4.遭難

 全くもって期待はずれの白糸滝を少し散策すると、またもや看板「この奥 瀧尾神社」が立っていた。瀧の神社、なんだかかっこいいので行ってみた。結局いたって普通の神社であった。もうすっかり日も沈みきってしまい、今来た道は闇に飲み込まれている。帰路につくためiphonでマップを開こうとした途端、充電が切れてしまった。
 1日中マップを開き続け、その他にも宿を探したり、音楽を聴いていたり、調べ物をしたりと酷使しており、東照宮に着いた時には10%を切っていたことは知っていた。が、最悪のタイミングである。
 来た道を何となく戻るが、街灯ひとつなく真っ暗。かつ、山道を歩いてきたので景色はどこを歩いてもほとんど同じであり、唯一目印にしていた看板もこの暗がりでは見える気がしない。
 
 話は変わるが、今年の夏のある日の出来事である。私は泳ぎが苦手でありながら海でモリ突きを楽しんでいた。そして、ずいぶん沖の方で一人溺れて死にかけた経験をした。本当は死んでいるんじゃないかと今も疑心暗鬼ながら生活しているほどである。
 その時の自分一人ではどうにもできないうえに、頼りが何もない不安感と全くもって同じ感情を再体験しているのだ。まあ今回は息もできるし、しょっぱくないし、一生懸命溺れてやろうではないか。
 
 おそらく私がこのような状況に陥ったのは家康の策略である。私があてもなく東照宮内をプラプラしているのをよく思わなかった家康は、純粋無垢な私を滝でおびき寄せ、長いこと歩かせて体力を削り、滝でガッカリさせて精神力を削いだ。追い打ちをかけるが如く、さらに遠くの神社にまで連れて行ったのである。「泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」私が疲れ果て、パトラッシュとお空に向かって羽ばたいていくのを待っているのであろう。ほう、敵ながら天晴れである。
 ただ私はそう簡単な男ではないぜ家康よ。私は出来うる限りの仏頂面で肩を揺らしながら、おそらく来たであろう道に歩を進めた。
 しかし、進めど進めどやはり看板はどこにも見当たらなくなっている。方角だけあっていたらなんとかなるあろうと思い、下ってきた山を登った。
 ここでも、まだまだ余裕だとアピールをするために、奥田民生のさすらいを大きな声で歌ってやった。この行動については、不安をかき消すために大きな声で歌っているのではないかとの意見もあるかもしれないが、それは全くもって的外れな意見である。これは江戸VS平成の高度な心理戦なのだ。
 迷うこと1時間くらいはたったであろう。少しずつ歩きやすい道になってきた。でもなぜだか登ってばっかりいる。もしや登山道に入っているのではないか。全くお呼びではないと先ほど伝えたはずだがどうなっているのか。それにさっきお前は夜の俺には入るなと言っていたではないか。話が違うぞ。
 それでも道なりに歩き続けると、なんと見覚えのある男体山登山道入り口が見えてきたのである。

 来た道とは全く違う道ではあったが、なんとか戻ってこれたのだ。
いや、戻ってこられたのは家康公が私を誘って(いざなって)くれたからであろう。なんという器量の持ち主か、勝手に迷子になった私を助けてくれたのである。江戸が265年もの間続いたのも納得できる。
 我々現代に生きるものは、徳川家康という男が作った日本の土台に生きていることをいついかなるときも忘れてはいけない。

 そして何より、私が無事で本当に良かったのであった。

 無事東照宮を出て、宇都宮に向かうために東武日光駅に向かう。行きはバスで来たので帰りは歩いて帰ることにした。そして、華厳の滝は明日に順延されてしまった。
 日光の街並みはお土産屋さんと地酒屋さんと変な趣味のアクセサリーショップなどが点在し、駅の方まで埋め尽くされている。駅までは徒歩40分ほどだが、飽きずに歩け、山の道なんかよりも全然楽しい。
 駅の近くの地酒屋さんで日光誉という地酒を買い、電車で50分揺られ宇都宮に到着した。
 


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