公務員辞めたら人生詰んだ 起②

まずは母校の職員に応募。5名採用。
応募者数はなんと1000人超え。嘘やろ。
一応200人ぐらいまで残ったが、そこで落ちた。

他にも9つぐらい受験(すべて関西圏)。
最終面接まで行ったところもあったが、結局不採用に。
2004年1月末、受けていた大学からの不採用通知を受け取る。
これ以降、募集があるとも思えず最後の望みが絶たれてしまった。
実家に住んではいたが、何か働かないといけないのでとりあえずバイトを探すことにした。
ちなみに、私はほとんどバイト経験がなかった。
実家は比較的裕福で、「バイトよりも勉強しなさい」というタイプの親だったし、元々働くことに興味がなかったし、それでも経験と思って大学1年のGWに甲子園で売り子(2日でばっくれた)をしたけど肉体労働かつ8時間ぐらい働いて交通費込み2500円という(1500円が最低給で、あとは歩合)。労働基準法どうなってんねん。これでバイトに完全にトラウマ。
でも、嫌々バイト雑誌(anだったか)で「家から近い」「時給が高い」「国語を生かせそう」「集団講師は無理」という理由で個別指導塾の講師に応募。お昼からの勤務というのも朝が苦手な私にぴったりだった。
筆記と面接を経て、なんとか合格。
とりあえず2004年4月、個別指導講師としてのデビューが決まった。親には「1年間だけ就職浪人させて」と言って、結果的に3年間も続けたが。

※ここで、ちょっと重い話というかメンヘラ的な話になるが、前提として知っておいてほしいので書く。

私は13歳から25歳ぐらいまでずっと家族以外の人と食事をしたり外食をしたりができなかった。会食恐怖症、会食不能症などという病名がついている。
元々、男の割には食が細く、食べるのも遅く、偏食も多かったので給食は地獄だった。給食終わって、掃除の時間になっても食べてる子、クラスに1人はいたでしょ。それ私です。
当時は「残すな」っていう教育だったからね。今ではあり得ないけど。
(そんな私が小学校に勤めて給食ずっと普通に食べてたの。笑うでしょ。だからもし悩んでいる人がいたら絶対治るよ。)
でも家では普通に食べてたし、外食も普通にしてた。

今でも覚えてる13歳のある日。
家族で遊園地(今は亡き兵庫県の某施設)に行った後、ステーキハウスで夕食をした。途中まで普通に食べてたのだけれど、途中で急に食べられなくなった。一口でも入れると吐きそう。
親に「食べれない」と訴えると、親は嫌そうな顔をして「なんで食べれないの!」と言った。
その後帰宅してから2週間ほど食事が喉を通らない日々が続いた。
食べ物を口に入れると吐きそうなのだ。
おいなりさん1個を30分かけて咀嚼する日々。
胃腸科でバリウムも飲んだが原因はわからず。
そのうち家での食事は元通りできるようになった。
しかし、気づいたときには外食や友人との会食ができなくなっていた。

レストランに入る。冷や汗が出て動悸がする。
さっきまでお腹がすいていたのにお腹がはって気持ち悪くなる。
一口も食べられない。喉に弁ができたかのように閉じている。口に入れると吐きそう。
中学や高校の弁当はギリギリいけたが、修学旅行や調理実習でも食べられなかった。「バスに酔って気持ち悪い」「昨日から胃の調子が悪い」と嘘をついた。高校生にもなると、学校帰りにマクドナルドなんかに寄る子たちも出てくる。私は誘われるのが怖くて、学校が終わるとすぐに逃げ帰っていた。部活も途中で辞めてしまった。

本当は東京の大学に行きたかった。慶應や早稲田は挑戦圏、MARCHならおそらくどこかに入れる成績だった。
しかし当時、受験は東京でしか実施しておらず、受験する子はみんな宿泊して受験をしていた。
外での食事ができない私に、それは困難なことだった。万が一受かっても東京で生活していく自信もなかった。

大学の学食は、なぜか割と食べられた。
セルフサービスだったこと(残すのに抵抗があるが、残してもなんとも思われない)、学食が広かったこと(狭いと他人の目が気になる)が原因だと思う。そして、これが大学職員を目ざした1つの大きな理由だ。

会社に入って、同僚と外でランチをしたり社員食堂で食べるのが怖かった。
大学の学食なら大丈夫ではないかと思ったのだ。

会食恐怖症の件については、書けることはたくさんあるが
今回は趣旨が違うので割愛する。
また読みたい人がいれば書こうと思う。

つづく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?