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流れる知らない町 20240912

不登校を満喫していた高校三年生の頃、学校とは反対方向の電車に乗ってどこかへ行く、というアレを試してみたことがある。何駅進もうと海もなければのどかな田園地帯もなく、ただ畑とマンションと地方都市が延々と並ぶばかりで、目眩がするほどつまらなかった。

家の近くを自転車で回れば見られるようなものを、わざわざ運賃を払い、学校をサボり、誰かに見つかるリスクを背負ってまで見に行ったのかと思うと、あまりといえば情けなく、いっそ帰りの電車代で手紙を買って、遺書でも書いてそこらの踏切に飛び込んだ方がいいのではないかとすら思った。

そこまで言うとかなり嘘になるが、これをきっかけにして当時抱いていた希死念慮が増したことはおおよそ事実と言える。

僕の絶望というのはその程度の落胆を引き伸ばした線の上にあって、地元が死ぬほどつまらないこととか、死ぬほどつまらない地元の中に一片の楽しさも見出せないほど感性が腐っていることとか、そういうものを積み上げた先に、ふてぶてしく座っている。

全てがどうでもよくなる瞬間というのは、本当にしょうもないことが引き金になってやって来るような気がしている。案外「納豆のタレが8割くらい零れて手についた」とか、そんなことかもしれない。

納豆のタレが8割くらい零れて手についた時にこんな感じのことを考えました。この落胆を味わった人は他にもこんな落胆を味わっています。


バイト先の社員さんから仕事を教えてもらっているとき「この人の教え方は覚えやすいな」と思っていたのだが、後から他の同僚に「あの人は一気に色んなことを教えるから覚えにくい」という話をされ、面白いな、と思った。

処理の仕方が違うのかもしれない。僕はとりあえず一連の流れを把握してから仔細を詰める方が覚えやすいのだが、その同僚の人は適宜情報を積み上げる方が記憶しやすい、とか。

社員さんの教え方は「これはこういう理由で必要」というだけでなく、「これはこういう理由で不要」という部分にまで言及してくれるので、作業の全体が見えやすい。が、全体を見ずに覚える方が得意な人からすると、情報量が多く見える。

ただまあバイトの教育でわざわざ『抽象から具体へ』みたいな教え方をする人も少ないだろうし、大抵の人はそんな七面倒臭い段階を踏まずとも仕事ができるようになるだろうから、僕やその社員さんの方が変なのかもしれない。

逆に言えば、全体像が見えないタスクに取り掛かることが致命的に苦手であるとも言える。今この瞬間何をするか、というレベルでなら動けるが、そこに自分の裁量がある程度混ざってくると、もうハチャメチャなことになる。

この『全体像が見えないと動けない』という性質のせいで「とにかくやってみる」的な考え方ができずに困ることが多い。頼む!大まかでいいからタスクの輪郭を教えてくれ〜〜〜〜〜!

それを自分でできるようになるのが当面の課題か。まっちゃくん(20代・男)のじょうずにりんかくかけるかなのコーナー、始まります。

死ぬまで続くご長寿コーナーになるかもしれない。


少し短いけど書くことがもう浮かばないので終わります。

さようなら。

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