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それはパクリなのか?

【3740文字】

楽曲を作っていると何かの拍子に立て板に水の如くあれよあれよという間にキャッチなメロディーが出来上がってく瞬間があったりする。
何日も頭を抱えながらメロディーの端々を作っては消し作っては消しする事なく、まるで昔からよく知っている曲の鼻歌でも歌っているかのように、一筆書き的にサラリとほぼ一曲が完成してしまう事があるのだ。
そういう曲は耳心地が非常に良く、何ひとつ抵抗なくスッと体に浸透していく。
しかしそういうメロディーは揮発性も高く、後でまとめようなんて言っていたらすぐに忘れたり、本来の良さを見失ったりする。
とにかくいいメロディーが浮かんだら、これを逃してたまるかと急いで録音したり、譜面に起こしたりしてなんとかラフな状態のものでも記録しておく。
その記録を再度確認し、粗削りでもダイヤの原石のような輝きが見えたりすれば、「オレは天才だ!」などと密かに有頂天となり、自然と口角も上がり傍から見れば不気味な表情となっても仕方がない。
しかしそんな幸せな勘違いも束の間の事で、決まってこの直後にとんでもない不安に陥るのもまた常なのである。

つまりあまりにも良いメロディーやキャッチ―なメロディーだったりすると「これってもうどこかにあったんじゃないの?」と疑い始めてしまうのである。
凡人の自分にこんな良いメロディーが浮かぶはずがないと、先ほどとは真反対な薄暗い感情が頭を支配し始める。
「きっと以前聞いた名曲を記憶していて、それを無意識になぞって作ったと勘違いしているのだ」という不安。
つまり自身に突きつける盗作、パクリ疑惑に怯え始めるのだ。
これはオリジナルだ!と世間様に堂々と言えるよう確かめねばならない。
しかしこれを確認するのは至難の業で、方法がなかなかないのである。

昨今はどんな事でもスマホで検索すれば大抵の正解や近似値、またはデータベース的なものはすぐに見つけ出す事が出来る。
しかしメロディーを探す方法はまだまだ乏しい。
鼻歌で歌ったメロディーから近似値の楽曲を探してくれるアプリはあるのはあるが、例えば超有名なYesterdayを少しメロディーを変化させて歌っても候補にYesterdayが必ず出て来るわけではなかったりする。
似ているメロディーを探すのはもう自分の記憶に頼るほかないのだが、作った直後は脳裏に自分のメロディーとして染みついているので、まあまず他の曲を思い出せることはない。
疑心暗鬼のまま編曲もしてレコーディングも済んで、しばらく経って意識が完全にその楽曲から離れた時にふと「あれ?あの曲に似てる?」なんて思う事があったりする。
もちろんまんまそっくりという事はほとんどないが、そう言われたら似ているというレベルで一部が類似しているという事はある。
果たしてこれをパクリというのか?という疑問。
世間では露骨に楽曲中一部のメロディーだけを比較して、これはパクリだ!と言い切る動画が上がっている様だが、似ていればすべてパクリとする認識はどうなんだろうか。

似ているメロディーというのは主に3つの分野に分類する事が出来ると思う。
先ずは「パクリ」「盗作」という分野。
次に「似ている」「偶然」という分野。
もうひとつは「オマージュ」「影響(感化)」という分野。

最初の「パクリ」「盗作」の意図は営利目的、売名行為、または仕事の穴埋め(やっつけ)と言った、作品発表した本人に盗用の意図があるものをいう。
次に「似ている」「偶然」という分野については文字の如く、本人にもちろんパクリの意識は全くなく、作ったものがたまたま以前にもあったというだけのもの。
「オマージュ」「影響(感化)」という分野についてだが、実は音楽をしているとこれが実に楽しくて気持ちがよく、また自身の成長につながる分野だという事実を知っておいていただきたい。

例えばビートルズっぽい曲、というのが世の中には明らかにあって、ビートルズの曲ではないのだが漠然とビートルズを連想させるような楽曲というのがある。
メロディーも細かく見れば短いセンテンスで同じメロディーが存在したりもするが、あの曲だとは確定できない様な感じのメロディー。
それは意識をもってあえて似通わせて作り込んでいるものである。
何故そんな事をするかというと、ざっくり言うなら好きだからだ。
ビートルズ的な感じにしたいと思って作る楽曲はあえて似せているのである。
それはリスペクトであり、影響されていると言ってもいい。
もっと言うならある意味この世の全ての楽曲は誰かが作った過去の楽曲のオマージュや感化で出来上がっていると言っても過言ではない。
わざと過去の曲にそっくりなフレーズを入れて雰囲気を醸し出す事は決して珍しい事ではない。

例えば極端にこれをすることで楽屋オチ的な楽しみ方というか、近しい者同士や知ってる者同士だけで分かり合える隠語的な楽しみ方とでも言うか、より音楽を仲間意識を強めるツールとして存分に利用し、分かち合って楽しむという事が出来る。
ちょっとでも似ていればパクリだと言ってしまう興ざめな人間も広い世界なので勿論存在するだろうが、この人たちは少なくてもこの点に於いて我々より音楽を楽しめていないという風に解釈する他ない。

似ているという視点をもっとマクロ寄りにしていくと、ジャンルというものが見えて来る。
クラシック、ヒップホップ、ジャズ、演歌、カントリー、ラップ、デスメタル、童謡などなど・・。
これは似ている者同士の括りであるともいえる。
ビートに乗せて早口の語り口調が特徴のラップは、その点が似ているからと言ってその後のラップを全てパクリだとは言わない。
演歌であの独特なこぶしをまわした歌を歌ったものは全部パクリ、とは言わない。
もっと言えばエレキギターを使えばパクリ、人が歌えばパクリ、とは絶対に言わない。

ではそれを今度はどんどんミクロへ落としていく。
同じ8ビートの同じフレーズだからパクリ、だとは言わない。
そんなのは腐るほどある。
コード進行が全く同じだからパクリかというと絶対そうではない。
12小節の3コードブルースなどは全部パクリ曲になってしまう。
ではもう少しズームして、ロックンロールのギターのリフが同じ場合はどうだろう。
似ているフレーズを印象的に使った場合だ。
この辺りから著作権がざわざわし始める。
ところが面白い事に誰もが知る超有名なフレーズを自分の楽曲の中にこれ見よがしに入れ込んだ場合、これをパクリだと言ってしまう超興覚め人間はほぼ居ない。むしろ粋なアレンジだと言われたりする。
ところがそんなに有名じゃない楽曲のテーマリフをそっくり別の曲のリフにしてしまうと完全にアウトだ。
この違いがパクリとオマージュの違いだ。

音楽をする人に限らず全てに言える事だと思うが、コピーするという作業が如何に効力あるトレーニング方法であり、いち早い技術の習得につながるかは周知の事実である。
巧者の真似をする、つまりコピーは練習の基本中の基本なのである。
音楽の場合でも、クラシックだろうがヘビーメタルであろうがジャンルを問わない。
だからコピペしていいという話ではない。
コピーをして身に付いたものは当然コピー元に似ている。
それはパクリとは言わず技術という。
演奏者や作者はその技術を存分に発揮してオリジナル楽曲を披露する。
なのでオリジナルであってもそもそものコピー元に似ていて当然なのである。

逆に、全く誰にもどの楽曲にも感化されていない全くオリジナルなものというのが存在できるのだろうか。
演奏者や作家になるプロセスとして過去の楽曲に触れることなく、過去の演奏にも全く触れなかった人が曲を作れば、理屈上では完全無垢なオリジナルを作れる可能性があると言えるのだろうが、先ずそんな事は不可能であろう。
つまり作者や演者であるなら誰でも必ず誰かの影響を帯びているはずなのだ。
そして一人の作者が影響を受けた人物や作品はひとつではなく、大なり小なり無数に存在するだろう。
コピーなどで身についたそういった無数の技術や表現がその作者の中で混ざり合い作用し合う。
その際に当然コピー元との技術の差異や解釈の変移という事も起こる。
そうこうして具現化された音がいわゆるオリジナルと言われるものなのだ。

この論でいけば単なる音の転用という暴挙に出さえしなければ、作曲志望者はパクリの誹りを恐れる必要なくどんどん前人を真似てイメージを膨らませればよいと言える。
表現者が過去の何かに感化されオマージュするのも当然であれば、それらが未来のオリジナルのモチーフとなるのも当然と言っていい。
作家であるのならば、メロディーはこの曲のこのフレーズ、歌い方はあのボーカリスト風、アレンジはこのバンド的に、それらをまとめたら壮大なオーケストラ風に仕上げて・・、という具合に音は頭の中で積み上げられ、密度の高いイメージに溢れるものである。
それが過去の何かに似てしまうという事はある意味ちっぽけな事であり、考え方によってはとても光栄な事なのかもしれない。
悪意をもって意図的に似させてさえいなければ、似てしまう事は何も恐れることではないのだ。
作曲者は気にせずどんどん名曲をこの世に送り込んで欲しい。
その名曲が未来でまた名曲を生むのであるから。