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山に登る  ―辻まことのように

※今朝、引き出しにあったUSBメモリーを開いたら、懐かしいいろいろな文章や講義したときの進行や資料、学会の資料が入っていて、遠い目になってしまいました。今回の「山に登る」もその一つです。10年以上前の文章です。


   山に登る  ―辻まことのように
                      胡桃
 
 「趣味は登山です」と言いたいが、最近では年に一、二回しか登っていない。
 山登りは、東京の大学時代にはじめた。千葉という山のない土地に生まれ、山に憧れたのは、辻まことという、この世にいない人に恋したためだ。
 ある日、友達と大学の図書館で待ち合わせをしていた。約束にはまだ時間があったので、美術関係の棚の前で、気の向くまま画集を引き出して眺めていた。
その時にふと手にしたのが、山岳雑誌『岳人』の表紙絵を集めた画文集だった。絵と文は辻まこと。絵は少しユーモラスなイラスト風の山男たち、文はおかしみがあって読みやすい。なぜだか辻まことが気になった。この人はどんな人だろう。恋のはじまりである。
大学は古本屋街に近かったので、辻まことの本を集めていった。
 辻まことは、アナーキスト辻潤と婦人解放運動家の伊藤野枝の長男として一九一四年(大正三年)に生まれた。辻まことが三歳のとき、野枝は息子たちを置いてアナーキスト大杉栄のもとに走った。辻まことは辻潤に育てられる。辻潤が新聞社の仕事でパリに滞在中、辻まことは一五歳で、父と一緒にパリに住んでいる。少年時代から絵が得意だった辻まことは、絵描きになりたかったが、ルーブル美術館で天才たちの絵を観て諦めたと書いている。
 わたしは、写真にひとめぼれした。最初の妻であるイヴォンヌたちと銀座を歩く青年の辻まこと。自分で彫った岩魚の彫刻を持つ辻まこと。この写真は五〇代の頃かもしれない。顔には深い皺が刻まれているが、その写真に魅かれた。父を幼い時に亡くした私は、こんな人が父であったらと夢想したのかもしれない。登山家であり、スキーの達人、絵描き、歴程に所属する詩人、エッセイスト。女にも男にも、もてたらしい。
世間からは、政治的発言も求められたらしいが、政治的なものからは距離を取っていた。関東大震災時、大杉栄と伊藤野枝が殺されたときに一緒にいた少年は、しばらくの間、辻まことだったと思われていたという。
 まことは生き残り、精神を病んでいく父親、辻潤を見続けていく。「おやじのように『考える葦』は家庭の中でいつも孤独で、不幸なのだ。そしてその人をもつ家族もまたやりきれない」と辻まことは書いている。
尋常ではない親を持ち、親譲りの優秀な能力をもった少年は、青年となって、東北の山をほっつき歩いた。竹久夢二の息子らと金鉱探しに夢中になった。江戸っ子の辻まことは、山を彼の故郷としていった。未開の山々を身一つで歩き回り、そこで出会った山に住む人々が、辻まことのエッセイのテーマであった。
東京に戻ると、彼はデザインや広告などの絵描きに近い仕事をしていた。戦争中は兵隊になり中国にも行った。「私は山賊のいちばん下っ端の子分になっていた」という『山賊の話』という軍隊時代の随筆を残している。彼はどこへ行っても冷静で辛辣、土と共に生きる人々を尊敬していた。そういう自分でいるためには、辻まことには山が必要だった。
 
 辻まことに近づきたくて、山に登りたいと思った。山など登ったこともないのに、大学二年生の夏休みに長野の穂高にある西穂高山荘のアルバイト募集に飛びついた。リュックと登山靴を買い、新宿発の中央線最終列車に乗り込んだ。一か月以上も山に籠るので、友人達が見送りに来てくれた。
 上高地に着いて、山の美しさに圧倒された。千葉や東京にしか住んだことない私には、まるで外国のような山並みと緑と川。すっかり驚いて上高地をうろうろしてしまったので、西穂高への登山道にたどり着いたのは正午をだいぶまわってからだった。山に午後から登るものではないと今ならわかるが、その時は呑気なものだった。
 しかし、登っても登っても目的の小屋は遠かった。賑やかに人が歩いていた上高地だったのに、登山道には人が一人もいなかった。こんなはずではなかった。誰もいないなんて。そのうち不気味な音がしてきた。雷だ。山で雷が危険なものだということぐらいはわかっていた。大きな岩かげにひれ伏して雷が遠ざかるのを待った。雷は遠くで鳴り、少し近づいてきたと思うと、大雨が降ってきて、やがて雷は遠ざかった。それでも恐くて、ずぶ濡れになりながら岩の上にひれ伏していると、岩の上を小さな虫が歩いている。虫には雷も雨も関係ないんだなと思うとおかしかった。
 気を取り直して、雨の中を登り始める。大きすぎる自然の中に人はいない。獣と虫がいる。雨に濡れるのも嫌ではない。自分が一匹の獣になった気分だった。ただ暗くなるのは嫌だから、ひたすら歩いた。
もうすぐ暗くなる時間にびしょ濡れで小屋に着いたので、小屋のスタッフは驚いた後に安心した。わたしがなかなか到着しないので心配していたのだ。
 以来、私の山登りは、ひとりで歩くようになった。山小屋で知り合った友達とも出かけてみたが、一人でないと、生きもの感覚が持てない。達成感がない。ひとりでないと、山は私に何かを与えてくれないのだ。
 辻まことも山へ行くのは、生きているという実感を持ちたいためだったのかもしれない。辻まことは、一九七五年一二月一九日、六一歳でこの世を去る。
辻まことの次の文章に私は線を引いている。
「ずっと以前から私が無意識に大切にしていた精神の健康法は、矢張り自然の中に自分を置いて、すべてを新しく確かめ、そこから出直すという体操だった。
 人間の愛情、家、寺院、知識など要するにあらゆる文化的基礎から自分を出発させない私自身の性向を、いくぶん淋しい人間のように思わないわけではないが、能率をあげるというような考えは本来私には何のことか理解できないのだ」
 辻まことには淋しさがつきまとう。どんなにユーモラスであっても、客観的に皮肉ってみても、よるべのない淋しさは、人が好きなのに、人や文化をあまり信用していなかったせいかもしれない。私が辻まことに惹きつけられたのは、その淋しい匂いであった。そういう人間の救いは、山であり、自然の中に身を置き、ひとりになることだった。
 辻まことを追って、彼の定宿だった奥鬼怒の手白沢温泉にも歩いて行った。結婚してからも夫と息子を引き連れて、福島県双葉郡川内村にある辻まことの墓がある長福寺へも行った。彼の墓は、草野心平の縁で訪れていた豊かな自然に囲まれた村の寺にあった。墓と言っても、苔むしたひとつの石であった。とても辻まことらしい墓だった。
 

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