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猥談にこそ真の天啓あり

友人らと発泡酒を開けながら、朝まで猥談を交わし、乳房から尻に至るまであらゆる妄想をぶつけ、これからの社会問題への解決に向けて昇華させる行為である「遊び」を最近はよくやっている。

大学生は勉強するのが仕事である。これは至極当然ではないか。だから私は勉強しているぞ。これは、うん、ちゃんとした事実であるはず。

しかし、たまにたまに猥談を交わしたくなる時があるのだ。わかるだろ? 人間なんだから。これを「生産性」という天秤にかけられたら、真っ先に私たちはふるい落とされてしまう。

清談をかますのが人間の美徳だと思っているのであれば、アナタは大学生失格だ。大学生は「猥談」にこそ、創造力が育まれるのだ。

一つの土壌があったとしよう。
下ネタの一つも言えない連中が真面目に勉強しているだけだったら、その土壌は雑草一つない綺麗な土壌になる。
しかし、猥談を交わしたり、人間関係が乱れに乱れまくっている連中であれば、その土壌はボッコボッコに掘られ、見るに耐えないものになるだろう。ただ言えるのは、その土壌は他を圧倒するほど強いということだ。何が咲いても生えても、絶対に許容してくれる。スケールが違うのだ。もし、綺麗な土壌であれば「え?こんなの相手にできないよ!」とすぐに、雑草を刈るであろう。そんな土壌には創造力なんてものは生まれない。

なぜ、こういう文章を書くかと言うと、友人らと交わす猥談に付加価値を与えるためだ。田舎の大学生が語る猥談ほど、価値のないものは無いと世間では評価されているだろう。そこに関しては否定することはできないが、こうして文字に起こして誰かに「いいね」してもらえば、我々の言い分も少しは実りのあるものになると考えるのだ。

つまり、我々が過ごす日々は無駄にはならないということだ。
無駄に見えるものこそ、価値があるのだといった青臭いことを言うつもりはない。私が言いたいのは、こうでも言っとかないと矜恃が保てなくなるということだ。そう、つまりは承認欲求の塊なのである。

それにしても、大学生はすごいぞ。研究室でコーヒーを飲んで春風を浴びながら、

「ああ、例の灯台に行きたい。いい景色が見たいよ。天気が良いのに研究室でウジウジ勉強は嫌だ!もっと春風に吹かれたーい!猿岩石になりたーい!」と私が駄々こねると、

それを聞いた友人が「じゃあ、行きますか」

と言う。

車をかっ飛ばしていけば、2時間後には灯台に行って、景色と観光客の乳房を眺めることができる。当然ながら、車内は猥談のアップデートにいそしんでいる。

またある日は、瑞々しい新入生がアパート探しをする光景を見て、

「嫌だ!卒業したくなーい!学生バンザーイ」とモラトリアム党を結成しようとすれば、

「んじゃ、作戦会議だ」
と言って、家に行き、半額の冷凍ギョーザをつまみながら、日本社会の問題を議論することも珍しくない。ただ、議論したところで結論が変わらない。

「大学生バンザーイ」

このように大学生という生き物はカオスなのかもしれない。多分、いや、間違いない。

しかし、無敵とも言える大学生にも襲い掛かるものがある。


それは漠然とした不安だ。

#エッセイ

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