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にゃくいちさん 十三話

 彼女は部屋に戻ると、すぐに浴室のドアを開けた。浴槽には赤、白、ピンク、黄と様々な色と形の違う薔薇の花弁が浮かべられていて、甘い花の香りと温かい蒸気が李亜を包んだ。
「はぁー」と彼女は大きな溜息をつく。浴槽に体を沈めたまま、両足を浴槽の外へ出し、李亜は足を組んだ。そして両手で両膝を押さえるようにしながら、天井を仰ぐ。今の待遇に対する逡巡が彼女の中にあるのか、自分の境遇を嘆いているのか、それはわからない。彼女の視線は天井を捉えているが、何かを見ているという感じではない。
「なんやねん。ほんま」と彼女は呟く。そして浴槽のお湯を両手で掬い、顔を洗った。
 李亜は浴室から出ると、用意されていたバスローブを羽織り、そのままベッドに腰掛けた。スマートフォンを取り出し、トップ画面を見るが、圏外になっていた。
 寝室の向こうから、何人かの人間が動いている音がする。バトラーの久慈が「女性スタッフに食事の準備をさせます。その他のご要望にも最大限お応えしますので、ご遠慮なくお申し付けください」と言っていた事を彼女は思い出したのかもしれない。
 ノックの音がした。ドアの向こう側から女性スタッフの声が聞こえ、食事の準備ができたと李亜に告げられる。
「わかりました」と彼女はドア越しに言い、扉を開けると、そこには女性スタッフが二人立っていた。ショートカットの女がワゴンを押し、もう一人の長い髪の女は、そのカートの上の料理をテーブルに移している。
 フランネルのアンダークロスに、白いダマスク織のトップクロスが敷かれたテーブルは、プライベートバルコニーに設けられていた。海は凪いでおり、寒さは全く感じられない。テーブルには、柑橘系の果汁で割ったベリーニ・ミモザと、バゲットにオリーブオイルを塗って焼いたブルスケッタが置かれている。
「あたしの事は何と聞いてます? 変な客やと思ってます?」グラスを手に取り、喉に流してから、李亜は二人のうちのどちらかにという訳でなく、漠然とそう尋ねた。おかしな質問をしている自覚があるのか、李亜の声は小さい。
「いえ。決してそんな事はありません」黒髪を束ねた、ロングヘアーの女は表情を変える事なく、アンティパストをテーブルに置いた。細い指は骨張っていたが、くたびれている印象はない。
「そうですか。すんません」
「いいえ」と長い髪の女が言い、ショートカットの女がテーブルのグラスにワインを注ぎ「こちらは鰹とオレンジのサラダです。酸味のある軽やかな赤ワインに合いますよ」と言った。
「ええ。どうも」料理と酒の説明をするショートカットの女の表情は、彼女なりの自信が込められている感じがする。ワインを注ぎ終わると女はワゴンに戻り、別の料理の準備を始めた。彼女達は、李亜に語り掛けるわけでもなければ、笑みを浮かべて接客をするわけでもない。しかし、流れるような動きは見ていて心地よいものがある。
「すんません。こんな格好のままで」と李亜はバスローブ姿のままだった事が恥ずかしいと思ったのか、彼女達に軽く頭を下げた。
「いえ」と二人は同時に言い、それから少し間を置いて「では、ごゆっくりお召し上がりください」とロングヘアーの女が言い、ショートカットの女は軽く会釈をした。
 李亜はグラスを手にしてワインを一口飲むと「美味しい」と呟いた。そしてフォークを手にした時、彼女は何かを思い出したのか、その手を止め、室内を見た。しかし、そこには給仕の二人以外は誰もいなかった。
「この船って携帯の電波繋がりにくいのですか?」一人で食事するのが窮屈で、そこにいる人間に何か言葉を交わさなければ場が持たないと李亜は思ったのだろう。当たり障りのない事を二人に聞いてみた。
「使えますよ。ただ、海の上ですので、電波が入らない事もあります」にこやかではないにしても、ショートカットの女は柔らかく答える。
「東様。間もなくショーが始まります」と長い髪の女が告げると、海上で花火が上がった。
「え? なに? ショー?」
「はい。お食事中にご覧ください」と長い髪の女は言い、髪と同じ色の瞳で李亜を見た。
「ええ……」と言いながら彼女は料理に手を伸ばす。鰹のサラダを食べながら、彼女はグラスのワインに口をつけた。
 大きな音が響き、花火が六回上がった。それが終わった後、海は静かに波を打つだけで何も起こらない。
「こんなところで花火?」と李亜が口を開いた瞬間、ライトが海上に向けられ、海面から何かが出てきたのが見えた。それは大きな鯨の影だった。巨体を上下に揺らしながら現れたその生き物は、大きな口を開けたかと思うと一気に空へ舞い上がるように上昇した。そして上空で宙返りをする。
「え?  なに?」
 その鯨は、上空で旋回すると今度は急降下を始めた。そして、着水すると同時に海が大きく割れたのだ。
「凄い」と思わず呟いた李亜に、黒髪の女が「鯨のショーです」と少し自慢げに言う。
「え?  これ、ここの?」
「はい。この海域で調教しております」
 鯨が海面から飛び上がり、上空で宙返りをする。そして急降下をして海を割り、また上空へ舞い上がる。その繰り返しだった。李亜はその鯨の動きに目を奪われる。彼女は料理を食べる事も忘れ、ただそれをを見ていた。
「すご!」と李亜は言い「こんなショーが見られるとは思ってもいなかったので、びっくりしました」と付け加えた。
「まだこれからですよ。こちらはプリモ・ピアットです」と長い髪の女は次の料理をテーブルに置いた。それは、炊いたリゾットに、煮詰めたフォン・ド・オマールをかけた一品。
「しつこさはなく、とても軽い感じで食べやすいです。甲殻類と相性の良いワインと一緒にお召し上がりください」とショートカットの女は青りんごのような香りの白のスパークリングワインを新しいグラスに注いだ。
「どのくらいのショーが見られるのですか?」
「全部で一時間といったところでしょうか」と長い髪の女が言う。
「え?  そんなにあるんですか?」と李亜が思わず言う。
「はい。もし、お望みでなければ、中止しますが」と長い髪の女は表情を変える事なく言った。
「え? これ、あたしの為にやっとるの?」そう言って彼女はスプーンを手にし、リゾットを食す。
「はい。このペントハウスにお泊りの東様の為のショーです」と長い髪の女は答える。
「そうなんですか」と李亜は言い、それから「あの、あなた方のお名前を聞いても良いですか?」と彼女に尋ねた。
「私ですか?  私は久慈です。それに、彼女も久慈です」黒髪の女は抑揚のない口調で名乗り、ショートカットの女の名前も告げた。
「久慈? なんで、みんな久慈さんなん?」李亜はそう呟きつつ、スパークリングワインを飲んで、何かを訊こうとした。
 その時だった。大きな音とともに、海から大きな水柱が上がり、遠方まで広がる夜空に、大きな花火が咲いた。それから複数の花火が連続で打ち上げられ、小さな花火は、空に浮かぶ水母のように見える。
 それからライトアップした海面から、複数の巨大な鯨が海から飛び出す。その度に大きな水飛沫が上がり、その水飛沫はバルコニーにも届く。甲板からは、ほかの乗船客の歓声があがっている。
「凄い」と思わず李亜が口にする。彼女は食べる事も忘れ、ただ目の前のショーを見ている。花火とそれに合わせるような鯨の舞いの美しさに彼女は思わず溜息を吐いた。
「こんなの見た事ないです」李亜はさっきまでの出来事を忘れたように、鯨と花火のショーに首ったけになっている。二人の久慈と名乗る女性スタッフは、それを満足そうに見ていた。
「セコンド・ピアットの鯨肉のラグー 、クリーミーポレンタ添えです」と黒髪の久慈がテーブルにメインディッシュを置いた。
「え?  鯨のお肉なんですか?」と李亜が聞く。
「はい」とショートカットの久慈が言う。
「お刺身でも食べられる鯨のお肉を煮込んだものです」と黒髪の久慈が付け加える。目の前で舞う鯨を食材にしたのは、このメニューを企画した人物の悪趣味なのかもしれない。
「鯨は上物ですので、臭みもありません。またそれに合うのは、口いっぱいに広がる濃密な果実味のある赤ワインです。これは鯨の旨味と脂身を引き立てます」とショートカットの久慈が言う。
「そうなんですか」と言いながら彼女はナイフで肉を切り、それをフォークに刺して食べた。そしてワインを飲む。
「美味しい!」鯨である事を忘れてしまうほど、彼女の口にあったようだ。
 花火は途切れる事なく、そして鯨たちは優雅な舞を船上で披露している。そのショーを見ながら李亜は料理を堪能した。
「お口にあったようで安心しました」と久慈と名乗った二人のスタッフが軽く会釈をした。
「ありがとうございます。大変満足です」と李亜が言う。
「この後も、まだショーが続きますのでごゆっくりお楽しみください」とショートカットの久慈は言い、黒髪の久慈は黙って頷いた。「鯨のショーなんて、初めてです。それに、このテラスからの眺めは素晴らしいです」と李亜は満足気に言い、久慈と名乗る二人のスタッフを見た。
「ありがとうございます。東様に喜んでいただければ幸いです」長い髪をくくった久慈が、丁寧に答えた。その所作から、二人のうち、彼女の方が年上なのかもしれない。
「わざわざあたしの為に準備していただいて恐縮です」
「いいえ。これもサービスの一環ですからお気遣いなく」
「お料理もワインも最高です」と李亜は言い「あ、スパークリングワインをおかわりしてもいいですか?」とグラスを久慈に差し出した。
「はい。かしこまりました」と彼女は言い、ワインを李亜のグラスに注ぐ。
「ドルチェはもうお出ししましょうか?」
「ドルチェ?」
「デザートです」と久慈が言い、ショートカットの彼女が頷く。
「はい。お願いします」と李亜が答えた。デザートが運ばれるまでの間、彼女は鯨のショーに目を向けていた。特にフィナーレは圧巻だった。大きな花火が上がる中、二十頭近くの鯨が一斉に海面から跳ね上がった。
「凄い」思わず李亜は言う。そして鯨たちはその巨体を上下させながら、船の周りを旋回する。
「カッサータ・シチリアーナです」とリコッタチーズと生クリームを混ぜ合わせたクリームに、ナッツ、ドライフルーツ、チョコレートを刻んで混ぜ込み、冷やし固めて作るアイスケーキを、ロングヘアの大島は李亜の目の前に置いた。「良い香りですね」と李亜が言う。
「こちらはカフェ・コレットです」少量のグラッパを混ぜたエスプレッソをショートカットの久慈がテーブルに置く。
「ありがとう」と李亜は言い、カフェ・コレットを飲み、それからカッサータを口にした。鯨たちが連続して飛び跳ねている様は、まるで空中を飛んでいるかのようで、それを見ている彼女は春松の事を忘れているようだった。


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