一生物

 買い物が苦痛である。

 正確に言うと、買い物をして物が増え、いつか捨てなければならなくなるのが苦痛である。物を捨てられない性格なのだ。なので私はよほど必要に迫られない限り買い物しない。

 なのでいったん買うとなったら真剣勝負である。商品について調べに調べ、考えに考え抜く。そして「これだ!」と思った物があれば、ちょっと分不相応な値段でも買う。中途半端な物を買い直すより、一度で最高の物を手に入れたいからだ。だってそうしないと、何度も物を捨てる苦しみを味わうことになるじゃないですか。自転車漕ぎ漕ぎたどり着いたリサイクルショップで引き取れないと鼻であしらわれ、ネットオークションでは言いがかりのようなクレームを付けられ、時間と体力と幾ばくかの金銭を費やした後、万策尽きてええいとゴミ袋に放り込んで、もったいないと身をよじることになるのだ。そんな目に遭うのはできるだけ避けたい。修理してリフォームして使い倒して、どうしてもどうしても廃棄しなければならなくなったら今までありがとうと万感の思いで捨てる、それが理想である。

 もちろん捨てないで済むならもっとい。死ぬまで愛用して、遺品整理に来てくれた人が貰って帰りたいと思ってくれるような物。私の持ち物の中では、ドイツ製の鳩時計とか、キリモトの座椅子とか、わりといいと思うんだけどな。

 さてさてそんな私が三年前、漆塗りのお椀を買った。漆塗りのお椀が欲しいと思い始めて幾星霜、頂き物の合成樹脂のお椀で味噌汁を飲んでいだ夜も、スタバのカップでお吸い物を飲んでいだ朝もあった。ぽってりした漆塗りのお椀がほしい、木粉や合成樹脂ではなく木をくりぬいた素地に、樹脂やカシューではなく漆を塗ったお椀。あるにはあるけど高いんだよなあ。売場で長考している私に、店員さんが川連漆器というのを薦めてきた。秋田県湯沢市川連町の伝統工芸品で、他の漆器と比べて丈夫でお手頃な価格である。

 お椀を手にして何気なく「これ、一生使えますかねえ」と言った私に、店員さんは一呼吸置いて「はい。大丈夫ですよ」と微笑んだ。優雅でおっとりした接客だった。でもその一呼吸の間の意味に私は気がついた。店員さんは、私の頭のてっぺんから爪先まで素早く視線を走らせた。おそらく私の質問を受けて、この人はあと何年くらい生きるだろうかと一瞬の間に判断したのである。

 私はそのお椀を買うことにした。最後の迷いを店員さんの誠実な答が断ちきった。何気なく一生使えるかどうか尋ねたけれど、ほんとうに一生使えることがわかったのである。一生物という言葉を思い出した。店員さんの読みが正しければ、このお椀は一生物になるんだなあと、久しぶりに百貨店の紙袋を下げて何だかしみじみ帰途に就いたのである。

ありがとうございます。