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自分と自分達 :シのようなモノ

はじめから終わりを覚悟していた。
それなのに、終わりのタイミングをずらしていた。
永遠や永劫や「ずっと」なんて意味がない。
どこまでなのか、わからない出来事は、そうやって片付ける訳だから。

子供のふりができなくて、大人になりきれなくて、ただ甘えていたのかもしれない。
わかったような台詞ばかり並べて、好かれようとしていた。

「僕」や「俺」あるいは「私」なんて主語を使わずに、誰が言ったかわからないようにしたかった。
「僕達」や「俺達」あるいは「私達」なんて認識できなければいいのにと思った。

「みんな」という抽象概念の恩恵は、時には悲劇的だ。
「君」だけでない「みんな」まで「僕」は認知して、他の「誰か」と比べてしまう。
「自分」の事じゃないのに「自分達」として他人を「自分」だと思ってしまう。
それで「自分」じゃない「自分」に嫉妬する。
「みんな」の事を認知しなかったら、いわゆる高度な文明や社会なんて生まれなかったのかもしれない。

その恩恵が怖い。

なにが?
認められない事が怖い。社会生活において、承認される事は快感だ。
その逆は苦悩だ。
同じ意味で「君」に嫌われる事が苦しかった。
それなのに「君がいるから幸せ」なんて事も言えなかった。

けじめをつける根性なんてなかった。
用意できるモノといえば、ハリボー2袋ぐらいだった。
「こんな筈じゃなかった」
それだけは言わないようにした。
同じく
「愛している」
なんて事も言えなかった。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!