ありがと♪真里ちゃん」
ミハルは火照って真っ赤になった頬を冷やしながら、
唄うように言った。

「どういたしまして。対抗リレー応援してるからね!」
真里も応える。

 その様子を見て、ちょっぴり肩を落として
静かに立ち去ろう、と後ずさりしていた委員長は、
後ろから来たリヒトとぶつかった。

「こ、これどうぞ……」

 目を合わさずに、手にしていたタオルをリヒトに渡すと、
彼はすごい勢いで走り去った。
その背中に哀愁を漂わせながら。

「???」
さっぱりわからん、という風情のリヒトの方を見て大地が真顔で言った。
「あいつさぁ、オマエのファンなんじゃねーの?」


晴天が雨を吹き飛ばしたかのように、連日爽やかで、
まわりの心配をよそに、ミハルの身辺にも何ひとつ不穏なことは起きなかった。

 先日の事は、もしかしたら悪い夢だったのではないかと、
そうも思える日々が続いていた。

「今日から家庭部に参加してくれる、
 新入部員を紹介しまーす」

 放課後の家庭科調理室で、真里が口を開いた。
おしゃべりに花を咲かせていた部員たちが真里に注目した。

「みんなもうすっかり仲良くなってると思うけど……
2-Bの時任未晴さんです!」

「時任未晴です。よろしくお願いします!!」
ミハルはペコリと頭を下げた。

「知らないことだらけです。
迷惑かけますが、いろいろ教えて下さい!」
ミハルは、みんなに暖かい拍手で迎えられた。

「そして実は!もう一人新しい仲間が加わります。
現時点では貴重な一名の男子部員となります。
同じく2-Bの、安田顕章君です!」

 さっきまでミハルの後ろでもじもじしていた委員長は、
大勢の女子の前でキンチョーしつつ、バカていねいな挨拶をした。

「ただいまご紹介に預かりました、安田と申します!
当方初心者につき、ご指導・ご鞭撻のほど
どうぞよろしくお願い申し上げます!」

 今の時期に新入部員とは珍しいコトだが、
純朴なキャラの安田は、ミハルと同じく暖かい拍手で迎えられた。

 「さて、本日は抹茶ロールケーキを作りま~す」
真里が部員達にレシピを配りながら言った。

「あと……本日、6名の男子から調理を見学したいとの申し出がありました。
男子の家庭部員が増えるきっかけになればいいと思いますので、
見ていただく事にしました」

もちろん【例の】委員長の仲間たちである。
我も我もと名乗り出た多くのメンバーたちの中から、
安田が厳選した、体育会系・体力自慢の6人である。

ミハルの身を守るため、真里が許可したのだ。

 家庭部の部員達にとっては、少々イキナリな展開だったが、
部長の真里の決めることに疑問を差し挟む生徒は誰も居なかった。
ここでは、真里は正義であり、真里は正しいのであった。

「今日こそ、真里ちゃんのお荷物にならないようにがんばる!
それで、他にもいろいろ、お料理ちゃんと覚えて、
リヒトびっくりさせてやるんだから!」

「ミハルさんと一緒に調理実習!!(若干違う)
僕が、悪の手から守って差し上げるのだ!!そしていつの日か、
ミハルさんにタオルを手渡すのだ!……お兄さんではなく!!」

ミハルと委員長は、同じタイミングでグッと拳を握った。

 二人だけでなく、調理が始まる前から部屋の体感温度を
高めにしている男衆6人も、何故か同時に拳を握り締めていた。

真里は雛鳥を何羽もかかえた親鳥のような気持ちになって、
気を引き締めた。
それぞれの思惑渦巻くなか、ケーキ作りはスタートした。


「ファックション!」
「うー寒くなってきたかな……」

同じ頃、図書室でPCを見ていたリヒトは、
どういうわけか背中に悪寒を覚えて、開いている窓を閉めた。

「今日はミハルちゃんの部活が終わるまで絶対帰るな!一緒に帰れよ!」

と、大地に言われ、ミハル自身も居て欲しそうだったので、
リヒトは居残って、図書室で調べ物をする事にした。

 そう言っておいた当の本人である大地は、
どこに消えたのか、先ほどから姿が見えなくなっていた。

 医学論文とか実験報告とかを深追いしていたので、
気づけば、かなり時間が経っていたようだ。

図書室ではすでに閉館の準備が始まっていた。

 PCの履歴を全部消して、図書室を出ようとしたとき、
向こうから大地が慌ててやってきた。

「悪い悪い!!ちょっとヤボ用でな……
早く調理室、迎えに行こうぜ」

彼は長い距離を走ってきたかのようで、汗を掻いていた。

「?別にこっちで待ってりゃいいだろ?」

 前回の調理室での一件について、何も聞かされていないリヒトは、
大地の少々おせっかい過ぎる態度に首をかしげた。

「言ったろーがよ!バケモノが出るんだって。
……いいから走れ、走れ!」

 大地が突っつきながら追い立てるので、
つられてリヒトも速足になる。二人は調理室へ急いだ。

 調理室では、男子たちを交えての試食会も無事に終わり、
真里が部員達に通達を出していた。

「えー。本日の後片付けについてですが……
見学に来てくれた男子のみなさんから、後学の為引き受けたい、
という、ありがたいご意見を頂きました」

えー、とか、わあ、と言う女子達のざわめきが沸く。

「今日のお礼も兼ねて、との事ですので、お言葉に甘えて
お受けする事にいたしました」
真里はいったん言葉を切って、女子達を見渡して続けた。

「部員のみなさんは、食器を洗い場に運んだら帰り支度をして下さーい」

(不自然に見えなかったかしら……)
真里は部員達の様子を伺った。

 みな口々に男子達にお礼を言いながら、食器を運んでいる。
彼女たちは素直に、男子の好意を受け入れてくれたようだった。

 不測の事態に備える真里にとって、ミハルの身の安全は最優先だったが、
かといって、何も知らない女子部員達を巻き込む事態は絶対に避けたかった。

 そんな中で、委員長率いる男子達が護衛を申し出てくれた事に
真里は深く感謝していた。

 体力があり余っていそうな、ごっつい男子6人は、
見た目にもたいへん暑苦しい……もとい、頼もしい。

あと若干ひ弱そうな1名もいるが、やる気だけは満々だ。

「さ、さ、ミハルさんはこっち!」

安田はミハルを出来るだけ洗い場から遠くへ座らせた。

 真里の指導の下、
男子生徒7人はシンクの洗い物を片付け始めた。
子供みたいに洗剤を泡立てまくったりして、
半分遊びながら、結構楽しそうにやっている。

もちろんイチバン張り切ってやっているのは委員長であった。
ミハルはそれを離れた場所から申し訳なさそうに見ていた。

人数は多すぎるくらいいるので、仕事は早かった。
でかいボールや鍋もなんのその、
多少やり方は荒っぽいが、洗い物は瞬く間に片付いた。

「わー!やっぱり男子早いわね。もう終わっちゃった!
手伝ってもらってホントに助かったわ……」

何事もなく終わりそう、と真里も少し緊張を解いた。

「ぶっちょうさーん!!ちょっと来てもらえるかー?」

 男衆の中でも一番ガタイのいい男子生徒が、
イカツイその顔に困惑の表情を浮かべて真里を呼んでいる。
画的にはちょっとコワイ。

ざー!ざー!ざー!

真里が駆けつけると、蛇口から水が勢いよく流れ出ていた。
他のメンツも集まってきた。

「おれちょっと……チカラ入れすぎたんかな?
カラン閉まんなくなっちまった。」

少し申し訳無さそうに頭を掻きながら言う。

「あら、故障かな?……壊れたのかしら」

 真里もひねってみたがカランが空回りする。
数人の男子が代わる代わるやってみるが、閉まらない。
そのうち、溜まった水がシンクから溢れそうになってきた。

「栓ぬけ、栓!」

一人の男子がシンクに手をつっこんで、栓を引き抜こうとした。

「げ!」

 その男子が変な声をあげた。
腕を捕まれた…??

妙な感触に水面に目を落とすと、
水が人の手のように、彼の腕にまとわりついている。

「!?!!!」

「バケモノ…?!」

 一同が顔を見合わせたその瞬間、
調理室内の他の蛇口からも、一斉に水が流れ出した。

ざー!ざー!ざー! 
ざー!ざー!ざー!
ざー!ざー!ざー!

真里と安田が同時に動いた。

「ミハルちゃん!」
「ミハルさん!!外出て!!外。早く!立石部長も!!」
 真里はミハルの手を握り、出口へ引っ張っていった。

……戸が開かない。

ただの引き戸だし、カギなんてかかっていない。
安田もやってきて開けようとするが、まったく動かない。

3人は後ろの扉へ急いだが、同じだった。
施錠されていない窓も、すべて開かなかった。

 閉じ込められた?!イヤな汗が出る。

ざー!ざー!ざー!
ざー!ざー!ざー!

 水道は暴走して止まらない!!
懸命に止めようとするが、まったくコントロールできない。

すでにどのシンクからも水は溢れ、
あれよあれよと言う間に床が水浸しになって行く。
足元から、みるみる水位が上がってきた。

「真里ちゃん!!」

 ミハルが声を上げた。
床に降りた水の量がどんどん増えて、
ミハルの脚は何モノかにつかまれたように、
身動きがとれなくなった。

ざー!ざー!ざー!
ざー!ざー!ざー!

 ミハルを助けに来ようとした男子達はみな
あちこちでひっくり返されたり、溺れかかったり、
たった、二、三十センチの水で、人はもう思うように動けない。

真里と安田が必死でミハルをささえる。

「安田くん。ミハルちゃんお願いね。」

 真里は、念のため用意しておいた大量の小麦粉を
置いてあるテーブルに手を伸ばそうと、一歩足を踏み出した。
その途端、足をすくわれる。

「真里ちゃん!!」

 倒された真里は、スグに起き上がろうとしたが、
強い力で押さえつけられているようで、体が動かない。

(こんな浅い水なのに!何で!?) 
水の中でもがきながら、息が苦しくなってくる。

(息ができない…苦しい…! 苦しい……!!)
(こんな事でやられたりしないわ!)

 ミハルが必死で自分を呼ぶ声が聞こえる。
真里は、自分を縛り付けるものの正体を見極めようと目を開いた。

(苦しい……)

意識を失う直前、真里は確かに、人影を見た。
青いもやのなかにぼんやり輝く光と共に。

「真里ちゃん!真里ちゃあーん!!」

ざー!ざー!ざー!
ざー!ざー!ざー!

 ミハルは、真里のところに行こうと必死にもがいたが、
腕一つ動かせない。ミハルは真里の名を何度も叫んだ。

「ミハルさん、少しだけ、待っていてください!」

 真里を助け起こそうと近づいた安田にも、
水が襲い掛かる。

ざーーーーーーーーーーーっ!!!

水の勢いはまったく止まらず、ミハルは見ている事しか出来ない。

「やめて!!もうやめてー!」ミハルは懇願した。

「やめてお願い!みんなには……
 みんなには、何もしないで!!!」

ざーーーーーーーーーーーっ!!!

「ヤケに静かだけど、ホントにココでやってんのか?」

大地より一歩先に調理室に到着したリヒトは、
入る前に一応ノックをしたのだが、
中からは何の反応も返って来なかった。

「?」
「変だぞ開かねえ?中から閉まってんのか?」

何故か引き戸が完全に閉まっている。
そのうえ、妙にシーン……としている。

 多少息を切らしながら、スグ後に来た大地は、
教室から漏れ出す異様な気配に、すぐさま直観した。

「ヤベェってよ!!」

彼は顔色を変えてそう言うなり、引き戸に食らい付いた。
しかし、馬鹿力の大地が動かしても、戸はビクともしない。

「ヤベーんだよ、リヒト!!!何とかしろーーー!!」

大地は叫びながら、今度は体当たりを始めた。

「何とかしろ……って!
 一体何が起こってるって言うんだ?!」

大地のただならぬ様子に、リヒトは周辺を見渡した。

「壊せばイイんだな?!」
「大地!ちょっと退いてろ!」

 リヒトは廊下にあった消火器を持ってきて、
体当たりを続けていた大地を横にひかせ、
引き戸の下部の桟に向かって何度も打ち下ろした。
戸が緩み始め、その隙間から水がわずかに漏れ出てくる。

(何で水…?!)

リヒトは消火器を叩きつけながら、ミハルの身を案じる。
戸がグラついてきた。

「OK…!行くぞ!!」
「よっしゃあ!!!」
 二人でドアを思い切り蹴破る。

中から凄まじい勢いで水がグワーっ!!と流れ出てきて、
二人の足元を直撃する。

 リヒトは瞬間的に窓枠に捕まりながら、
すばやく調理室のなかを見渡した。何事があったのか洞察する。
ミハルは無事なのか。

 正面にいた大地は足を取られ、
盛大な水しぶきをあげて、見事にひっくり返った。

すぐさま体勢を立て直そうとした大地だったが、
突如前方にまばゆい光を感じて、
そのあまりの眩しさにのけぞった。

自分を倒したその水量はせいぜい十数センチに過ぎないが、
眼を凝らすと、高くそびえる水をまとって、
凄まじいオーラを放っている何者かの姿が見えた。

「!!!!?!」

 後光が差している、って言うのは、
こういう事をいうんだろうか……

 あっけに取られて見つめる大地を、ギロッと一睨みすると、
その影は「フッ…」と不敵な笑いを残して消えた。

「……………………やべえええ……!!  
はじめて!見た……」

 大地は理屈でなく本能で直観した。アレは本物だ。
何という圧倒的な存在感!!

「ミハル!!」

 リヒトの声に我に返った大地は、
大慌てで調理室に飛び込んだ。

教室のあちこちで、びしょぬれでむせぶ大柄な男子たち。
ショックで放心状態のミハルを、かろうじて支える委員長。

その足元でリヒトが真里の介抱をしていた。

「しっかりしろ!真里!」

 血の気のない顔をして呼びかけにも反応しない。
真里は完全に意識を失っていた。
リヒトの額に冷や汗がにじむ。

「大地手伝ってくれ!水吐かせるぞ!!」

「おお!!」

そんなに大量の水を飲んでいるわけではない。
リヒトはそう判断して、本で読んだだけの蘇生措置を、
初めて実際に施した。

 大地と協力し、懸命に措置を施す。
長い時間が流れていくような気がしたが、
努力のかいあって、
やがて真里は水を吐いて、苦しそうに咳き込んだ。

「良かった……!呼吸戻ったぞ!!」
「はぁ~~!!」

 二人の間に横たわっている真里はいまだ朦朧として、
時おり咳こんでいるが、少しづつ顔色も戻ってきた。

 リヒトと大地はほっと一息ついた。
ミハルがよろよろとやってきて、真里の傍に膝を付いて、
声も上げずに泣いている。

「ミハル、大丈夫か?」
 自分のジャケットを真里に着せかけると、
リヒトは妹の頭に手を置いて言った。

ミハルは、真里のそばから離れようとしない。

「ごめん……」
「真里ちゃんごめん……」

 小さな声でそう言ったきり、
真里にしがみつきふるえが止まらない。

「……?」

真里がその気配にふと、目を覚ました。

「ミハルちゃん泣かないで。こんなの何でもない!
 何でもないからね……」

 真里は優しく、ミハルの頭を撫でた。
そうされると、ひどく安心する。ミハルはふと思った。
真里ちゃんはどこかリヒトと似ているな、と。

真里はミハルの方をじっと見た。
「ミハルちゃん……私。気を失うまえね。
とても奇麗な人を見たの……人?じゃないのかも知れないけど……」

真里は途切れ途切れにそう話した。
しゃべるのが少しつらそうに見え、その様子にミハルの心は痛んだ。

「ちょっと寂しそうな顔をしてたかな。
怖くなかったし、悪い人にも見えなかったけどな……」

ミハルの気持ちを察したかのように、ニッコリ笑った真里は
もういつものようにのんびりした口調に戻っていた。

「それ多分、オレも見たわ。」

腕組みをして考え込んでいた大地が、首の後ろを掻きながら言った。

「何つーかな。キラキラしてたな。すげぇハクが有んのよ」

大地の表情はどこかうっとりしている様にさえ見えた。

「今まで……けっこうイロイロ見てきたけど、
やっぱりアレはちょっと違うって言うんかな。
まあ、オレはちょっと、コワかったな……」

今のは少々謎めいた発言だったが、
その場に居た誰もが、常識はずれな体験を共有していたので、
さほど疑問にも思わなかった。

難しい顔をして腕組みをしているたった一人の男を除いては。

委員長はじめ、MDIのメンバー達が、
見るも無残にぐっちゃぐちゃになった調理室の、
体裁だけでも整えようと奮闘しているその横で、
自分がぶち壊した引き戸を立てかけながら、
リヒトは静かに怒っていた。

彼は納得いかない事だらけの不満でバクハツ寸前だった。
うっかり触れれば、静電気がおこりそうな空気をまわりにまとっている。

「今日ここで起こった事は、いったい何なんだ?
ミハルを取り戻しに来るバケモノってのは、いったい何者だ?」

「もともとオレの【妹】だろーが!
何が取り戻すだ……ふざけんじゃねえ!」

「そもそも。何でオレには姿も見せねーんだ……」

 それぞれが今日の後始末に追われている調理室の窓の外には、
小さな青いカエルが一匹、音も無く佇んでいた。


「何か面白いモン見えるんか?」

 新聞部奥のスペースからヌッと姿を現した大地がそう尋ねると、
3階の部室の窓から校庭の様子を覗いていた新聞部部長・篠田は、
双眼鏡をこっちに投げて寄越した。

「ひょー。あいつら頑張ってんなあ!」

 窓から見えるのは、リヒトらクラス対抗リレーのメンバー達だ。
放課後も居残って練習中のようだった。

体育祭まであと3日、おおかた練習熱心なミハルにねだられて、
リヒト他のメンバーもひっぱってこられたってトコだろう。

「……何だお前。時任兄妹に、キョーミ津々ってワケ?」

大地は校庭に目をやったまま篠田の方は見ずに、そう言った。
篠田からは、何の返答も無い。

「あいつらはなあ……トクベツなんだよ。ト・ク・ベ・ツ!」

大地は振り返って笑いながら、少し挑発するように篠田を見た。

「お前なら……わかんだろーが?それ位よ」

「……そうだな」
 篠田は、あっさり認めた。
彼は、追いたい対象を見つけてしまったのかも知れなかった。
 
 大地は壁に貼られてある、
クラス対抗リレーの予想順位のランキング表に目をやった。
今週の学校新聞の目玉企画である。

「この分だと、もしかすると…もしかしちゃうかもな!」

理由の大半はミハル人気だが、2-Bはダントツ優勝候補だった。

「んじゃお先!イッパツ撮ってくるわ!」
そう言い残すと、大地は新聞部を出て校庭へ向かった。


「もうアカン。限界や……」

「もう、勘弁して~果てた~」

口々にそういい残し、次々戦線離脱するリレーメンバー達を尻目に、
ミハルはまだ走り続けていた。

「ほんま、元気やな、アイツ!!」

 走るミハルを見ながら、
その辺に死体よろしく寝転がっている皆が感心している。

「ミハルちゃんって、すっごく身が軽いし、
その小さなカラダに、エネルギーがいっぱい、ってカンジなの」

 バテ気味の生徒達におしぼりを配っていた真里は、
ミハルを目で追って、母親が子供を見るように眼を細めた。

「もうちょっと……もうちょっと!!」

 名残惜しそうにそう言いながら、
ミハルは、並走しているリヒトの方を見て笑った。

その顔は、心底走るのが楽しい、と言う風だ。

そうは言っても、さすがのリヒトも少々息が切れてきた。
疲れて倒れている他のメンバーを見やって、
お開きの時間だな、と判断した。

「ミハル…!そろそろ終わりにするぞ!」
「明日にしよう!」

 走るのをやめてそう言った時、
突然、リヒトの中に強い既視感がわき起こった。
彼は正体の掴めない不安に囚われて、ミハルの方を見た。

 火照った頬をして、楽しげに駆けて行くミハル。
自分でも思いがけず、リヒトはミハルを追いかけて再び走り出した。

「お開きだって言ってんだろ!待て!ミハル……」

 自分を追ってくるリヒトに気づいて、
嬉しげに、さらにスピードアップするミハル。
速い……さすがにアンカーだけの事はある。

「待てって!!ミハル!」

 何だろうこの不安は。何だろう。ナンダロウ。ナンダロウ……
彼はそれを振り払うように、本番さながらダッシュをかけた。

「ミハル!!」
 
 あと一歩先にいるミハルを、両腕を伸ばして抱え込もうとしたリヒトは、
捕まえ損ねてバランスを崩し、ハデにすっころんだ。
 
 どうして届かない……!?

呼吸が荒い。彼は呆然として起き上がる事さえ忘れた。

「リヒトー!!大丈夫!?」

 ふざけていたミハルが慌てて駆け寄り、
心配そうに覗き込んでいる。
その顔を、リヒトはまじまじと見つめた。

「どうしたの??リヒト?」
「!ケガしてるよ!イタイよ~」

 まるで自らが傷ついたかのように、ミハルは顔をしかめた。
向こうから見ていた真里も駆け寄ってきた。

「かすりキズだよ。ちょっと洗ってくる。
 真里、ちょっとミハル頼むな!」

 流れる汗を手でぬぐいながら、リヒトは二人に声をかけた。

 調理室での一件以来、リヒトは用心深くなっていた。
常にミハルを一人にしないよう、
極力水場に近寄らせないよう、気を配っていた。

 心配そうなミハルと真里をその場に残して、
リヒトは水道の有る校庭の隅へと向かった。

傷ついた足を洗い、顔にも水を浴びた。
もやもやした気分を振り払いさっぱりしたかった。
汗を洗い流しても、ぬぐいきれないこの不安。
何度も何度も水を浴びて……

顔を上げると、目の前に青いカエルがいた。

「!!!!」

 咄嗟に手が出たが、捕まえ損ねる。

「クソッ!!」

 からかうかのように次々跳躍して逃げる青いカエルを
もどかしい思いで追う。

もはや半分くらいは意地になって、追い続けるリヒト。
校庭を抜けて、敷地の西側の端へと、誘われるように後を追う。

 気が付くと、彼はプールサイドに立っていた。
追いかけてきた青いカエルの姿は見えなくなっていた。

「来い、って事か……?」

 ふとリヒトは、
大地が見せたプールの写真を頭に思い浮かべたが
実際妙なものが写っているかどうかなんて、自分には全くわからなかった。

利用停止中のプールは風に飛ばされてきたのか落ち葉が浮いていたが、
それほど濁ってはいないようだ。

海や川ではあるまいし、ハコの容積の決まったプールごとき、
自分の身長ならまず溺れることはないだろう。

……彼は決意して、ゴクリとつばを飲み込んだ。

ほんの軽く、手足をストレッチする。
リヒト的には、ココは気持ちよく飛び込みたいところだが、
モチロンそうはせず、用心深く足元から入水した。

さっきまで走っていて、熱を帯びたカラダには、
水の冷たさが心地よかった。

 何も変わった事は起こらない。

水面はリヒトが起こした波紋が拡がっていくばかりで、
それも散りはてると、あとはただ静寂のみが残るだけだった。

もともとが泳げなかったわけではない。
昔は、良くミハルと一緒に……

10年ぶりの感覚を努力して思い起こしながら、
彼はゆっくりと水中に体を沈めた。

 水の中は、外よりもずっと暖かだった。
慎重に手足を伸ばして、カラダが浮く事を確かめる。
音のない世界。目を開けて見渡しても、何も見えない。

「ふあっっ」

 息を吸うために水面から顔をだす。
耳に入ってくるのは、生活感のある雑音だけだ。

「出て来いよ!姿見せろ!」
見えない相手に話しかける。見えないものはニガテだった。

 もう一度水中へ入る。

ミハルは何を恐れているんだろう?
アイツらが見たのは一体何だろう?
どうやったら、オレの前に姿を現すんだろう?

 息が続かなくて、水面に顔を上げる。

 しっかり肺に空気を溜め込んで、彼は再び、水の中に潜った。
今度はより深く。

敵の正体を、確かめなければならない。
でないと何一つ、対策も打てない。

彼は覚悟を決め、息の続く限り、潜り続ける事にした。

 底の方に潜ると、水の中は見た目より淀んでいた。
しばらくそうしていると、眼を開けているのが少々つらくなってきた。

 ショボショボする瞳に景色がぼんやり映る。

リヒトの眼前がかすんできたのが、
浮遊物の所為だけで無いのは明白だったが、
リヒトのあまりに強い意志が、
彼の身体に限界を超えさせていた。

 息が苦しい。酸素が足りねえな……

 意識が朦朧としてきて、
そろそろヤバイか、と言う思いがアタマを掠めたその時、
突如目の前に青っぽいもやが現れて、その中心に光が見えた。

無理やり目をこじ開けて見ていると、
光の中にぼんやりと、人影が浮かんでいる。

「!」

 見えるハズがないもの。オレには見えないもの。

だが……?この光景は、ずっと、ずっと前にも見たことがある?
確かに同じものを見たような記憶。
どこか懐かしいような気さえする……

ミハルに触れているときに、何度か感じた不思議な感覚が
唐突にリヒトの全身を包んだ。

忘れていた、小さな頃のことが心に蘇る。

ゆらゆら揺れる光の中で、その人影は、
リヒトの目にはまぶしくて、その表情はとらえどころが無い。

 だが彼には、それはただただ美しいものに思えた。

なぜかその姿は、小さな頃住んでいたあの場所を思い起こさせた。

 そう……ミハルと、いつも遊んだあの田んぼだ。
いろんな生き物がいたっけ。

オレはそれが、何なのか、調べるのが好きだった。
名前を知って、生態を知って、自分の知識が増えていくのが楽しかった。

「リヒトはすごいねー、何でも知ってるんだねー!」

 妹にそう言われるのが、嬉しかったんだ。

遠くに山が見えて、どこまでも広がる青い空。
ミハルがオレを呼んでる。

「リヒト!リヒトー!!……青いカエル、居たんだよ!」

 ミハルの笑い顔。
少し舌っ足らずな、自分を呼ぶその声。
どこまでもどこまでも、幸せな記憶だった。

リヒトは、浮き上がる事さえ忘れたかのように、
恍惚とその場に佇んで、その意識を手放そうとしていた。

 気を失う直前、眩しさが少しやわらいだ。

どうしてか、少し怒りをたたえたような眼をして、
憮然とした表情でこちらを見おろしているその姿が目に入った。

「……?」

もう、眼を開けていられない……


「死にてーのかよ!! ドアホ!!!」

 頬への鈍い衝撃に正気を取り戻すと、
青い顔をした大地が覗き込んでいた。

(水から引き上げてくれたのか。
ありがたいけど、何発入れやがったんだ)

 少し痛みの残る頬を擦りながら、
彼は寝っ転がったままの姿勢でポツンと言った。

「見えたぞ…… すげー……美人だった」
「はああ?!」

 自分の古い記憶の中にかすかに残る面影。
バケモノ、なんかでは決してない、
何かもっと尊くて、美しいモノだったような気がする。

「何か言いたそうな……顔だった……」

リヒトのココロはここにあらず、その眼は遠くを見ていた。

大地は心地悪そうに濡れたシャツの裾をしぼって、
寝転ぶリヒトの隣に腰を下ろした。

「……襲ってきたのか?」

「いや……見てるだけだった。ただじっとオレを……」

それを聞いた大地は大きなため息を吐いた。

「たぶんだが……オマエに手ェ出せない理由が、有るんだよ」
大地はリヒトの方を見ずに、遠まわしに言った。

珍しく言葉を濁した大地を訝って、リヒトは思わず彼の方を見上げた。

その視線には応えずに、大地は強く言いきった。

「とにかく、無茶はすんなよ!!
自分らだけで、何とかしようとすんな!」
「オレも立石も、もう後戻りなんて出来ねえ。
とうに覚悟はできてるんだよ!わかったか!」
(まったく、ホントに、世話の焼ける兄妹だぜ!)

最後の一行は独白だった。

少しバツが悪い風に目を伏せたリヒトを、
見下ろして立ち上がると、大地は、
プールサイドに放り投げていた自分のジャケットを拾ってきて、
ポケットから、二つの小さなお守り袋を取り出した。

「こん中に護符が入ってる。急ごしらえだけどな。
いわゆる、霊現象、を封じ込める。気休めぐらいにゃなる……」

「ミハルちゃんと立石に持たせろ。
オマエにはコレは必要ねえ。……自分で何とかしろ」

「オマエは?」

「オレはいい。こいつ有るからな!」

 見るからに年季の入った大振りな数珠を手にして、
大地はニヤッと笑ってみせた。

(そういや、コイツん家って寺だったっけ。)

 リヒトは、まじまじと大地を見上げた。
手にした数珠にけっこう違和感がなくて、堂々としている。
少なくとも、こういう事に関しては、大地の方が場数は踏んでいそうだった。

リヒトは座ったまま、大地の方をまっすぐに見据えて言った。

「で? お前らはいったい何を隠してる?
 ミハルはオマエらに、何て言ったんだ?」

大地の迷いを、リヒトは見逃していなかった。

(勘弁してくれよ……)
大地は祈るように目を伏せた。
(人を見透かすような眼で見やがって……!!)

数秒間逡巡して、自分をじっと見つめるリヒトの方に向き直った。

(オレは、この男には、何一つ隠せやしねえ……)
大地はあっさり、そう悟った。



「ミハルちゃん、ほら見てこれ!」
真里は、ばばーん!と、ミハルの前に表を広げた。

 今後の家庭部のスケジュール表だった。
委員長も興味シンシンで、上からそれを覗き込んでいる。

ミハルは表を見つめて、黙りこくっている。

「……今日部活有るよ」
真里はミハルをじっと見つめていた。

「わたし……私、もう行けないよ……」
 口をへの字に曲げて、ミハルは首を横に振った。
もう2度と、みんなを巻き込むなんて出来ない。

 うつむいてコチラを見ないミハル。
真里はひとつため息をつくと、珍しく少し強く言った。

「ミハルちゃん、家庭部ってね、調理だけじゃないんだよ!」
「男子が7人も入って、最近うちも大所帯になったしね。
何か新しい事をするのも良いかと思ってるの」

「そうですよ!ミハルさん!
ほら見てください!お裁縫とかも、面白いんですよ!!」

 安田はどこから持ってきたのか、裁縫や編み物の本を
ミハルに見せて、少々ハリキリ過ぎなくらい陽気に言った。

「安田クン……」

(どうしてみんな、こんなに優しくしてくれるの?)
ミハルは堪らなくなって、顔を上げて真里の方を見た。

 真里はいつもどおりニコニコ。

(がまんしてたのに……がまんしてたのに。)
抑えつけていたキモチが溢れだして、止まらなくなった。

「うわーん!真里ちゃん!」
残念ながら、安田の方には抱きついてくれなかった。

仲良しの二人の姿。
ちょっぴり羨ましそうに、指を咥えて見ている委員長を、
抱きついている真理の肩越しに、ミハルがじっと見ている。

 その視線にすぐさま気づいた委員長は、
ミハルに向けて、人の好さそうな笑顔を見せた。

少し上目遣いのまま、口を一文字に結び、ミハルは決意する。
真理に抱きついた手に、グッと力がこもった。
(もう誰ひとり…絶対に危ない目には合わせない!!)

「ありがとう……二人とも大好き!!」

ミハルは、真里と安田の手をとって握ると、明るく笑った。
『ダイスキ』のセリフに、安田はミハルの顔を見つめて真っ赤になった。

「さあ!そうと決まれば部室へ行きましょう!」
真里がニッコリと、力強くそう宣言した。

「今日は、体育祭の衣装も仕上げなきゃ!お裁縫、お裁縫」
安田が意気揚々とそれに応える。

 楽しげに家庭科室へ向かう3人に、廊下の途中で女子部員たちが加わっていく。
さらに進んでいくと、男衆6人も加わった。

 ミハルと手をつないだ真里を先頭に、
さんざめく女子部員たち、委員長率いる男衆。
さながらパレードのごとく、
わいわい言いながら廊下を歩いていく家庭部メンバー達。

廊下ですれ違う大勢の生徒達が、
一瞬興味を惹かれて、振り返っては通り過ぎていく。

 地味な眼鏡を掛けたひとりの女生徒が、
ミハルの横を通り過ぎたその時。ボソッと、彼女は呟いた。

「お姫様……さすがにスゴイの憑いてるな」

その大きな瞳を、さらに大きくして振り返るミハル。

「……でも守護霊もたくさんついてそうだ」

 ミハルの全身を瞬時に観察して、そう言うと、
フフッと微妙な笑顔を浮かべて女生徒は去っていった。
多少上から目線だが、眼鏡の奥の瞳は優しげに見えた。

「どうかしたの?ミハルちゃん?」

一瞬立ち止まって後ろを見つめるミハルに、真里が尋ねた。

「うん?何だろ……?何でもない??」



「ううーん!」
心地よい朝の光に目覚めたミハルは、
ベッドの上で精一杯伸びをした。
本日は学校はお休み。明日は待ちに待った体育祭だ。

 ベッドの横の窓には、
爽やかな風に揺れる照る照る坊主が2体。
ゆうべミハルが作った。リヒト君の分も有るそうだ。

ここしばらく晴天が続いているとは言え、
台風シーズンのコトもあり、明日の天気予報はくもり後雨だった。
照る照る坊主のとなりにはダメ押しのごとく、
『運動会は絶対晴れ!』と書かれた短冊もつってある。

 昨日の夜は、照る照る坊主を作ったり、
考え事があったりで、ミハルにしては夜更かししてしまったので、
さすがの彼女も明日にそなえて、カラダを休める事にした。
珍しく、朝もゆっくり10時起きだった。

 一方リヒトは昨晩、実験室に篭って何やら作業に没頭していて、
ほとんど一睡もしていなかった。
頭髪のバクハツっぷりが見たカンジちょっと痛々しい。

(そろそろ来る頃だな……)
リヒトが秒読みを始める。3,2,1、0。

「リヒトー!!」

来たね。

「リヒトー!リヒト!大変だよー!
【カエルン】がないのー!どっかに落ちてなかった???」

焦った様子でミハルが実験室に飛び込んでくる。

「これだろ?昨夜キッチンに置きっぱだった」

 リヒトは以前にミハルに買ってやったペンダントを
指にからめてヒラヒラして見せた。

 【カエルン】と言うのはどうやらこいつの名前らしい。
そのネーミングセンスは微妙だが、
ミハルは寝る時以外ずっと身につけて大切にしているようだ。

「はあー。良かった!朝起きたら無くって、
すっごい焦っちゃった!良かったあ……」

嬉しそうにペンダントに頬擦りしている。

「それ好きか?」

「あたりまえだよー!
 だってリヒトに買ってもらったんだもん!」

 にこにこにこ。可愛いミハルちゃんに、デレデレお兄さん。

休みの朝から快調にぶっ飛ばしている、
相変わらずの二人だったが、
そのときミハルのケータイが鳴った。真里からだった。

「小学校の桜が咲いてるよ! 少しだけど。
 ミハルちゃん、前に見たいって言ってたよね?」

「えー?!ほんと!!」

「うん。響一朗……弟がそう言ってるの。
そんな樹があるんだって。」

 二人は毎日、学校でおしゃべりしているクセに、
まだ何をそんなに話すことがあるのか、
気づけば軽く半時間以上、通話していた。

「リヒト!小学校にね……」

 電話を切って振り返ると、
リヒトはソファですやすやと寝息を立てていた。

ミハルはその様子に微笑むと、彼にそっとブランケットをかけて、
自分は床に座り、ソファにもたれた。

 自分の手や足をそっと伸ばしてみる。
いまさらながら、自由に動くのが嬉しい。

 兄のくせっ毛に指をからめて、しげしげと顔を眺める。
小さい頃、眠くなった時いつもそうしていた様に。

「私たち、大きくなったよね……」

 そうしているうちに本気で眠くなって、
その心地好さに、ミハルは目を閉じて身を委ねた。

 開け放たれた窓から、10月の爽やかな風が吹き渡り、
ミハルの部屋の二つの照る照る坊主が、寄り添って風に吹かれている。

 ピーンポーン♪
チャイムの音に、リヒトはハッとして眼を覚ました。

(やば……寝ちまったか)

 慌てて起きようとしたリヒトは、
自分の顔の下で、ソファに腕枕して寝ているミハルに気づいて
苦笑した。

 多少ぼんやりした頭で玄関へ向かう。
ドアを開けると、真里が立っていた。

「おう、真里か。ミハルと約束……??」

真里はリヒトを見るなり思わず吹きだした。
「すごいよ……その頭。寝てたんだ?」

「オマエらが、長いことしゃべってるからだよ」
リヒトは少々すねて見せ、手櫛で髪の毛をなでつけた。

彼は真里を玄関となりの応接間に通した。

「桜を見に行こうと思って来たの。
ミハルちゃん、見たがってたでしょ」

「さくら……今頃?何処に?」

「小学校だよ。響ちゃんが教えてくれたの」

リヒトは記憶の中を検索していて、結論にたどりついた。

「そういや、有ったな。グラウンド側にあるヤツだろ?
白っぽい花の、不断桜ってヤツだ。秋から咲き始めて一年中咲くヤツだ」

真里はまた笑った。

「すごいね。覚えてるんだ。品種まで知ってる!
さすが【ハカセ】じゃない」

 リヒトの小学校時代のアダ名まで引っ張り出してきて、
真里は楽しそうだった。

「その呼び方やめろって……」

 久しぶりに二人は、共有している思い出話に花を咲かせた。
まだ高校生だってのに、年寄りくさいことだ。

真里はリヒトの、いろんなエピソード毎に、
ツボに入ったのか、笑いが止まらない風だ。

(ヤレヤレ。オレそんなに見てて面白いか?
でもまあ、真里が楽しそうなら、それでイイか……)

 やっと笑いが治まってきた真里は、
リヒトがじっと、自分を見ている事に気づいた。

「……?」

「真里……おまえに頼みがあるんだ」

リヒトの声は穏やかだった。

「??」

「もしオレに、何かあったら……その時は、ミハルを頼むな!」

 彼は目に力を込めてそう言うと、ゆっくり立ち上がった。
真里は、腰掛けたまま、言葉の意味を掴みあぐねていた。

「何……どういう事?」

 真里は戸惑いを隠せない。まさかリヒトは知っているのか?
隠し続ける事は出来ないと思ってはいたが。

リヒトは目をそらさず、真里を見続けている。

「何を言ってるの……貴方がそんな?
二人一緒じゃないと、ダメなんでしょ?」
(出会った時からずっとそうだったじゃない)

「そんなのダメよ!……私、出来ない!」
真里も立ち上がって抗議した。

「頼む真里!オマエにしか……頼めないんだ!!」

 リヒトは真剣な眼差しで、真里の腕を強く掴んで言った。
掴まれた腕から、彼の決意が伝わってくる。

「イ……ヤよ!」

「おっ待たせー!!悪ィ悪ィ……」

 玄関ドアをチャイムも鳴らさずに通過して、
開け放たれていた応接室のドアから勢いよく室内に飛び込んできた大地は、
二人の様子を目前にして、目を白黒させて、汗がどっと噴き出した。

(リ、リヒトが……?!立石を……?!?!)
「す、すまん!!で……出直してくるわ!!!」

「は??」

 今の今まで深刻な状況下にいたリヒトと真里は、
二人して目がテンになった。
「………」

お互い顔を見合わせたあと、大地の方にゆっくり顔を向ける。
先に動いたのはリヒトだった。

「待ちやがれ、このドアホ!」

 脱兎のごとく、この場を去ろうとしていた大地の首根っこを捕まえて、
リヒトは言い放った。

「しょうもねえ勘違いしやがって!!」

「な、何か……ひょっとして……お怒りでいらっしゃる?」

 大地は、助けを求めて真里の方を見たが、
いつもニコニコ……なハズの真里が白い目で自分を見下ろしている事に気づいて、
すっかり観念した。
「すんません……したっ!!」

「なーに?みんなどうしたの??」

 寝ぼけまなこのミハルが目をこすりつつやってきて、
皆に声をかけた。
何やら玄関先が騒がしいので、やっとお目覚めしたらしい。

「何でもなーい!!」

 全員声を揃えて、笑顔で振り返る。
3人のチームワークは今日もバッチリだ。
大地はリヒトに後ろ襟を掴まれたままだったが、
細かいことは気にしないでおこう!

 4人は連れ立って、桜を見に小学校へ出かけた。
3時のオヤツは、もちろん大地のおごりらしかった。



「昨日届いてたんだけど、おまえ何か忙しそうだったからさ」

 夜の二人のティータイム。
リヒトは、宅急便の箱をカッターで慎重に開封している。
「オマエがこの前言ってたから、田舎から送ってもらったんだ。
 ……ほら、コレ!」」

 興味津々で箱の中身を待っていたミハルの前に取り出されたのは、
いまだ新品の赤いランドセルだった。

「わあ!これこれ!久しぶりー!!……会いたかった!」

 母が匂い袋でも入れていたのか、
良い香りのするランドセルに、
ミハルはまるで生き物にするように頬を摺り寄せた。

「ずっと、ずっと、背負ってみたかったんだ!
 ちょっとしょってみてイイかなあ……
 お部屋の中だけなら?」

ミハルは、訴えるような目で、ランドセルと兄を交互に見た。

「?別にいいんじゃねえか?
 それで学校へ行くわけでもねえし?」

「やった!よっし、背負っちゃう!!」

ランドセルを両手で抱きしめ、勢いよく立ち上がったミハルだったが、
ほどなく泣き言がリヒトの耳に入ってくる。

「……うっ……肩に入んないよお?リヒトぉ……」

「……おまえなあ。そりゃ入らんだろーよ。
 ソレ緩めなきゃな。買った時合わせたままなんだからさ」

 リヒトは苦笑しながら、
肩に掛ける部分を今のミハルに合わせて伸ばしてやって、
そわそわしながらその作業を見守っている妹の肩に
後ろから掛けてやった。

 ミハルは大急ぎで鏡台の前まで走っていった。

「わ、!わーい!!」

 鏡に映る自分の姿。憧れの小学一年生だ!!
と言うには、もちろん年齢的に少々ムリがあったが、
それでもミハルは可愛かった。
ある種のマニアにとってニーズが有るかも知れないが、
うっかり口に出したらリヒトに、瞬殺されることであろう。

「ねえ見て!見て見て!!……似合う?似合う?」

 大はしゃぎのミハルは、部屋中くるくる走り回って、
果てはワケのわからないダンス?を踊りだし、
その様子には、ついにリヒトも吹き出した。
彼女は笑い転げている兄の前に戻ってきて、
桜がほころぶような、最高の笑顔を見せた。

「ありがとう……ホントにありがとうね、リヒト!!」

ドキッ!
…………………………
…………………………

(ドキッ?だと!? た、確かにカワイイが……
ランドセルしょった妹にドキッ!?
いやそりゃカワイイけど!ものすごくカワイイけど!
いやいやいや!さすがにちょっとマズイだろオレ……)

 理性がアブナイお年頃の兄貴である。
リヒトは壁に手を付き、己の不覚に少しの間、自己嫌悪に陥った。
そんなリヒトの心中も知らず、ミハルが爆弾発言する。

「ダイチがいたらいいのに……写真撮ってもらいたいな」

「写真だとう!?イ、イカンイカン!それは絶対に……いかん!」

「何でー?小学生の時の写真一枚もないんだもん!
 ……あれ?リヒト赤くなってる??」

「何でもない!何にもない!気にするんじゃない!
 とにかく、写真はダメだ!……門外不出だー!」

パシャッ!!

 クールなはずの時任理人が珍しく、
みっともなくも落ち着きを失っていたちょうどその頃、
時任家の外庭で、ひとつのシャッター音が鳴り響いた。

「よしよし……夜まで張っていた甲斐があったな」

 頭からすっぽりとフードを被った、暗い色のパーカー姿の
身長の高い男が、草の間からムックリと姿を現した。
月明かりに眼鏡を光らせ、満足げな表情を浮かべる。

男は、デジカメを肩に掛け直すと、
ひっそりとその場を立ち去ろうとした。

「こんな所で何してるんです?…新聞部の篠田君?」

 暗闇から音も無く、全身黒タイツ姿の男がヌッと現れてこう問うた時は、
さすがの篠田も少々ギョッとした。

「……おまえ誰だ?何で俺を知ってる?」

謎の黒タイツは、眼鏡を掛けなおすしぐさをした。

「知ってますよ。モチロン!
 この前からミハルさんの周り……ウロチョロしてるでしょ?
 ……ソレ、ルール違反ですよね?」

ちょっとヒョロい感じの黒タイツは、
篠田の持っているデジカメを、ビシッと指さして言った。

「ルール違反?……何の話だ?」

「とぼけないで下さいよ!ミハルさんの……
ミハルさんのあの写真。あの写真。あんな写真!!撮ったでしょう!!」

セリフの最後の方はもごもごして聞き取りにくかった。
見ると黒タイツは、ハンカチで鼻を押さえている。
ハンカチには、血がにじんでいる。

「すみやかに!すみやかにソレを置いて行きなさい!」

篠田は不敵な笑いを浮かべながら、小バカにするように言った。

「どこの誰か知らないが、そんなんで(鼻血出しながら)
 俺を懐柔しようなんて10年早いな!」

「!」

 篠田はきびすを返し、立ち去ろうとした。
黒タイツは俯いて、何か考えている様子だったが、
やがて決心したようにつぶやいた。

「そうですか、仕方ない……大人しく返して頂ければ、
それで良かったのですが……どうもそうは行かないようですね」

黒タイツが、暗闇に向かってパチン!と指を鳴らした。

「押忍!」
「オッス!!」
「押忍!」
「押ッ忍!」
「オッスメッス!!」
「押忍!」

 どこからともなく、更に6人の黒タイツが現れて、
篠田のまわりをぐるりと取り囲んだ。
リーダー(?)と違って、みな一様にガタイがいい。
精鋭部隊、ってトコか。

「おやおや……コレはコレは。ちょい部が悪いかな?」

 篠田はフッとため息をついて、詰めが甘かった自分を呪ったが、
意外とあっさり降参し、カメラからSDカードを引き抜くと、
こちらに投げてよこした。

問題のミハルの写真が、表に出ることは一切無かった。
リヒトの希望通り、めでたく門外不出となったのである。

 リー……リー……

 先ほどの喧騒がウソだったかのように、
静けさを取り戻した時任家の庭先で、秋の虫が鳴いている。

「まだ少しだったけど……キレイだったなー、あの白い桜」

ミハルは床に座ってベッドにもたれながら、
今日見た桜の事を思い出していた。

「不断桜、って言うんだよ。これからずっと咲くけど。
 来月くらいが一番咲いてるんじゃないか?」

「ホント?じゃあこれからずっと、毎月見に行きたい!」

「ハハ!それより来年春が来たら、
校門前のヤツが満開になったら、もっと派手なのが見れる」

 言いながらリヒトはハッとした。
目をそらし続けていた不安が、急に彼の心を揺さぶる。

(ミハルは今、確かに目の前にいるのに、
オレは何を、恐れているんだ?)

「フダンザクラ?……【普段?】の桜?冬に咲く品種なの?」

「【不断】の桜。【断ち切られることなく咲いている】っていう意味。
一年中、枝のどこかに花をつけてるって言われている……」

不安に心を囚われたままで、どこか返答が宙に浮く。

ミハルはリヒトの方をまじまじと見つめて、さらに話しかける。

「リヒトは何でも良く知ってるなあ。昔から……」

彼女は、胸元に光るペンダントを撫でながら、
何かを確かめるような口ぶりで言った。

「青い……カエルが……」

いきなりミハルの口から出た、核心を突くキーワードに、
リヒトはドキリとする。

「普通カエルは緑なのに、
『黄色い色素が…足りない』んだっけ?」

 ミハルがこちらを窺うような顔でじっと見上げる。
まるでリヒトの不安を、全て知っているとでも言うように。

「よく覚えてるな。そんな昔のコト……」
リヒトはそのあと、喉まで出そうになった言葉を飲み込んだ。

「もう二度と……オレのそばから離れるな!」と。

(オレはコイツを、取り戻したんだ!
10年かけて、やっとだ……!!
ミハルはここにいるべきで、またコイツを失うなんてありえない。
こんなに気持ちが不安定なのは、きっと寝不足のせいだろう!)

リヒトは、知らず中空を睨みすえていた。
……兄を見つめていたミハルがグッと伸びをして言った。

「明日は運動会だよー!がんばろー!」
「体育祭だろ!」

 リヒトはため息をついて、ミハルを抱き寄せると、
その長い髪をくしゃくしゃっとした。
ミハルは照る照る坊主ごしに、窓の外を見上げる。

「今日みたいにいい天気だといいねー……」

「ああ、きっと、晴れるよ」


 ミハルの祈りが天に通じたのか、
天気予報は【曇り】だったのが、朝目覚めると晴れだった。

「やったー!晴れてる!!」

 ミハルは飛び起きて、照る照る坊主に感謝のキスをする。
幼稚園以来の運動会(体育祭)この日を待ち続けていた。
競技と同じくらい楽しみなランチタイムは、
真里の手作りお弁当だ。

「早く行こ、リヒト~! スゴく待ち遠しい~!!」

 朝から大はしゃぎの妹を横目に見ながら、
くせっ毛をテキトーに整えて、リヒトの登校準備は完了した。

 自転車を漕いで学校まで約15分。
少し蒸し暑くて、数分でシャツが汗ばむ。

 到着してスグに、ミハルは女子更衣室に寄って、体操着に着替えて出てきた。
上衣は黄色のクラスTシャツである。

「ね、似合うかなー?」はしゃいでくるっと回ってみせる。

 元気なミハルにビタミンカラーがよく似合う。
嬉しそうなその様子は微笑ましいと思ったが、
リヒトはふと、胸元のペンダントに目を留めた。

「走る時それじゃ危ないだろ?はずした方がいいぞ?」

「え!イヤだ……絶対イヤ!」ミハルは何度も首を横に振る。

 兄らしく、たしなめるような顔で見るリヒトに、
ミハルはうつむいてボソッとつぶやいた。

「だって……お守りなんだもん」
「……」
「んじゃ、せめてシャツの中へ入れとけ!」

 ため息をひとつついて、リヒトはミハルに近づいて、
【カエルン】を無造作につかんで、Tシャツの襟から
中へ放り込むと、妹の頭をなでる。
ミハルは少し、ホッとした表情だ。

 荷物を置くためいったん教室に向かった二人の前に、
トツゼン!得体の知れない、何らかの生命体が飛び出してきた。

よもや、体育祭当日と言うのに、ここでバケモノ出現か?!

「な、何だオマエ!?」
リヒトはミハルをかばうように前に立って身構えた。

全身黄色いタイツに包まれた異様な風体のその男
(ムネが無いからたぶんオトコだろう)は、
イヤに馴れ馴れしく二人に近寄ってきた。

「あ!おはようございます!時任君!……ミハルさんも!!」

 生命体はリヒトを見るなり、何故か敬礼をして、握手を求めてきた。

 そのあと、後ろにいるミハルを眺めて、ニカ~ッと笑った。
妹の方を振り向くと、怖がる様子も無くニコニコしている。

「今日は僕は!徹底的にクラスをバックアップします!!
頑張ってください!お二人とも!」

やたらとアッツく、前時代的なその雰囲気。

よくよく見れば、見慣れた度の強いメガネ姿。
クラスの応援団長も務める2-B委員長安田じゃないか。

(そういや、オレらのチームカラーって黄色だったっけ。)

 始まる前からそのテンション、
今日終盤までそれで持つのか、と余計な心配もするが、
間近で見たミハルのTシャツ姿に
エネルギー充填200%と言ったところだろう。

(コイツはいつでもクラスの為、全力投球だ。
そういう所は好感が持てる。衣装はどうみても手作りだな……)

応援団長として、安田捨て身のコスプレ。
ただ残念なのは、どう見てもヘンタイにしか見えないことだった。

リヒトは教室で着替えを済ませ、二人で階下へ降りて行く。

カラフルなクラスT姿の生徒たちが、
あちこちで忙しなく動き回っているのとすれ違う。

 委員長と同様、意味のわからないコスプレ姿の生徒も
チラホラ目に付く。
(この学校妙なヤツ多いからな……)
自分のことは、すっかり棚の上のリヒトの見解だった。

 普段の雰囲気とはまた違った、
イベント時特有の浮わついた空気が校内に蔓延している。

1階廊下で、向こうからやって来る真里が見えた。

「真里ちゃーん!!」
ミハルが手を振って駆け寄る。

「ミハルちゃん!良く似合うね、そのTシャツ!」
「ホント~嬉しい!!」
そう言ってミハルは、真里の姿をしげしげ見た。

「……ふーーーん……真里ちゃんはさー……
 けっこう……オトナなんだあ~!」

「もう!どこ見てんの!」

 楽しそうに話す二人に、こっそり心癒されるリヒト。

 そこへ、でかい紙袋を両手に持った大地がやってきた。
まだ開会前と言うのに、すでにたっぷり汗を掻いている。

「真里ちゃんスゴイ!!これ全部ひとりで作ったの?」

 ミハルが目を輝かせつつ驚く。
紙袋の中身は、真里が腕を振るってつくったみんなの弁当らしかったが、
ちょっと量が、オカシイんじゃないか?

「私、競技は……ダンス……とかくらいしか出ないし!
あとは、救護班としてがんばるくらいだから」

真里はなぜか少し口篭って、不自然な笑い方をした。
彼女はスポーツが嫌いというのではないが、
ポテンシャルが低い自覚はあった。
それから彼女は、大地の方を振り返って、
ニッコリ笑顔で、ビシッと指図した。

「大地君!学食にクーラー効いてて、
お弁当置く場所があるから、そっちまでよろしくね。」

 昨日の早とちりの代償として、アッシー状態に甘んじている大地が、
汗を拭き拭き、うやうやしく応える。

「へえへえ、オレが悪うございました!
どうぞ何でも、お申し付け下さい!」

 カラダが大きくて、いつも堂々としている彼が、
卑屈なさまは見るからに気の毒で、しかし同時に面白すぎた。

リヒトは本気で楽しそうで、ニヤニヤと笑いながら
実に悪そう~な顔をしてのたまった。

「まあ何だ。少しは大人しくしてる事だな!」

(クッソこいつ! 写真撒くぞ!あーんなヤツとか。こーんなヤツとか。)
 
 ちょっぴり涙目で、リヒトの方を睨む大地が考えてる事を知ったら、
いかなリヒトでも、ちっとは焦るかも知れなかった。

♪ピンポンパンポーン♪

『本日午後から、天候下り坂の予報ですので、
20分繰上げで体育祭を開始します。
全学年生徒は、運動場に集まってくださーい』

「ヤッベー!お呼びかかった!」

 大地はさっさと、弁当を引っさげて学食へ向かっていった。
その様子を見守りつつ、3人は校庭へと歩いていく。

 この高校の体育祭は、3学年を縦割りで、
1~3Aは赤、1~3Bは黄色、1~3Cは白、1~3Dは青
と、4色のチームに分かれて、対戦する形式である。

 走るのが速いので、毎年リレーの選抜選手なんぞに
うっかり選ばれてしまっているリヒトだったが、
体育祭と言われても、正直に言うと昨年までは、
彼にとって、ほんの片手間程度の認識でしかなかった。

 今、目の前で昨年の優勝旗返還などが行われているが、
優勝チームが何色だったかすら知らない、という有様だった。

がしかし。今回の体育祭はそうも行かないだろう。
リヒトの横には、隠しきれないワクワク顔で
開会宣言を今か今かと待っているミハルがいる。

アッツイ妹に引っ張られて、
彼は通常の2割増し位のテンションで、この日を迎えた。
クールな彼にとっても、アッツイ一日になりそうだ。

 運営委員長の開会宣言で、体育祭スタート!!

 短距離走100Mに出場するミハルは、
2-B席の後ろで準備体操中。
それに付き合わされているのは、リヒトと大地で、
自ら付き合っているのはヘンタイ、もとい委員長だ。

♪ピンポンパンポーン♪

『全学年、100メートル走に出場の生徒は……』

「わー!ついに来た!」
「リヒトっリヒト! 行ってくるからっっ」

 あきらかに緊張の面持ちで、ミハルが兄の顔を見た。
その両手を、グーに握り締めている。

「おう、ゴールで待っててやる」
「絶対トップとれるぜ!!」
「ミハルさん!!全身全霊で応援しますからね!!」

ミハルはこっくりとうなずくと、入場門へ向かって駆け出した。

いよいよミハルちゃん、体育祭デビューだ……!

彼女を見送った男3人は、人の流れに乗ってゴール前へと向かう。

「早くー! リヒト君たち、こっちよー!」
先に来ていた真里が3人を呼んでいる。

「ミハルちゃん、一番最初だからね。」

 プログラムを右手に、進行表を左手に持った真里が、
リヒトに声をかける。

「ああ!」

 彼はスタートラインに立つミハルの姿を認めた。
無意識のうちに、手に力が入る。
 ぱっと見、冷静に見えるリヒトは、
もしかして走者である妹以上に緊張しているのかも知れなかった。

 後ろにいた大地が、ぽんっと肩に手を置く。
もちろんカメラの準備万端。
無言で振りむくリヒトに、親指を立てて陽気に笑った。

『Ready―Go!』
スタートピストルの音が鳴った。

「ミ・ハ・ルさーん!!がんばれ~~」
「ミハルちゃーん!!!!」

(委員長ちょっと悪目立ちしすぎだろ?
 真里も声デカすぎだぞ)

大地が、「ココはオマエも叫んどけ!」って目で、
こっちを見てる…!

「ミ…ハル!!」

 あっと言う間にゴール!!もちろん、テープを切って。
リヒトの周りで、ひときわ賑やかな歓声。歓声。

 彼は空を仰ぎ見る。

あー!今日降らないでよかった……
無意識のうちに、リヒトは【何か】に感謝した。

退場してきたミハルが、クラス席に走って帰ってきた。

「よっしゃあ!よくやった~~!」

 みんなにもみくちゃにされて、満面の笑みだ。
リヒトと目が合い、どっかの委員長みたいにVサインして笑った。

なぜだか、物凄くホッとしている自分に、苦笑するリヒトだった。

 ちょっと巻き気味進行の体育祭。
2年生男子団体競技の騎馬戦が終わり、
〈一応リヒトと大地も出場〉
現在グラウンドでは、男子諸君の目の保養、唯一の華やかな競技
各チーム女子に拠る創作ダンスが繰り広げられている。
〈もちろんミハルと真里も出場〉

 汗を撒き散らしてガッツな体育会系の君も、
かったるそうに競技に参加していたオタクな君も、
つかの間の、癒しの時間を楽しんでいることだろう。
大地も、腕の見せ所!シャッターチャンス!

そして予定より半時間早く、楽しいランチタイムが始まった。

「みんなーどんどん食べてね!」
ニコニコ笑顔の真里の大盤振る舞い。

 でかい学食のテーブルに、所狭しと並べられた
おにぎり、サンドイッチ、ホットドッグ……
唐揚げに、エビフライ、サラダ。どれもかなり旨そうだ。

「わあああ美味しそう!!!」

 全力で体育祭を満喫しているミハルが、
両手を顔の前で組んで感激している。
先ほどのダンスの続きでも踊りだしそうだ。

真里出血大サービスのお弁当は、リヒト達のみならず、
家庭部の男子達の分も作ってあった。
信じられないような量はそのせいだったか。

 彼らは、エサ……失礼、女子手作りの弁当とあって大喜びで
ものすごい勢いでがっついている。

がっついてる、と言えばこの男も。
綱引きと騎馬戦出場以外は、
カメラマンとして走り回っている大地は、
午前中に使った体力をすべて取り戻しておつりがくるくらい
異様な食欲を見せていた。
もう、いっそ見ていて気持ちがいい。

喧騒のなか、誰かの携帯電話がしつこく何度も音をたてていた。

「誰だよー?今日ケータイ禁止じゃねーの?」

「すまんすまん。オレ報道班だから。ト・ク・ベ・ツ」
大地がニカッと笑った。

「どうせ篠田からの呼び出しに決まってる。
ここへ来い、あそこへ来いって、超ウルセーんだ」

 呼び出しにやっと応える気になったらしい大地が、
右手にサンドイッチ、左手にケータイを持って、
立ち上がったのと同時に、後ろから賑やかな声が聞こえた。

「ミハルさん!大活躍!一等賞~~!!」

 パン!パン!
クラッカーを鳴らしながら、
もう一人の家庭部員、安田もやってきた。

「ありがと安田クン!」

ミハルがニッコリ笑ってむかえる。

どうも今日一日、その衣装を脱ぐ気はまったく無いらしい。
ミハルと、Vサインをし合いながら、ゴキゲンの様子。

リヒトは、それをチラ、と横目で見つつ、
ナゼか少々不機嫌になって、
わけのわからん不快感をとっぱらうように、黙々と、
かなりの量の食い物を消費した。ヤセの大食いってヤツだ。

彼はマズイと食わないので、その姿は真里を安心させた。

皆が美味しそうに食べてくれるので、作った甲斐があった。
ランチタイムはにぎやかで、みんなの中心にいるミハルが
本当に楽しそうにしていて、真里は何よりそれが嬉しかった。

開放された学食の窓から吹く風が、
心地よい冷たさの中にも、湿気を多く含んできたような気がする。

「ちょっと雲が多くなってきたかな……」

 真里は空を見上げて独り言をつぶやいた。
同じように、リヒトも、じっと空を見ていた。

雨が来る……あの時と同じ……雨が。
どうしてかリヒトは、確信に近いものを感じていた。

 空模様が少し怪しくなってきたので、
昼休憩も10分短縮で、午後の部がスタートした。

「ミハルさん!行ってきます!
がんばるので見てて下さい!」

 委員長は黄タイツの上から、学ランを羽織っていた。
午後の一発目は応援団発表だ。
安田もちろん大張り切りで、ミハルに良いところ見せるチャンス!

黄色ブロックの演技が始まった。円陣を組んで団結を固める。

「黄ーブロックのォ~~健闘を讃え~~」

「フレーーーーッ!!フレーーーーッ……!」

ピッピッピッ♪ピッピッピッ♪ピーーーーッ

「フレーーーーッ!!フレーーーーッ……!」

ホイッスルのリズムとタイコの連打。

「カ…ッコイイっっ!!」

瞳をキラキラ輝かせて見ているミハル。

 ミハルは、<応援団>の演技というものを見るのが、
生まれて初めてだったので、その迫力にいたく感動していた。
つくづく体育会系なソウルの持ち主だった。

どうせ来年は、自分もやりたい!って言い出すんだろうな。
リヒトはそう確信して、その姿を脳裏に思い浮かべた。

(イヤ!……それはちょっと!さすがにタイツ姿はイカン!!)

 脳内ひとりツッコミ中のこの男は、
いったい何を想像しているんだろうか……

「ミハルさん!どうでしたか??僕、精一杯やりました!」

息せき切って帰ってきた委員長がミハルに伺いをたてる。

「うん!もう、私すごくカンドーしちゃった!!
応援団ってね。めっちゃカッコいいんだね!
ひと目で気に入っちゃった!!」

ミハルは興奮して、一気に言った。

カッコイイ。カッコイイ……カッコ……
ミハル天使再来。委員長にだけ聞こえる幻のエコーが、
彼の心にこだまする。

別に安田のことを指してカッコイイ、と言ったわけでは
まったく、これっぽっちも、なかったが、
幸せそうなのでこのままにしておこう。

 曇り空のなか、体育祭はさくさくと進み、
競技は残すところあと二つとなった。

 次は大人気企画、部活対抗リレー。
真剣勝負の前のホッと一息。
ここでたっぷりリラックスしておいて、
そのあとラストのクラス対抗男女混合リレーまで、
一気に駆け抜けるのだ。

 部活対抗リレーでは、運動部男子・運動部女子・文化部1・
文化部2のグループごとに4本のレースが行われる。

 リレーと言ってもゴールの順位を競うわけではなく、
そのクラブの特色を打ち出したパフォーマンスをしながら、
トラックを練り歩くパレード競技である。

 クラブ独自のアイデア勝負で、小道具あり、コスプレ有り、
のけっこうキワモノレースである。
 生徒による人気投票で順位がつけられるので、
このレースにクラブ魂を燃やす生徒も多い。

 入場門から、出場メンバーの行進が始まり、
もうすでにこの時点で、各チーム席からやんややんやの
野次まがいのエールが飛び交い、のっけから大騒ぎである。

 大地は、新聞部および各クラブ部長から、
ベストショット撮影を半強制的に依頼されているので、
来賓席の真横に陣取って待機中。

♪ピンポンパンポーン♪

『…クラス対抗男女混合リレーに出場の生徒は、
入場門に集まって下さい…!』

リヒト達にお呼びがかかった。

「来た!」

 日焼け止めを取り出して塗っていたミハルは、
放送を聞いて、ぴょん!と勢いよく立ち上がった。

「あーあー…ついに無くなっちゃったぁー…」

 空になった日焼け止めの、可愛い花柄の容器を
空にかざしてじっと見た。
……さすがにちょっぴり緊張してきたので、
真里の励ましを大いに期待して、後ろを振り返った。

「真里ちゃん!い、行って来るねっっ……!」
「あれ?」ミハルはキョロキョロ。
何故か、さっきまで後ろの席にいた真里が、どこにも見当たらない。

「真里ちゃん?」
「救護班に呼ばれたのかなあ?」

「おい!ミハル行くぞ!」
「う…ん……」
 リヒトに促されて、ミハルは入場門に向かった。

『大丈夫だよ、がんばって!』

いっつも後ろにいて、そう言ってくれる真里がいないのは、
何だかちょっと心細かった。

 そんなミハルの不安をよそに、グラウンド内は爆笑の渦だった。

サッカー部男子の【なでしこJAPAN】に扮した女装姿だとか
(ムネにパッドを入れて、【さわ】とか書いたゼッケンを貼ってある)
女子テニス部の某アニメコスプレだとか、
喝采と大声援のうず。 
さすが高校生のエネルギー、
不穏になってきた空模様を吹き飛ばす勢いだ。

 入場門に整列していたリヒトは、
手首や足首を軽く回したりしながら、
見るともなしにそれを見ていたが、
その視界に、もはや見慣れてきた黄色いタイツ姿が入ってきた。

(あいつコレにも出てるのか。まだあの格好かよ……)

 今度は顔まで黄色く塗って、
【家庭部】と書かれたプラカードを持って行進している。
(そういや、家庭部に入部してきたとかミハルが言ってたような。
何考えて……うん!?)

 リヒトは一瞬自分の目を疑って、
もう一度目を凝らして行進中のその団体を見た。

「真里ィ…!?」

それは真里だった。……間違いなく。

 プラカードを持った黄色の安田を先頭に、
黄色が4人、白が3人、あんまり見て楽しくない
色違いの全身タイツ姿のごっつい男衆(新入部員=MDI)
その最後方に、全身真っ赤な衣装に身を包んだ真里がいた。

 彼女はでかい小麦粉の袋をのせた、
スーパーのカートを突いてやってきた。
赤帽を被って、顔まで赤くメイクしている。(素顔も赤面中)

真里は目を伏せて何かを耐え忍んでいるようであった。

 リヒトはしばらく唖然として、
けなげに行進を続けている真里を凝視していた。

その冷静な表情の下で、タイツ姿でないのが少しザンネンだな……
とか、チラッと思ったこの男は、あとから真里に殴られればいい。
 トラックの中心に着くと、
真里はカートを華麗に(?)あやつり、
小麦粉の袋の下部を一箇所カットして、
そこから一筋の粉が流れ出るようにすると、
グラウンドに器用に円を描いた。

 大きな円一つ、とその内側に小さな円一つ。
もくもくと作業するその姿はまるで職人だ。
何かの恨みでも晴らすかのごとく、
静かに小麦粉を撒いている様は何だか凄みがあった。

描き終わった真里は、カートを離れた場所に置くと、
勢いよくホイッスルを吹いた。

♪ピーーーーッ

最初に合図でやってきたのは白タイツ達だ。

ピッ♪ピッ♪ピッ♪ピッピッピッ♪ピーーーーッ

真里の笛のリズムに合わせて、
彼らは小さな円の中に整列して身を伏せた。

♪ピーーーーッ

 次に黄タイツ達(委員長含む)が、白タイツの上にさらに
重なるように身を伏せる。

ピッ♪ピッ♪ピッ♪ピッピッピッ♪ピーーーーッ

 一体何が起こるんだ。

 手に汗を握って…るワケねーだろ!などと一人ツッコミつつも
結構しっかり演技を見ていたリヒトは、
ふと後ろからの視線を感じて振り返った。

 ミハルが目を見開いてグラウンドを凝視している。

「真里ちゃん……」表情が空白なのがちょっとコワイ。

ミハルの背景には、おあつらえ向きに、雲すら低く垂れ込めている。

ミハル、気をしっかり持て!
真里だってアレで、……いろいろ気苦労が有るんだからな。

♪ピーーーーッ

 最後のホイッスルが高らかに鳴り響き、
意を決したように真里が、黄タイツ達の上に飛び乗った。

『ハイ!オムライスの出来上がり~~!!』

ぴったしのタイミングで、場内にアナウンスが響き渡った。

どうやら真里はケチャップの役らしかった。

 愛すべき家庭部は、果たしてそのアピールに成功したのかどうか、
ヒジョーに微妙なトコロだったが、
パフォーマンスを終えた彼らは、意外にも(?)
会場の暖かい拍手で迎えられた。
委員長達がガッツポーズで、喜び合っている。

「真里ちゃんサイコー!!」

 ミハルの様子をチラ見したリヒトは、
お腹をかかえて笑っている妹を見て、ヤレヤレ、と肩をすくめ、
再びストレッチをやり始めた。

……いよいよ、次はクラス対抗リレー、本日のクライマックスだ。

 大声援のなか、勇壮なマーチが流れる。
選抜選手達の入場と共に、応援の興奮は一気に盛り上がった。

 学年ごとなのでレースは全部で3本。(3学年×4組)
1年のリレーが終わると、ついにリヒト達2年生の番だ。

 会場のうねりは最高潮だが、
それとは裏腹に雲行きはますます怪しくなってくる。
ミハルはじっと、空を見つめ、祈るように目を閉じた。
Tシャツの上から、首から下げたペンダントを握り締める。

「ミハルちゃーん!!」
「ミハルさ~~ん!!」

 濡れタオルで顔に塗った食紅を拭きながら、
(真っ赤な衣装はそのまま)真里が黄色の委員長とともに、
クラス席からミハルに声をかける。

 トラックを挟んだ向こう側で手を振る二人を見つけたミハルは
嬉しくて勇気百倍。リヒトの方を振り向き、
男の子みたいな表情でニカッと笑った。

 第1走者は、それぞれのチームカラーのTシャツを
身につけたクラス担任だ。
先生と言えども、クラスの威信をかけて全力疾走する。

 ピストルの合図で、いよいよリレースタート!!
順番を待つ走者の緊張感もグッと高まる。

 2-Bの担任は、残念ながら3位通過。
あとの走者は生徒5人、
リヒトはその4番目、ミハルがアンカー。

教師はともかく、さすが選抜メンバーの生徒達はみな速い!
1~4位まで、かなりの接戦だ。
いよいよ次はリヒトの番。
……いきなり、ミハルが後ろから抱き付いて言った。

「私たち、絶対一等とろう……!!」

 再び湧き起こる不思議な感覚。その正体を掴もうと、
リヒトは今度はソレに身を委ねた。

彼は振り返らずに言った。
「モチロンだ!」

 2-Bは3位をキープしたまま、リヒトにバトンが渡された。
ばかデカイ声援が次々に彼の耳に届く。

「リヒトー!行けー!!」
「リヒトくーーーん!!」
「お兄さ…イヤ!時任君!
 2-B1位!1位とりましょう~~~!!」

「言われなくても……そうしてる!!」

 いつかのドッジボール以来(笑)の本気を出して、
リヒトは走った。

「……まずは赤Tだな!」

 彼がどういう基準で人を見分けているのか知らないが、
最初のターゲットは赤、たぶんそれしか見えてない。
2位を疾走する赤Tに、あっと言う間に追いついて、
鮮やかに抜き去った。
2-Bクラス席から怒涛のどよめき。
本気になったリヒトはかなり無敵であった。

「次は……青!!」

 まっすぐ前を見据えて走るリヒトの視界に入ってくるのは
左手を精一杯伸ばして、彼を待つミハル。

バトンタッチ!!

…はギリギリ青の方が早かった。

「頼んだぞ!!」

 リヒトはゆっくり速度を落としながら、
息を整え、走っていくミハルを目で追った。

 キレイなフォームだ。
そして何よりミハルは今、走れる事を楽しんでいた。
全身全霊使って、カラダを動かせる喜びを体現している!

「ミハルちゃーーん!!」
「ミハルさーーーん!!」

 なぜか、2-B席以外からも、沸き起こるミハルコール。
青T、ターゲットオン!!!

ちっちゃなミハルが、
自分よりずっと大きな男子を抜き去って走る。
少しも、そのスピードが揺るぐことなく、
一直線に、兄の待つゴールに向かってダッシュする。

(リヒト!やったよ……!!)
(そうだ!ミハル!それでこそお前だ!!)

2-Bの大歓声。もう止まらない。

 真里は唐突に、病室で眠っていた頃のミハルの姿を思い出して、
ナミダが溢れてどうしようもなくなった。
 顔は恐ろしいコトになっていたが、
隣に立っていた安田はさらにヒドい顔をしていた。
二人はお互いの顔を見て……泣きながら大笑いした。

ミハルは、バトンを持った左手を高く掲げて、テープを切った。
同時に2-B席が舞った。

「リヒト!……リヒトーーー!!!」

 ミハルは勢いもそのままに、
リヒトのもとへ掛けて来て跳びついた。
ミハルの鼓動がダイレクトに伝わって、
リヒトの心さえ、アツくする。

「良くやった!!よくやったな!ミハル!!」

「うん!うん……!!」

 リヒトはまるで、犬っころにするみたいに
ミハルの頭をくしゃくしゃに撫でまわして、素直に喜んだ。
リレーメンバー達がやってきて、二人を取り囲んで
ハイタッチを繰り返す。

二人でいると、何でも出来る気がした。

少し離れたところから、
その一部始終をカメラに収めていた大地は、
それでもまだ飽き足りずに、ファインダーを覗き続けていた。

ポツン、と水滴が……レンズの上を滑り落ちる。

「?!」大地は反射的に顔を上に向けた。

雨が……降ってきた。

 トラックでは、3年生の最終レースが始まっている。
絶叫に等しい声援が飛び交う。

 大地はカメラをゴール前に構えながらも、
兄妹の様子が気にかかって仕方がない。
リヒトに抱きついたままのミハルの表情は見えないが、
虚空を睨み据えるリヒトと目が合った。

先ほどまでとは、あまりにも違うリヒトのその表情に、
大地は思わずつばを飲み、シャッターを切ってしまってから
苦笑いする。

 3-Dがトップをとった。
本格的に降り出した雨に濡れるのも構わず、
生徒達の熱気が会場を席巻していた。

♪ピンポンパンポーン♪

『…雨が本降りになってきましたので、
閉会式は体育館で、3時20分より行います。
所用をすませた生徒から、すみやかに、
体育館に集まってください。』

 とりあえず濡れると困るものを、屋内へ移動させていると
アナウンスがあって、生徒達は更にせわしなく動き始めた。

「まだ10分ほど余裕があるわね……」

 真里は体育館へ行く前に顔を洗おうと、
女子トイレに向かった。大勢の生徒が行き交うなか、
廊下の途中で、壁にもたれていたミハルがにこにこ笑っている。

「真里ちゃん、すっごく良かったよ!あの……オムライス!」
「あら?何の話かな~?」

真里は目を泳がせている。どうやら彼女のなかでは、
今回のパフォーマンスは黒歴史に分類されているようである。

ミハルが、真里の首にかけてあるホイッスルを目敏く見つけた。
ご丁寧にここまで赤く塗ってある。

「わーソレ、吹いてたヤツだよね…カッコイイなあー」
「え~~? ただのホイッスルだよー」真里は苦笑する。

「応援団も……コレ吹いてたもん!」
ミハルは人差し指を一本たてて、興味津々の様子だ。

「ホント、ミハルちゃんって意外なものに興味示すなあ」

 真里は、そんなミハルを微笑ましく思った。
コホン!と一つ咳払いをして、ミハルに近づく。

「……それより、ミハルちゃんの方こそ!
ホントにスゴかったね!!」
そう言うとにっこり笑って、
ねぎらうように手をとって軽く握った。

 二人は笑い合いながら、連れ立って歩く。

「ほら見てコレ~!ついに今日カラッポになっちゃった!」

 ミハルは、真里に以前プレゼントされた日焼け止めの容器を
顔の前で振ってみせ、まるで自慢している風に言った。

「え…早っ…!まだひと月くらいしか経ってないよ!」

真里は目をまるくして大げさに驚いてみせた。

「明日の休み、うちに来るでしょ。どうせ食材買いに出るから、
その時一緒に買いに行こっか!」

ミハルは、とても嬉しそうにニッコリ笑ってうなずいた。

真里が顔を洗う間、ミハルは後ろで待っていた。

「リヒト君も凄かったよね。
今日の2-B殊勲選手は時任兄妹ってとこかしら……」

 真里は顔に石鹸を塗りながら背後のミハルに話しかける。
ニコニコと穏やかな笑顔のミハルが、前方の鏡に映っている。

 ミハルがゆっくり口を開いた。

「真里ちゃん……」
「真里ちゃん。リヒトはねえ。確かに何でも出来るんだけど……
どっかズレてるからねえ?……妹として、ちょっぴり心配なの!」

「あはは、まあ、ねえ……?」

 真里は石鹸を洗い流すため蛇口をひねり、
手に受けた水を顔に勢いよくかけた。

「だからお願い。ずっと……
 ずっとリヒトに、付いててあげてね!」

「え?」

 水道を止めて顔を上げると、
たった今まで、ミハルの姿を映していた鏡の中にその姿がない。

「?ミハルちゃん……?」

 慌てて後ろを振り返った真里は、
女子トイレを飛び出して、すぐさま廊下を見渡した。

しかしすでにどこにも、ミハルの姿はなかった。

「ミハルちゃん……?!」

 真里の心に強い不安が忍び寄る。
何か取り返しのつかない事が起きたような、絶望的な感覚。

不安を振り払うように、真里はミハルの姿を求めて駆けだした。
何度も何度もミハルの名前を大声で呼びながら、その姿を追った。

ミハルはどこにもいなかった。

彼女はリヒトを探して、体育館まで必死で走った。

 しかしリヒトも、どこにもいなかった。
人に聞いても誰も居場所を知らず、
こつぜんと消えたかのように。

 大地に協力してもらいたかったが、
何故か彼の姿さえ、見つけることが出来ない。

(さっきまでみんな……みんな一緒に笑っていたじゃない?!)

 真里は雨の中、校舎の中、皆を探してひとり走り続ける。

『お願い。ずっと、リヒトに付いていてあげてね』

ミハルの穏やかな微笑が、真里の不安をいっそう募らせる。

(どうしてそんな事を言うのだろう。
どうして、二人とも、私に同じ事を言うの……?)

 真里は泣き叫びたいような気持ちで、ひたすら走った。
携帯電話は、体育祭中の規則で全員教室に置いてあるハズだ。
彼女は2-Bの教室へ向かった。

「リヒト君!リヒト君どこなの……?」

「立石部長!どうしたんです?」

 真里のただならぬ様子に、教室で着替えていた委員長が
驚いて飛び出してきた。
あちこち走ってきた真里は全身びしゃぬれだった。

「安田君!!大変なの。ミハルちゃんが、いない。
リヒト君もいないの……二人一緒だといいんだけど!」

「ミハルさんが?」

 安田は、すぐに自分の携帯を取り出し、
ミハルとリヒトの携帯を鳴らしたが、
教室内に2種類の着信音が空しく響くだけだった。

ふと、真里は、安田の携帯にぶら下げてある
見覚えの有るお守りのようなものに目をとめた。

「これ……安田君!これどうしたの?!」

「これ?ああ~これは……」委員長はモジモジと言った。

「これは、この前ミハルさんが……肌身離さず持っててくれと!
僕に、手渡してくれたのです!!」

 彼はそれを愛しそうに胸の前で抱きしめると、
ムダに軽く頬を染めた。
幸せそうに頭の後ろを掻いている委員長とは裏腹に、
真里は言葉を失って真っ青になった。

それはリヒトの手から、真里とミハルの二人に渡されたモノ。
大地が用意してきたお守り代わりの護符だった。

(ミハルちゃん……貴女は……!)

 真里はふらふらと窓際に寄り、
さっきまで賑やかだったグラウンドを恨めしそうに眺めた。

 雨は激しさをさらに増していく。
真里の心まで支配していくように。

ふと、足元に落ちている小さなものが目に入った。

真里はそれを手に取った。白地に赤い花柄の小さなその容器。
……忘れるハズもない、カラッポのその容器。

『ほら見てコレ~!ついに今日カラッポになっちゃった!』
どこか自慢げに、その容器を振って見せたミハルの顔が浮かぶ。

(ここに居たんだ!さっきまで……!!)

真里は激しく動揺してよろめいた。

『リヒトには、かみさまとの……約束の事は言わないでね』
(かみさま……神様ってなに?
どうして私の、大事なものばかり……さらっていくの!)
(なんとか……なんとかしなくちゃ……!
私は、あきらめが悪いのよ……!!)

 真里は、安田から手渡されたタオルを強く握り締めたまま、
使おうともせず、うなだれて思いを巡らした。

「立石部長……たしか槣原君は、
携帯を持ち歩いてませんでしたか?」

 委員長が思い出したようにそう言った。
そうだ。昼食の時!
『オレ報道班だから。トクベツ。』ニカッと笑った大地の顔。
真里は顔を上げた。


 バシャッバシャッバシャッバシャッ…
泥をはねあげながら、大地が、校庭の隅を走っている。
何かに怒っているようなカオをして。

『でも大地……お姫様には、自分なりの考えがあるんだ』
目を閉じて、ミハルの写真を触っていた【チトーさん】がそう言った。
『自分なりの……考え?』

【あくまでその場しのぎ】と言う注釈付きで
例の護符を手渡された時、彼女は大地にこう言った。

『そう……君達は、お姫様をここに留めておこうと
するだろうけど、そうすればそうするほど、お姫様は苦しいワケだよ』

『”ここに居たい”のに?』

『”ここに居たい”のに』

【チトーさん】は、大地のセリフをオウム返しに繰り返して、
フッと苦笑いする。

 手に持ったリヒトの写真をテーブルに置くと、
大きなためいきをついて、彼女はボソッとつぶやいた。

『ホンマに。まれに見る強引なヤツやなァ……』
大地はハッとして顔を上げた。

そう言う【チトーさん】の声も表情も、どこか楽しげで、
霊能者でない素の彼女に戻っていると思えたからだ。
彼女は地が出ると、独特の関西弁になる。

そのあと【チトーさん】は、大地の背中をポンっと叩いてこう言った。
『助けてやんなよ、世話焼きさん!』

……大地は走る速度を更にアップした。

 自分がリヒトの手助けをしてやるにしても、
生半可な手出しが危険であることは十分理解していたので、
出来れば、素人を巻き込まずにいたいと思っていた。

 しかし一方で、真里と安田の二人が、
その提案に素直にイエスと言うわけが無い事も良く解っていた。

(まあいいか。二人は護符を持ってる……)
もともとが楽天的な大地は、良い方向に考えた。
今頃、立石と委員長もこっちへ向かっているハズだ。

20分ほど前。
「真里ちゃん、ごめんね……!!」
1階の女子トイレに真里を置きざりにしてきたミハルは、
さすがの俊足ぶりを発揮して、一気に階段を駆け上がった。

 多くの生徒が、既に体育館に向かったらしく、
2階の廊下は、1階よりずっと人が少なかった。

 ミハルは真里が来ないか確かめながら、とぼとぼ歩いて、
2-Bの教室の前までやってきた。

中には誰もいないらしく、教室は施錠されていた。

カギのある場所はクラスの生徒には知らされていたので、
廊下に誰も居ない事を確認すると、
ミハルはそっとカギを開け、教室の中に入っていった。

誰も居ない教室はとても静かだった。雨の音しか聞こえない。

 ミハルはポツンと自分の席に座って、
しばらくあちこち眺めていたが、やがて立ち上って、歩き始めた。

「ダイチの席」

「真里ちゃんの席……」

次々と、何かを確かめるように歩いていく。

「安田クンの席」

「リヒトの……」

 机の上に無造作に置かれている、見慣れた兄の、
くたびれたカバンを見て、つぶやいた。

「新しいの、買えばいいのに……」

 ミハルは、ぎゅっと、【カエルン】を握り締め、
窓際へ近寄った。本降りになった雨が、グラウンドを
水びたしにしている。

(ついさっきまで、降ってなかったのにな……)

 廊下の向こう側からかすかなざわめきが聞こえてきた。
ハッとしたミハルが振り返ったとき、
ポケットから落ちた何かが、小さな音を立てた。

 そっと窓から覗くと、D組の前あたりで談笑する、
白タイツや黄タイツの姿が目に入った。

(着替えに来たんだ……)

ミハルは急いで教室を出て、階段の陰に隠れて様子を伺った。

委員長の安田が、2-Bの中に入っていくのが見えた。

ばいばい、安田クン……元気でね。
ミハルは心でそうつぶやくと、また走り出した。

 学食の大きな窓からグラウンドを眺めると、
まるで湖のようだった。
 晴れた日は、あんなに気持ちよく、
キラキラと日光を取り込んでいた天窓も、
今は受け止めた雨を、そのまま滝のように流している。

 ミハルはその光景を見あげて、少しゾクッとした。
まるで自分がいた、暗い井戸の底からの眺めのようで……
急に心細くなって、ペンダントをしっかり握る。

 体育館では、今頃閉会式の真っ最中だろう。
ここには誰も居ない。

(昼間はあんなに、いっつも騒がしいのにな……)
ミハルの顔にフッと笑みが漏れる。

まだたったひと月しか居ないのに、この場所はもう、自分の日常だった。
その事にミハルは改めて気づかされた。

 くじけそうな心を、強く引き締めて、
ミハルは勢いよく、扉をあけた。

雨音がミハルの全身を包み込んだ。

 ミハルはゆっくり歩いていく。
どこからか現れた青いカエルが、飛び跳ねながら、一歩先を行く。

校庭を抜けて、敷地の西側の、端へ端へと……

 大きなプール棟の中に入っていくと、
シャワー室を抜けた先には、プールが在る。

「……どこへ行くんだよ?」

 凄みのある低い声でそう囁かれ、
ミハルはドキリ、として立ち止まった。

 暗いシャワー室の片隅で、
足を投げ出して座っていたリヒトが、
ミハルをじっと見あげている。

「リヒト……」まともに顔を見ることなんて出来やしない。

「ど・こ・へ……行くんだ?」

リヒトは立ち上って、ミハルの方に近づいてくる。

(来ないで、リヒト……!)
ミハルは彼から逃れるように、プールサイドに走り出た。

「ミハル……!!」
こちらを見ようともしないその態度に、無性に腹が立つ。

 ミハルの腕をつかんで、強引に引き寄せたリヒトは、
うつむく彼女の、顔を覗き込んで驚いた。

……ミハルの心がここにない。
そんな風に感じたのは初めてだった。
泣いているのでもなく、うつろなその瞳。
今までに見たことがなかった、妹のそんな表情に、
リヒトはとまどいを覚えた。

「戻らないと……ダメなの……」
ミハルはやっと、それだけ言った。

「戻る?!どこに戻るって言うんだ?
オマエの居場所はここだけだろ……?!」

「私……私は!」

(ここに居たい、そう言えたらどんなにいいか!)

 叩きつけるような雨の音が、プールに吸い込まれていく。
幾粒もの雨が、水の中の気配を浮き立たせる。
巨大な水中の渦から、何かが形を為そうとしていた。

 ミハルはハッとして、顔を上げた。
井戸神はもう、そこに居る……!
 雨の音が激しく耳に残る。
ミハルはきつく目を閉じて、覚悟を決めた。

 リヒトの腕を振り切って、自らプールに飛び込もうと、
勢いをつけて軽くジャンプする。
かなり俊敏な動きだったが、
そのアクションは、プールまであと1歩のところで
ミハルの行動を予測済みのリヒトによって封じられた。

「リヒト!離して!」

 彼はミハルを後ろから抱え込むように捕らえて、
逃れようともがく妹を、強く自分のカラダに引き付けた。

「……オレにも見えるぞ……不本意だけどな」

かなりの危機的状況のさなかにもかかわらず、
リヒトが発した言葉には、彼が何かを発見した時特有の、
かすかな興奮が含まれていた。

声の調子からミハルにもその事が良くわかった。

「私たち……同じものを見ているの?」
「ああ……オマエと、くっついてるとな……」

 リヒトはそう言って、眼前のプールを凝視し続けている。
大きな瞳を瞬かせながら、ミハルも同じ方を見つめ続ける。

 水けむりが二人の周り一帯をすべて青い色に染め上げ、
濃い霧の中にいるように、視界はぼんやりと、
肌にぴったりと重苦しい湿気がまとわりついて、
自由に動けなくなる。

ミハルが顔だけを窮屈そうに反り返らせてつぶやいた。

「来てはダメよ……リヒト」
「……もう遅いだろ」

 やがて二人が立っているその足元も、プールサイドも、
水中なのか、そうでないのかの区別さえつかなくなり、
あれほど煩く聞こえていた雨の音すら遠くなっていった。



「!!!!!」

 シャワー室をドタドタと足早に駆け抜けて、
勢いよくプールサイドに飛び出した大地は、
眼に飛び込んできた光景に、急ブレーキを余儀なくされた。
一歩先さえ見るのに苦労する。

「何だこの霧……!!」

水上は青白い光に包まれ、周りは濃い霧に覆われていた。

ぴったりとカラダに張り付く空気の重さは湿度100%以上の体感だ。
全身の毛穴から汗が一気に噴出してくる。

「いくら大雨とは言え、これは……」

 彼はプールサイドの周りを用心深く歩きまわり、
ある地点に来ると、プールの淵に立って、水の上にそっと右腕を差し出した。

 突き出した腕に雨粒があたらない。
そこだけ雨が降っていないのだ。

「神さんのステージかぁ。あー……やっべえなあ」

 大地は額に手をやって、しばらく何か考えていたが、
今来た方向にチラ、と目をやると、大きく息を吐いて、
ドカッとプールサイドに座り込んだ。

「無事でいろよ、リヒト……」

 大地は胸ポケットから念珠を取り出し、
左腕を空中に突き出して、祈願するようにそれを見つめる。
胸の前で一度目を閉じて合掌したのち、
開いたその目はどこでもない空間を見据えていた。
彼は何か唱えながら精神統一をし始めた。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」
深く、深く……もっと深くだ……

自分の鼓動がハッキリと聴こえ、
それが周囲の雨の音と同化していく。
それすらだんだんと遠くなっていき、
プールサイドから、フッと彼の気配が消えた。


『あいつらは多分プールだと思う。オレはスグに向かう!』

 やっと携帯がつながった大地に、真里が二人の不在を告げると、
彼はそう言って慌しく電話を切った。

真里と委員長は、彼の後を追うようにプールへとやってきた。
シャワー室から出ると、辺り一面真っ白けだった。
「何なんです……これ?」 委員長は空間を仰いだ。

大地とは、先ほどから再び連絡がとれなくなっていた。

「どうしたかしら……大地君」
「立石部長……気をつけて」
「ええ……」

 真里と安田は、ゆっくりとプールサイドを進んでいた。
視界はとんでもなく悪く、ボーッとしていると
足元に地面がない、なんて事になりかねない。
真里は無意識に護符を握り締めた。

「ひゃあっっ!!」
先を歩いていた委員長が、すっとんきょうな声を上げて立ち止まる。

「どうしたの?!安田君」
「危なかった……もう曲がり角だと思い込んで……
 もう少しでプールにつっこんでしまう所でした」

人騒がせな、とつっこみたいのはこちらの方だったが、
ともかく二人は気を取り直して先に進む。
プールを大方半周したところで、再び安田が声を上げた。

「ひゃあっっ!!」
「!今度は何なの?!安田君……?」

立ち止まった安田の指差す方を見ると、
ぼんやりした視界の先に、座っている大地の背中が見えた。
真里はホッとして、呼びかけた。

「大地君!」

彼はプールの方を見つめたまま振り返らない。

「大地君……?」

 大地の前に回り込んで覗き込むと、
彼は胡坐の上に手を組んだ姿勢で、虚空を見つめていた。
目も開いているし、息もしているのに、
呼びかけても何の反応も示さない。

「大地君……?」

委員長がゆさぶろうと肩に手を掛けた。

「動かさないで!!」

静かだが力のこもった声に驚いた二人は、同時に後ろを振り向いた。

「今ここにいないだけ……心配は無用だ」

いつの間に入ってきたのか、
一人の女生徒が、彼らの真後ろに立っていた。
ただでさえ深い霧の中、
長い前髪とメガネでその表情は見えない。

 彼女は大地の近くまで歩み寄り、
青白い霧の奥をしばらくじっと見つめていたかと思うと、
ゆっくりと息を吐きながら、大地の背中に手をかざして、
何か、二、三言つぶやいた。

やがて彼女は、二人の方を振り返り、
真剣な眼差しをして、強い口調で言った。

「ここから先へは絶対に行ってはダメだ!
それから、何があっても、護符を離さないで」

真里と委員長は顔を見合わせた。

「あの!貴女は……何か知っているの?
ミハルちゃんはどこにいるの?リヒト君は無事なの……?」

真里はたまらず、そう尋ねた。

「……二人ともこの中だ。今はとりあえず無事」

彼女の指は青いもやに覆われたプールを差していた。

「ミハルちゃん!!」
「ミハルさん!!」

 真里と安田は思わず、プールの淵に駆け寄って、
下を覗いて叫んでいた。

 二人のその様子を見た女生徒は表情を少し和らげて、
フワリと、微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。

「大丈夫……大地に任せて。
あと、時任理人と……未晴。とにかく、
二人が戻ってくることを強く信じるんだ」

 多少上から目線な物言いだったが、
得体の知れないものに対して無力を痛感していた二人は、
何か助けを求めるように、女生徒の居た方を振り返って見た。

だがすでに、その気配すら、どこにも残っていなかった。
降り続ける雨の音が、プールサイドに響いているだけだった。

「私たちに出来る事は……何もないのかしら……」

「…………」

 真里の力ないつぶやきに、
安田は真剣に何かを考えているようだった。

「部長……プールの水を抜いたらどうでしょうか?」
「それは!……でも水が抜けるまで一日以上かかるわ!
 この雨だし間に合わない……」
「雨はまた、スグに止みますよ。やらないより……」
安田はグッと拳を握り締めて言いなおした。

「やらないよりきっと、マシですよ!
僕は……ミハルさんを助けたいんです!!」

(助けたい。そう、もう会えないなんて、絶対にイヤ。
私にもまだ、出来ることは有るわ……)

「そうね!私も……助けたい!!
 あきらめないで、やりましょう!」
「さすが……立石部長!」
安田はガッツポーズをして、真里は微笑んだ。


 うす暗い水の中では、
どっちが上なのか下なのかすら、よく判らない。
 リヒトとミハルは、ぴったり身を寄せ合ったまま、
その中を漂っていた。

 リヒトは自分の置かれている状況の不可解さに
気難しい表情をしたまま、黙り込んでいた。

 ナゾに対する答えが欲しかったが、
今はそれより、どうやってここからミハルを連れ出すか、
そっちの方がはるかに重要だった。

どのくらいそうしていたのか解らないが、
突然、前方から青白い光が、染み出すように近づいてきた。
抱いているミハルの体が瞬時に緊張したのがわかった。

 来る。

そう思ったのと殆ど同時に、
二人の目の前に眩しい光が舞い降りた。

(これがそうか……前回は気を失う寸前だっだからな……)

 一瞬の眩しさに片目をつぶりながらも、
今はミハルが触媒となって、朴念仁なリヒトですら、
ハッキリとその姿を捉えることができた。

 目の前に現れた井戸神は、あまりにも堂々としていて、
実際よりもずっと大きく見えて、圧倒される。

 まっすぐにこっちを見据えてくる瞳は、
自信に溢れて、神々しい光を放っている。

リヒトもひるまずに、神の方を見返してはいたが。

(コレが【神】ってモノなのか……?)

 リヒトはその姿を、まじまじと上から下まで眺めていた。
見慣れぬ古装束を身につけ、
整った目鼻立ちに、吸い込まれそうに深い瞳。

不謹慎だが…美しくて、魅力的だと思った。

 井戸神は片手を伸ばして、
ミハルの方に向かってぐい、ぐい、と手招きした。

ミハルはそれに反応して身を捩った。

「リヒト……離して……」

「行かせねえって言ってんだろ」

リヒトはミハルのおでこに手をやりながら、念を押すように言った。

「教えてくれ。どうやったらコイツを戻せる?」
リヒトはまっすぐに、井戸神に問うた。

 【神】がこちらに近づいてくる。リヒトは身構えた。
しかし井戸神は、ミハルを引き離そうとするのでなく、
そっとリヒトの額に手をやった。

 突然、麻薬を注入されたかのような酔いを感じて、
吐き気を催した直後、脳裏に幼い頃の自分がシンクロしてきた。

 『リヒトー!!青いカエル…見たんだよ!』

 田舎の田んぼ、春雷、壊れた井戸の封印。
ミハルを助けようとして……でも出来なかったオレ。
リヒトはすべて思い出した。

 昔、井戸神をこの目で見ていた。

 飛び込んだ井戸の中で、ミハルを見つけられなくて……
この前プールに入った時と同じように……

息ができなくて、苦しくて、意識を手放しそうだった。

そうだ……あの時死ぬのは自分だったんだ。

大地が最後まで、口をつぐんでいた真実を彼は知った。

「ミハル……あの時、オマエはオレの身代わりに……!」
「違う!違うよ!リヒトのせいじゃない!!」

 ミハルのカラダは、小刻みに震えていた。
それを押さえつけるように、
ミハルを抱く手にいっそう力がこもる。

彼はしばらく前から考え続けていた事を口にした。
「あんたが何か知らねえが……
 ミハルを還してやってくれ。必要ならオレがここに残る」

「何言ってるの……!リヒト!」
「リヒトは!こんなトコに居たら死んじゃうよ……!!
息できないんだよ!今だって……!私がいるから!!」

ミハルは激しくかむりを降った。
彼は少しムッとした。
(オレはオマエに、助けられてる、ってワケか……)

「オレが残る!」

「イヤだよ……イヤだ!!……リヒトがいないなんて!」

「真里がいる!いつでも、オマエを助けてくれる」
「何か、困った事があったら……大地に言え。
  大概のことは解決してくれる!」

「……委員長だって居るだろ……」

 皆の姿が目に浮かんだ。
本来あそこにいるのはミハルであるべきだ。
いないのはオレの方なんだ。

「イヤだよ!!絶対イヤ!」
「……いいからオレの言う事聞けよ!オマエは戻れ!」

 リヒトはミハルを強く抱き寄せてそう言った。

ミハルの大きな瞳に、大きなナミダの粒が浮かんだ。
「あの時……青いカエルに魅入られたのは、私……」
「リヒトはただ、私を助けようとしただけなんだよ!
どうしてそれがわからないの!」

ミハルは、子供のように声を上げて泣き始めた。
ただ純粋に悲しげな、その声がリヒトのココロを締め付ける。

(ミハル……オレはオマエを、二度と失うワケにいかないんだ。
 どうしたら…どうしたらオマエを泣かさずに済むんだ!!)

 めったな事では揺らがない、
リヒトの精神がオーバーヒート寸前まで追い詰められる。
彼は目を閉じた。

(誰かに祈った事はないが……何でもいいから、チャンスをくれ!!)

「ゴポッ!!」

 異様な音がして、二人の足元が一瞬揺らいだ。
いち早く異変に気づいた井戸神が、上を見上げている。

かすかな動きが水中に生まれる。
水流が出来てきて、やがてうずを巻きはじめた。

何があった……?

『ピーーーーーーーーーーッ』とホイッスルの音が響き渡った。

『ミハルちゃーーん!』
『ミハルさーーーん!!』

誰かに強く呼ばれた気がして、ミハルはハッと上を向く。

 次の瞬間、目の前の空間が、グワッと歪むのが見えた。
緩い拘束から解放される二人。自由にカラダが動く!!

『待ってました!!……スキありーー!』

聞き覚えの有る、デカイ声が周囲に響き渡った。
二人の上方から、トツゼン明るい光がさして来る。

『リヒト!こっちだ!』
リヒトの耳元で、ハッキリと大地の声がした。

 水流が強くなって、リヒトはミハルを抱く腕に、
いっそう力を込めた。

『リヒト!泳げ!泳げ!!!』

『上だ!!上に向かって……』

 ミハルを抱えて、片手でコントロールが難しい。
激しい水流、このままじゃ溺れてしまう。

「離して、リヒト!私、戻らなきゃ……!」
腕の中で暴れるミハル。

「このおてんば娘!たまにはオレの言うことを聞け!  
  ……絶対離さねえええ!」

もみくちゃになりながら、必死で泳ぐ。

『泳げーーーーっっリヒトーー!上だーーーー!!』

(チックショー!!!
こんな事ならもっとさっさと…
スイミングでもなんでも行っときゃ良かった……!!)

 プールサイドには、びしょ濡れになりながら、
水栓のバルブを解放し、ミハルの名を叫び続ける安田と、
プールに向かって胸に下げた赤いホイッスルを吹き続ける真里の姿があった。

 青いもやの中から、うなり声のような奇妙な音が聞こえる。
真里と安田の前に、水流を纏った巨大な井戸神が姿を現して、
二人を睨みすえる。

「ひぇーーーっっ」

震え上がる二人は生きた心地もしない。
水が、勢いよくこちらに迫ってくる。

近くに居る大地は、微動だにしない。

『何があっても、護符を離さないで』
あの女生徒は確かにそう言った。

「二人は戻ってくる!私は信じるわーー!!」
真里はそう叫んで、井戸神の前に護符を突き出した。

一瞬、水の動きが止まったかのように見えた。

 井戸神がふっと息を吹いた。

 護符を入れたお守り袋が持っていられないくらい熱くなり、
真里の手から落ちたその袋がボロボロと朽ちていく。
プールサイドにむき出しになった護符が雨に濡れる。

護符を拾おうと屈んだ真里に、容赦なく水が襲い掛かる。

「おじい様!おばあ様!!どうか……先立つ不孝をお許し下さい!!」

 安田はそう言うと、決死の覚悟で真里の手をひっつかんで
引き寄せ、自分の護符を前にかざした。

 神と睨みあう真里と安田の眼前に、
もやの中から、ミハルを抱きかかえたままのリヒトが
ブワーーーッツ!!と、飛び出してきた。

「よっしゃあ!!!」

 半開きだった大地の目がバチッと開いた。

「ふぇ~~~」

 深いため息とともに後ろへ倒れ込む。
彼のカラダは、途端に暑さを感じて、汗がどっと噴き出してきたようだ。

安田と真里はその場にへなへなと崩れ落ちた。

 リヒトが珍しくへたり込んで、ゼエゼエと肩で息をしている。
ミハルはまばたきを繰り返して、周囲を見渡している……

皆のなかで唯一立っているミハルが口を開いた。

「かみさま…もう真里ちゃんたちに手を出さないで!」
「ミハルちゃん……!」

 ミハルは、もう一度皆の方を見回してから、
井戸神に向き直って言った。

「私……戻ります」

 全員一致でミハルを見上げる。
大地がむっくり上半身を起こした。

「かみさま。私、ここに居たいの。
戻ってくるために、何でもするよ……」
ミハルが顔を上げて言った。

「ありがと真里ちゃん。ごめんね。」
ミハルがにっこり笑って、両手をひろげて言う。

「真里ちゃんだいすき!みんな……みんな大好き」
「私……絶対……!帰ってくるから」

 真里は言いたいことが声にならなかった。
下を向いて唇をかんで、泣くまいとしていた。
一番つらいのはミハルちゃんのハズ。
わかっているのに、抑えきれない……
ミハルが、そんな真里を抱きしめた。

「私ぜったい帰ってくるから」

 ミハルは上を向いてそう繰り返した。
真里越しに安田の方を見て、(と安田は思った。)

「だから、待ってて?」

「ハ……ハイ……!!!」

 安田はむりやりに笑顔を作って、強くうなずいたが、
あとからあとから溢れてくる涙をどうすることも出来なかった。

「リヒト!」

ミハルが、呆然としているリヒトの近くにやって来た。

「私、いつでも見てるからね。……忘れないでね」

ミハルが後ろを向いて、自分から離れようとしている……

「何言ってるんだよ……ふざけんじゃねえ!」
リヒトは思わず立ち上がって、その手を取った。

「やめろ……オレが行く!」

「ダメーーー!!!」

ミハルは精一杯力を込めて言った。

「リヒトは私を……ここへ戻してくれたよね」
「だから、また出来る。何度でもできる、リヒトなら……」

 ミハルはぎゅっと強く、兄の手を握り締め、
まっすぐリヒトを見つめて言った。

「私にはそんなこと、出来ないよ」

 自分では、リヒトを救い出す事は出来ないのだ。
リヒトなら、自分を救える。必ずまた会える。

「行くな!!絶対に行くな!!」

 真正面にいるミハルの目に自分の姿が映っている。
その姿がグラリ、と揺らいだ。

抱きついてきたミハルが、自分に言い聞かせるように呟いた。

「大好きリヒト……ずっと一緒にいたい!!
 だから、だから行くんだよ……!」

 強く抱き寄せて、その顔を真剣に見つめる。
涙が浮かんではいたけれど、彼女はふわっと……笑って、
リヒトの耳元で囁いた。

「私、いつでも見てるからね。……忘れないでね」
必ず、また会える……!!


青いもやが音もなく二人を包んで、少しの間息苦しくなった。

しと……しと……しと……

しと……しと……しと……

 雨の粒がずいぶんと小さくなって、
先ほどまでとは違う穏やかな空気があたりに漂っている。

 リヒトは、ミハルを抱きとめたまま、空のどこかを見ていた。
ぐったりと力の抜けたカラダを、その腕にかかえて立ち尽くす。

抱きしめていたミハルの体温が、段々と冷めていく。

もう、ここにはいない……

 リヒトは力が抜けたように座り込んで、
もう一度、ぼんやりと空を見上げた。

その様子を見ていた大地は、自分の方がたまらなくなって、
でかい図体をして、むせび泣いている。

「リヒト……な、泣くなよ!男だろ……!」

「泣いてんのは、オマエだろーが……」

 リヒトはまゆ一つ動かさずに、
まだぼんやりと空を見つめている。

 彼は腕の中の妹を、ぎゅっと強く抱きしめた。
胸にカタイものが触れる。

 ミハルの胸のペンダントを、リヒトは手に取って眺めた。
それからそっと、ミハルの胸に耳を当ててみる。

……確かな鼓動が感じられる。

呼吸している。生きている。
このカラダは、まだオレのものだ……!

「まるで、眠ってるみたいだよね……?」
真里が近づいて来て言った。

「眠ってる、ようにしか見えません……!!」

「今にも動き出しそうだ……ぜ……」

泣きべそ顔の皆が、ミハルに触れて口々に言った。

「眠ってる……だけさ」

リヒトはミハルを抱いて立ち上がった。

 あれほどひどく降っていた雨が、いつの間にか上がっていた。
雲の隙間から、差し込む夕日が皆の顔を照らしている。
リヒトは、口を真一文字に結んで、光に顔を向けていた。

何事も無かったかのように、あたりは静かだった。

「僕は……眠り姫を救う王子になりたかったんです。
 でも僕には、まだまだかな……」
 鼻を啜り上げながら、委員長がポツンとそう言って、
リヒトをじっと見た。

「時任君……あなたなら、絶対に出来ます!!
ミハルさんに、また会いたいのです。お願いします!!」

「言われなくても……!そうするさ……!!」


                  The End.(To be continued.)
                                     




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