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馬をみる

馬をみる
                    胡桃
  
「草競馬」という季語がかつてあった。農村での仕事もひと段落した秋に農耕馬をあつめて文字通り草の上で競馬を行った。賭け競馬ではない。農耕馬を競わせる馬の運動会のようなものだ。お遊びで賭ける人もいたかもしれない。
 
 じゅず玉は今も星色農馬絶ゆ   北原志満子
 
 農業の機械化で農耕馬はいなくなり、草競馬という季語も歳時記から消えていった。
夫とふたりでやっている「やませみ文庫」から『本を読む小屋』という冊子を出している。春に出た2号の特集は競馬だった。その取材のために去年の大晦日、水沢競馬場へ行ってきた。競馬は、はじめての体験だった(身内にギャンブルで身を滅ぼした人がいるので、子どものころからギャンブルは悪魔と教えられていた)。詳しいことは冊子に夫が「水沢競馬場奮戦記」と題して書いているが、わたしはひたすらパドックで馬をみて馬券を買っていた。
 パドックというのは「レースに出走する馬が、装鞍所からここに入り、この中をスタッフにひかれて周回する場所で、下見所ともいう。馬の状態を観察できる。馬場にむかう前に騎手が騎乗する」(競馬用語辞典より)というものだ。パドックで馬をみる。掲示板には馬の番号と名前、体重などが表示される。
 面白いのは。体の大きさ、色、艶以外にも馬には個性があることだ。意気揚々とステップを踏んでいる馬、顔をあげてすまして歩く馬、「やるわよやるわよ」と鼻息荒い馬、「レースなんて嫌」と暴れていて厩務員ふたりに抑えられている馬、しょんぼり頭をたれて落ち込んでいる馬、厩務員に頭をこすりつけて「遊ぼうよ」と甘えている馬、観客のほうにカメラ目線を送ってサービス精神旺盛な馬。見ていて飽きない。どの馬に投票しようか迷う。
 東北に残る地方競馬場は、山形の上山競馬場が2003年に廃止になり、盛岡と水沢の二か所だけになった。
福島競馬は日本中央競馬会(JRA)が主催する中央競馬である。地方公共団体が主催する公営競馬が地方競馬といわれる。
 夫はサラブレットを調べているうちに、戦前、小岩井農場がサラブレットの生産地であり、優秀な馬を多く育てていたことを知る。詳しくは、『本を読む小屋』に書いてあるが、小岩井農場資料館には、そのころの貴重な写真や資料が残っている。サラブレットだけではなく、小岩井農場は広いから移動の手段、開拓の農耕馬として馬が大事なスタッフだった。馬と共に暮らしていた農場がかつてあったのだ。戦後、GHQの命令で小岩井農場は馬の生産ができなくなったという歴史がある。
 わたしは遠野の附馬牛町の奥に家がある。柳田国男の『遠野物語』二には「其市の日は馬千匹、人千人の賑はさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。」という記述がある。
名前の通り、牛と馬が多くいる。牛のほうは、最近では廃業する牧場も多く、肉牛を扱う農家も減ったようにみえるが、馬を飼う人はそこここにいる。町まで車を走らせれば、柵の中に親馬と並ぶ仔馬のかわいい姿が見られる。毎年、仔馬がいるので、繁殖し売っているだろう。少し車を走らせて荒川高原へ行けば、6月ころから馬が放されている。乗馬用の馬から農耕馬まで、いろいろな馬が草をはみ、寝転がりお日様をあびている姿がみられる。好奇心から近寄ってくる馬もいる。草を抜いてあげようとするが、草ならたんとあるから食べない。鼻面を撫でてあげると満足気な顔をする。牧場の奥には早池峰山が見える。道路の反対側には黒毛の牛たちが草を食む。まさに附馬牛の絶好展望地である。
「馬冷す」「馬洗う」という季語もある。労働で汚れ、疲れた馬を川辺で洗ってあげる。それは馬にとって極楽の時ではないだろうか。ブラシをかけてもらい、うっとりする。遠野には馬を洗えそうなちょうどいい川が流れている。川辺はきれいに草が刈られ、川におりていける。川辺で馬を遊ばせひと休みしていると、カッパが馬の尻尾をひっぱる。そんなことが今もありそうな風景がある。
 六月に、遠野毬花句会(「樹氷」の方が多めの会)で住田町へと吟行へでかけた。世田米という中心街は、蔵が並び往時はたいした勢いのある宿場町だったと知ることができた。宿場町がいちばん賑わうのは、馬の市があったときだそうで、馬喰たちが宿に泊まり酒を飲んだ。宿場町の道には馬が飲むための水が流れたという。遠野ともまた違った馬との暮らしがあったようで興味深かった。
 
 馬が来て食べてしまひぬ雪兎   照井 翠



※「草笛」No.516より

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