「報道の自由66位」記事から考える
【お詫びと訂正】
当初、上記の記事が「本日」出たと書いたが、正しくは4/21であった。
訂正し、お詫び申し上げます。
見直してみた結果、本日SNSの私の趣味のアカウントにこの記事が流れてきたことと、「18時」の部分を「18日」と見間違えたために、今日だと勘違いしたためだと思われます。
素人という言い訳が使えないほどのあまりにもひどいミスであったことを反省し、以後チェックをより厳重にするよう努めます。
4/21、朝日新聞からこのような記事が出てきた。
日本の状況について、東京電力福島第一原発といった「反愛国的」テーマを扱ったり、政権を批判したりする記者がSNS上で攻撃を受けていると指摘した。
なるほど、この文だけ見ると「記者は批判を受けてまともに記事が書けない被害者で、報道の自由が脅かされているのが現実」であるように見える。
実際、政権批判記事を書いた記者への攻撃的な言動はSNS上で見るので、これが事実でないとは言わない。また、「政権批判した」という点だけで攻撃するのは許されない行為であるという点にも同意する。
だが、この「攻撃」とは何を指しているのだろうか?
「それはあまりにも偏った書き方だ」「一部だけを切り取りして印象操作を行おうとしている」「そのようなことをするな」という批判も「攻撃」として捉えてはいないか?という疑問が私の中にはある。
また、そもそも「報道の自由」とは何だろうか?「報道内容を制約、検閲されない」等の自由は勿論含まれてしかるべきだが、「都合の悪いことは黙殺する」「恣意的な切り取りで印象操作を行う」ことも守られるべき自由なのだろうか?
私がこういう疑問を持つに至った決定的なきっかけは、「TBSひるおび握手拒否報道」である。
私はこれをみて、「捏造以外の何物でもない」と感じた。握手しているシーンをピンポイントで切り取って「握手拒否した」とするためのVTRを、純粋なミスで作成できる方法があるならば、ぜひとも教えていただきたい。
他メディアでは握手のシーンがしっかりと報道されていたために批判を浴び、その後に以下の訂正を行った。
6日の「ひるおび!」では女性アナウンサーが「訂正です」として、
「今週月曜日の放送の中で、去年8月の小池知事就任あいさつの模様を紹介しました。その際に自民党の川井都議会議長が挨拶に来た小池知事との握手を拒否したとお伝えしましたが、拒否したのは握手ではなく、写真撮影でした。失礼いたしました」
と説明。2~3秒、頭を下げた。
たったこれだけである。
事実を捻じ曲げ、他者を貶めておいて、訂正とたかが2~3秒頭を下げただけ(しかもそれをするのはVTR編集者でも番組責任者でもなく女性アナウンサー)という始末。
さらに言えば「失礼いたしました」という言葉はあるが、したのは「謝罪」ではなく「訂正」なのだ。「握手はしてたけど、写真撮影については拒否してるよね」と開き直っているようにも感じた。
この時から「ひょっとしてマスメディアって責任感ない奴らも普通に居るんじゃないの?過度に信頼してはいけないのでは?」と感じた。
その後も、「沖縄米兵による救出活動の誤報(産経新聞)」、「ハンセン病訴訟控訴の誤報(朝日新聞)」、「箕面大滝に関する誤ったコメント(モーニングショー:テレビ朝日系)」、そして先日私も記事を書いた「行政検査に関する誤ったコメント(モーニングショー)」など、度々誤報は起きてきている。
そしてそのたびに謝罪と訂正をしているが、言ってしまえばやっているのはそれだけである。他者の印象を貶めようが、誰かが責任を取ったという情報は流れてこない。「間違えてました、ごめんなさい、次から気をつけます」だけだ。
勿論、マスメディア関係者とて人だ。間違えることもあるだろう。
だが、「常識的に考えて単純ミスではこんなこと起きないだろ」「謝っておしまいに出来るほど軽いものじゃないだろ」という事態も多い。そして、これに対して「政権批判したいがためにわざとやったとしか考えられない」という批判の声も上がる。なかには、感情のままにより苛烈な言葉を使った責め方をしている人々もいる。
これらの声も「政権批判しただけで攻撃してきた声」として扱っていないか?というのが私には疑問でならない。
普段からマスメディアは何かと「報道の自由」を叫んでいるが、「責任」についてはどの程度自覚しているのだろうか?
TVの情報番組は「間違ってました、ごめんなさい」と言うだけ。すぐさま「では続いてのニュースは」と何事もなかったかのように続ける。
新聞も、誤報だった記事よりにくらべ、訂正・謝罪記事は明らかに小さいことが多い。
果たしてこれが報道の責任を果たしていると胸を張って言えるのか?というのは1人の受け取り手として私が感じたことだ。
じゃあどうしろというんだ!と言われそうなので、報道にかかわっていないド素人ではあるが別の記事で考えを述べさせていただく。
あらためて述べておくが、記者がおかしな批判を受けていること自体は否定しないし、そのような行為は問題だという認識はある。
ただ単に、「何をもって『攻撃』としているのだろうか」「報道の自由を掲げれば何でも許されると思っていないか?」と疑問に感じているだけである。
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