嫁はんが怖い

 結婚するという若い人と話をしていて、自分の周りでいいなあと思う夫婦は「嫁はんが怖い」というパターンだと気がついた。

 まず「嫁はん」という言い方がいい。そもそも大阪弁で夫が妻を「嫁」というとき、そこには含羞がある。中年女性が小さい子に「おばちゃんはね」と話すのと同じで、妻が相手から見て何なのかを表しているのである。名前で呼んだり「妻」「つれあい」「パートナー」などという直接的で時に気取った言葉を使うのが照れくさいので、あなたから見て私の嫁に当たる人物、という少し距離を置いた表現として「嫁」と言うのである。

 元来、大阪の男の特徴はこの含羞であったのに、そういうものと最も遠いところにいる芸人によって全国に広まったのがこの「嫁はん」というゆかしい呼称の悲劇である(大阪男の含羞がわからない人はオダサクを読んだり文楽を見たりしてください)。

 さて「嫁はんが怖い」、この言葉がいかつい男友達の口から出たときなど、私は何とも言えずいいなあと思う。しあわせな夫婦の象徴みたいに思うのである。親は先に死ぬ。子供は離れていく。人間関係の最小単位で最後まで人生を共にするのが夫婦である。嫁はんを大切にしないで誰を大切にするというのか。

 しかし世の中には嫁はんを大切にしない男性や、大切にしていてもそれを人に見せたくない男性もいる。嫁はんを大切にしない男性は論外だが、大切にしていることを人に見せたくない男性も問題だ。そういう態度をとり続けていると、周りが嫁はんのことを(この人のことは少々蔑ろにしてもまあいいか……)と思うようになっていくからである。

 嫁はんなど怖くないという男性は、たとえば仕事帰りに飲みに行くことになったとき、電話やメールをする同僚を馬鹿にして自分は何も連絡しない。嫁はんは夜中まで空腹で待った末、日付が変わったころ諦めて伸びきったパスタを一人ボソボソと食べるのである。翌日それを出すと怒るので嫁はんは二日連続伸びきったパスタを食べるのである。いまオムレツの具にしたらおいしいのにと思ったあなた、問題はそこではないっ!

 また例えばこういう男は、自分の側の親戚の集まりで嫁はんより叔母の機嫌をとることを優先したりするのである。叔母は勝ち誇ったような顔をして、次からは冷たい板敷きの台所で嫁はんにだけはスリッパを出さないのである。嫁という存在は夫の側の親戚の中では完全アウェイの存在である。夫であるお前が全力で味方に付かんでどうすんねん!

 また例えばこういう男は、嫁はんより自分の友人を優先するのである。友人が嫁はんに気を遣っても「こいつのことはいいから」という態度を取るのである。そういう態度をとり続けていると常識ある友人も(ま、いいか)という態度を取るようになり、家にやってきても手土産なしは当たり前、廊下ですれ違っても嫁はんには挨拶もしなくなったりするのである。お前ら中学生か……。寝たきりになったときそいつに下の世話してもらえっ!

 いくらほんとうは嫁はんが大事で二人のときは優しくても、外面が嫁はんを大事にしていない、嫁はんなど怖くないという態度をとる男と一緒にいると、嫁はんは自尊心が削られ続けることになる。キミはボクにとって最優先する対象ではないという態度を取られることは、仕事では悔しくてもまだ割り切れる。けれどプライベートでは、親でも子でも友人でもダメージになる。自分にとって最も大切な相手である夫に、些細なことでも日常的にそういう態度をとられ続けると、そういう扱いに慣れていき、知らないうちに自分で自分が価値のない人間だと思うようになっていく。そしてそこから回復するのには、長い長い時間がかかる。

 結婚するという若い人がなぜ私なんかに話を聞きたいと思ったのか謎だけど、言いたいことはただ一つ、親よりも、友人よりも何よりも、お相手を大切にするのはもちろんだけど、それを公言するのをためらわないでほしいということだ。嫁はんを大切にしていることを他人に見せるのを格好悪いというような、嫁はんより見栄や体裁が大事な小さい男にはなってほしくない。

 大阪では嫁はんを大切にしていることを周りに示すには、「嫁はんが怖い」という表現がある。ユーモラスで、しあわせそうなのが想像できて、結婚っていいものだなという気分にさせる、とてもいい言葉だと思う。

 

ありがとうございます。