妻に関する根源的な違和

1)疑惑の発端

 一昨年の正月、私は妻のご両親に会うために甲府に向かっていた。婚姻を前提にした同居を許可して頂くのが主たる目的だ。しかし私はもう60歳。妻は48歳。相手は80歳。どのツラをさげて「同棲をご理解ください」などと言ったらいいのか、その塩梅は自分ですらまるでわからない。
 甲府行きの車中で妻が言うには「父は一風変わっているから気を付けて」とのこと。一風変わっているとは何だ?と質問しても彼女からの答えは明快さを欠き、ただモゴモゴしているだけだ。父の何たるかを彼女自身が未だに把握していないのだろう。さすれば主たる交渉相手はそれほどややこしいひとなのだろうか。
 ただ私は、これまでの人生で相手のご両親にお会いする際には、それなりの術があるから大丈夫と過信していた。私は女の両親を取り込むことに長けている。女の両親など、簡単に落とせる。流行りのギャグで緊張緩和する手法すら不要だろうとタカをくくっていた。いざとなれば、通販の富山常備薬「リョウシンJV錠」などを持ち出そうかとも密かに考えていた。「両親AV嬢なら堪らんですよね?」などと言ってもいいだろう(すいません、謎で)。
 しかし実際に甲府についてみると、義理の母が思いの他手強いことに一瞬で気付かされた。簡単に言えばミャンマーのアウンサン・スーチーにそっくり。校長先生のような威圧感と気丈さがある。この年齢にして私以上の社会存在感と実体感があるし、さらにそれを一見感じさせない老獪さもキープしていて、厄介にも程がありますと言いたくなる水準であったのだ。
 私がどんどん萎縮していって、言葉少なになる寸前でしかし、義理の父となる予定の人が、私の身辺調査や出自を尋ねる目的で放った第一声が私を救った。
 「おめ、実家は百姓か?んん?百姓け?」
 私は以前勤務していたロッキング・オンという会社で自らを「水飲み百姓」などと自虐していたことがあるが、それは他人に言われる前に言ってしまえば勝ちだとの打算に基づく方便であった。だが、こうまで率直に先んじて言われたことは逆にないし、普通言わないだろう。だから一瞬だけひるんだが、すぐさま理解した。
 この人はキラキラした目線で、ただの好奇心からひとを「百姓か??んん?」などと聞いてくる。ここには差別感情が無い。打算とか目論見も、値踏みさえもない。百姓かどうかを聞きたかっただけだ。そんな奴がいていいのかどうか、現代では撲殺されてもおかしくないような差別用語をも含んではいるが、私は、これによって圧倒的にリラックスしてしまったのだった。ちなみに後で妻に聞いたところ、私の風貌とか佇まいの問題でなく、ただ新潟出身であると告げたがために、それならば全員が百姓だろうとの推察からだったようだ。
 しかし、妻となる人物は係る事態を、私がいくら帰宅車中で熱く説明しても、理解しようとさえしなかった。彼女は実の父を未だに正式に承認出来ないようだ。私は一発で理解したつもりだったから、そっちの方が不安要素だと思った。彼女は偉大で聡明な母親に洗脳されたまま、それゆえに父への無理解を保存しているのではないのか?

2)疑惑の真相

 本来このような話題は四コマ漫画程度にしてあっさりとお終いというのが、世の中のルールであろう。しかし、私としては熟年婚の実態を詳述すべきとの思いもあり、ここに洗いざらい書かせてもらう。
 妻が父への無理解を自覚していないとの指摘は先に述べたが、実は父そっくりだからそうなったのだ。そこに48になるまで気が付きもしなかった。だがこの真理は、彼女を羞恥と失望のどん底に落とすどころか、思わぬ進展を次第に見せて行った。すなわち、彼女の父たる鹿児島人の血が、まさに血鬼術とでも言うべき野生人の本性を目覚めさせてしまったのだ。
 それは、レッド・ゼッペリンの音楽以上の肯定の思想に他ならない。自分が自分であって何が悪いのかとの大阪おばさんの開き直りをも凌駕する実存主義。新たな世界は認識変化こそがもたらす。活性化された無意識領域が実態としての自己を新たに創造するのだ。何を書いてるのか分からぬが、それにしても勝気ながらバランスの取れた母の洗脳からの脱却をこうも早く、しかも能天気に成し遂げようとは!
 例えば、妻は米が炊けない。炊くには炊くのだが、水の量がいい加減なため、その出来は日によって大いに異なる。炊飯器の目盛りに沿って正確に入れればいいだけのことではないのか。またベランダの洗濯物を干す棒が並行ではない。右と左の止め穴が違っているのだ。私はそれを「崩れ段違い平行棒」と呼び、「干すにしたってF難度です」と揶揄しているが、乾けばなんでもいいのだそうだ。また、私なら干す前に室内で全てをハンガー等に掛けるのだが、彼女はどれほど寒かろうとも暑かろうとも籠を持って出て行き、全てを外で行う。これは「外仕事」と呼ばれている。さらにカーテンやブラインドをきちんと閉める事が出来ない。夜になっても閉めないし、やっと閉めたと思ったら、どちらか一方がかなり空いている。
 これらに共通するのは、両端をチェックする平衡の感覚がないことを意味している。私が神経質なだけの話で終わっていいはずがない。珍しいひとなのだ。
 「言ってた!それ!珍しい人って!母が父にいっつも」
 そうですか。
 私は料理が結構好きで自分で材料を買ってきて作るのだが、調理の音がし始めると彼女は、どれほど満腹だろうが常に在宅ワークを中座して寄って来る。キッチンでカチリと音がしただけで、尻尾を振って寄って来るのだ、何を作っているのか?と。その様はひとに媚びるすべを覚えた子犬の愛らしいそれではなく、野犬の獰猛な嗅覚に等しい。
 「言ってたあ、それ!原始人だって。母が父に」
 そうですか。

画像1

妻が誕生日に送ってくれたスイカズラの線香花火のような美しさ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?