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「つらさ」から始まる教育は、もうやめよう。

日本の社会には、これから変えていくべき大きな「神話」があると思う。
それは、「理不尽な仕打ちを与えて、それを乗り越えさせることで一人前にする」という考え方である。

学校、部活、会社、師匠と弟子、嫁と姑、すべて同じ構図である。
僕は小学校時代、サッカーのクラブチームに入っていたが、監督から褒められた記憶がほとんどない。練習の時も常に罵倒、試合の最中も常に罵倒、試合に負けたらもちろんであるし、勝っても常に自分やチームの足りないところを叱責されていた。それが当たり前だと思っていた。
中学時代の体育教師は、一番最初の授業で、並び方がなってなかったり、私語があった生徒を見せしめとして殴るところから授業をはじめた。
高校時代はテニス部だったが、一年生はほぼすべての時間を、球拾いとランニングに費やした。ラケットを握れるのはほんのわずかな時間だった。
大学時代も体育会の部活だったのが、「1年奴隷、2年平民、3年…」を地で行く日々だった。1年生の間は、夜遅くまで、コートの外の林に飛んで行ってしまったボールを探し、23個そろうまでやぶ蚊に刺されながらその不毛な作業を続けた。
大人になって会社に入っても、その構図は変わらない。というか、その構図が日本社会そのものなのだと思う。「OJT」という名の「徒弟制度」のもと、ひたすら先輩の背中を見る教育。ほとんど事前の説明を受けず、訳のわからないままに仕事に突っ込まれ、足りないところがあると怒鳴られる。何回か続くと小さな会議室に呼び出され、長いときは1時間以上罵倒され、仕事だけでなく、人格すら否定され続ける。夜の飲み会でも、下っ端は地獄だ。雑用をすべて押し付けられ、空いたグラスに酒を注がされ、深夜まで昼間の仕事の説教、あるいは「イジリ」という名のいじめにも似た集団攻撃を受け続ける。そんな仕打ちに耐えながら「盛り上げ」を続けなければいけない屈辱。

そんな風習がなくならないのは、この日本社会に「教育とは理不尽を乗り越えること」という固い思い込みがあるからだ。下っ端の時代はいわば「修行」の期間。あらゆる理不尽を経験させることで、「基本」を身に着ける。最初から甘やかすと付け上がって先輩をナメるようになる、あるいは低いレベルで満足して成長が止まる。そういった意識が根強いように思う。

僕はこの「文化」の中に、日本が変われない理由があるように思えてならない。

このやり方の一番の問題点は、確実に人の心に深い傷を残すからだ。自尊心を傷つけられた記憶は、簡単には消えない。「自分もこんな仕打ちに耐えてきたのだから、次の世代もこの苦しみを味わうべきだ」。どうしてもそう思ってしまうのである。だから、日本社会で日々繰り広げられているのは「教育という名の復讐」なのだと思う。今社会問題になっている「パワハラ」も基本は同じ構図だ。今の中高年は、口にこそ出さないが、自分がかつて受けてきた仕打ちを、やっと後輩にできる立場になったはずなのに、それをやったら懲戒を受ける時代になってしまった。その不公平感を潜在的に抱えているのである。

そして、もう一つの問題は、単純に「スキルをつけるという点でとても効率が悪い」ということに尽きる。短い3年間の中の1年間が球拾いに終始したら、単純に技術を磨く時間が減る。また、基本的な知識や汎用的な知見は、イチから試行錯誤させて罵倒を繰り返すより、マニュアル化して学習させてしまった方が早い。本質は、才能で差がつく領域まで早く人材のスキルを高め、自らの資質を磨く活動に注力させることである。高度成長期ならいざ知らず、終身雇用を保証できなくなった今の日本企業に、若手社員に「雑巾がけ」をさせているヒマはない。貴重な20代を雑用に終始しているうちに、世界の背中はどんどん遠ざかっていく。

しかし、ほとんどの日本人は、それに代わる人の育て方を知らない。
動物のしつけのような、叱責ベースではなく、自信をつけさせ、個性を引き出すことから始める教育のやり方を知らない。かくいう僕も、よくわからない。確かに、仕事の内容を丁寧に教え、優しく接するほどに、自発性が失われ、こちらも甘く見出す人間も、中には存在するのである。

育ち方、育て方を知らない日本人。自分が受けた仕打ちを下の世代に繰り返すことが教育だと思ってしまう心の癖がしみ込んだ日本人。

人は、どのようにして育つのだろうか。



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