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芝生について語るときに僕の語ること

*本文は当初「キナリ杯」という企画のために書いたのですが、べつに書いた記事を採用しようと思うのでこちらは「単なる記事」になります。


作家の岸田奈美さんが「おもしろい文章を募る」という企画(キナリ杯)をやっているので「おもしろそうな文章」を練ってみることにした。ここでいう「おもしろい」とは「興味深い」であり英語で言うところの ”interesting” である。誰かの興味を引き起こしたり、関心を寄せられたりする文章。本来なら、その「誰か」は広く一般の人であるべきだと思うが、今回はまず手っとり早く、筆者自身が興味関心のあるものについて書いてみたい。そしてどうせなら少しは誰かの(すごく不特定少数の誰かの)役に立ちそうなこと、また他の人があまり書かなそうな分野のことを書いてみたいと思う。

皆さんは、芝生にたいして興味はおありだろうか?と出しぬけに聞かれてもたいていの人は公園や競技場などの屋外施設の、自分が足を踏み入れることのできる芝生にはなんとなく興味はあっても、自分が手入れをしなくてはならない自宅の庭の芝にはあまり関心はないと思う。だいいち、よく聞かれることに「芝生ってキレイかもしれないけど、管理するの大変なんでしょ?」というのがある。僕が自宅の庭に芝を張るのだと伝えたときに同居する母親からも、また親戚でもない隣人のSさんからも同じようなことを言われた。「芝生を張ったって手間ヒマかかるだけなんだから、止めときなさい」と。

ご忠告にはいたく感謝する。しかーし、
リーヴ・ミー・アローン!(ほっといてくれ)

けっきょく僕は芝を張った。
おおよそ4年前のことだ。前の年に自宅を新築し、庭のスペースには砂利を敷いていた。けれども夏場の太陽による庭からの照りかえしが強くて、またなにより砂利の庭があまりに味気なくて芝を張ることにしたのだ。それなりの広さの場所にそれなりの枚数の(マット状になった)苗を張る作業なので失敗したくなく、芝生初心者の僕はネットを中心に「芝生の貼り方」に関する情報を熱心に集めた。とりわけ、実際に芝生用などの園芸用品を取り扱うショップの店長さんが管理人をされている「芝生のお手入れとガーデニング」というサイトには今でもとにかくお世話になっている。(感謝申しあげる。)

下地の整え方、芝生の張り方、散水の仕方と考え方、あると便利な園芸用具までたくさん学ばせてもらった。おかげでわが家の芝は過去3年はおおむねキレイに緑色に生育し、新芽は今年もまた美しく顔をのぞかせている(2020年5月時点)。散水し、雑草を抜き、肥料を与え、芝刈りし、ときに殺菌剤や除草剤を散布し、一年に一度はエアレーションという名の地面に穴をあける作業も欠かさずやっている。

自宅の庭に芝生を張っているよ、とまわりの人に言うと「自分も(またはその家族も)芝を張ろうとしたけど上手くいかなった」という話を耳にする。最初は自分で張ったけれど上手くいかず最終的に業者さんにお願いした人、手さぐりでなんとなくやってみたけど枯れさせてしまった人、友人宅の家の庭で重機まで持ちこんで造園したけど芝は上手く張れなかった人などなど、けっこう皆さん苦労をされたようである。

その人たちから具体的な施工の手順というかを聞いたわけではない。なので、なにが原因で芝生がちゃんと根付かなかったのか正確のところはわからない。けれども僕自身が実際に芝張りをやってみて、以下のことに注意して作業すればほとんど失敗しないのではないかというポイントを3つほどあげてみる。

(1)床土をしっかり転圧する
芝生を張る場所は水はけがよく、同時に保水性もよくする必要がある。地面への水分は少なくても葉枯れしてしまうし、湿気が多くても病原菌の発生の原因になってしまう。そして表層部分から20センチ程度は耕して、根の邪魔になる小石はきょくりょく取り除く。敷地がそれほど広くなければ、床土にする山砂はふるい器にかけるのも一つである。その他腐葉土や川砂を混ぜて敷き詰めた床土は転圧器具などを使ってしっかりと踏み固める

(2)板を使って足で踏み固める
下地が整えられたら、芝と芝のあいだは1~2センチ程度の間隔をあけて敷き詰める(目地張り)。そして敷き終わった芝のうえに目土(ないし洗い砂)をかぶせて芝全体に行きわたらせ、最後に、根付きをよくするため長めの板を使って足で芝を踏み固める

(3)目土をこまめに補填する
仕上げに、張ったばかりの芝にたっぷりと散水する。そしてその後2か月間は芝生のうえを踏んだり歩いたりするのは避ける。ただし、その養生期間中に散水や降雨によって流れた目地の目土はこまめに補填することをおすすめする(表面をじかに踏まないように板を使う)。そうすることで芝に必要な水分がより保たれるのだ

芝生の手入れをやっていると、街中で、あるいは車での移動のさなかで芝生が張られた庭先や公園や広場のそれらについつい目が行く。あまりの出来のすごさに、近くのホームセンターの駐車場に車をとめてその見事なまでの芝生の公園を見学しに(偵察しに?)行ったこともある。とはいえ往々にして、手入れが行き届いていてすげぇなーと感心することよりは、とりわけ個人宅の庭先の雑草が力強さを増して残念だなぁと思うことのほうがはるかに多い。

一年目の芝生の庭に、雑草があまり生えることはない。しかし雑草の種子はいたるところから芝生の地に運ばれる。空から降ってくる雨から、小鳥の糞から、またわれわれの靴底についた微量の土などから。雑草の生育は年々その強度を増している。草取りは苦にならなくはないし、正直面倒だなと思う日もある。けれどもキレイに生い茂った美しい緑色の芝生をながめられることを思えば、なんら造作もないことだ(と、自分に言い聞かせている)。なんの変哲もない日常に、ふと庭の芝生をながめながらニンマリするひとときがあるというのは、けっして小さくない幸せの一つだと思う。

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なお、記事のタイトル「芝生について語るときに僕の語ること」に関して、レイモンド・カーヴァーの印象的な短編「愛について語るときに我々の語ること」(原題:What We Talk About When We Talk About Love)から拝借した。生前カーヴァーも執筆の合間自宅の庭の芝生の手入れをしてよく気分転換した、という逸話を今のところ聞いたことはない。

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