歳のせいか限界か、取り繕えなくなった私

元気?どうしてる?と友だちからLINEをもらった。「つらくて…」とこぼしてしまった。

本音で付き合わねば、という「べき思考」と、やさしい言葉がほしい気持ちのミックスだった。

落ち込んでる私、取り繕えない私、そんな今の私は見せたくない。見られたくない。

つまり、ふだんの私は「見せてもいい」、「これなら嫌われることはないだろう(と自分で思っている)」人物像を作って、周囲と接してるってこと。

そのままの私はとても人前に出せたもんじゃない、こんなの見せれるはずがない、バレたらお終いだ、っていう恐怖がすごいんだ。

「取り繕っている」ことが、腑に落ちた。

自分のことをどれだけロクデモナイと思ってるか、ということも。

そうか。そうなんや。


夕方の商店街で、ヨレヨレの背広姿で缶チューハイを片手にフラフラ歩いてる、同い年くらいのおっさんを見かけた。

思わずよけた。目を背けた。嫌だ!と思った。サイテーだ、情けない、哀れだなぁ、、嫌悪感が湧き上がった。

でも。

一切取り繕うことをやめたら、自分だってこの人と大差なくない?

ふいにそんな言葉が頭に浮かび、すれ違ってから振り返り、もう一度姿を探した。

一緒や。たいして変わらん。

目を背けられるような自分。通りすがりに避けられるような自分。

そうか、自分のこと、そんなふうに思ってるから、そう感じてるから、誰にも会えないんや、見せたくない、見られたくないんやな。

ろくでもないな、

しょーもない奴やな。

だから人と会えないんや。

見せたい自分しか見せたくないんや。

そうか。そうなんや。

「やる気が全く起きなくて」

「朝どうしても布団から出れなくて」

「人に会うのがこわくて、外へ行けないんです」

カウンセラーさんに必死で訴えてるけど、どうにもなるはずがない。元がそうなんやから。

取り繕ってただけやん。今は取り繕えないだけやろ?治るもなにも、今のが元々の私やろ?


『最低の、みっともない自分を晒して、とぼとぼよろよろ、そのまま生きていくしかない。』

長い間読んでた、kenさんのスパルタな対人恐怖症ブログの一節を思い出した。





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