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事実という虚構

[4738文字]

物事の『事実』とは一体なんなのかと。
昨今騒がれる隣国や大国の歴史観、被害者意識、正義感などを見るにつけ、
互いが承知する事実が統一されないままでの、
交渉や対話が如何に不毛極まりないか、
むしろ認識の違う事実が基となり、
より一層いがみ合う状況に、
国家間で湧き上がる感情の無駄さ加減に辟易とします。

終戦記念日に、
事実とは何かという事を少し考えてみました。

先ずはとても身近なところから、例えば左右。
こんな書き出しで左右と言えば、
左翼・右翼の話かと思いきやそうではありません。
右手に箸、左手に茶碗の左右です。
さて、その人の向きによって左右は決まります。
互いに向かい合って右を指せば当然真反対を指し合う訳です。
それぞれの立場では間違ってはいませんが、
指をさした方向は全く反対になってしまいます。
互いが指さしたものについて対話は出来ません。
でもさすがにこれについては皆さんご承知ですよね。
なので右だ左だと言い合っても、
互いに理解し解釈し合って話が出来ていると思います。

もっと厳密に方角を示したい場合、
東西南北で示せば互いに同方向を指せるはずですよね。
人によっては東西南北が苦手だという人もいるかもしれません。
西はどっち?という突然の問いに、
あなたはサッとこたえられるでしょうか。
スピードは関係ないので、
地図や磁石を持ち出すなどすれば、
あなたは必ず西を示す事が出来るでしょう。
これなら話もかなりスムースに進みそうです。

ところがこれで万々歳かというと又然り、
東西南北の概念は地球上の限られた地域に居た場合の、
限定的な事実でしかなく、
決して普遍的な方角の目安ではない事を知っておいて欲しいのです。

先ず方角とは何かですが、
一般的には日が昇ってくる方角が東、
日が沈む方角が西となってますね。
しかし地球上の北極点や南極点に近づけば近づくほど、
この定義は曖昧になってきます。
想像してみてください。
北極点や南極点に立つと東西は消滅し、
南北は意味をなさなくなることを。

距離と時間もしかり。
椅子に座る。立ち止まる。赤信号で止まる。
あなたの時速は今0kmですね。
これは事実と思いますか?
視点を変えることで、
あなたは恐ろしい速さで移動しているとも言えるんです。

時速60Kmの自動車に乗っているあなたは、
かかって来た携帯の相手に、
「今僕は止まっているよ」とは言わないでしょう。
移動中だと話すはずですが、
乗り物が地球になると止まっていると答えるんです。
その時速0Kmを厳密に言うなら、
あなた自身は地球表面に対して0kmという事であり、
我々は否が応でも、
絶え間なく動いている地球に乗っている事実は論外にしてしまいます。

あなたは常に音速を超えて移動しています。
地球は時速1,600kmで自転しながら、
更に太陽の周りを時速10万kmで公転しています。
これはこれまでの人工物の最速を優に越すスピードです。
しかも昼間より夜の方が、
時速3,200km早く動いているという事になります。
それは太陽を基準にした考え方で、
公転方向と自転方向が一致するタイミングが常に夜だからです。

地球    太陽     ↖
☇◐     ◎     ☇◑
 ↘

その太陽系も銀河系の軌道を時速85万kmで公転し、
その銀河系は膨張する宇宙に乗るかたちで、
時速約216万kmの速度で移動しているといいます。
つまり今この時も我々は時速300万km、
1秒辺り800kmで移動中だという計算になります。

ここにじっと座っているのに、
景色も全く変わっていないのに、
東京駅から1秒あまりで九州へも北海道へも行く距離を、
今まさに移動している最中だというこの事実。
しかし人類がこれを実感出来る事は未来永劫無いでしょう。
感じられないものは事実である必要はないのかも知れません。
それはそれで恐ろしい事のように思えます。

夜、望遠鏡で星を見ます。
曇ってさえなければ、
星々は光を放ちその輝きで我々に存在を知らせてくれています。
光の速さに乗って何年も向こうの星々から届いた光です。
光自体は秒速30万km、時速100億km以上の速さで移動します。
とはいえ速度があるのだから遠ければ遠いほど、
その分だけその光は遅れて届く訳です。
3光年先にある星の光は、
つまり3年前に放たれた輝きを今見ている事になるのです。
三年前の事実を今ようやく見ているという事でもあります。

条件さえ良ければアンドロメダ銀河は、
肉眼でも見る事ができるお隣の銀河系です。
お隣と言っても230万光年先ですから、
今見えているその姿は230万年前のものです。
まだ人類はアウストラロピテクスだった頃の光。
いったいその頃の人類や地球はどうだったのでしょうね。
逆に今アンドロメダ銀河からこちらを見れば、
今まさにオンタイムで見えている地球が230万年前の地球です。
宇宙に2,000億個もある銀河のうち、
最も近くにあるアンドロメダ銀河で考慮したい事実です。

ならば…。
現在観測できる最も遠い銀河は131億光年の場所にあります。
(※ 131光年は2021年現在)
つまりそれは131億年前の光なのだから、
この宇宙が出来てまだ7億年しか経っていない光と言う事になる訳です。
もしこの先どんどん技術が発展し、
望遠鏡の性能も上がっていけば、
もっと遠くの星を見る事が出来るでしょう。
要するに宇宙が始まった時の日常が、
まるで映画を見るように、
しかもリアルタイムで見る事ができるかもしれません。
遠い場所はその分だけ時間も遡って見えるという訳です。
もうこの辺りになると意味がよく分からない事実ですよね。

「過去をリアルタイムに見る」と言う事は、
タイムマシンでも作らない限りは無理だと思っていましたよね。
想像すら出来ない事はなかなか事実とは思えないものです。
毎晩夜空に無数の星は輝きながら、
それぞれ違う時代の光を僕らに届けているのにです。

太陽が東から登り西へ沈む様は、
この大地の周りを太陽が回っていると想像すれば、
とても腑に落ちやすいですね。
それが事実だと思うでしょう。
実際に人類はコペルニクスが提唱するまで、
地球は宇宙の中心であり、
太陽が地球の周りを回っていると本気で思っていました。
それが事実であるとされていました。
今となっては地動説は説ではなく周知の事実です。
しかしあなたは太陽や月、星の動きを見て、
これらの動きを事実通り立体的に感じ取れますか?
事実なのに想像する事が難しい事、
または信じたくない事は、
天体物理に限らずこの世にはたくさんあります。
事実は見た通り、思った通りとは限りません。

人間が語る事実は変化します。
また立場によっても事実は大きく変わるようです。
何が起こったのかというより、
どうあるべきなのか、
どうあると都合がいいのかというその人の思想や概念が、
事実と言われる論証を作り上げて行くこともあります。
もし映像で記録していても、
見る人の考え方次第で事実と言われるものは、
真反対の意味合いにでも変化してしまいます。
フェイクだと大声を出せばそれが事実となる事もあるのです。

互いの主義主張は交差はすれども、
合流し合う事は実に困難です。
まだ平行線を辿れば大きな混乱は少ないのでしょうけど、
真っ向からぶつかり合えば人が死んだりもしかねません。
主張の違う事実を出し合っても理解し合う事は、
どちらかが別な理由で折れない限りないのでしょう。
先方の事実を確認し認める気持ちがなければ、
互いの事実はむしろ感情の逆なでの材料になってしまいます。
そしてついに暴力へと発展というシナリオは、
もう飽き飽きだというほど人類は繰り返してきたのです。
それこそが覆い隠すことのできない事実であることを、
もういい加減我々は思い知るべきです。
もしこの事実通り人間がこの程度の愚昧極まりない存在ならば、
おそらく人類に残された未来はないでしょう。
それぞれに都合のいい相対的な事実があるという事実を知り、
他者が信じる事実を客観的に知り、
認める努力が必要です。

1633年、
地動説を説いたガリレオ・ガリレイは、
キリスト教の宗教裁判で異端の徒とされました。
1992年、
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、
この裁判の誤りを認めガリレオに謝罪しました。
ガリレオの死から359年後のことです。

あまりにも遅い謝罪です。
その時に客観的な視野で地動説を検証していれば違ったのかも知れません。
今の僕らはそう思います。
もし僕らが1633年に天動説が当たり前のキリスト教徒だった場合、
果たして今の様に天動説を否定できたかどうか、
実に怪しいものです。
そういう事が現代の事実と言われていることにも、
多く隠れているのでしょう。

「神的人間と動物的人間が存在する」と言ったのはオウム真理教でした。
動物的人間を粛正し「種の入れ替え」をすることで、
ユートピア国家を樹立しようと本気で考え、
数々の事件を起こして行きます。
動物的、神的人間という事実があると考えた人たちがいた事実を、
僕らは真摯に受け止めなければいけません。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺も、
優生学を事実とし反ユダヤ主義を掲げ、
国家ごと悲劇へと墜落していきました。

日本帝国主義もまた万世一系の現人神を事実とし、
神の御朱印の元、戦争を是として多くの命を奪いました。

事実と言われるものの中に毒性の強い嘘が混ざっていることがあります。
何の検証も調査もなく誰かの言うがままに真に受ける事が、
実は一番危険なのだと、
皆が感じられる危機感が欲しいです。
どんなに空想的で妄想的であっても、
一度ちゃんと本気で調べ検証してみる事が必要です。
事実という強い確定的な言葉こそ、
調査検証が必要です。

スポーツにはルールがあります。
ルールがなければスポーツは成り立ちません。
この線を出たらアウト。
相手の目を突いたりしたらダメ。
試合に関係ないものの持ち込みは禁止。
1ピリオドは15分間。
同点の場合はタイブレイク。
勝っても負けても恨みっこなし。
とっても熱くなるスポーツも、
ルールがあるから楽しくプレイ出来たり観戦できるのです。

国際間のルールは協定や宣言などによって枠づけられます。
なにも上記の様に銀河まで通用する話にする必要はありません。
日本とアメリカ、日本と中国、日本と…。
その範囲で互いが納得し合い調印できるルールであれば、
東西南北で規定しても、速さや時間で規定してもいいのです。
ただ後になってこのルールさえ無効だとしてしまうと、
何一つ成り立たなくなってしまいます。
ゴールを決めても無効だと押し通してしまえば、
ルールは無いに等しいのです。
しかしなぜ彼らはそんなにしてまで負けたくないのか、
なぜそんなに抵抗するのか。
彼らが見ている事実とはどんなものか。
そこにもちゃんと目を向けるべきだとは思います。

この島は昔からウチの物だった。
戦争時代の犯罪を現法で裁けるのか。
そもそもその犯罪の事実はあったのか。
この先搾取しようとしているであろう他国企業に規制は出来るのか。
その規制は国際自由取引に反した犯罪ではないのか。
他国法の人権侵害に手を差し伸べる行為は、国家主権侵害に当たるのか。
国家と個人はどちらが優先されるべきか。
国民個人の命は国家が盾になり守るのは当然だが、
現実的にどの国がそれを実行しているのか。
実際は国家が国民の命を盾にしてはいないか。
原発は政府が言うようにクリーンで安全安心なのか。
立ち入り禁止区域とは何か。
本当に便利な事とは何か。
人間にとっての幸せとは何か。

どんな形の戦争であっても反対し、
またその火種となりそうな互いの異なった『事実』を、
冷静沈着な姿勢で可能な限り調査検証したいものです。
終戦記念日に感じたことです。