唾はいつから汚くなったのか

 飛沫感染という言葉を日常的に聞くようになって、昭和の時代には唾についてけっこう寛容だったことを思い出した。

 例えば針に糸を通すとき、指にちょっと唾を付けて糸をよじるのはふつうのことだった。親からそうするように教えられたし、家庭科の授業でもみんな何の疑問もなくそうしていた。古い映画など見ていると、針仕事をしているとき糸を舐めるのはもちろん、結い上げた髪にちょっと針を入れることもある。あれはたぶん髪の油分を針に付けて布に通りやすくしているのだろう。人体の油というより整髪料の油だと思うけど。

 中学か高校のころだと思う、父が襖の張り替えをしたことがある。まだ素人にも簡単に張れる商品は売られていないころだ。職人に頼もうと話していたのだが、父は「わしがやる」と言い出して襖紙を買ってきたのだった。

 「前、張り替えに来よったとき、ずーっと見とったんや。あれぐらいやったらお父さんにもできる」

父は自信満々で作業を始めた。母は呆れてどこかに行ってしまったが、私は作業を見守った。小さな釘を抜いて木枠と引き手の金具を外し、古い襖紙を剥がす。新しい襖紙を切ると、父は突然立ち上がって台所に行き、口に水を含んで戻ってきた。そして襖紙に向かって、ぶわーっと、その水を吹いたのである。

 私は仰天して、何するの、と叫んだが、父は得意げに

「霧吹きや。こうやって紙を湿らすんや」

と言う。慌てて本物の霧吹きに水をいっぱい入れて手渡すと、

「なんでや、いらんわ! 職人はな、霧吹きなんか使わんのや!」

と断固拒否するのである。お父さん職人ちゃうやろ、と言っても聞かない。霧吹きの方が便利やで、と機嫌を取っても、お父さんの唾ついた襖なんか汚いわと怒っても、まるで無口な職人が乗り移ったかのように完全無視で、襖を張り替えてしまった。

 できあがった襖を立てると、父は「なかなかのもんやな」と満足そうだった。いつの間にか帰ってきた母も「まあタダにしたらこれでええな」と言った。張り替えを見ていた私一人、(これから毎日お父さんの唾が飛んだ襖を使うのか……)と憂鬱だった。

 それから数日後、私はお小遣いをかき集めて襖紙を買いに行き、父の貼った襖を容赦なく剥がして、同じ手順で張り替えた。もちろん霧吹きを使って。

 いま思うとちょっと残酷で、父が可哀想な気もする。けれど私は10代の、父親を不潔に感じ出す年齢だったのである。それに、誰が張り替えるにしろ、唾が交じるのに口を霧吹き代わりに使うのは抵抗があった。

 しかし、父にとっては、どうもあの霧吹きの動作が職人っぽいカッコよさのキモだったらしい。職人はもっと細かい霧吹いてた、さすが職人や、などとブツブツ言っていたのである。この辺の感覚は、時代と共に変わったものの一つだろう。

 襖を張り替えられたのに気づいた父は「なんでやねん!」と怒った。唾が汚いんやったら、アレもコレも汚いやろ、といろいろ例に出して怒っていたが、私は聞き流した。ただ、「針に糸を通す」のと、「大工が口に釘を入れて一本一本吹いて出す」のとは気になった。前者は当時自分も当たり前のようにしていたからであり(それでしなくなった)、後者はそういう家に住んでいることに気づいたからである。

 昔の仕方を受け継ぐ伝統的な手工芸の分野では、今でも人の口を道具として使うことがあるのだろうか。飛沫感染を気にするようになった社会では、唾が付く可能性のある方法は受け入れられなくなっていくだろう。いまの若い人はもはや針に糸を通すのに唾を使ったりしない。口から細かい霧を吹いたり、釘を正確に吹き出したりするのを見て、カッコいいと思う感覚も失われていくのだろう。

ありがとうございます。