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「下半身資本論」はじめに

男性、女性という二分法で語る性の論理はもはや、自明ではなくなり、「多様性」という言葉で代替されつつある。しかし、その「多様性」という言葉ですら、食傷気味になってしまったのが現在である。

ここで述べる私論は、その暗澹たる性の認識について一石を投じるものである。

恋愛感情を抱いた後、告白という儀礼的慣行が始まり、やがて愛撫を交わすことは周知の通りであろう。そのあとのことは、割愛させてもらう。ここで一つ気づくことがあると思う。恋愛は最初、あらゆる段取りを「頭」で考えるが、その後は「何か」に判断を委ねているのではないかということである。それがタイトルにあるとおり、「下半身」である。この「頭」から「下半身」への移行が恋愛において必要なキャピタルなのだ。

この私論の底流に存在するのが「押し倒す論理」。結局は、男性が女性を押し倒さないと話は始まらない。それが許容されているという認識が男性だけではなく、女性にもあることを示すのが、この私論の結論となる。つまり、「ちょっと男子〜っ」といつもクラスメートを注意する女子風紀委員長が、いざあらゆる行為を受けることになった際は、「ちょっと…もう…」と言葉を濁らすということである。

投じる一石があまりにも強すぎて、十倍になって投げ返される可能性があることは百も承知。ただ、私が多数の女性経験の話を聞いて想像し、飛躍に飛躍を重ねて辿り着いた境地が今回の「下半身資本論」なのだ。

他人の性体験といったオーラルヒストリーしか資料がないのかと言われるだろう。しかし、性体験の無い私はこう言う。

「ボッボク…童貞なんです」

我ながら開いた口が塞がらない。


#私論

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