要請される自粛とは何か
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善処する、想定外、総合的に判断、直ちに〜する、有識者、などなど世の中には都合の良い言葉というのが結構ある。世の政権は国難になる度都合の良い言葉を生み出し出来た。そしてこのコロナ禍の国難の最中、「自粛要請」という言葉が飛び交うようになった。初めてこの言葉を聞いたとき、意味や背景以前に単に言葉としてなんとも居心地の悪い違和感を感じたものだ。自粛と要請を合体させたいわゆる造語であるが、僕の中での自粛というイメージと要請というイメージがどうも合致してこない。なのにあたかも昔から使われていた普通の言葉のようにして、政治家もNHKをはじめとするメディア各局各紙も平然と使っている。
そもそも自粛とは個人が自らに対してだけ、ひとりでひっそりと襟を正そうと心に決める様をイメージしていたが、これに要請が付くということは、それを誰かにお願いされたり依頼されたり、又は指示されているという意味合いが加味される訳で、他人が個人を抑制する感が多分に含まれてしまう。
自粛という言葉は文字通りに訳すならば、自らつつしむということであり、そこには「他人の意思」などは介入する余地はないはずだ。一方で要請という言葉は必ず相手が必要であり、その相手に対して強く願い求めるという意味だ。その強制力は指示と請願の中間辺りに位置するものである。
この度のコロナ禍に於いて必要なのは自粛であり要請ではない。要請そのものを増やしてもコロナには全く響かないが、自粛は広がればその分だけの効果がある。自粛だけで十分のところへ要請という言葉が付加された。要請を足したのは誰か?足して都合の良い人は誰か。当然この件に関して責任のある人たちだろう。つまりこれは彼らの言葉でしかないのだ。言ってしまえば彼らの望みは自粛ではなくこの要請である。国民は国民に対して要請などしないのが良い証拠である。責任ある彼らにとって都合の良い言葉として自粛要請という言葉が作られたのだ。
この相入れないはずの二つの言葉が合体して広く使われている。この矛盾した曖昧な状態はつまりどっちにでも言い訳が効くという言葉でもある。最悪の場合「我々は自粛を要請していたが遺憾である」と言えば良いし、上手くいった場合でも「我々があらかじめ自粛を要請していた事が功を奏した」と。つまり失敗したときは国民のせいであり、成功した場合は国民の努力ではなく自分たちの功績であるという印象が強くなる。
もし自粛要請の要請という言葉を抜いて、自粛で成功すれば自粛した国民の手柄でしかなく、そこに政治家の関与はない。
「自粛要請」、普通に国民みんなが使っている言葉になってしまったが、この要請という言葉が付いているということによって得をする立場の人間がいる事を知り、何より国民全員に何の得にもならない言葉になることを理解してもらいたい。自粛はするべきだが要請は不要である。国民一人一人が考え自粛すれば良いだけだ。
この件に関し本来責任を負う立場にある者が、言い逃れや言い訳ができる様、巧妙に布石を打った欺計造語であることを分かっていてもらいたい。もちろんここで言う責任を追うべき者とは、この国の政権を担う政治家全員のことを言う。
国民から政権に対して「責任要請」をお願いしたいと思ったが、そういえば国会議員は国民に対する政治的責任義務があるのだ。言い逃れは少しも許されない。