この世界は、「行き場のない男性性」に溢れてる。
この国は、銃で撃たれる心配はないが、突然中高年男性から激しく攻撃されることがある。
スーパーやコンビニの店員を些細なことでどなりつける中年男性。
朝の通勤ラッシュでの激しい言い争い。
職場でのパワハラ、セクハラ。
夫婦間、親子間のモラハラ。
若者の一挙手一投足、いわゆる「箸の上げ下げ」に激高するオジサン。
そんなとき、この国には行き場のない男性性に溢れてる、と私は思う。
日本社会はいつから、「大人の男性」にとって、こんなに分が悪い世の中になったのだろう。
確かにこれまで、男社会が行き過ぎていた。
しかしその「より戻し」が、無自覚にこれまでの価値観に追従してきた多くの男性に「こんなはずじゃなかった」と思わせている。
上の世代が享受できた椅子に、自分たちは座れない。
そしてオジサンは無条件に「老害」に位置づけられ、その存在はジェンダー論やポリティカルコネクトネスの庇護の外にある。
それはつまり「オジサンはどんなに悪しざまに罵っても構わない」ということである。
「マーケティング」は大人の男をスルーし、女性と若者ばかりに向かう。
そのおかげで、中高年男性の心を満たすコンテンツやカルチャーを、この国ではほとんど見つけることができない。だから、彼らには自分たちの人生を慰撫する場所がない。
少子高齢化による経済の縮小が、それに歯止めをかける。
「成功」を享受することが、ますます難しくなってきた。
終身雇用、年功序列というのはある意味、キャリアハイを過ぎた多くの中年男性が、最低限の尊厳を保ちながら職業生活の晩年をソフトランディングできる制度であった。しかし速過ぎる時代の変化が、年を重ねることを「成熟」ではなく「負債」に変えた。
これまでよりももっと多くの男性が、そのキャリアの結末を、誰からも尊敬されることなく、無残な敗残者で迎えることであろう。
しかし、「男性性」を消すことは、決してできない。
努力、勝利、競争心、達成意欲、支配欲、権力欲。。。
報われなかった男性性のエネルギーは、弱い方へ向かう。
それはある時は女性であったり、ある時は若者であったり、ある時は少年少女だったり、ある時は接客業の人だったりする。
そして、それはある時は暴力であったり、ある時は嫉妬であったり、ある時は行く手を阻む保守性であったりする。
今この国には、すえた匂いのした、行き場のない男性性に満ち満ちており、それが、深く、重たいエネルギーで社会を覆っている。
オジサンを失脚させるだけでは、社会は良くならない。
行き場のない男性性が沈殿し、亡霊のように社会に取りつくだけだ。
この重たい男性性のエネルギーを、どんなふうに軽やかに、明るくしてあげられるか。
そこに、この国の未来がかかっている。
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