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認識の地平を切り開き、発想の沃野を歩む。

最近、新聞記事を読んで解説という名の文句を垂れるツイッターアカウントを作成して1年が経った。

「相変わらず、馬鹿なことを」と言われるが、これは意外な効用をもたらした。

まず、批判力。別名、愚痴力、文句力とも言う。これが相当に鍛えられたのだ。例として、3.11になると、紋切型と言える「風化させない」というフレーズが新聞に並ぶ。今までの私は、「確かに、このことは忘れてはならない」と記事を読んでいた。しかし、「岩手宮城福島の自治体の半数近くで震災関連の公文書が破棄されている…?」という記事の存在を知ると、「これは何か対策しないとまずいだろ?」と思ってしまったのだ。

このように小さい火の粉であった私の批判力(愚痴力)は見る見る勢いを増し、業火のごとく、燃え盛るのである。

そこから、私は公文書の杜撰な管理体制が気に入らなかったので、新聞を見る際にも「公文書」すなわち「記録を残すこと」に注視するようになった。新型コロナウイルス感染拡大に関して、議事録の作成を早急に求める蓮舫氏。「公文書管理法」に関わった福田康夫氏のインタビュー記事。史料ネットについての特集記事などなど。そして、何より強烈な印象を与えたのが「森友学園」に関する公文書改竄問題、自殺した近畿財務局職員の手記内容を示す週刊文春の特集記事。これは本当に衝撃であった。ドス黒いなんてものではない。

一旦、何か「はぁ…?」と感じて、新聞を読むようになると、批判力は強くなると思う。

しかし、私はまだ根拠のない雑感で批判してしまう嫌な癖がある。ニュースは本来、複雑で根深い。

まだまだ問題意識が足りない。安直な批判ほど見苦しいものはない。ここ「note」だからこそ、こんな文句を垂れていられるのだ。

「新聞を読んでいるの?すごーい!」ではない。安直な満足はいけない。自惚れはいつだって良くない。物申す自分に満足してしまうならば、次に自分の中の思考の土壌を疑え。そして、耕せ。

新聞は発想の沃野だ。まだまだ開拓できるのである。

#エッセイ


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