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くりかえし

 自分の仕事や生活を犠牲にして病気の人の面倒を見たがる友人がいる。私はいつも「そんな苦しいところに飛び込まなくても、もっと楽しく過ごしたら?」と不思議に思っていた。けれど彼女が夫を亡くしたとき、思うように看病できなかったことがずっと心残りになっているのだと知ってからは、何も言えなくなった。時間を巻き戻してほんとうのやりなおしはできなくても、せめてもの癒やしになるのかもしれない。それでももし、目の前の人は死んだ夫ではない、過去は過去、これからは新しい人生を生きるのだと割り切れるのなら、その方が誰にとっても幸せなのではないかとは思う。

 人は同じパターンの人間関係を繰り返すという。特に親子関係は重要で、良好な関係を築けなかった場合、その経験がその後の人間関係に影を落とすというのはよく聞くことだ。

 私は母親との関係が最悪だった。話せば長くなるし話したくないし話してもないから慰めは一切無用だが、事情あって母親は私が要らなくなった。養子に出そうとしていたこともあったので、これは否定できない事実である。母親は私に幼いころから何かにつけ無理難題を押し付けてきたのだが、私はいつも我慢して頑張ってそれをクリアしてきた。そういうところがまた癇に障るのか、母親の態度は年老いて認知症になるまで変わらなかった。

 離婚するとき、弁護士には「どうしてそんなに我慢し続けたのか」と言われ、友人は「よう耐えたなあ」と泣いてくれた。「経済的に自立できなかったから」というのが当時の私の答だった。夫もいろいろ大変だから自分が我慢すればいいという気持ちもあった。
 離婚は、たいていの場合、どちらかが一方的に悪いのではない。私はときどき、我慢し続けた自分も悪かったと思った。泣いたり怒ったり、甘えたりできたらうまくいったのではないか。限界まで耐えていきなり離婚するなんて、高倉健の任侠映画か、赤穂浪士ではないか。なんで我慢し続けたんだろう。

 ずっとそれが心に引っかかっていたのだけれど、あるときふと、何の脈絡もなく、あの我慢して頑張っていた感覚が、母親との関係で味わっていたものと同じだということに気付いた。それはもう突然に、天から何者かが降ってきて教えてくれたかのようで、私はその場に立ち尽くしてしまった。

 それからは、理不尽な扱いを受けていると思ったら我慢し続けないで折を見てそれを伝えるように心がけている。自分は耐えるとなると、とことん耐えることができてしまうから。我慢しないで、自分にも悪いところがないかよく反省して、誠実に、冷静に伝えるんだ。それでわかってもらえなかったら終了、次行こう次。残り少ない人生を台なしにしてはいけない。

 再び独身になってから、これはもしかしてデートなのかなという食事に誘ってくれる人の中で、なぜか話していて昔からの知り合いのように気を許してしまう人が現れた。おかしいな、しゃきっとしないと、と思っているうちに恋人同士になった。
 その人にちょっとそれは恋人に対してするようなことではないのではないですかということをされたとき、私は我慢しないでそれを伝えた。それは、結婚も考えているような相手に対する態度とちゃうやろ!と日本国民全員(関西弁ではないが)が立ち上がり、そんなことをされた私に全米が泣くようなことであった。私はその人に自分の非を認めさせたいというのではなく、ただ、将来の配偶者としてそれにふさわしい扱いを受けたいだけだった。自分を対等なところまで引き上げてほしいだけだった。
 その人にわかってもらうために私はほんとうに心を砕いた。時間をかけて解決できればと思っていた。けれどけっきょく私の気持ちは伝わらなかった。

 自分でも意外なことに、その後、私は特に泣いたりもしなかった。心にのしかかるものがなくなった分、仕事や趣味に充実した生活を送っている。例の我慢し続けるパターンに陥らなくてよかったと心から安堵している。
 それにしても、いつもの自分なら最初の段階で迷わず切り捨てていたのに、どうしてあそこまで強く、わかってもらいたい、わかってもらえるはずだと思ったのだろう。わかろうと思っていない人にはわからないものだと心のどこかでは諦めていた。いや、わかってくれるはずとしがみついてしまった、あの感覚は未練とは違う。疲れ切って恋愛感情などほとんど枯れていたから。自分のことながら、謎は深まる。

 そんなことが心に引っかかっていたままだったのだけど、ふと、そう突然に、天から再び何者かが降ってきて教えてくれたかのように気がついたのだ。彼との関係は父とのに似ている、と。私は再びその場に立ち尽くしてしまった。というか驚きのあまり座ってこれを書いている。

 母に疎まれていた私は自動的にお父さん子になったが、この父というのもまた難儀な人物だった。幼いころはただただ楽しく父に甘えていたが、物心ついてからはかなり苦労させられた。これが偉大な芸術家や学者ならまだ納得できる、ただの町工場のおっさんになんでこんなに振り回されないといけないのかと恨めしかった。

    とはいえ私は自身も歪んでいるからか、父の歪み具合も変わっているとされる考え方も理解できた。世間の方がおかしいと思うことすらしばしばあった。そのため、何かにつけて私が、父に何かを言い聞かせて世間の常識に従うよう説得するという役回りばかりすることになっていたのである。

 わかってくれそうにもない人をさっさと諦めず、わかってもらおうと必死になってしまったのは、自分だけが粘り強く説得して父の心を動かすことができるというのが、ある種の成功体験になっていたからだ。きっとわかってくれるはず、わかってくれないなんておかしい、と。

 母との関係が自分の人間関係に影響していたのは気付いていたが、父との関係もそうだった、という考えてみればシンプルな話である。なぜもっと早く気付かなかったんだろう。父にあれだけ苦労させられたのに、同じような関係を繰り返そうとしていた。危ないところだった。

 私を要らないと思っているのを隠さなかった母と、世間の常識とうまくやっていくことのできない難儀な父を両親に持った私は、家庭や家族というものに対する憧れがたぶん人一倍強い。この年齢になって、やっと、両親との関係を他の人間関係、特に配偶者との関係に繰り返してはいけないということを学んだ。学んだから、もう今度は繰り返したくない。私を対等なパートナー且つ物を書く人間として尊重してくれる人と巡り会うことができれば、そういう人に対してなぜか昔からの知り合いのように気を許してしまう感情が芽生えれば、懲りずにまた結婚したいなあと思っている。
 

ありがとうございます。