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海老ちくわが食べたかった。

 傘の柄を連想させるような、腰の曲がり具合だった。前かがみの姿勢のまま立っているという感じがした。ただでさえ小柄であるのだが、正直な事を言えば、小さいというよりは異様な印象を受けた。
「お待たせいたしました」
 俺が開ける前に、彼女は自分で扉を開けようとしていた。生きている頃に、誰かに扉を開けてもらう機会に恵まれていなかったのだろうか。
「なんや、開けてくれるんやったんかいな」
 照れ笑いとは違う笑み。「こんな事をしてもらった事がないから、わからなかった」俺にはそう言っているように聞こえた。何かを呟きながら、彼女は座席に座った。俺は無言で扉を閉めた。
「それでは出発します」
「早よ行ってや。思い残す事なんて、なんもあらへんのや」
 小柄な体型ではあるが、口は達者なようだ。減らず口にも聞こえる言葉から、俺はこの老婆の人生がどんなものだったのか、簡単に想像できた。いや、そんな事を考えてはいけないのだが、好印象ではなかったのは確かだった。
「わしが行くんは地獄やろな」
「お客様の行き先の事を私は詳しく知らないのですよ」
「なんや?あんた、何も知らんのかいな。しゃーないな」

 俺が抱いている違和感というのは、何だろうか?彼女の話し方がそうさせているのだろうか?彼女ぐらいの年齢のお客さんを乗せる事がほとんどだが、少ない会話からもわかる、異様な雰囲気だ。

「何もええことがなかったわ。ほんま、なんもないわ。しょーもない。子供がよおけおっても、孫が何人おるんか知らんわ。会ったこともあらへん孫もおるんやで?何やねんな?なんでなんやろな。こんな歳まで生きて、ろくな事があらへんわ」
「お子さんは何人いらっしゃいましたか?」
 たまらなくなって、俺は聞いてみた。きっと、いい事だってあった筈だ。俺は何かを引き出してあげたくなった。

「7人や。末っ子んとこで世話なったんや。みんなわしの押し付け合いや。末っ子も嫌々やで!?あの子の嫁もや。酷いもんやろ?わしがいなくなって、みんなせいせいしとったやろ?あんたもみたやろ?」
「私には、大声で泣いている青年が印象に残っていますが……」
「あの子は……リョウ君だけやな。わしの遺影を抱いて、火葬場に行く最中、ずっと泣いてくれとったな」
 運転手をしているとわかる事だが、本当に見送りにきている人間がわかるのだ。お客さんのお葬式に来ている人の数ではない。お客さんが、どこで迎車手配をしても、見送りに来る人はいる。
「お孫さんですか?」
「せや。末っ子の息子や。あの子は生まれた時から知っとるわ。子供のころからあの子はわしの事を『おばあちゃん、おばあちゃん』言うてくれてなぁ。あの子だけや。わしの孫はあの子だけやで」
「かわいいお孫さんやったんやないですか?」
「せやな。せやけど、海老ちくわを買うてきてくへんかったな」
「海老ちくわ?」
 そんなちくわを俺は知らなかった。
「せや。死ぬ前に、もう一度食べてみたかったんや。リョウ君に言うてんけどな、結局持ってきてくれへんかったわ。わしも最後に食べたんは、子供のころや。今でも売っとるんやろか?リョウ君、何も言わんかったわ」
「お孫さん、探してくれたんではないですか?なかったのではないですか?」
「知らん。あの子は毎週来てくれとったけど、高校卒業してからはほとんど来んくなったしな。最後ん時も会えずじまいや。海老ちくわの事なんて忘れとるんや」
 俺は何となく、お客さんの事がわかってきた気がした。『不器用』という事。それだけのような気がした。見ようとすれば、彼女の純粋な部分は、年齢を重ねても純粋なままではないだろうか。
「お孫さん、きっと後悔していますよ」
「せやろか?」
「そうですよ。その方がいいではないですか?もしも、その『海老ちくわ』をどこかで見つけた時、お孫さんは、お客さんの事を思い出しますよ。あんなに泣いてくれたお孫さんですよ。彼がお客さんの事を思い出してくれるという事があるなら、それが、お客さんが生きてきた価値だと私は思いますよ」
 俺は単なる運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただそこにいるだけの人で充分な存在なのだ。がっかりさせたり、恐れさせたり、慰めたり、そんな事をさせるような存在ではない。だから、それ以上は何も言えない。

「ふん。どうやろな。どうなんのやろか」
 お客さんはそう言ったっきり、黙り込んだ。目的地が近くなれば、みんなこうなる。いよいよ、自分が自分でなくなる。そう思うのかもしれなかった。無論、俺だってその先の事は知らない。知らないからそうかもしれないというだけの事だ。

「到着しました」
 俺は扉を開けた。
「なぁ?ホンマはどうやろか?わしは幸せそうにみえるか?」
 予想外の事を聞いてきたと俺は思った。そんな質問に答えるのは本当は苦手なのだ。
「幸せですよ。こうして目的地にたどり着いた。その事が幸せな事だと、私は思っていただきたいです」
「あんたの事やないか」
 お客さんは本当に笑っていたような気がした。
「おおきに」
 そう言って、お客さんは曲がった腰を杖で支えながら、歩いて行ったのだった。


おわり
 
 
 


一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!