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親14年。そろそろ親としてのスタイルを変えてもいい時期じゃないのか

高校には行かないと言い出して1年。
本当か嘘か気まぐれか。

何も言わずにそのままフツーに高校行って大学に行けば母さんは何も考えなくてもよくて楽だと思うのだけど、少しだけその言葉でホッとした。

高校に進学しなければその後どんな風に生きていくのかを話す機会ができたし、母さんや父さんがあなたの側でずっと養っていくわけではないということも話せた。

自分と照らし合わせることしかできないのが子育てだけど、その分いろんな人と生きてきた過程を話す機会もたくさん作ることができた。

わたし自身、いつ自立を意識したのかを思い返すと『この人たちを頼っていてもわたしは自由にはなれない』と感じた高校2年。自分でお金を稼がなければこの人たちの都合だけで振り回されるだけだとわかった。結果在学中に家を出た。

でも、いまの環境でわが子にその機会を作るのは困難で、放っておいてもそうはできない。意思を持ってこちらもやらなければならないし、彼女自身も機会を持って考えなければならない。

家族が子どもに教えてあげられることは本当にわずかで、ちっぽけで、それだけでは足りない。考え方は様々ではあるけど、教育は与えてもらうよりは自然発生的に訪れるほうがいいし、取りにいけるほうがいい。

動物的にいうと、人間は9歳程度で動物としての自立ができるようになっていて、最低限の機能が備わっているのだとか。その後はもっと親と違う場所や人からの刺激を受けるほうがいいと思うし、なにも親に囚われなくてもいいのではないかと考えるのです。時には親からの無償の愛が何かの堰のようになることもあるようにも思えるわけなのです。

固定した大量の愛ももちろん否定に及ばない。でも形として、たくさんの無数の小さな愛でも人間形成していくための代替えとなるのではないかとも思う。

育児本を開けば、親の無償の愛にはとてつもない力があるのだとお経のように唱えられているのだけれど、果たしてそれだけしか育児の形はないのか?と疑問を突きつけられるのです。それは『直接親しかできないのか?』というところの問題がすっぽり抜けているのではないのかと。それらを信じて疑わない親たちはそこに固執し、なんならそれしか道はないと思ってはしまわないのか。

世の中はハイスピードで変化している。

わたしが生きてきた44年なんてなんの参考にもならない時代がやってきている。そこで生きていく彼女たちに当てはまらないであろうテンプレートをいつまで使い続けるのか。自分の子どもをどんな人間にしたいかなんて愚かな考えを早く捨ててしまいたい。作品ではないのだから。

そろそろわたしは彼女がなにを選ぶのか、どう考えるのかをただひたすらに見ていく決心をしなくてはいけない。

もう、そっと彼女が気づくように側になにかを置いてやることをやめなければならない。

この14年、彼女にわたしの価値観を押し付けすぎたような気がする。でもそろそろ本当に終わりにしないといけない。わたし以外の人に愛されるべきだし、いろんな形の愛を知るべきだし、世界は、世の中はとてつもなく広いんだということを知らなければならない。

あまり『すべき』も『しなくてはいけない』も好きじゃないけれど、なんとなく今日は強くそう思う。

わたしが手にした44年間の経験はいまのスピードでいけば、この時代に生きる人は10倍速で経験するんだろうな。


明日になったらまた変わってるかもしれないけど、今日はそう思った。

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