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わたしの愛は生活の形をしている

友人はさほど多くないが、幸福なことに、大切なひとはそれなりにいる。家族や友人や恋人を大切にしたいと思ったとき、どうしてもひとは自分にとっての「よいこと」でもってそれを表現したくなる。

わたしの場合それは「生活」だ。
わたしの愛は「生活」の形をしている。食べること、着ること、ねむること、家でくつろぐこと。そうした営みこそをなによりのよろこびとして、己の生きる意味だと思っている人間なので、大切なひとびとにも同じものを与えようとする。

大事な人間関係はいつも食とお酒の席で築いてきた。
はげましたいとき慰めたいときはうまいもん食べにいこう!と言うし、疲れてそうなときは暖かいふとんでゆっくり眠ってほしいし、誕生日にはちょっといい食べ物や洋服やアクセサリーをプレゼントしたい。
まあ一般的にもそういう営みをよろこびとするひとが多いようなので、この作戦はだいたいうまくいく(と思っている)。

でも世の中にはたぶん、食とか住とか衣とかにさほど興味のないひともたくさんいる。人間の生活の三要素だからまったく見返りもしないというひとは少ないにしても、そこまで時間やお金をかけるほどじゃない、というボーダーはきっとある。
もちろんそれはそのひとの生きる価値観なのでとやかく言うつもりも権利も毛頭ないし、なるべくそのひとを尊重しようとするのだが、そうなると問題がひとつあって、途端にわたしは愛の伝え方が分からなくなってしまうのだ。

食事は最低限の栄養がとれればそれでよくて、わざわざ高い金払って高級なレストランに行こうとは思わない、というひとに
床でも地べたでもどこでも寝れて、ふかふかふとんで寝ることよりどこでもすぐに眠りにつける身軽さを優先するひとに
贅沢や華美や余白よりも効率や機能性や合理性を好むひとに
わたしはあなたを大切にしたいのだということを、どう伝えればよいのか分からなくて途方に暮れる。

恋人がミニマリストだったら、数ヵ月で別れてしまうかもしれない。

まあそれならと、そのひとの価値観を知って理解して寄り添ってそのひとの物差しでの「よいこと」を与えられればいいのだけど、わたしはそこまで勤勉でなく、自分がよいと思うことからどうしても抜け出せない。
(目の前で大事なひとがたとえば固い床で寝ようとしてたら、おふとんで寝なねって言いたくなるじゃない?)

だからせめて、わたしはわたしなりの物差しであなたを大切にしたいんだと、言葉を尽くして伝える。
その上で、あなたはあなたがいちばん心地よいと思うことをしてね、とお願いする。

これをいざ言葉にしてみると「あーなにもう今日もまたカップ麺なの?ここのとこ毎日だね身体壊すよ?野菜いためたのが冷蔵庫にあるからよかったら食べる?あっべつに食べたくなければ食べなくていいしほんと好きにしてねでも一応あっためてここ置いとくね」みたいな長ったらしいエクスキューズを毎度まくしたてることになって、うっすらウザがられるかもしれないけど…まあ伝えないよりはいいよね。

反抗期にあれだけいやだった母のお節介の数々が脳裏に浮かんだ。
お母さんその節はどうもありがとう。

と、結局なにも解決はせずに開き直って、今日もわたしなりの愛を、生活を、惜しみなく伝えていくのだった。



重い腰をようやくあげてnoteをはじめた。

日々思っていること、考えたこと、気づいたこと、頭の中で撫でまわしているだけではいつの間にか忘れてしまうようになったので、そしてそれらを言葉にする筋肉は使わないと衰えていくので、わたしの生きる意味でもあるこの営みを書き残しておこうと思う。

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