あなたのヒビオルは何ですか?ーー映画『さよならの朝に約束の花を飾ろう』感想(ネタバレ注意)

はじめに

今回は、先日鑑賞した映画『さよならの朝に約束の花を飾ろう』の感想を綴っていこうと思う。この映画は、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の脚本を担当した、岡田磨里さんが初めて監督を勤めた2018年放映のアニメーション作品だ。
美しい背景描写と、FF12のキャラクターデザインで知られる吉田明彦さんが原案の、繊細なタッチで描かれる登場人物、そして切なく愛に満ちたストーリー展開と、この作品には語るべきところが沢山ある。私の好きポイントを余すことなく綴っていきたい。

あらすじ

人里離れた里で、特殊な布「ヒビオル」を織りながら暮らす一族、「イオルフ」の民。彼らは十代半ばの容姿で成長が止まり、数百年の時を生きる不老長寿の一族だった。
ある時、イオルフの不老長寿の血を王家に引き入れ、王家の神秘性を高めようとするメザーテ国王の命により、将軍イゾルが率いるメザーテ軍が古の生物「レナト」と共にイオルフの里に侵攻した。イオルフの少女マキアは、レナトの暴走に巻き込まれ、遠くの森に運ばれることで九死に一生を得る。しかし、マキアの親友レイリアはメザーテ軍に捕らえられ、王宮に連れて行かれる。

森を一人さまようマキアは、盗賊によって襲われた集落に辿り着き、唯一生き残っていた赤ん坊を見つける。彼女は赤ん坊を自らの子どもとして育てることを決意する。農場の女主人ミドとその家族に助けられながら、マキアはエリアルと名付けた子どもを懸命に育てていく。

やがて時は流れ、幼児から少年へ、少年から青年へとエリアルは成長していくが、マキアの外見は少女の姿のまま変わらないため、同じ場所に留まることができず、各地を転々としていた。エリアルは、血の繋がりがないにも関わらず、母親として自分を献身的に支えるマキアとの関係に悩み、守られているだけの自分の生き方に葛藤していた。マキアを守れるような強さを手に入れるために、エリアルはある決断を下す。

これは、ひとりぼっちとひとりぼっちの出会いの先に紡がれる、かけがえのない時間の物語である。

好きポイント① 美しい風景

さよ朝の魅力を語る上で外せないのが、美しい風景描写だ。イオルフの里の雄大な自然や、荘厳な雰囲気の王城、産業革命期とスチームパンクが融合したような歯車の街……と、登場人物の背景の描き込みが凄まじく、あっという間に世界観に呑まれてしまう。

特に、物語冒頭では、イオルフが機織をするヒビオルの塔が描かれているが、石造りでありながら天高くそびえる塔と、天井から垂れ下がる美しいヒビオルの布はあまりに幻想的だ。建物の造りだけでも、イオルフの民が人智を超えた技術や知恵を持っていることがうかがえる。

好きポイント② 変わっていく関係性

さよ朝のストーリーの根幹となるのが、いつまでも少女の姿のままのマキアと、どんどん成長していくエリアルの関係性の変化である。

エリアルが幼い頃は、彼はマキアが自分の血の繋がった母親であることを信じて疑わなかった。しかし、成長するにつれ、マキアが自分とは異なる理に生きる存在だと知り、母親ではなく、異性としても意識するようになっていく。

マキアもまた、エリアルを自分の息子として慈しんでいたが、彼が自分の手を離れて大人になっていく過程に、戸惑いを隠せない。メザーテと敵国軍の戦争の最中、マキアはエリアルの妻の出産に立ち会うことになる。彼女は、そこでエリアルが自分の手を完全に離れたことを知るのだった。

マキアは戦争で負傷したエリアルに寄り添い、妻子の無事を伝えると、エリアルに別れを告げる。エリアルは離れていくマキアに「母さん!」と呼びかけるが、マキアが戻ることはなかった。この場面のマキアはどことなく寂しそうな表情をしていた。もしかしたら、マキアは息子に対する感情とはまた異なるものをエリアルに抱いていたのかもしれない。エリアルの呼びかけによって、2人の関係は母子関係に固定されてしまった。母親は、息子の旅立ちを見届けることしかできないのだ。

マキアは、エリアルこそが、自分の生きる支え、自分の歴史、ヒビオルであったと独白する。家族愛、恋情、無償の愛……、マキアとエリアルの間にある感情は一つの言葉であらわすことができない。関係性は変わっていくとしても、互いを慈しむ心が根底にあり続ける2人の姿に胸を締め付けられた。

好きポイント③ CV.平田広明はズルい

さよ朝はどの登場人物も非常に魅力的なのだが、私の心を掴んで離さない人物がいた。それは、バロウという旅人である。この素性不明の男性は、なぜかわからないが、物語の要所要所で姿を見せる。

初めて登場するのは、マキアがエリアルを拾う場面だ。「子どもはおもちゃじゃねぇんだぞ」とエリアルを育てようとするマキアに忠告する。バロウ役の平田広明さんは、ONE PIECEのサンジ役で有名な声優さんだが、その艶のある声は、バロウが只者でないことを予感させる。

次に登場するのが、マキアがレイリアを救出しようとして、王都で追われる場面だ。どこからともなく現れたバロウは、追手をまく手助けをする。そこで明かされるのが、バロウの出自である。彼もまた、マキアたちと同じ白金の髪の持ち主であった。バロウは、イオルフと人間のハーフだったのだ。

純血のイオルフほどではないものの、老いにくく、長寿な彼は、物語の最後でもマキアと共に現れる。「次の別れに会いに行こう」長寿ゆえにさまざまな別れを経験しなければならない悲しみを受け止めながら、新たな出会いを尊ぶ彼の姿は、切なくも美しい。あと、CV.平田広明は反則。カッコよすぎる。

おわりに

この作品は何度見返しても新たな発見がある作品だ。人物の細かな表情の変化ひとつ、風景描写のひとつひとつに意味が宿っている。たとえば、マキアの服装が、物語前半、中盤、後半とどんどん変化していくが、最後の場面ではワンピースにベルトを付けたモダンスタイルになっている。これは、作中の工業化や幻想生物の衰退とも連動していて、時代が現実世界で言うところの近代へと変化していることが現れていると思う。

さよ朝は、映像よし、音楽よし、ストーリーよし、と三拍子揃った見事な映画だと思う。私の友人がプロジェクターを天井に投影して映画を観るのが趣味なのだが、寝っ転がって大画面(?)で鑑賞した非日常体験とも相まって、私にとって特別な作品となった。「私にとってのヒビオルはなんだろう?」そんなことを考えながら今日も生きている。

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