空間と時間

先日、思いがけず「多摩霊園」を散策した。運転免許取得のための学科試験を受けに行ったのだが手続きに数時間の待ち時間が生じた。府中の運転免許センターの周りにはご飯屋ばかり。一食分の昼食を食べたら、それらでは時間潰しできなくなった。手持ち無沙汰の私は墓場のパレードに誘われる。
多摩霊園は碁盤の目の車道が張り巡らされており、広大だった。おそらく日暮里近くの谷中霊園より広く、また整備されている。灰色の石柱の住処は区画に分けられている。数区画ごと立ち現る木々生い茂るオアシスとそこから伸びる街路樹の(桜か銀杏か)陰に沿って歩く。青々とした空は春の終わりを告げていた。
墓場は異なる家庭の事情があることを仄めかす。宗教の違い、手入れの度合い、区画面積、植えられた植生、名刺入れの有無、生花の萎れ具合、外柵の古さ。これらの情報を俯瞰的に、時に相対的に受け取ってみると、生者の暮らしがぼんやりと浮かんでくるのだ。例えば、野草生い茂る墓、また墓石はそれなりに立派である時には足腰の悪い高齢の女性あるいは男性が一人民家に暮らす様子が浮かんでくる。萎れていない花が置かれている墓では日焼け対策のためにツバの広い帽子を被った誰かが花瓶の水を変える様子が浮かぶ。名刺入れが備わった親柱を見れば、これは名家ではないか、とか考えている。これらは全て勝手な妄想だけれど、墓場を歩くと生きた人の声や足音が聞こえてくる。故人を弔う場所として対極にあるべき感覚であった。この感覚は街中ですれ違う生身の人よりも強い。
ネットで多摩霊園について調べてみると、ここには日本の怪奇幻想の祖、江戸川乱歩が眠っているらしく、彼の墓前で手を合わせ、次に近くの公園に向かうことにした。都立公園が隣接しているようなのだ。
公園は想像を上回る森であった。公園中心部に向かう道は山道そのもので、足元は時にぬかるみ、木の葉を踏みつけて歩き続けた。のちに看板を発見して判明したのだが、この公園の中心部とは「山の頂」のことであり、私は思いもよらず山登りをしていた。先程の墓場とは異なり、足元は自然の畦道によっておぼつかない。木々は山道のすぐ脇に迫り、遠くから知らない鳥の声がした。多くの人は森林浴だといって、このような散歩(ハイキング)にリラクゼーションを得るが、私はそうではなかった。生きた人の気配などないこの森は私の心を緊張の張りで満たしていた。はやく墓場に戻りたいと願うほどに。
山頂に辿り着くまでに、私はこの緊張の理由を考えていた。心の張りは人の不在に由来する。そういった点で墓場には人間(死者も)がたくさんいた。これは実際に目に映る人影を追っているのではなく、人生という言葉で括られるような人間が生きた時間の流れを感じているということだ。そこに墓があること自体、文化的な人間活動の礎である。誰かが生まれ、誰かと出会い、誰かが死んで、誰かが弔った結果、そこに墓がある。その墓はまた別の誰かによって脈々と手入れされ、もしくはその流れが途絶え、そこに存在している。自然の時間というのはそういった流れを、線ではなく一点で捉えてしまう。繰り返されていたはずの人間の営みは自然の永い時間においては一瞬だ。そこにあるのは、人間とは異なる時間的感覚を持つ超人の世界である。山頂への道は誰かが踏んでいったから継続して存在している。しかしこの道は数年誰かが通らなかっただけで、様変わりするだろう。悶々と渦巻く問答を抱え足速に頂を目指した。振り返ってみると、体感では長いように感じたが、山頂への道のりは数十分の短い時間だった。山道を歩き終えると、鳥居が見えた。山頂の無草地帯の中心に巨木を御神体とした神社があったのだ。近くに設置されたベンチではスポーティーな格好に身を包んだご老人もちらほらいた。人間が名付けた神様に手を合わせた。そのおかげで、弛緩した心で下山できた気がしている。
翌日の出来事である。私はアウシュビッツ収容所にいた心理学の医者が記した「夜と霧」を読んだ。収容所での凄惨な出来事については説明を省くが、印象に残ったのは作者がとある晩に被収容者と語った「生きる」ことについての小話である。

生きる意味が見つからないという嘆きは、哲学的用語でいうコペルニクス的転回によって見方を大きく変える事になる。生きるということから私たちは見つめられて、どのような行動を起こすのか、私たちが「生きること」に期待されているのだ。フランクルは生気を失った人々に言った。

少々強引である気もするが、前日の出来事とこの読書体験にはリンクする何かがあった。最後にそれを手短にまとめようと思う。

大きな時間の流れにおいて私たちは幾度となく無力感に晒される。落胆という言葉のようではなくとも、自然と墓場の対比と同じようなことが社会において、存在の無価値感を潜在的に生んでいる。そうした時に見つめるのは生きることの根源でも人間の命の短さでもなく、生きることに見つめられている自分自身である。

運転免許を取りに出かけただけなのに、想定外にも人生の通過点を見出してしまった社会人1年目の春。私はどんな未来を過ごしていくだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?