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煙草をやめた

 昭和六十二年の春、建築現場の工期がないため残業続きで疲労感が抜けない毎日が続いた。さらに、季節の変わり目もあって夜になると喘息を発症し、煙草を吸うことも出来ないようになった。無理して働いたのも訳があった。もうすぐ、子供が生まれることで期待と不安が入り混じって気が高揚していたのだ。そして出産費用を稼がないという焦燥に駆られていた。


 妻から子供が出来たと結婚前に告げられていた。妊娠八か月になるお腹は目立つようになっていた。子供ためにも煙草も妻の前では吸わないようにしていたが止めることは出来ずにいた。
 息苦しくて咳をするので横に寝ていた妻が「大丈夫?」と声をかけた。私は寝られないと困るから居間に移ると言って寝室を出た。
 横になると息苦しいのでソファーに寄りかかってぼんやりとしていた。そして、生まれてくるわが子のことを考えていたが想像もつかなかった。さらに喘息で咽って情けない姿を見せたく無いとも思った。


 出産の予定日を一週間も過ぎた五月の初め、喘息も何とか治まった。いつものように建築現場で仕事をしていたが妻が陣痛で病院に運ばれたと連絡を受けた。病院に着くまで、この二か月間のことを思い出していた。お腹の子の名前を考えたり、絵本を買って読み聞かせたりと毎日のように妻のお腹の子に向かって話しかけていた。
 分娩室の前へ行くと義父と義母が来てくれていた。長椅子に腰かけ、待つこと一時間。ついに午後七時三十二分、「おぎゃー」と元気な男の子が生まれた。抱きかかえられたわが子を見ると誰かにそっくりと思った瞬間、父親になった。そして、煙草をやめた。

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