物を言えない日がきたら

    最近、生まれて初めて物を言うことを怖く感じるという経験をした。

    なんだか薄気味悪いという程度で、何かが起きたというわけではない。はっきりと脅迫でもされたら即警察に行くつもりだし、弁護士に相談して裁判を起こすのも辞さないで徹底的に戦うつもりだけど、たぶんまあ、何も起きないと予想している。

    それでも私は怖かった。「これ、危険なことに突っ込んでないか」と言われたとき、夜道を一人で帰るとき、私はずっとヘラヘラしていた。緊張するとヘラヘラするたちなのである。

    私は社会的には底辺の人間だ。この歳に至るまで安定した仕事がなく、JR西日本で神戸から滋賀まで文字通り東奔西走して一年契約の非常勤講師で糊口をしのいでいる。非常勤だから学内行政に物言う立場でないし卒論書くまで指導する学生さんもいない。実家は去年完全になくなったし受け継いだ財産もない。子供は一人で十分生きていけるように育ってくれたしこの人のためにも自分自身を大切にしないとと思える伴侶もない。帰宅しないと飢え死にするペットもいないし枯れてしまう植物もない。いつ死んでもいいというか、むしろ疲れ果ててもう殺してくれみたいな夜もある暮らしである。

    こんな風に日々捨て鉢に暮らしている私にも私なりの矜持があって、それは人として筋を通すということである。自覚してなかったけど私が「そんなんおかしい、筋が通らんやろ」と言い出したらもう止められないらしい。たしかに、自分にとって大損だとわかっていても筋が通らないのを受け入れなかったことは何度かある。そういう点で、自由に物が言えないなんて、こんな筋が通らないことがあってたまるか。そんなん絶対認めんぞ。

    だからもし誰かが私に「そんなこと発言すると危ないですよ」といっても無駄である。危ないんか、上等や。積極的に物を言う自由のために殉じるというよりは、いわゆる「無敵の人」として、カッコよく見栄を張れる死に場所を提供してくれてありがとうという感じである。注文つけさせていただけるのならしょぼいのでなくスケールの大きい死に場所がいいな。痛いのは嫌なのでいよいよ危ないとなったら自分から死にます。皆さんありがとうございました。

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    しかしそんな日々ヤケクソに生きてる私でもこれは困るなというのが、他の誰かを巻き添えにすることだ。私が物を言うことによって子供や親しい人や学生さんが危ない目に遭う、そんな状況にするぞと脅されたら、結論は一つしかない、どんなに不細工なことになってもいったん引き下がる。想像しただけでもみぞおちの辺りがギュッとなる。

    「表現の不自由展・その後」関連のニュースを見ていると、ものを言うのを怖く感じたときの感覚を思い出す。芸術監督であるジャーナリストの津田大介氏について私はよく知らない。たまたま聞いていたラジオであいちトリエンナーレ2019の芸術監督を務めると話しているのを聞いただけだ。

 正直に書くと私は津田氏にいい印象を持たなかった。津田氏は芸術に関して自分は素人だということをあっけらかんと繰り返し語っていた。美術関係にも、画家でも学芸員でも研究者でも優秀なのに食いっぱぐれている専門家がたくさんいることだろう。なんで素人ですと明るく言い放つ人が大きな仕事を任されるんだろう? なので「表現の不自由展・その後」が中止になったときも、専門家が芸術監督を務めていれば結果は違っていたかもと思った。

 けれどそういうことはとりあえずどうでもいい。出展されていた作品がどんなものだったかも今はどうでもいい。芸術として表現すること、文章を書くこと、物を言うことが怖く感じる、そんな世の中にしてはいけないのだ。

 「ガソリン撒くぞ」と脅迫して表現することをやめさせる、そういう卑怯なやり口をされているのを見たら、されている相手について自分がどう思うかはひとまず措いて、社会全体で叩きのめしてやらないとならんのだ。やられている側についてあれこれ言いたいことがあるからといって、卑怯なやり口を認めるような方向に突っ走ってしまってはいけないのである。

ありがとうございます。