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Torn張り裂けそうな気持ち。

 1階のホールでエレベーターを待っていると、ベビーカーを押している老婆がやってきた。俺が会釈をすると、彼女は笑顔で「こんにちわ」と大きな声で挨拶をしてきた。シンと静まり返ったホールに小気味よい声が響く。
 正直なところ、俺はそういう挨拶を聞きたい気分ではなかった。そして、できれば、他の住人と同じエレベーターに乗り合わせたくなかった。
「もう梅雨入りしましたね」
 話しかけられなかったら、俺は何も気にせずに、彼女を避けて他のエレベーターのボタンを押していたかもしれなかった。それぐらい、一人になりたかった。
「そうですね」
 声を絞り出して、俺は答えた。無愛想な住民が多い中、彼女のような人がいればマンション暮らしにも人情味がでるのだろう。しかしながら、今は、年配女性特有の、人懐っこさにつき合う気分にはなれなかった。
「エレベーター遅いですね」
 かまって欲しくなかったが、邪険にもできないので、先ほどと同じトーンで返事をした。ベビーカーの子供は寝ているのか、気配がなかった。

 俺は、張り裂けそうな自分の気持ちに向き合いたくなかった。思い出が変わる事はない。現実だって同じ事。
 声をかけてきた老婆は何も悪くない。それなのに、俺は苛立っている。これ以上話かけられると俺は平静を保てる自信がなかった。ただ、俺は誰にも言えない事を、誰かに聞いてほしいと思いながら、誰にも会いたくないとも思っているのだった。
 エレベーターに乗って降りれば、俺は現実に戻って、夫になり、父親にもならなければならなかった。それが、今はたまらなく辛かった。

 高校生の頃につき合っていた彼女が亡くなったそうだ。

 そんな事があってもおかしくない。まだまだ早い気もするが、もう若くないという事だ。そうなのだが、それが、たまらなく切ない。

「思ったよりもつまらなかった」

 そんな言葉を残して去っていった彼女の事を、俺はしばらく引きずっていた。今思えば、単に彼女に未練を抱いていただけだったと思う。だが、彼女が言い残した、「つまらなかった」という事に悩んだものだ。それまで自分を否定された事がなかった俺にとって、その言葉は残酷だった。十代というのは、運命などという事を信じがちだ。俺にとっては、彼女がそれに値する存在だった。そんな存在に「つまらない」と言われた事を今までも憶えているし、これからも俺は忘れないだろう。

 1階に到着したエレベーターに乗り込む。俺は先に乗って、『開』と書かれたボタンを押し続けて老婆を誘導した。その時に彼女と目があった。今まで会った事のない人だった。にこやかな顔をして「どうも」と言ってきた。それで俺も精一杯の作り笑いをして「どうぞ」と言った。

 エレベーターの中にはモニターがない。その代わりに、エレベーター内部を映し出すカメラが取り付けられている。
 このエレベーターの様子が、1階のモニターに映っていて、誰かが今の俺を見るかもしれないと思うと、俺は怖くなってきた。
 張り裂けそうな気持を押し殺して、俺は現実に戻らなければならない。
 彼女が死んだ事など、俺の家族にとってみれば、どうでもいい出来事なのだ。雨で体育が無くなったとか、感染者が増えたとか、そんな事よりも価値のない話なのだ。
 それなのに、20年以上も前の出来事ばかりを思い出す俺の姿を、誰かに見られていては、現実に戻れない気がした。
 あるいは、モニターを彼女が見ているかもしれないと自惚れてみた。「やっぱり、つまらない」と思われていそうで、俺は何故か悲しくなった。
 何も信じたくなかった。彼女が死んだことも、俺が歳をとった事も、「つまらない」と言われた事も、現実も、何もかも。

「そんなに、思い詰めなくても大丈夫ですよ」

 再び老婆に話しかけられた。いや、そんな気がしただけだった。自分の事なのに、俺はそんな言葉を欲しがっているのかと、俺は戸惑った。やがてエレベーターの扉が開いた。それは俺の降りる階ではなかった。
「お先に失礼します」
相変わらず、老婆の顔はにこやかだった。もしかしたら彼女は、ここに住んでいるのではなく、孫に会いに来たのかもしれない。過去に生きているのでなく、幸せを噛み締めて生きているような笑顔だった。
 
 全てが恋しいわけじゃない。
 手を伸ばせば触れられるものは沢山ある。
 
I don't miss it all that much.
There's just so many things that I can touch.

 やがて、俺の階についた。それは老婆達が降りた階の2つ上だった。俺はエレベーターを降りる前に振り返った。黒色のプラスチックに包まれたカメラを見て、それから、何となくだが、それに中指を立ててやった。そうしなければ、現実に戻れないような気がしたからだった。誰かがモニターを見ているかもしれなかったが、それが彼女だったらいいと俺は思った。
 こういうところが「つまらない」と思われたのかもしれない。俺は一人っきりで作り笑いをして自分の部屋に向かった。


終わり

Natalie Imbrugliaが1998年にリリースしたデビュー曲です↓


一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!