抽象性を大事にしても良いのでは

#無駄
#日常生活

私たちは「無駄」を嫌うことが多くなった気がする。

例えば大学の勉強。私は大学で歴史を学んでいる。特に日本の近代史をよく勉強しているつもりだ。そこで必要なのが、「くずし字」という手書きで書かれたクシャクシャの文字を読解する技術である。これが本当に難しい。筆者は「これぐらいなら読めるだろう」と、よく使う文句にはスゴいテキトーに書く場合が非常に多い。ちなみに「候」が典型的な例である。

私は大学でこれに四苦八苦しているのだが、将来に役に立つかと言われたら、これはなかなかに答えにくい。くずし字自体、よく高齢の方が楽しく読む一種の娯楽的要素が無いことは否めないからだ。だが、それで終わらせたら、僕が苦労している勉強は「ただの貴族のお遊び」に成り下がる。これは悔しい。

史料にあるくずし字を解読して、歴史を描く。我々が教科書で学んだ歴史はくずし字の分析が大きく貢献している。それは当然で、史料に書いていないことは基本言えないからだ。踏み込んだ解釈で語ることはあるが、それでもくずし字の分析が素である。

しかし、こう言われてもくずし字は役に立つかどうか分からない。英語と違って、社会的意義を言おうとすると、どうしても抽象的な議論になりかねない。本当に難しい。

最近では、「具体性」のあるものが非常に好まれる。私は正直、この風潮が苦手である。「結果や数字が全て」とか「スローガンより具体事例」など、「抽象性」は役に立たないものとして切り捨てられそうで怖い。歴史を勉強したいと大学に入っても、同じ専攻の子でくずし字をやっているのは、もはや僕しかいない。周りは就職に向けて勉強に取り組んでいる。私のやっていることは決して無駄にならない、と言いたいところだが、私にそのような力はない。抽象性をもっと大事にして欲しい。この思いを伝えるには、やはり「ある程度の成果」も必要である。あらなんだこの皮肉は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?